鶴見祐輔伝 石塚義夫

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 第2編 職歴

  第1章 鉄道官僚時代


 明治43年に鶴見は東大の法学部政治学科を卒業した。
 同期生には後に米国大使となった斎藤博が居る。
 東大の卒業試験では、鶴見は僅かの差で次席となった。よほど悔しかったと見え、1年留年しようかとも考えたが、義兄に学費も生活費も負担してもらっている身では、それはできなかった。まだ弟妹が義兄の援助を受けて通学しているのである。
 鶴見は岡山中学を首席で卒業、一高へ次席で入学、首席で卒業している。一高から東大では無試験で入学したが、学費を義兄に出してもらっている手前、東大も首席で卒業したかったのである。
 芦田均から寄せられた「鶴見が東大卒業に際して、銀時計を得られなかったことを遺憾とする」という書簡が今も残っている。
 なお、この書簡には他に「君は必ずしも敵なき人に非ず。寧ろ敵を有する人なり」という後年の鶴見の運命を暗示するような章句がある。この敵とは、例えば鶴見が一高で禁酒を訴えて運動部の連中の反感を買ったようなことと、彼の各方面の優秀性が小人の嫉妬を買うことを指したのであろう。
 昭和5年に明政会事件の汚名を被せられて落選した時に、芦田均が鶴見に寄せた落選見舞に曰く。「周囲の群り来る嫉妬と排擠に対して敢然といて闘う人である事を知っている」

 明治43年7月、東大を卒業した鶴見は、夏を軽井沢の鶴屋旅館で学友と合宿し、文官高等試験の受験勉強に励んだ。贅沢なようであるが、後に鶴見がその伝記を書いた1期先輩の種田(おいた)乕(虎)雄も大学の卒業試験準備に箱根の芦ノ湖畔で、文官高等試験の時には榛名山の山坊で友人たちと勉強している。
 そして同年11月に鶴見は文官高等試験に2番で合格した。(鶴見俊輔ほか2名著『戦争が遺したもの』16頁)
 同時合格者に、後に米国大使になった斎藤博、同盟通信の創立者岩永裕吉の名が見える。

 明治43年、25歳の鶴見は、新渡戸博士の紹介により、同年に新設された内閣拓殖局(総裁は桂太郎首相、副総裁は後藤新平逓相)の朝鮮課に勤務することになった。判任官5級で俸給は以後2年半は月額45円であった。文官高等試験に合格しても、最初から高等官として遇されるのではないのである。
 明治44年6月に富山房から発行された書物に次の記事が見られる。
「如何なる道を進むべき乎。明治の世は官僚万能の世である。従って官立大学を卒業した者は、社会に比較的重く用いられて居る。………この傾向は今後確かに二、三十年は続くから、学生諸子もその心で修業して貰いたい。官立大学を卒業すると、中等教員になっても先ず四十五円は給される。私立大学出身では、三、四十円が関の山、新聞雑誌記者となっても最初は二十円か二十五円、その他の詩人、小説家、哲学者などに至っては、当分独立生活は出来ないものと覚悟しなければならぬ」

 優秀な成績で高文に合格した者は、大蔵省か内務省を狙うのに、鶴見はなぜ新設の内閣拓殖局を選んだのか。筆者は鶴見の小説『七つの海』の次の箇所にそのヒントを見る。
「私は初めて伺った先生の一高での御演説の感慨を、いまだに忘れることができないのです。先生が、これからの日本民族は、七つの海を自分の家とする気魄をもって、全世界に出てゆかなければならんと仰有ったあのお言葉です。私は膨張日本のために、一生を捧げたいと思います」
 力をこめて、信一郎はそう言った。
「それでは、拓務省に行き給え」
 まるで谺のように早く、先生の言葉が響いてきた。

 鶴見が内閣拓殖局を選んだことを第三者は次のように見た。
「鶴見君の御得意は外交論、殖民論であると聞く。然らば君は今適所(朝鮮課)に在るものと言うべく。その手足を伸す飛躍の時は蓋し見物であろう」(明治44年1月号『雄弁』井沢衣水「一高出身の弁士月旦」)

 また、鶴見は外交官志望であったが、弟妹の扶養のために断念したのだと言う者も居る。国内に在って閑職の内閣拓殖局や鉄道院に務め、夜は夜学の講師をしようとしたのであろうか。

 ここで内閣拓殖局について説明すると、明治43年6月22日に新設され、第一部は台湾、樺太、第二部は朝鮮、関東州を担当した。
 後藤新平は台湾の民政長官の時は、児玉総督を背景としたので、中央政府の重圧を感ずることが少なかったが、明治39年に児玉源太郎が急逝した後に就任した満鉄総裁は、背後の力が無いため後藤の独力をもってしては到底、政府を動かすことができないことを痛感した。
 この局面を打開するの途は、満鉄に元老を迎えて自らその補佐役になるか、または中央政界に入って、政府の威力をもって満州を指揮するほかない。そして前者が成功しなかったので、桂首相より入閣の交渉があったときは、拓殖省を新設して拓殖大臣として迎えられることを期待したようである。だが桂は後藤を逓信大臣として迎えた。閣内における反対は、後藤の拓殖省創設計画を容れず、僅か拓殖局という折衷案で折り合うことになった。
 拓殖局は韓国併合準備事務局として設立されたのがその真相である。後藤新平を副総裁にしたのも、或るいは拓殖局を以て台湾統治を主とするがごとくカモフラージュするためであったかも知れない。
 しかし創立当初の拓殖局は、朝鮮併合の大事業で活気を呈していたが、明治43年8月22日、韓国併合に関する日韓条約が調印されて併合準備事務が完了すると、次第に閑散なものとなってきた。それは植民地に対し、あたかも新たに法制局を設けたような観を呈し、一半の力は法規穿鑿の末技に費やされ、他の半ばは外国の植民政策に関する文献の飜訳に費やされるようになったからである。
 鶴見が拓殖局朝鮮課に就職したのも日韓併合という大事件があり、拓殖局を去ったのも同局がその任を了えた時期であることを考えればその進退に納得ができる。

 明治44年1月頃、鶴見が26歳の時、勤務先の拓殖局へ、一高の紺の制服を着た青年が訪れた。一高弁論部委員の河合栄治郎である。血色のよい、眉の濃い、感じのよい青年である。眼鏡を掛けていた。
 用件は一高へ話をしに来てくれということであった。希望する演題は、日本の強圧的な朝鮮政策を批判したF・A・マッケンジー著『朝鮮の悲劇』に関する演説であった。鶴見も弁論部委員の経験者であったので、快く申し出を承諾した。鶴見はこの初対面の青年に、はじめから好意を寄せた。用談はすぐ済んだが、2人はいつまでも話しつづけ、やがて一緒に役所を出て、肩を並べて平河町の通りを歩いて行った。1月16日に芦田均から寄せられた書簡の宛先は、荏原郡世田ヶ谷下北沢二、広田方となっているが、この時は元園町の借家に住んでいたのである。この日が2人の33年に亘る交友のはじまりであった。

 明治44年の初頭、北満において肺ペストが発生し、非常な勢いをもって伝播し、南下して次第に南満州に侵入し、果ては北清地方にも蔓延しようとする形勢を示した。後藤新平逓相は直ちにペスト病に関する世界的権威である親友の内務省伝染病研究所長北里柴三郎博士を起用して、防疫の大策を樹立せしめんとして桂首相に献策した。北里は2月極寒の満州に渡り、大連より奉天、長春に至る各地を視察し、防疫上各般の方針を確立したのみならず、帰途寺内朝鮮総督の懇請により、朝鮮における防疫策をも樹立せしめた。
 肺ペストの惨禍に驚倒した清国政府は、同年6月奉天において世界の専門家を集めて、善後処置の国際会議を開いた。北里は議長としてこの会議を指導し、日本はこの一大異変始末の主動者として列国を指揮し、ついにこの惨禍を鎮圧し、禍害を満州に局限して支那本部に波及せしめなかった。
 この時鶴見は北里柴三郎博士に随行して、奉天(現・瀋陽)におけるペスト疫病研究会議に出席している。北京や朝鮮を訪れたのもこの旅行の一環としてであろう。
 鶴見は大学を出るまで芸者の席というものを知らなかった。奉天ではじめて小さい宴席に列した。その時若い女が出てきて、「今晩は」と言って、丁重にお辞儀をした。むこうがお辞儀をしたのだから、こちらもしなくては悪かろうと思って、鶴見も「今晩は」と言って頭を下げた。見ると周囲の人は、誰も頭を下げていなかった。彼は馬鹿に間の悪い思いをした。

 明治44年8月9日、鉄道院から鶴見に対して、鉄道院書記に任じ、総裁官房勤務を命ずる辞令が出ている。当時は後藤新平が逓信大臣兼鉄道院総裁であった。拓殖局が閑職となり、同年5月に後藤新平も副総裁を免ぜられているが、鶴見の採用が逓信省でなく、鉄道院になったのは何故であろうか。
 明治44年8月14日、鉄道院へ移ったばかりの鶴見に米国出張を命じ、支度料200円を支給する辞令が出ている。(前年拓殖局に採用になった鶴見の俸給は月額45円であった)鶴見は公務出張という形で、新渡戸博士の渡米に随行したのだ。当時の有力政治家である後藤新平は、娘の婿になる青年に官費で洋行させたのである。
 この年の9月4日、米国カーネギー平和財団の招きによる第1回日米交換教授に選ばれた新渡戸博士夫妻に従い、鶴見は処女航海の春洋丸で、はじめての欧米旅行に出発した。米国人の新渡戸夫人とともに外国で過ごす1年間は、鶴見の英会話修行の絶好の機会だったであろう。
 新渡戸博士は明治39年以来一高校長の職にあったが、在任のまま約1年間外国で過ごすことになった。
 明治44年の初夏、米国から日米交換教授の挙が提案せられ、時の外相小村寿太郎と首相桂太郎との間に、新渡戸稲造を第1回の講演者として遣米しようという議が熟し、遂に新渡戸がこれを承諾して、その秋9月のはじめに日本を発って、アメリカに赴くことになった。当時鉄道院の役人であった鶴見は、新渡戸から桂首相に話して、新渡戸の身辺の手伝いのため、鉄道院から出張の辞令を貰って扈従することになった。

 明治44年8月14日付の鉄道院総裁男爵後藤新平から鉄道院書記鶴見祐輔への辞令には次のように記されている。
 米国ヘ出張ヲ命ス
 米国ヘ出張ニ付テハ左記事項詳細調査スヘシ
 一、鉄道ノ行政及経済ニ関スル事項
 一、鉄道管理組織ニ関スル事項

 米国ヘ出張ニ付支度料金弐百円支給ス

 しかし、実際には新渡戸博士の講演旅行の随行員であったのだから、米国の鉄道事情を「詳細調査」する余裕は無かったであろう。
 東大、高文の成績が優秀であり、特に英語に堪能であったとはいえ、拓殖局に採用されたばかりの鶴見が国際会議に出席したり、鉄道院に転じてすぐに長期海外出張ができたりしたのは、帰朝後岳父となる逓信大臣兼鉄道院総裁兼拓殖局副総裁後藤新平の威光を否定できまい。
 鶴見が傾倒してきた新渡戸稲造は、台湾の民政長官であった後藤新平によって、総督府の殖産局長に起用されて以来後藤の知遇を得、親交を深めてきた人である。その人の紹介で入局した鶴見は、採用時から副総裁(総裁は桂首相)である後藤に眼をかけられて、特別待遇を受けていたものと思われる。

 鶴見は明治44年9月に横浜を出港し、翌年9月に帰国するのであるが、後藤新平の令嬢との縁談は彼の出国前に成立していた。
 後藤新平の長女愛子と鶴見との縁談は、後藤が台湾の民政長官の時、その下で土木局長を務め、現在鉄道院(総裁は後藤新平)の局長である長尾半平博士が、当時群馬県下の郡長をしていた鶴見の親友前田多門の自宅を訪問して齎したものであった。長尾局長は「後藤新平さんのところにお嬢さんがいるので、鶴見君に是非もらってもらいたい。それには新渡戸博士も深い関係がある。新渡戸博士も見合いの席に来るのだが、君に話をするだけだから独りで来た。鶴見君の意向を聞いてくれ。それで一つ条件がある。この話は鶴見君だけに話をして、親族等へ相談などせず秘密にやってくれ」と言った。それに対して前田は、「鶴見には池田という竹馬の友が居る。この人にだけは、この話を漏らさねば、鶴見はよう返事をしないでしょう」と答えた。「それならその池田という人だけにしてくれ」と言って長尾局長は帰って行った。
 前田は鶴見にこの話を伝えたので、鶴見はすぐに池田を訪れて相談した。
 池田は或る婦人雑誌に載った後藤新平一家の写真を見ていて、このファミリーの一員として鶴見が加わったら、さぞ相応しいだろうと思って妻に話したことがあった。そこへ鶴見から相談を受けたので、不思議な予感がしたものだと驚いた。池田は直ちに良縁と認めると答えた。池田があまりに無造作に回答したので、今度は鶴見が驚いた。「君が即決で賛成するとは思わなかった。それならば僕も考えてみよう」と鶴見は心が動いたようだ。池田は「しかし如何に良縁としても、君が本人を知らぬのでは話にならぬ。何とか一度すぐ会って見るのだね」と言い、その上の問題だと結論に及んだ。しかし池田は、この話は誰にもするな、近親の方々にも漏らさぬようとの長尾局長のことばが気になった。
 池田は後藤新平の隆々たる当時の権勢に憧れて、この判断をしたのでは絶対になかった。ただ、その政治のやり方についてわが意を得た政治家だと思っていた。政治家としての後藤は旧型の政治家ではない。この点鶴見の政治志願の型でもある。国際的で科学的な政治家であることも鶴見の志向と一致する。鶴見はみずから独立の精神に依存している。世間に言う付場とは趣を異にする。池田はそう思った。
 間もなく再び池田を訪れた鶴見は、「一度本人に会わなければと池田君も言ったと相手方に告げたら、それはもっともだ。早速取り計うと相手方も応じて、今夜7時に逓信大臣官邸に来てくれ、そして君も来るようにと言うので、一緒に行ってくれ給え」と言うのであった。
 池田は事態の展開の速さに驚いたが、夜の7時と言うのだ。夕食でも済まして行こう。そしてお茶と菓子くらい出て、令嬢もそのお話の時、列席されるのだくらいにいとも軽く考えた。鶴見の親族中でも従来恩誼の深い広田家へも何の話もしてない折柄なのだから、万事非公式で内々のものだ。手軽に行うものだ。真の縁談の予備的のものだ。池田はそう考えた。この見合いが行われた日ははっきりしないが、場所が逓信大臣官邸であったことから、後藤新平が第一次逓相を辞任した明治44年8月25日以前のことと考えられる。
 当時、三井銀行に勤めていた池田は、一旦帰宅して和服に着替えてから訪れた木挽町の逓信大臣官邸では、池田が主賓として待遇された。池田は岡山の池田侯の家老(2万石)の家の養子であり、養父が死ねば男爵を相続する身であった。池田は驚いたが、えい、ままよ、今日は僕が犠牲になればよいと大いに取り澄まして、案内されるまま上席に就いた。そして後藤逓信大臣、新渡戸博士、長尾局長らとの雑談は愉快に進行した。
 しばらくすると隣室の戸が開いて食事の用意がしてあるのが見えた。田舎育ちの池田は、夜の7時といえば夕食後と判断していたのだ。食堂でも池田が後藤逓相の正面の主賓席であった。こうなったら度胸だと決めて、いつもの洋食店とはかなり異なる銀盤で運ばれる料理を次々とこなした。
 やがて閉宴となり玄関へ出ると、列席の方々も同時に辞去する様子である。一緒に銀座の資生堂まで来たら、長尾局長が、この2階でクリームソーダーでも飲みましょうと誘ったので、池田と鶴見も応じた。偉い人たちと同席して少々肩がこったので、一息するつもりでもあった。
 資生堂でしばらく話をしているうちに、長尾局長が、どうだ鶴見君の意見を聞かしてくれと言い出した。官邸から一緒に帰ってきたので、まだ池田と鶴見の間でも話をしていない。鶴見も自分の考えは決まっていたとしても、相談すべき人々に相談して答えるのが常識であると池田は考えている。何と性急なことだと思った池田は、「ちょっと待ってください。鶴見君と相談しますから」と言って、離れたテーブルへ移って相談した。
 二人の間では応諾することは既に決しているが、広田家へ何も言わずに鶴見の考えを仲介者に表白することは広田家へ相済まぬこととなる。さりながらあのように熱心な長尾局長に対して、無下に答えられぬとも言えないではないか。そこで鶴見は黙っていて、池田から次のように答えることにした。
「このお答は事情がありまして、鶴見君から直かにお答えはできません。そこで私からお答えいたします。鶴見君に異存はないと思います」
 ところが長尾局長は、本人から回答を得たいと迫る。池田はわからない人だなあと甚だ不満を覚え、
「私が鶴見君の心持を知って居ればこそ、鶴見君に異議がないと思いますとお答えしたのです。そして本人の鶴見君は何も反対の挙動はなく黙って居るではありませんか。それでお解りでないならそれまでです」
 と少々向かっ腹で年長者の長尾局長に答えた。
 長尾局長は池田にそこまで言わせたことに満足し、よくわかったと微笑を漏らした。
 そして長尾局長は新渡戸博士に、これからもう一度後藤邸へ行こう。こちらの意向を伝えておこうと新渡戸博士を促して急いで官邸へ戻って行った。
 池田は唖然とした。自分たちの苦しい回答は、まさかすぐ直接に後藤家へ齎らされるものとは夢にも思わなかったのである。仲介斡旋の立場にある人々の参考にするのだと思ったのだ。
 それから鶴見と池田は、広田家に対して、この縁談をどう切り出すべきか苦慮した。池田は決心した。鶴見君を恩誼を知らぬ人間には絶対にしたくない。これは自分が広田家に対して責任をとるほかないと考えた。もし破談にするなら問題ない。しかし新渡戸博士に対する情誼も考えなければならない。決して破談にしてはならない。さればと言ってあらかじめ一言も相談せず回答をしたという事実そのものは、何と申し訳すべきやである。
 池田は鶴見と篤と協議したが、秀才の鶴見にもよい知恵が浮かばない。そこで嘘をついてまた失敗したら、いよいよわれわれは人間でないことになるという考えから、委細を広田家に嫁いでいる鶴見の姉・敏子に打ちあけて報告するほかない。そして甚だ不行届の点は平にあやまるほか方法がないと結論に達した。
 鶴見がこの話を打ちあけると、果して姉の敏子は困惑した。夫君の広田理太郎氏が、どんなに祐輔を援助して来たか、鶴見家の子たちは広田家の援助で窮せずして今日に至っているのだ。その経緯があるにも拘らず、この鶴見家として一番大切な祐輔の結婚問題について、一言の相談もなく回答したということ自体が甚だ道を間違っていると憤った。
 やがて鶴見の長姉は池田を訪れて、一体如何なる次第なのか、主人も大層祐輔に対して立腹して居るので、今まで主人が妻の弟妹の援助をしてくれてきたし、祐輔を本当の弟以上に可愛がっていたのが、今度の話で裏切られた気分である。それに伯父の本尾敬三郎夫妻もそれはけしからんと言うし困ったことになったと詰問した。
 池田は、自分が万事世間知らずで、言葉は悪いが一杯喰わされたのだ。もう少し頑張って広田家へ相談すればよかったが、そこが至らなかった。鶴見君は全然広田家にそむくような考えはない。結果がこうなったので、広田氏へは自分がお詫びする。それに新渡戸博士も列席であり、表面で長尾局長の斡旋があったが、最も有力な関係者は新渡戸博士であったので、そんなことから実はのっ引きならぬ回答であった。だから祐輔君と広田家へこの話をしなかった点で大いに心配していると平ら謝りである。
 池田も広田氏に会って謝罪するつもりであったが、広田氏は会おうともしなかった。しかし、鶴見の長姉はこの間の消息を理解して、その後も度々池田と協議して問題の解決に当たった。
 広田氏は、池田と鶴見が広田家を決して無視したものではなかったことは了解したようであった。しかし、しばらくの間、広田氏はこの件を甚だ不快に思っていた。それは縁談そのものに反対したのではない。その話の順序が間違っているという点を長尾局長たちがあまりに鶴見側を軽く看過しているという一つの見識上の反感もあったようである。
 だが時の経過が広田氏の怒りを解いた。明治44年9月、鶴見がはじめて洋行することになった時、大勢で横浜まで見送ったが、その見送人の世話は万事広田家で行い、広田氏が度々洋行した経験から、見送人のため、また見送られる鶴見のために、行き届いた指図をした。
 その日の広田氏夫妻のやさしい、嬉しさの溢れた温顔を池田夫人は終生忘れられなかった。広田氏は終始にこやかに、心を配っていた。思えば祐輔の学生時代から両親に代わって面倒を見てきたのである。その人が今日世に出て、海外へまでもその進展しゆく道を踏み出した勇姿を眺めては、たとえなき満悦と、その限りなき嬉しさとが、包みきれない満面の笑となり、楽しげな挙措となって表れている。
 池田夫人は思う。この心からの悦びを広田氏が持たれるに至ったことは、勿論根本は祐輔氏の人格の然らしむる所であるし、また広田氏のすぐれた人柄による故ではあるが、一面においては表裏よく凡てを理解して、その間に立って隅々までもよく万事に行き届いた祐輔氏の姉君(広田夫人)の善処された賜物でなくて何であろう。今日、この刻、姉君は如何に嬉しく、この良き弟御を持った心の誇りはいかばかりであろうぞ。いそいそと、あなたこなたに心をくばって嬉しさの溢れたありさまを見やる自分たちも、涙ぐましき嬉しさを禁じ得ないで、池田夫妻は唯々感激のほかはなかった。
 この日、この埠頭に広田や池田の一行と離れて鶴見を見送る2つの影があった。後藤新平の和子夫人と鶴見の婚約者愛子嬢である。まだ表立って発表されていない婚約中というゆかしい遠慮から、慎ましく静かに鶴見を見送ったのである。(池田長康夫妻の手記より)

 明治44年9月、新渡戸博士夫妻に扈従して、鶴見は米国のサンフランシスコに上陸した。この時、彼が最も苦痛を感じたのは、米国人の英語と日本人の英語とが、発音やアクセントが正しくとも音の上げ下げ、つまり力の入れ所の相違のために、甚だ通じ難いという点であった。(『南洋遊記』107頁)
 しかし鶴見は、明治44年の秋、ウェルズレー女子大学の食堂で、同席した女子学生たちに、日本の短歌の雄なるものは、「アン・オールド・ウエル・ヱ・ジャムピング・フロッグ・ゼ・スプラッシュ・オヴ・ウオーター」というのだと説明して彼女たちを爆笑させたという。
 上陸以来鶴見は新渡戸博士の講演旅行に随行したのであるが、新渡戸博士のアメリカにおけるスケジュールは次のとおりであった。

 新渡戸ら3人は、約2週間を農園を視察して実情を探り、日本人移民にも会い、懸案になっている問題を把握した。
 新渡戸の第1回の英語の講演は、スタンフォード大学で行われた。それから一路東に進み、フィラデルフィア郊外の静かなホテルで原稿を作成した後、10月中旬からロード・アイランド州の首府プロヴィデンス市のブラウン大学で6回にわたって講演した。
 講演は好評を博して、1回毎に多数の聴衆を呼んだ。それと並んで新渡戸の為したことは、多くの米国人に個人的の接触をしたことであった。午餐、夕食、またはお茶の時間に、色々の人々の招待に応じて、新渡戸の出席した会合は、まことに多数に上っている。
 ブラウン大学の講義が終ると、新渡戸は南下してニューヨークのコロムビア大学で6回の講演を試みた。
 コロムビア大学の講演を終ると、新渡戸はシカゴ大学の卒業式に臨んで講演した。
 翌明治45年1月は、ボルティモアー市の新渡戸の母校ジョンス・ホプキンス大学で講演した。新渡戸がかつてこの地に遊学したという事実が知れ渡って、町の人々は屡々新渡戸を自分の家に招いて閑談した。まことに家庭的雰囲気に恵まれた1ヵ月であった。
 ボルティモァー滞在中に、新渡戸は頻々とワシントンを訪れて公私の会合に臨んだ。大統領タフトを訪問して、日米問題を懇談した。オハイオ州選出の上院議員バートンと親しくなり、日本の事情を聞いて深く親日の情を催したバートン議員は、議員に提出されようとしていた排日法案をその政治的才幹を揮って未然に防いでくれた。
 ワシントンで地理協会主催の講演会が催された時は、新渡戸はカラーの幻灯を携えて、日本に関する講演をした。
 ボルティモァー市の講演が2月上旬に終ると、新渡戸と鶴見はニューヨークからドイツ船ケーニーギン・ヴィクトリア・ルイーゼ号に乗って西インド諸島からパナマ運河の見物に出かけた。新渡戸夫人は同行しなかった。西インドの島々を遊覧する豪華客船で、4週間の航海である。船内は遊覧気分の客で一杯で、まことに賑やかな華やかなものであった。
 鶴見はこの西インド諸島の旅ぐらい心よい旅をしたことはないという。ロバート・ルイ・スティーヴンソンの南国の小説に出てくるような気分や風景を、そのままに西インドの島々で見たのである。その南国情調に陶酔したのが、西インドの1ヵ月の旅であった。
 鶴見はそれを旅行記として書きたいと永い間念願していたのが、ついその折もなく過ぎているうちに、15年後に小説の形で表れたのが『最後の舞踏』である。講談倶楽部に昭和2年6月号から連載された。鶴見は『最後の舞踏』が初めて書いた小説だと言っているが、『母』の方が婦人倶楽部の昭和2年5月号から連載を開始している。単行本で刊行されたのは、『母』が昭和4年6月で、『最後の舞踏』は同年11月である。
 西インド諸島をめぐる遊覧船でも新渡戸は終日甲板で、西インドとパナマに関する書物を読んでいた。彼は横浜からカリフォルニアに到着する船中でも、大きい行李やスティーマー・トランクの中に一杯つめて持ってきた日本に関する書物をせっせと読破して、講義録の作製に心血を注いだのであった。
 キューバでは新渡戸は大統領に会見して、台湾統治の話をした。そして当時なお○(もんがまえに干)掘中であったパナマ運河を、汽車に乗って見学した。それが新渡戸のこの旅の目的であったのである。
 それから船は南米ヴェネズエラに寄航し、新渡戸たちは鉄路で首府カラカスに赴いた。それからトリニダットやバーベードーズを見物して、船はジョゼフィン皇后を生んだマーテイニークの小島に寄航した。そして船は雪に鎖されたニューヨークの港に帰ってきた。
 明治45年3月の講演は、南方ヴォージーニア大学で行われた。新渡戸は講義の間々に、この地方の名勝を探ったが、第三代大統領ジェファーソンの住んだモンティチェロの隠棲を訪れたのもこの時のことである。鶴見はその時の思い出を『成城だより』第2巻に書いている。ジェファーソンの生涯は彼の理想である。
 新渡戸はレキシントンの町のワシントン・リー大学でも講演をした。
 ヴォージーニアの1ヵ月を過ごした後、イリノイ州のアーバーナの州立大学で講演した。この地にあるリンカンの墓も訪れた。
 ヴォージーニアが終った5月上旬、北方ミネソタ州のミネアポリス市のミネソタ州立大学で講演した。ミネアポリス市には1ヵ月滞在した。
 それが終ると一旦東海岸に帰って、原稿の整理をして本屋に渡した。『ゼ・ジャパニーズ・ネーション』と題して、パトナム書店から翌年出版されている。
 6月上旬に最初の講演地であったブラウン大学からL・L・Dの学位を贈られた。この年の夏新渡戸たちは、パナマ運河のクレブラ・カットの壮観を眺めた。
 1年間に166回という講演の疲れを夏のヨーロッパで癒やして秋に帰国する予定で居たが、突如として明治天皇崩御の報に接したので、欧州の旅程を短縮して、シベリア鉄道によって、大正元年9月10日に帰国した。
 この時ストックホルムから船に乗ってバルティック海を横断し、フィンランドのヘルシングスフォールの港に上陸した折に、税関吏が厳しく荷物を調べていたが、新渡戸たちの番になった時にチラリと顔を見て日本人だと気が付くや否や、何とも言わずに検閲を廃して通過させてくれた。フィンランド人が多年自分を圧制しているロシア人を散々に打ち懲らしてくれた日本人に対して、一種感謝の情を抱いていたのである。

 この新渡戸に随行した米国旅行中に、鶴見は自由主義者を名乗る日の来ることを予感するのである。
 明治44年の秋、ロード・アイランド州の首府プロヴィデンス市のブラウン大学で講演した新渡戸に同行した時のことだ。
 プロヴィデンス市の山の手にあるクエーカーの女学校の前の舗道に鶴見は立っていた。この町には新渡戸夫人の学生時代の同窓生ミス・アンナ・チェースが居た。この女性の父ジョナサン・チェースは、町の知名な実業家で、長く国会議員であり、新渡戸と同じくクエーカー信者であるので、新渡戸夫妻は屡々チェース家を訪問したので、その時のことであろう。
「自由主義(リベラリズム)を名乗って、世の中に出てゆく日が来るんだぞ」
 という小さな声が、鶴見の頭の中を走りすぎた。その小さい声明を、自分自身にしたときに、彼はなにか、ある空恐ろしいことを、自分自身に白状したように感じた。
 当時は桂太郎公爵と西園寺公望侯爵が交替して政権を取った時代で、謂わば官僚主義全盛時代であった。従ってかかる国家的空気のうちに、最もその気分の濃厚であった東京帝国大学の法科を出たばかりの鶴見の頭では、自由主義ということでも、随分の反逆児的気分であったのだ。
 それに彼自身としては、幼少の折から、金に苦しみ抜いていた両親を見ていたので、生活ということは、大変に難しいものだということが頭の中にこびりついていた。従って自由主義を唱えるために、一種の異端者として官界を去るような場合には、自分は死んだ父以上に、生活の苦労をしなければならないのだ、という予感があったのだ。
 故に、かかる簡単な声明を、自分自身にしたときに、鶴見はある空恐ろしいような感じを覚えたのであった。当時の彼は、自分の前途について何の自信もなかったのである。

 鶴見は新渡戸博士に随行して外国旅行をしている間に、新渡戸夫人から細々と食事の作法について教えられた。新渡戸夫人は米国人で、殊に厳格なフィラデルフィアのクエーカー宗の出であった。しかし話だけでは日本の乱暴な学生生活から出たばかりの鶴見に、そういう細かい作法の会得できるものではなかった。間違う毎に夫人から親切な注意を受けた。

 同じく明治44年の秋、リーランド・スタンフォード大学の広い校庭を歩きながら、鶴見はふと、涙の胸に迫ることを感じた。「自由」という文字に生れてはじめてぶつかったような気がしたからである。試験制度の極点に達していた東京帝大の法学部を出たばかりの彼としては、この広漠たる校庭に、勝手な学問をし、勝手な社会生活をなすべき約束を持った青年男女の身の上を考えたからである、4年間の法学部生活が永久に失われたる月日のごとき実感をもって鶴見に迫って来たのであった。

 明治44年から45年にかけて、米国滞在中の鶴見に宛てて発送された後藤和子(新平夫人)の書簡7通が国会図書館に保存されている。その1通はかなりの長文であるが、いずれも毛筆の草書のうえ、かなりの悪筆で、筆者石塚にはまったく読めない。
 鶴見が婚約者の母に気に入られていたことを示すとともに、明治時代は婚約者といえども異性に手紙を出すことは憚られて、母が代りに娘の婚約者に手紙を書いたのであろうか。徳富蘆花の『思出の記』にも。主人公が恋人と愛を確め合った後も、挙式の日まで「勿論文通もなかった」ことになっている。

 だがこのような幸運児に対して、当然羨望と嫉妬が伴う。
 明治43年7月、鶴見が東大を卒業した時に寄せた芦田均の書簡の中に、「君は必ずしも敵なき人に非ず。寧ろ敵を有する人なり」とある敵とは、鶴見の人格から考えてこの事を指すのであろうと思う。
 神渡良平著『新渡戸稲造』によると、鶴見が随行した新渡戸博士の外国滞在中の明治45年の春に、一高の全寮茶話会で生徒たちがつぎつぎに立って新渡戸校長排斥の演説をしたという。曰く。「新渡戸校長は校長を休職して、1年もの長きにわたってアメリカを巡回講演されているというが、休職は職務怠慢ではないのか」
「忙しいはずのアメリカ巡回講演中も、新渡戸校長は毎月『実業之日本』には原稿を送り、掲載されている。『実業之日本』『婦人世界』『女性画報』などという通俗雑誌に寄稿すること自体、一高校長のすべきことではない」
「新渡戸校長は教え子の一人と某華族の令嬢の結婚の仲介をされたという。これは校長の地位を利用し、権門に媚を売り、自分の出世の足掛かりにしているのではないか。」
「某華族」とは、後藤新平男爵のことである。また、「教え子の一人」とは鶴見祐輔のことで、このアメリカ巡回講演にも付いて回っている。これが愛弟子へのえこ贔屓であり、自分自身の立身出世のためと受けとられたのだ。
「校長の地位を利用し」というのは、新渡戸の前歴を知らないことから来る誤解で、新渡戸は後藤とは台湾総督府時代以来10年を超す親交がある。また、「教え子」と言っても鶴見は、新渡戸が一高校長に就任する2ヵ月前に一高を卒業している。
 鶴見が新渡戸の紹介で後藤新平の令嬢と事実上の見合いをしたのは、明治44年8月以前であり、同年9月に渡米し、大正元年9月に帰国して、11月に結婚している。
 明治45年の春には鶴見は米国滞在中である。その時点で鶴見の縁談が、一高生の耳にまで入っていたとは信じられない話である。
 だが、翌大正2年、新渡戸は一高校長を辞任した。一高の孤高主義が、新渡戸のソシアルティという教育方針を再び排斥しはじめていたし、一高を中国、朝鮮、台湾人の子弟にも開放した新渡戸に対し、文部省には一高は日本人のための高等学校であるという純血主義が芽生えていた。新渡戸の健康がすぐれなかったことも重なっていた。
 しかし、新渡戸校長排斥を叫ぶのは、一高生のすべてではなかった。全校生徒を集めての新渡戸校長の辞任の挨拶には多くの生徒が涙を流し、5、6百名の生徒が新渡戸を小石川の自宅まで送ってメアリー夫人を驚かせた。

 また、職場においても、鶴見より1年早く東大を出て、鉄道院に入った種田乕雄は、2年後に内閣拓殖局から移ってきた鶴見が、後藤総裁の令嬢と婚約して洋行することを知った時の驚きと複雑な気持は想像に余りある。先輩の種田が鉄道事業研究のため、1年間米国留学を命ぜられたのは大正5年であった。

 大正元年9月10日、1年余の外国旅行から帰った鶴見は、9月17日付で総裁官房秘書課勤務を命ぜられた。後藤新平は前年8月に総裁を辞任しており、この時の総裁は内務大臣原敬の兼任であった。
 同年12月21日に再び後藤新平が総裁になったが、大正2年1月14日付で、鶴見は監理部事務課勤務を命ぜられ、後藤も同年2月11日に総裁を辞職している。
 三たび後藤新平が総裁になったのは大正5年10月から大正7年4月までであるが、この期間に鶴見は運輸局旅客課に在籍のまま総裁官房文書課勤務を兼ね、文書課長心得に昇任している。
 鶴見は明治44年8月9日付で、内閣拓殖局から鉄道院書記に任ぜられ、後藤新平の総裁官房に勤務したが、8月25日に後藤は総裁を辞任したから、鶴見が後藤総裁の秘書的役割にわたって果たしたのは、後藤が3度目の総裁を務めた時期である。大正7年4月以降後藤が総裁になることは無かった。
 後藤は明治41年7月から44年8月までと大正元年12月から2年2月までの期間、逓信大臣と鉄道院総裁を兼任したが、大正5年10月から大正7年4月まで内務大臣を務めながら鉄道院総裁を兼任した。当然鉄道院のボス的存在となったであろう。

 大正元年10月、一高にて帰朝報告の講演会が催され、新渡戸校長は30分ばかり、簡単にカリフォルニア州を中心とする排日の実情や、日本はアメリカに対して、もっと日本の実情を知らせる必要のあること等を話し、鶴見は1時間半に亘って、新渡戸博士の活動振り、ブラウン大学でLLDの学位を受けた時の話、アメリカ新大統領ウイルソン氏の識見人格、学者から政治家となった過程、民主党大会での大統領候補の指名の話等をユーモアを交えて話し、生徒は時の移るのを覚えず聞き惚れた。

 鶴見は大正元年12月25日付で、副参事に任ぜられ、高等官7等に叙せられた。この辞令は鉄道院総裁でなく、内閣総理大臣(この時は桂太郎)の名で発せられている。
 戦前の官吏は、高等官と判任官(属官)に大別され、高等官はさらに親任官・1等官・2等官を勅任官と称し、3等官から9等官までを奏任官と称した。
 勅任官は天皇が親しく任命し、奏任官は内閣総理大臣が奏薦して任命した。判任官は各省大臣、府県知事など本属長官の権限で一定の有資格者の中から任命を専行し得たものである。
 鶴見は鉄道院(大正9年に鉄道省となる)に14年間勤務し、退官時には鉄道監察官、高等官2等であった。鉄道院での階級は書記、副参事、参事と昇格した。鶴見より1年早く鉄道院へ入った種田乕雄の例を見ると、東大を出て高文を通った者の出世は早く、採用時は書記であるが1年後に副参事、2年後に参事、9年後に運輸局旅客課長になっている。34歳の時である。鉄道省運輸局長、高等官2等になったのは40歳の時であった。

 大正元年11月13日に後藤新平男爵(この時点では後藤は大臣、総裁ではなかった)の長女愛子と鶴見祐輔の結婚の儀が宮内省より許可せられた。媒酌人は新渡戸稲造夫妻である。大正元年11月29日、めでたく式が挙行された。(『安場咬菜・父母の記憶』年譜29頁)祝宴披露の費用も両家で均分にした。鶴見としては大した出費はできないから、近親知友の少数に限ってもらいたいと申し出て、後藤家も心よく承諾した。これはどこまでも鶴見家は鶴見家だ。凡て後藤家に依存して万事挙式を行うというがごとき不見識のないようにすべきだとの広田理太郎氏の鶴見に対する独立性保存の心やりであった。
 鶴見の新家庭は、青山南町5丁目の借家であった。弟の良三(20歳)と憲(18歳)が同居し、女中を雇った。鶴見27歳の時である。
 青山南町5丁目といえば、鶴見の伯父・本尾敬三郎の家がある。親友池田長康も同じ町に住んでいた。

 鶴見は後藤新平の女婿となったが、後藤も県令安場保和の女婿で、麻布材木町の安場邸の敷地内に住んでいたことがあり、後藤と鶴見の境遇は酷似している。
 戦前の高等官は高給で、早く結婚したかったら官吏になれと言われたそうであるが、27歳の鉄道院副参事の俸給で、弟2人を同居させられる家を借り、女中まで置いて暮らせるとは思えない。考えられることは、
@鶴見が副業をしたかA広田家から援助を受けたかB後藤家から援助を受けたかである。
 鶴見は25歳で東大を出て高文を抜き、内閣拓殖局に判任官として採用された時の月俸は45円であった。27歳で高等官7等に叙せられている。文官高等試験で採用されても最初から高等官にはなれないのだ。
 鶴見は「大学卒業後も弟と妹とのために働かなければならなかった私は、あまり呑気な官吏生活も送ることはできなかった」と書いている。(『成城』1巻182頁)
 鶴見が副業をしたことを窺わせる次のような記事がある。
 大正7年11月、ウイルソン大統領と単独会見した時に、鶴見は「その頃教えに参って居った学校の学生に繰返しこの話を致したのであります」と言っている。(『欧米名士の印象』32頁)
 昭和2年8月号の経済往来に載ったXYZ氏の鶴見祐輔論の中に、「大学卒業後、数多くの弟妹の生活を一身に背負うて、役所よう戻るや直に夜学に教えて……」と書かれている。
 また、大正3年11月1日付に河合栄治郎から鶴見に宛てた書簡の中に「法政の政治学に加うるに、中央とかの英語の経済学を持って御居での由、御多忙の事と御察し致します」と記されている。

 大正2年(28歳)1月、鶴見は監理部事務課勤務となり、5月には第8回西伯利亜経由国際旅客交通に関する会議に委員として出席を命ぜられた。支度金350円と1ヵ月150円の滞在手当が支給されている。
 会議は6月にモスコーで開催された。10ヵ国から50人の委員が出席した。
 山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』では、鶴見はこの出張に新妻を同伴し、6月末に会議終了後、ベルリン―オランダ―ロンドン―ハンブルグ―コペンハーゲン―スェーデン―フィンランドと新婚旅行を楽しんで、シベリア鉄道を経由し、8月8日に帰国したことになるが、帰国後の鶴見の演説「千岳万峰風雨声」によると、鶴見はシベリア鉄道を、往路はロシア通の庄司某と一緒で、帰路は1人であった。
 会議には日本は5人で出席した。会議はロシア語とフランス語で行われたが、日本の委員のうちロシア語ができるのは1人だけで、フランス語は5人ともできなかった。鶴見が得意の英語は、当時はまだ大陸においては微々として勢力が振わなかったのである。
 モスコー郊外の、昔、ナポレオンが立ち、のちに徳富蘆花が訪れた雀ヶ丘に鶴見が足を運んだのはこの旅行期間中であった。
 フィンランドでは、米国人のシドモアー女史の一行に通訳をしてやったところ、同女史はその後会う人ごとに鶴見をロシア語の名人だと吹聴して鶴見に冷汗をかかせた。(『南洋遊記』421頁)

 大正2年9月、一高弁論部の大会に招かれて、「千岳万峰風雨の声」と題して、外国旅行の報告講演を行った。世界の政治、殊にドイツとロシアの危険な関係等について話した。この講演は、大正5年に大正堂書店から刊行された橋田丑吾編『模範式辞及演説』に収録されている。
 講演後、教授会室で茶話会の際、鶴見が今度新しく家を持ったからお遊びにいらっしゃいと弁論部の生徒を茶菓に招待した。部員10数人が鶴見邸に招かれて、新婚の愛子夫人に西洋菓子の接待を受け、午後10時過ぎまで談論風発、鶴見からユーモアたっぷりの暖かいもてなしを受けたと部員の北岡寿逸(後の東大教授)が語っているが、この時の鶴見の家は宮村町新邸であったという。
 宮村町の新邸というのは、現在の六本木6丁目16号のルーテル教会のあたりにあったようで、此処にあった後藤新平邸の敷地内に建てられたものである。当時このあたりは麻布内田山と呼ばれていた。向いにあった井上馨侯爵の邸宅の跡が、現在の三井銀行寮と思われる。
 鶴見が結婚したのは大正元年11月29日であるが、結婚当初は青山南町5丁目の借家に住んだが、何ヵ月もしないで後藤邸の敷地内に転居したことになる。当該家屋の所有者は後藤新平である。

 大正3年(29歳)の4月、鶴見は経理局兼運輸局勤務を命じられた。この年の7月24日に新渡戸博士が墓参に訪れた盛岡で、博士の乗った自動車が崖から落ちて、博士は腰に重傷を負った。鶴見は後藤新平の代理として見舞いに駈けつけるとともに、門下生として他の見舞客に応対した。

 同年11月1日、少年倶楽部創刊号が発売され、評議員に鶴見が名を連ねている。

 同年11月22日に鶴見は一高における擬国会で外相を務めた。その外相ぶりを次のように評されている。
「就中当日の花と唱われた急進党(在野)議員河合栄治郎氏対外相鶴見祐輔氏の外交質問論戦なりき。河合氏の弁や終始絢爛たる文辞と荘重なる態度を持し一抑一揚一○(“璃”のへんが「てへん」)一縦、或は澎湃として寄うる怒涛の如く或は奔湍に激する渦流の如く、○(“餡”のへんが「さんずい」)々として現代の大勢を論じ一転して歴史的経過を説き、熱弁人を捉し去って満場声なく壇上の人独り天空を行く如し。
 氏即ち堂を揺す喝采裡に壇を退くや驀然として進み出でしは外相鶴見祐輔氏なり。先ず冒頭より前弁士河合君の論ずる所は是宛然擬国会に於ける一大学生の口吻に似たりと威圧し来り、機智辛辣、舌鋒鋭利、寸分の隙を見せず縦横の論旨を操りて優に外相の重味を見せ満座唯唖然たらしめたり。この外交演説の質問及答弁は実に当日の双璧にして誠に竜虎相搏ち激浪を巻き雲霧を呼ぶ壮観なりき」(『向陵誌』132〜133頁)
 なお、河合栄治郎はこの時東大4年生で、この年高文に合格している。

 鶴見は内閣拓殖局勤務は1年に満たず、鉄道院に転じてからは、総裁官房が1年4ヵ月余、うち後藤新平総裁に仕えること第一次は21日間、ついで原敬総裁が1年3ヵ月余、再び後藤総裁に24日間仕えた。監理部事務課が1年3ヵ月余、経理部兼運輸局として1年2ヵ月余、経理局会計課兼運輸局旅客課が1年4ヵ月余、総裁官房文書課兼運輸局旅客課に10ヵ月余り勤務して文書課長心得になっている。文書課長心得となって数ヵ月後に文書課長に昇任している。
 山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』では、大正7年(33歳)には文書課長であり、同年7月には運輸局総務課長になった(後任の文書課長は岩永裕吉)とされているが根拠は不明である。
 大正7年9月から大正10年4月まで鶴見は外国留学をしている。留学と称して学資まで支給されているが、欧米の大学に入学したことはなく、「各地巡歴研究」であった。
 大正10年5月に帰国し、6月に運輸局総務課長を命ぜられた辞令書が現存している。
 要するに幹部候補として各課で1年くらいずつの見習いをやって、33歳で鉄道院の課長になったのである。
 鶴見が鉄道院へ移った頃は、従来の技術家尊重の風がまだ強く残っていて、法科出の人間はややもすれば疎外されがちで、ことにかけだしの若い法学士たちにはすぐには責任ある仕事を与えられず、課長の側にテーブルを与えられ、課長の仕事をある期間見習いさせられたのである。
 鉄道院へ入ってから課長になるまでの約7年に鶴見は4回外国へ出張し、約1年7ヵ月海外で生活している。

 大正4年8月末日に鶴見は南洋各地出張の命令を受け取った。彼が3年前から従事している英文東亜交通案内書が、満州・朝鮮・日本・支那と第4巻まで出来上って、今度第5巻の南洋の巻を編纂するについて、材料を蒐集しまた実地の踏査をして参れとの命令である。当時の鉄道院総裁は千石貢である。同僚の渡辺隆も同行することになった。
 鶴見たちは大正4年10月8日に出国し、米領時代のフィリッピン、仏領時代のサイゴン市・カンボジアのアンコールワット、蘭領時代のジャワ島を視察して、大正5年2月に帰国した。約4ヵ月の南洋旅行である。
 第一次世界大戦中であったが、連合国側に属し、日露戦争の勝者で興隆期の日本の少壮官吏は、各地の米仏蘭官吏に歓迎され、案内してもらうことができた。駐在商社の人々も親切に世話をしてくれた。だがそれにしても鶴見の優れた語学力がガイドなしの外国旅行を可能にしたのである。鶴見は幼少より南洋の興味を深く感じていた人であった。
 大正4年には飛行機での旅行はできなかったから船に依ったのであるが、汽船は神戸から上海まで2日半かかった。上海から香港まで3日を要し、香港からマニラまで3日を費やした。上海と香港に上陸したが、結局フィリッピンに上陸したのは神戸出港の12日後であった。
 帰国後鶴見が出版した『南洋遊記』には、フィリッピンは各地を視察した詳細な記述があるが、ベトナムはサイゴン市だけ、カンボジアはプノンペン王城とアンコールワットの紀行文だけである。ジャワ島とマレー半島はやや詳細な実地踏査の記述がある。
 もっとも『南洋遊記』は、本務を結了した余力を以て、その見聞を興味本位に記述したものであるから、鉄道院へ提出した英文東亜案内記の報告書はより詳細なものであったろうと思われる。因みに東亜交通案内記の英訳は、横井小楠の子・横井時雄の手によって成り、その名訳はビアード博士をして「マシウ・アーノルド文体だ」と激賞せしめた。
 横井時雄は明治32年、後藤新平の岳父安場保和の死に際して、安場が横井小楠の弟子であった縁故もあった柩前に弔文を読んでいる。(『安場咬菜・父母の記憶』121頁以下)
(なお、『欧米名士の印象』134頁には「英文東亜旅行案内」の日本の部は、鶴見がその著者として4、5年間苦心したと書いてある。該案内記は先ず日本文をもって執筆した後、英文に飜訳したもので、鶴見が執筆したというのは、日本文のことであろう。)
 それにしても『南洋遊記』と題しても、ボルネオ・セレベス・ニューギニア・スマトラは訪れていないのである。

 フィリッピン
 フィリッピンは、大正4年10月22日に上陸し、11月21日まで1ヵ月間滞在した。米国の支配下にあったフィリッピンを訪れるに際し、鶴見は当初一種の危惧の念を抱いていた。東洋における新興国たる日本が、とかく西欧人から誤解を受けている今日、殊に野心ありと天下に伝えられているフィリッピンやジャワなどに出かけて行って、たとえ旅行案内記の材料であるからとは言いながら、地図をくれ、写真をくれ、出版物をくれと言うのみか、隅から隅まで島の中を見せてくれなどどいうことを申し出ることは、その植民地の官吏に対して、如何なる感を与えるであろうか。彼らが一種猜忌の眼をもって自分の行動を妨害しなければよいがと惧れていたのである。
 だがハリソン総督は、日本政府が英文の東洋案内記を出版することを歓迎し、必要な地図等の提供は勿論のこと、島内の見物についても最大限の便宜をはかろうと約束してくれた。
 そして総督府の自動車を提供し、全島の事情に通じている山林局長を案内者として案内させ、また南方の群島を廻るに当たっては、総督乗用の警備船を用意してくれたのである。
 マニラでは杉村領事とともにハリソン総督を訪問した後、フィリッピン名物の闘鶏見物した。水族館や有名なオーガスチン寺院も見学した。マニラ最古のこの寺院に付属する尼寺には、日本の天草騒動の壁画がある。さらにマニラの小学校、実業学校、女子家政手芸学校そして世界屈指の模範監獄であるピリピッド監獄を見学した。社交界の中心地ルネータ、そして夜はパコの寺院の祭礼も見物した。
 そしてマニラ郊外の女神の鎮座する有名な寺院があるアンチポーロ村、マッキレーの砲台、パサイの酒場兼舞踏場、屋内水泳場を有するポーロ倶楽部、由緒ある竹製風琴を保存する寺があるラース・ピーニヤス村、土民軍がスペイン軍及びアメリカ軍と激戦した古戦場であるサポーテの橋、愛国者リサールの生地カラムバ町、ラグーナ・デ・ベーの湖水、温泉場と湖のあるロース・パーニオス、マニラの水源地モンタルバン、マニラの避暑地シブール温泉を見物した。
 10月27日にはマニラのホテルを発って、汽車と自動車でバギオ市を抱くルソン北方の山岳地方へ向かった。州都リンガエンを訪れ、リンガエン湾に至ってマニラに引き返した。夜の山中で一行は探検隊のような冒険を強いられた。
 次はマニラを発って自動車で峠の風光と見事な山林を鑑賞した後、海沿いの小都会アチモーナンへ向かった。ここから300トンの沿岸警備船ミンドーロ号に乗って8日間の船の旅が始まった。マジェランが上陸して、セブー酋長の夫人に与えた聖母の像を祭った寺院があるセブー島に上陸して島内を実施調査した。
 次にネグロス島、ミンダナオ島に上陸して踏査した。ミンダナオ島では、ピラール砲台、サンラモン監獄を見学し、郊外の稲田で幾十万の蝗が飛ぶのを見た。最後にパネイ島に上陸して視察した。

 マニラで第一に鶴見の目を惹いたのは女性の服装であった。さまざまな色に染め出した透き通るようなマニラ麻の軽羅を幾重かの襞に織り重ねて、肩の辺を高くふくよかに着こなし、二の腕の辺まで肌を現わに出した手で裳裾をかかげて、金銀色の刺繍をしたスリッパーを軽やかに履んで、矢のごとくスックと上体を保ち、静々と歩を運んでいる。右手に裳裾をかかげたのは未婚の処女で、左手に持ったのは既婚の女性であるという。頭は西洋婦人のように束ねている。上流の者は日傘をかざしている。
 腰の辺に数多の鍵を下げているのは、家政の権を握る主婦が、鍵の多さによって財産の多さを誇示するのである。
 顔立は色が黒く眼付きが少し険しいが、スペイン人の血を受けた混血児は鼻筋が通って輪郭が整っている。
 大正4年のマニラの町は、人口27万、未開時代のフィリッピン人の文明と、スペイン人のラテン文明と、20世紀の最新文明を誇るアメリカの文明とが雑然として呉越同舟している。
 エスコルタやルネータなどを見ていれば、如何にも清楚なるアメリカの町のようであるけれども、足一度横道に入れば道幅急に狭く、南側にはスペイン風の格子戸の付いた家が立ち並んでいてスペインそのままである。そうかと思うと少し町はずれに行くと、ニッパの葉で葺いた鳥小屋のようなフィリッピン人の家が立ち並んでいる。
 マニラで最も目立つ建築物は、スペイン人の残した大寺院である。16世紀にスペイン人がフィリッピンを占領するに当たって、宗教の力を以て臨んだので、全島悉くカトリック教に帰依し、神父は無限の勢力を示したのである。
 スペインの統治350年の間、圧制暴虐に呻吟したフィリッピン人が、唯一の快楽として生み出した闘鶏は、1898年の米西戦争の結果米国が支配するようになった後もなお禁止できない根強さを有していた。
 鶴見は、フィリッピンという土地は、行く前には想像しなかったほど、進んだハイカラな所であることを知った。
 彼は幼少の時に名将アギナルドの伝記を読んで、暴虐なるスペイン政府の圧制の下にあった800万のフィリッピン人を想ったときには、ただ隔絶したる南国において、虎よりも恐ろしき暴政の下に苦しんでいる半開の民とのみ思っていたのに、来て見れば燕尾服の大学生が美女と舞踏をする所であった。
 19世紀末にスペインに代わって新しい統治者となったアメリカの新教育を受けて、万事米国風の感化を蒙っているフィリッピン人は、実に気位が高かった。
 彼等は350年スペインの治下にあって、ラテン文明の感化を受け、その宗教はキリスト教となり、言語はスペイン語となり、衣服は西洋風となり、社会制度もまた女尊男卑となっているのであった。そして多数の混血児を有するので、自分たちは西洋人であるという自覚が感じ取られた。
 フィリッピン人は、米国の文明をすら成上者の新文明と多少馬鹿にするような気持であるから、日本の文明、中国の文明などを尊敬していないことは確かである。

 濁流で洗濯することも驚きであったが、熱帯地の住民が泳ぐ時でも洗濯の時でも、決して裳や股引を脱がないで水に入るのは意外であった。

 農村は全島同じような、鳥小屋のごとき農民の住居とパパヤとバナナである。

 フィリッピンの独立問題について鶴見は次のように主張する。
「私は今日のフィリッピン独立問題の、如何に根拠なく、根底無く、上調子であるかを衷心遺憾とするものである。彼等の今日の生活から、スペインの文明と、米国の文明とを除いたら何が残るか。
 フィリッピンにとって、米国ほど有り難い国は無いのである。政治、教育、衛生、各方面に亘って、米国の施設は懇切を極めている。今暫く米国の下において、教養を積むことがフィリッピンを偉大にする最良の策である」
(石塚注 文中の「施設」は遊休施設などという場合の施設ではない。「施策」と言い換えた方が今日的であろう。かつては施策という意味を施設と表示したようである)

 フィリッピンは自動車が豊富である。マレー半島もジャワもとても足許にも寄れない。況や日本をや。
 大正4年の自動車数は2,404台、荷物自動車470台、自動自転車982台、合計3,856台。
 約4,000台を人口に割り当てると、2千人に1台となる。日本は4万人に1台である。
 その原因は、米国人の自動車好きなこと、道路の良いこと、鉄道の不完全なことが挙げられる。
 当時はクーラーは無いので汽車旅行は炎熱に苦しんだが、風を切る自動車は爽快であった。

 タフト大統領がフィリッピン総督時代に、最もその卓見を讃えられたことは、フィリッピンの国民的向上心を刺戟する手段として、国民崇拝の中心たるべき英雄を創出したことである。
 彼はフィリッピン人の向上心に乏しく、懶惰にして地方的割拠の精神が旺盛なることを遺憾とし、彼等を救済する一手段として、偉大なる英雄を彼等に示し、フィリッピンの国民の中には流れる血はかくのごとき偉人を産み、なお将来において産もうとする望みがあるという感情を刺戟することであると考えた。
 彼は各方面から国民的英雄を物色し愛国者リサールにその眼が止まった。米国官憲は多大な努力をもってその歴史を編纂し、その功績を謳い、その記念碑を設立した結果、フィリッピン全島にその名が響きわたり、今日においてはほとんど宗教的崇拝を受けるに至った。
 ホセ・リサールは1861年に相当の資産を有する名家に生まれた。リサールは若くして大宗国のスペインとドイツに留学して医学を学び、香港で眼科医を開業した。だが、リサールの胸中には、国を愛する熱烈な精神が炎のごとく燃えていた。加えてリサールの天稟の感じ易い詩人的な性情は、スペインの暴政の下に泣く700万の祖国の同胞を思って、日夜怏々として楽しまなかった。リサールは医学を学ぶかたわら文筆をとって種々の著述をしたが、就中『ノリ・メ・タンゲーレ』と称する小説は、一曲の挽歌のごとく哀音惻々として人を動か趣きがあった。その全篇の趣旨は、フィリッピンの山河の美しき有様を描き出して、この間に貧梵飽くことを知らざる旧教神父と、その犠牲となって無実の罪に苦しむ幾多の良民とを写し来たり、終りにリサールみずからの境遇を説き出だし、その恋人を描き来て、全篇涙に溢れるがごとき悲劇を編み出したのである。
 その歌うところの根本の精神は、カトリック教徒の暴虐であって、彼等がフィリッピン人の心霊と知識と財産とを束縛し圧制したる結果、フィリッピンの地には陰雲常に漂い、平和の天日仰ぐに由なきことを記したのである。そうしてこのローマ教会の神父は、フィリッピンの膏肓に入れる病いであって、まさに胃癌にも比すべきものである。この病いが除かれなければ、フィリッピンの救済は永遠に望むべからずと絶叫したのである。
 この書が世に現れるやフィリッピン人は先を争ってこれを読み、読んで自己の境遇のに思い至り、潜然として泣いた。
 しかし、ローマ教会の神父はこの書を見て憤慨し、全島の書を焼き捨てさせた。だが、フィリッピン人はこの書が発禁となるとますますこの書を読もうとして、全島隈なくこの書が行きわたる結果となった。スペイン人は憤怒炎のごとくに燃えて、どうにかしてリサール誘き出して殺そうと謀った。スペインの総督は甘言をもってリサールに来島を勧めたが、リサールが警戒して応じないので、リサールの老母を捕えて苦しめた。リサールは一身の安危を顧みずフィリッピンへ渡ったところをスペイン官憲に逮捕、投獄された。1896年12月30日、リサールは草茫々たるバブンバサンの広場に曳き出されて銃殺された。今は公園となった刑場の後に愛国者リサールの記念碑が建っている。鶴見はマニラ市の南のパコ共同墓地にあるリサールの墓を尋ねている。

 フィリッピン独立100周年を記念して、1998年にフィリッピン映画『ホセ・リサール』が制作され、2001年12月から2002年2月にかけて、千代田区神保町の岩波ホールで上映された。監督マリルー・ディアス=アバヤ(女性)、脚本リッキー・リーほか2名、ホセ・リサール役はセサール・モンタノである。上映時間は178分。
 そのプログラムから抄記すると『ノリ・メ・タンヘレ』とは、(我に触れるな)という意味で、ほかに『エル・フィリブステリスモ』(反逆)という小説も書いている。ホセ・リサールは1861年、フィリッピンのラグナ州で、裕福な家庭の11人兄弟の7番目の子として生まれた。11歳でマニラのアテネオ学院に入学、サット・トマス大学から、スペインのマドリッド中央大学に転じて、同大学の医学、心理学部、文学部を優等で卒業。24歳で卒業後、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなどを旅行した。26歳の時、ベルリンで『ノリ・メ・タンヘレ』を出版し、フィリッピンに帰国。翌年、自主的な国外退去を勧められて出国。30歳の時、ベルギーで『エル・フィリブステリスモ』を出版、香港で眼科医を開業したが、31歳の時、帰国、その年国家反逆罪でミンダナオ島に流刑となる。1896年(明治29年)銃殺された。
 1898年米西戦争。エミリオ・アギナルドがフィリッピンの独立を宣言。同年フィリッピンはアメリカ領となる。
 鶴見がフィリッピンを訪れたのは、リサールの刑死の18年後であった。
 なお、リサールは1888年の初頭、2ヵ月日本に滞在したことがある。日比谷公園にその胸像がある。

 鶴見はフィリッピン紀行文の最後にフィリッピン概論を設けているが、その第六、フィリッピンと日本で、青年鶴見が帝国主義を主張している。その大部分を次に紹介する。
「水到って、渠(きょ)成る。興国の精神、内に磅○(いしへんに“薄”)(ほうはく)し、進取の気象、外に溢れて、而して膨張せざるの国は未だ之れあらざるなり。国家の隆興、国権の拡張は、蓋し人為に非ず。水の低きに就くがごとき自然なり。而してまた道徳上の正理なり。一国が人口の過剰に苦しみ、他国が労力の寡少に悩むに際し、ことさらに関税の墻壁と条約の門扉とを設けて、その流入を拒絶するは、之れ自然に逆行する人為に非ずして何ぞ。一国の生民が過剰人口の激甚なる生存競争裡に○(“眞”に“頁”)倒反側しつつあるに際し、他国が鮮少人口の極楽天地に倨して游悠その生を娯しむというは、之れ道徳の正理に背反する作為に非ずして何ぞ。
 応うる者謂わん。今日は未だ世界が四海同胞の一国を為さずして、互に国家を為して相競争するの際なるが故に、国家自衛の上よりして、相防衛し、相反撥する、またやむを得ざるなりと。然り、関税墻壁や入国禁止の問題は国家競争の原則を外にしては、之を説明し去ることを得ざるなり。既に一国が国家競争の原則を承認して、移民排斥、貨物排斥を行うに当たりては、われまた国家競争の原則に則って、国権拡張、国土膨張を説くに、何の妨ぐるところかこれあらん。蓋し口を平和と人道とに藉りて、而して移民排斥策、禁止的高率関税策を取るは、これ徹頭徹尾(※原文は“徹”の“亠”が“土”)偽善の政策たればなり。
 既に生民の茂く、国力の充実したるものありとせんか、人為の国境を突破して、自然の膨張を試むべきは、天の正理なり、何の憚るところかこれあらん。水独り低きに就きて、人のみ楽境に進む能わざるの理あらんや、日本民族膨張のことは、これを世界に向って公言して憚ることなき、端的の必要なり、事実なり。余はかの人種的排斥を試むるの諸国が、同人種の国に膨張せんとする日本の企画を目して、日本の野心乃至は禍心と称するの真意を解するに苦しむ。既に異人種の国に入る能わず。今また同人種の国に入る能わずとせば、日本の生民七千万は、卿等が游悠を見物しつつ、○(くさかんむりに“最”=さい)爾たる一国内に餓死せざるべからざるか、天下あにかくのごとき背理あらんや、不法あらんや、不徳あらんや。日本民族の帝国主義は、日本民族が餓死窘蹙(きんしゅく)より擺脱(ひだつ)せんと欲する、男性的努力なり、英雄的活動なり、何人か敢えて一指をこれに加うるもので。卿等が十六七世紀の交、天下豊沃の山河に膨張したる、その足跡を追わんと欲するのみ。領土拡張は西人のみに道理にして、日本人に不道理なりと言う。天下、豈斯の如き噴飯事あらんや。
 近時日本のフィリッピンに禍心ある事を唱うる者、頗る頻々たり。もし日本の禍心なるものが、ヘスチングスのインドに於けるごとき、スペインのインカ王国に於けるごときにありとせば、これ実に現代文明の世に於て看過すべからざる不祥事なるべし。しかれども、日本の希望する所は、最も単純にして明白なり。即ち有り余る内地の人口のために疏通口(はけぐち)を見出し、利潤漸く低下せんとする内地資本の流出地を発見せんと欲するに在るのみ。
 フィリッピンの地は、日本人発展の好適地なり。而してその時機は今日をおいて又あらず。如何となれば、支那人の入国が禁止せられおることはその一なり。今日フィリッピンが日本人に対し、好意を有するはその二なり。比島の人口が未だ大いに増加せざるはその三なり。西欧列強の力の、未だ大いにこの地に伸びざるはその四なり。思うにフィリッピンの地は、天がわが大和民族膨張の方向をして、特に我等の為めに保留したる一条の血路にあらずして何ぞ。
 余が今回南洋各地を旅行して最も驚きたるは、南洋が名は欧米人の殖民地にして、実は支那人の勢力範囲たるの一事なり。彼等は先ず労働者としてこの地に入り来り粒々辛苦の小金を蓄積して、或いは商業、或いは農業、鉱業等に転じ、遂に巨万の富を積んで資本家と変形し、倨然として南洋全土を睥睨するの概あり」
「今日に於いてもフィリッピン在住の支那人は、僅々五万人と称せられ、全人口八百万に対しては、一分にも及ばざるなり。これを彼のマレー半島に於ける支那人が土着のマレー人、百三十五万人に対し、百万を以てほとんどこれを凌駕せんとする勢いを示せるに比し、到底同日の談に非ざるなり」
「冀くは日本の良民をこの地に送りて、彼等をして日本人の敬愛すべきを知らしめん。而してその策としては、資本的南進に如くものなし。先ず堅実にして恒心ある資本家をして、比島に投資せしめよ。而して彼らの後援の下に選除宜しきを得たる労働者を送らしめよ。かくのごとくんば、名利共に日章旗に伴いて南進し、日比関係の親善期して待つことを得べし」
(一言にして言えば、日本民族膨張論、帝国主義である。それは日清、日露戦争に勝って領土を拡大した当時の日本の国論であったであろう。なお、この時期の鶴見の膨張論は武力的征服でなく、人口流出(移民)と資本流出(入植)である。石塚注)

 カンボジア
 大正4年11月23日、マニラより香港に戻り、再び三井物産の支店長林徳太郎氏の社宅に泊った。この時初めてフィンシー・スミスが敷設したケーブルカーというものに乗った。香港滞在中に会談したピーク・ホテルの主人フィンレー・スミス(英国人)から「一体お前の国ではドイツの捕虜を大層大事にするのは何故だ」と詰問された。
 その後11月27日香港を出港してサイゴンへ向かった。小巴里と愛称される瀟洒なサイゴンに、領事館の成島某の案内で2日間滞在した。
 その後、サイゴンからの汽車でミトー町で下車し、850トンの河船でメーコン川を遡航すること42時間、カンボジアの首府ブノンペンに着いた。
 ブノンペンでは当時の宗主国フランスの総理事官の政庁を訪れ、英文東亜案内記の日本の巻を進呈し、政庁の役人の案内で、自動車でかつてのクメール王国の王城を見学し、夜はフランスの総理事官とともに王宮の舞踏を観賞した。翌朝別の汽船でブノンペンを出港してメーコン川の支流シエムリープ川を遡航する。5人のフランスの一等船客と同室する。一昼夜の航行の後、はしけに乗り移って上陸する。水路500マイル(805キロメートル)の旅であった。陸路はカンボジヤ人の御する牛車に乗る。早朝汽船を下りてより、はしけと牛車を乗り継いで、午前中にアンコールの村に着いた。
 そしてアンコールワット見物の途上で同船の人々と親しくなるが、鶴見は英語とドイツ語ができるが、フランス語があまりできないので会話に不自由する。2日間でアンコールワットとその周辺の遺蹟を見物した。アンコールワットはホテルの案内人の先導で同行のフランス人たちと見学した。
 サイゴンに戻って、シンガポールへ赴き、マレイ半島を鉄道で縦貫して、再びシンガポールへ帰った。シンガポールからジャワへ渡ったのは12月26日であった。ジャワの帰途、再びマレー半島に立ち寄っている。

 ジャワ
 シンガポールからジャワまでは500マイル(800キロメートル)の海路である。3000トンのオランダ船ファン・イムホフ号は、約36時間でバタビヤ(現在のジャカルタか)に到着する。大正4年には人口4千万人のジャワ島はオランダ領である。首都バタビヤはオランダ人が東洋の女王と誇称した街である。この街の人口は16万2千人。
 ホテルのベッドにはダッチ・ワイフという長さ1メートル50センチくらいの丸い枕のような丸太が置いてある。夜中涼を保つために抱いて寝るのである。フィリッピンやマレー半島と異なり、ジャワは昼寝の必要な国である。鶴見たちはこの島で旅行案内局の世話でインド生まれの案内人を付けてもらう。
 日本の領事を訪問した帰途、果物市場で久恋の情を抱きつづけたマンゴスチーンを買い込む。マンゴスチーンの描写が出色である。当時は英国女王ですら口にすることができなかった。その他ドリアン、マンゴー、バナナ、ブレッド・フルーツ(パンの果)、パパイア、パインアップルなどジャワはフルーツ王国である。また、芳烈にして濃厚なジャワコーヒー、手の込んだカレーライスであるライス・ターフェルが名物である。
 旅行案内局、鉄道局を訪れた後、12月31日、黒のモーニングを着用して熱帯地の総督をその宮殿のごとき官邸に訪問した。そして官邸と同じバイテンゾルク町にある世界的に有名な植物園を見学した。
 さらにバイテンゾルグ町の東方「地上に堕ち来し大空の一片」と賞されたプレアンガー州の首府バンドゥーン市と温泉地ガルー、ベゲンヂッド湖、パパンダヤン山を見物した。
 また、ガルー町の官設質屋とタビオカ粉工場を見学した。この町でオランダ新聞を読んで、鶴見が香港からサイゴンまで乗った仏船ヴィユ・ド・ラ・シオタ号がドイツ海軍に撃沈されたことを知る。大正4年は第一次世界大戦(大正3年〜7年)のさなかである。
 ガルー町を発って列車でヂョッキャ市へ行く。人口は8万5千人。この町には分国の王の王城がある。手違いで現王には拝謁できなかったが、王城は見学した。市内の商店で鶴見はサロンを買った。帰国後、刺繍をして妻の帯地にしてみたら、或る通人に色柄を大層褒められた。
 或る日はヂョッキャ市から自動車でボロ・ブドールの仏蹟を訪れた。
 また或る日は、ヂョッキャ市から列車で人口15万のスーラカルタ市(別名ソロー)を訪れた。この町の王城見物に出かける。
 次にスーラカルタ市から汽車で、人口20万のジャワ第一の都会スーラバヤへ向かう。ホテルから自動車でトサリーに着き、ここからは馬で世界一のスメルー活火山とブローモー火山の見物に行く。
 フィリッピンの米国人、マレー半島の英国人は午睡を取らずに働くが、仏領印度支那(ベトナム)のフランス人と蘭領インド(ジャワ)のオランダ人は昼寝をする。
 鶴見はスーラバヤからセレベスに向うつもりであったが、日数が無いので鉄道でバタビアへ帰り、大正5年1月16日にルムフヒオール・トロイブ号に乗ってシンガポールへ向かった。ジャワの滞在は18日間であった。ジャワの交通機関は汽車と自動車と馬車であり、旅行案内局の付けてくれた従者の案内によった。

 マレー半島
 鶴見たちが辻馬車を傭ってホテルへ向かったシンガポールは、26ヵ国の国語が用いられている人種の標本のような街であった。シンガポールでは領事館や三井物産を訪れ、汽車でマレー半島第一の田園都市コーランポーへ行き、マレー鉄道局とマレー半島連邦州庁の民政長官を訪問して来意を述べ、印刷物などを貰った。更に列車に乗って海岸の町ピナンを訪れた。この町の極楽寺には東郷元帥と乃木大将の揮毫が芳名録に遺っていた。再びシンガポールへ戻って2日間をこの町に過ごした時、三井物産支店長の中山晋平邸で、インドへ向う大谷光瑞伯に邂逅し、一夜縦横の談論に耳を傾けた。

 シンガポールをランブーン丸(貨物船)に乗って香港へ向うと、東北モンスーンが日毎夜に吹き荒んで、小山のような大波は船舷に砕け、船橋を襲い、船は一上一下激浪に漂い、平日は10マイル(16キロメートル)走る船が4マイル(6.4キロメートル)しか進まないことも稀ではなかった。5日の行程を9日費やして大正5年1月29日に香港に到着した。
 1月31日に大阪商船のメキシコ丸(6000トン)に乗って祖国へ帰る。

 鶴見は『南方遊記』の巻末に論じて曰く、
「日本の南進は、可否の問題ではなくして、もはや必然的の事実である。日本の南へ進むのは、豊麗なる南国の山河を慕うがゆえに非ずして、大和民族が三千年来の努力奮闘の結果、偉大なる潜勢力を貯えたる今日、もはや○(くさかんむりに“最”=さい)爾たる秋津州の偏土に止まることができなくなったと言うに過ぎない。この興国の機運が内に澎湃として漲った今日においては、北は北斗の指す所、南は南極星の導く辺り、東はロッキーの岸、西はウラル、アルタイの麓までも、勇ましき膨脹発展の旗印を掲げて進まなければならぬ時勢となっていると信ずるのである。即ち国力膨脹の機運に乗じて、東西南北に発展すること之である。南進論のごときは、要するに日本民族充実の結果として、生じ来りたる唯一つの現象に過ぎない。
 しかし、南進の形式に至っては、大いに問題があると思う。それは南国は物資が豊かであるとか、また生計が容易であるとかいうために、北を棄てて南に行くということであるならば、自分は日本民族の将来のために大なる疑惧の念を抱かざるを得ない。ニューギニアの土人が、サーゴー椰子樹と称する恵みの木のため、生活の安逸に流れて、退化自滅しつつあることを見よ。
 われわれが単に南進論という美名の下に、幾十万幾百万の同胞をこの炎熱の地に送って、進んで資本家として欧州人と拮抗する能わず、退いて労働者として堅忍不抜な中国人と競争すること能わざるがごとき窮地に陥らしめたならば、式は虞る、更に惰して奮闘力を失って懶惰放縦なるマレー人やジャバ人の境に入るたきやと。  ゆえに自分の考えとしては、日本の南に進むのは、資本家として進みたい、日本人中の上流階級が南洋に移り住み、資本を南洋に投下して、欧州人と互角の地位を以て、南国に根を植えるということが第一歩である。そうすれば日本の労働者は招かずして之に随伴して来るのである。知識階級の指導の下に、労働者が大挙して南進するものとするならば、彼等は日本固有の民性を持続して、南国無尽の宝庫を開くことができるのである。
 外国人たちは、日本が南洋に対し禍心を蔵することを非難し、日本は専制武断の国であるから、南洋がその爪牙にかかるならば、憐れむべき南洋の土人は、極端なる専制圧抑の政治に苦しむであろうという。
 だが欧州人こそその殖民地において専横圧制暴虐ではないか。
 しかし日本の殖民政治家は、殖民地の統治に際しては、列国の非難を受けないよう十分に注意しなければならない。第一に、殖民地に対して無頼漢を送って土人の産業を奪うことを慎むにある。
 次に国家の膨張は必然の勢いであるが、その態度、方法が問題である。
 人種的僻見より来たる移民排斥というような一大事実の現存する限りは、われわれ東洋人は東洋の天地をみずから守って、外国人の侵入を拒絶すべき正当の権利がある。だがこのアジアモンロー主義は、米国のモンロー主義が、デモクラシーの精神を擁護するという雄大なる理想を抱けるように、偉大なる理想がこれに随伴しなければならない。
 さらに南洋における近時の国民的自覚を看過してはならない。あたかも大正五年の今日、日本が中国に対してその発達を助成して平等なる関係において相提携しようと画策しているように、南洋諸国に対してもその発達を助けて、先進国として彼等を扶掖誘導する地位に立つことが、真正なる意味における日本の帝国主義ではあるまいか」
(石塚注 国民的自覚を指摘したのは鶴見の先見である。鶴見は昭和初期においても、この中国に対する正しい態度を失わなかった。)

 大正4年の帝国鉄道協会々報17巻2号に、鶴見は「南洋と日本民族」を寄稿している。

 大正5年(31歳)2月に帰国した鶴見は、各所で講演を求められること20回ほどに及び、南国に対する日本国民の南洋熱の高さを感じた。殊にアンコールの廃墟の話が人々の感興を惹くことを知った。そこで南洋紀行を記してみるのも徒爾ではあるまいと考えるようになった。そして『南洋遊記』と題して大正6年3月に大日本雄弁会から刊行されたのである。それは鶴見の処女出版であった。
 鶴見の著書は、『後藤新平』全4巻と訳書『プルターク英雄伝』全6巻以外は今日では古本屋の書棚からも姿を消し、稀に古書市で見付かっても廉価であるが、『南洋遊記』は別格で、平成13年の京王百貨店新宿店の古書市で9千円(『後藤新平』は全4巻で4万円)の値がついていた。箱入りで厚い表紙のこの本は当初から高価であった。例えば大正13年版の『南洋遊記』は6円であるが、同年に刊行された『三都物語』は2円50銭、『思想山水人物』も2円50銭である。出版社の天田幸男は「本はたいそうりっぱなものになり定価は6円、当時のものとしてはすばらしく高い本です。初めて私が鶴見先生に会ったときには、その点で嫌味をいわれました。あんな高い値段にしてしまって、あれじゃあ買う人はいない。図書館に行って見るのが関の山だ。せいぜい2円くらいにしてもらえないかというのでした」と回想している。(『講談社の歩んだ五十年 明治大正編』384頁)
 事実安積得也は大正7年の一高時代に、定価が高いので、図書館で読んだと回顧している。(『友情』160〜161頁)
『南洋遊記』には、巻頭に献呈辞がある。
   夙く雙親に別れし余を導きて
   今日あるを得しめ給いたる
      伯父 本尾敬三郎
      義兄 広田理太郎
   両大人の膝元に謹みて
   此拙き一書を捧げてまつる
 広田理太郎は鶴見の上の姉・敏子の夫である。理学博士で、富裕な人だった。若くして父母を喪った鶴見とそのきょうだいは、義兄のお蔭で高等教育を受けられたのである。広田理太郎夫妻の間に加藤シヅエが生まれている。
 私の手許にあるのは大正13年版であるが、天皇陛下乙夜之覧(唐の文宗が昼間政務に多忙のため乙夜(今の午後9時から11時)を過ぎてから読書したこと。転じて天子の書見)、皇后陛下台覧、皇太子殿下台覧を賜うと開巻第1ページに記されている。巻末には新聞社19社の書評が掲載されている。
 巻頭の『南洋遊記』の文字は、岳父後藤新平の揮毫である。
 本書は帰国した年の夏季休暇2週間で、熱海において大部分を執筆したが、さらにその翌年1月に速記者に口述して完成した。
 本書ができ上ったとき、その誤植の多さに鶴見は巻を叩きつけて失望したというが、私の読んだ第9版になると誤植も無くなっている。(『成城』5巻150頁)
『南洋遊記』を書いたのは鶴見は31歳の時であるが、彼はこの齢で既にこのような名文を書いたのだ。和漢洋の教養が深く、語彙が豊富であり、たいした文章力である。

 帰国した年の秋、母校の学生たちに、米国の大統領選でウイルソンは敗れると鶴見が予言した。だがその予言が外れてウイルソンは大統領に再選されたので、約束に従い12月16日に麻布宮村町の鶴見邸に一高や東大の学生を招いてご馳走をした。この席上でこのような会合を月1回鶴見邸で催そうということになり、会名はその日が火曜日であったから火曜会と決め、外国名はウイルソン倶楽部と称することになった。幹事は東大生の北岡寿逸である。
 この日の参会者は、河合栄治郎(のちに東大経済学部長。以下カッコ内は後年の地位)、川西実三(東京府知事)、蝋山政道(お茶の水大学長)、沢田謙(著述家)、平井好一(関西汽船会長)、市河彦太郎(特命全権公使)、鶴見憲(シンガポール総領事)、滝川政次郎(法学博士)、平野義太郎(東大教授)、北岡寿逸(東大教授)など16人であった。
 火曜会は鶴見の朗らかで暖かい風貌に接し、おいしい西洋菓子をご馳走になって、名士の話が聞けるとあって、来会者は数十人に増加し、麻布宮村町の鶴見邸は2階が落ちはしまいかと危ぶまれたが、大正11年頃に移った三軒家町の邸宅(桜田町の後藤新平邸と庭つづきで、南荘と称した)は、出席者が百名を越えても収容できる規模であった。事実火曜会は百名から百数十名の出席者を見るようになり、第3火曜日の夕方は隣接の後藤邸の玄関番の書生も鶴見邸へ手伝いに行き、一高生の垢だらけの朴歯の下駄と臭いようなドタ靴を揃えたという。(『友情』橘善守の言49頁)
 第1回、第2回の講師は、農商務省え工場法施行令の立案主任であった河合栄治郎で、工場法の話を聴いた。第3回の講師は、日本郵船の貨物課長黒川新次郎であり、その後の講師は、鉄道院の長尾半平、日銀理事の深井英五、台湾総督府の羽生雅則、名古屋銀行頭取の田嶋道治、徳富蘇峰、松岡洋右、杉村楚人冠、石井満、滝川政次郎、笠間杲雄など多士済々である。
 大正7年9月、鶴見は米国へ出張したが、出国前に東大の御殿前でウイルソン倶楽部に所属する数十名の記念撮影を行った。11月に鶴見がウイルソン大統領に単独会見した時、この写真を大統領に供覧している。
 その後鶴見の外国出張によって一時中断したが、帰国後火曜会は再開され、講師も島崎藤村、有島武郎、小山内薫、岩永裕吉、井上準之助、芦田均、鈴木正吾ら当代一流の名士を招いて講話を聴いた。
 火曜会の会員の中には石本恵吉夫人(後の加藤シヅエ)や有島武郎と心中した婦人公論の記者波多野秋子など女性も参加して色彩を添えていた。
 昭和3年に鶴見が衆院議員に当選後、麹町区元園町(鶴見は26歳頃にも元園町に住んでいたことがある)に転居したが、この家は狭いために火曜会は開催できず、昭和4年頃目白の家へ再転居後に再開して菊池寛を講師に迎えたりしたが、鶴見の政治活動が繁忙になったため自然消滅してしまった。
 それ以後若い人々と親しく接する機会を失ったことを鶴見は生涯後悔した。火曜会の消滅を惜しむ人は他にもある。中には鶴見が火曜会を主催したことを彼の政治活動以上の偉業として讃える者も居る。ちょうど鶴見和子、鶴見俊輔を育てたことが鶴見祐輔の功績であるかのように言われる類いである。

 大正5年9月、講談社から『面白倶楽部』が発刊された。鶴見は野間清治の求めに応じて、約2年間匿名、無報酬で毎号巻頭文を掲載した。(『講談社の歩んだ五十年 明治・大正編』335〜336頁)

 大正6年(32歳)の中央公論3月号に、鶴見は「ウイルソン論」を寄稿した。

 4月には鶴見が5年前から従事してきた『英文東亜案内』が完成して鉄道院から出版された。第1巻朝鮮・満州、第2巻西部日本、第3巻東部日本、第4巻支那、第5巻南洋(仏・ヒリッピン・蘭印・海峡植民地)で各巻500ページである。『英文東亜案内』は、後藤新平が明治39年に満鉄総裁い就任した時その必要を痛感し、明治41年に逓相兼鉄道院総裁に就任した時編纂の事業に着手、多数の調査員を極東の諸地方に派遣した。後藤が逓相辞任後編纂事業は約2年間中絶したが、大正5年再度入閣してより再開し、第5巻の完成を見たのである。

 4月28日、一高の先輩招待演説会で、鶴見は「ネルソン、カブール、重成等の生涯を想うて一箇の樫の実が長き日月を人の心の裡に育まれて遂には欝蒼たる森林をなずに至ることを説き、偉大なる信仰は書物に得られずして血と涙とに得られる。吾人は深き体験に基く確固たる信念に根ざさざるべからず」と叫んだ。(『向陵誌』139頁)

 晩春、内務大臣官邸へ後藤内相(大正5年10月9日就任)を訪ねて来たリチャード・ウオッシ・チャイルド(米国人。著述家。駐伴大使)の通訳を務めた。この時が2人の知り合うきっかけであった。(『印象』424頁)

 10月2日に鶴見は文書課長心得を命ぜられた。
 10月6日には文官普通試験委員を命ぜられている。
 10月10日に支那へ出張を仰せ付けられ、支度料参百円を支給されている。帰国した日は不明。
 12月には職務格別勉励に不慰労として賞与。金九百五拾円を給されている。この時の鉄道院総裁は後藤新平である。

 鶴見はこの頃から急に肥り出している。彼は肥りやすい体質であった。

 大正7年(33歳)の4月8日、少年の日に母を喪った鶴見が、実の母とも思って敬慕した後藤新平(62歳)の夫人和子が52歳で病死した。腎臓病である。心臓肥大も併発していた。
 2ヵ月後の6月10日に麻布区狸穴町の外務大臣官邸で、鶴見和子が生まれている。彼女を和子と命名した理由は、後藤新平の和子夫人の逝去直後であるので、和子夫人の生まれかわりのようだからという説と渾身の敬愛を捧げた祐輔が同じ名を付けたという説がある。あれほどお気に入りだった婿の子の顔を見ることなく死んだ和子夫人の無念が思い遣られる。米国留学中の長男一蔵の帰国も母の臨終に間に合わなかった。
 なおこの時、後藤新平の母は94歳で生存していたのである。

 鶴見は27歳で結婚したが、33歳まで子が生まれなかった。まだ在学中の弟妹を扶養するため、退庁後夜学の教師などの副業をしなければならなかったことも理由の一であるかも知れない。愛子夫人が10歳年下で、初産が23歳ということは、現代から見れば決して遅くはない。
 しかし岳父の後藤新平も夫人の和子も愛婿の子の誕生を待ち焦れていたのではないだろうか。
 もっとも後藤新平と和子夫人も10歳の年齢差があり、後藤も27歳で結婚したが、第1子一蔵が生まれたのは37歳の時であり、第2子愛子が誕生したのは39歳の時であった。結婚後10年間も子が生まれなかったので、この間に新平の隠し子静子を養女に迎えている。この静子が、祐輔の妻となった愛子と間違えられるのである。

 7月9日に鶴見は米国出張を仰せ付かっているが、この時点でのポジションは文書課長となっている。大正6年10月から7年の初夏の間に「心得」が取れたようである。
 鶴見の任務は、次のようなものであった。
 第一次世界大戦の最中、連合国の一員だったわが国は、貿易の急増に船腹の不足が悩みだった。わが国に造船能力はあるが、肝心の鉄の生産力は微々たるもので、造船用鋼材の不足に苦しんでいた。
 他方アメリカは鉄は十分あるが、造船能力が足りない。そこで考え出されたのが「船鉄交換」、アメリカから鋼材を輸入しこれを同じ重量屯の船舶を返す。1万屯の鋼材から大体2万重量屯の船が出来るから、わが国には1万屯の船が1杯残る計算になる。(『友情』竹内徳治の言154頁)

 9月に鶴見は諏訪丸に乗って米国に向ったが、船上で読んだ中央公論に菊池寛の小説「恩讐の彼方へ」が掲載されているのを見て一驚した。4ヵ月前に菊池寛は時事新報の記者として鉄道院へ文書課長の鶴見を訪れ、貨物運賃の値上げの有無を確認して帰ったのであった。

 米国に到着した鶴見は、サンフランシスコのフェアモント・ホテルで、「アウトルック」東洋特派員グレゴリーメースンと寺内伯との会見の通訳をした立場から、寺内伯が誤解を受けた由来を9月23日の「日米」紙に次のように語った。
「先日日本を離れて欧州航路船で英国へ向ったアウトルック記者メースン氏は、アウトルックの記事でご承知の通り、後藤男と寺内伯と山縣公との三名士に会見し、その都度私は通訳を仰せつかった訳です。問題となった寺内伯会見記中の「日独同盟論」は、寺内伯の言葉でなくて、あれはメースン氏の言葉です。メースン氏の通信に依れば同氏は寺内伯に単に「如何なる機会に日本とドイツとの同盟が結ばれるでしょうか」とのみ質問し、寺内伯はこれに対して「日独同盟問題は現在の戦乱が如何に終局を告ぐるかに依って定まる。もしも戦後国際関係が大いに変化し、日本が孤立の位置に置かれるようになれば、日本は或るいは余儀なくドイツと同盟を結ぶに至るかも知れない。しかし現在の局面から見れば、日本がドイツと同盟を結ぶに至るということはあるまい」と答えたとあるが、実際はメースン氏が以上のごとき所謂寺内伯の答をみずから製造して以上のごとき言葉をまず寺内伯に提供し、然る後に寺内伯に「閣下のご意見は如何ですか」と質問し、寺内伯はその返答に際してメースン氏の以上のごとき言葉をレピートしたに過ぎない。
 寺内伯はこれに対して明確な返答を与えなかったのです。その会見の時に私は、日本人の速記者に会見記を書かせたところが、メースン氏は、「その日本文の会見記をぜひ貰い受けたい。私はそれを決して英訳しない。私はそれを日本訪問の土産として記念品として保存して置きたいのです」とせがんだから、私は決して英訳しないという約束の下にこれをメースン氏に与えたのです。
 然るにメースン氏はその日本文を自分の都合のいいように英訳し、日本文と英文とをニューヨークの本社に送り、英文の会見記の中に日本文をカットにして挿入し、会見記が真実であることを裏書しようとしたのです。
 その不徳義な米人記者メースン氏の通信が、ロンドンタイムスのニューヨーク通信員に依って英国へ打電され、英国から日本へ転電さるるや寺内伯を目の敵として居る憲政会の人々が、これを種として所謂失言問題なるものを起こしたのです。当時の外相本野子はちょっと弁解文みたようなものをアウトルック社に送りましたが、寺内伯は一国の宰相たるものが一外人記者を相手として曲直を争うのは大人気ないと思って抗議も何もしなかったのです。たとえ寺内伯があの会見記本文のごとき言葉を吐いたとしても、あのような大騒ぎを演ずる必要がなかったと思われます。日本人の一部は余りにヂョン・グルの鼻息を気にするようですが、これは一考の余地があると思われます。私はニューヨークのアウトルック社に立寄って寺内伯対メースン氏の回答に就いて事実を伝え抗議するつもりです」
 また、鶴見は今回の渡米の目的は、「鉄道院用の鉄材を米国から日本へ輸入するの件を調査すること、米国の戦時鉄道国有状態を調査すること及び戦時の米国事情を視察することにあります」と答えている。船舶とは言ってない。

 この件に関して89年後の2007年春号の『環』に、三宅正樹が「後藤新平の外交構想」と題する論文の中で次のように記述している。
「1918年5月27日の『時事新報』は、元東京アドヴァタイザー記者メーソンなる人物が首相寺内正毅と会見し、日独同盟の可能性についてたずねたところ、『それは一に目下の戦争がどのような形で終るかにかかっている。戦後の日本は『絶対孤立の地位』に安んじることはできない。それ故に、もしも国際状況上必要な場合には、ドイツを同盟国にえらぶことがあるかもしれない。但し、現在の情勢から判断するかぎりでは、そのようなことになるとは考えられない。日本と連合国との関係は、戦後もまたなんら変ることなく継続するものと信じる』と答えたという。この会見記は、はじめ5月1日発行の『ニューヨーク・アウトルック』に掲載されたもので、『時事新報』によれば、首相の発言は鶴見なる人物、おそらく後藤の伝記を書いた後藤の女婿鶴見祐輔が筆記したもので、首相、内相水野錬太郎、外相後藤新平に提出し、首相が手を入れた、とのことである」
 なお、この件について鶴見は『後藤新平』第3巻第3章第9節外務大臣にアウトルック事件という短い項目を設けている。
 それによると記者グレゴリー・メーソンが首相官邸に寺内首相を訪れたのは、大正7年3月8日であり、寺内首相の「日本は孤立することを得ざるが故にドイツと同盟すること万なしとは言うべからざるも……」という言葉が、「日本は欧州戦争後の形勢如何によっては或はドイツと同盟するかも知れぬ」と解されて俄然一大政治問題化せんとした。首相の言辞は神経過敏な外交団を刺戟したばかりでなく、国内においても各新聞通信社各幹部を以て組織されている春秋会が、決議を作成して首相に迫り、失言取消を要求するというような有様であった。
 首相と記者との問答がそのまま報道されたならば何等の波瀾を生じなかったであろうが、メーソンは米国ジャーナリズムの弱点を代表する典型的な人物であった。彼はこの点を誇張して記載し、かつ原文である日本文原稿の一部まで写真版にして「アウトルック」誌上に掲げた。これによってあたかも寺内首相が公式声明を為したごとき印象を与えようとしたのであったという。
 6月6日にジャパン・アドヴァータイザー記者が後藤外相を訪れて、この問題について説明を求めた時も鶴見が通訳に当たった。
 なお、サンフランシスコで発行している「日米」紙には、後に「新自由主義」誌の主幹となった米倉清一郎が勤務しており、昭和3年に内外事情研究会から出版された同時の著書『鶴見祐輔論』は、彼が米国記者時代に見聞した鶴見の米国舌戦の記録である。

 11月14日は、今回命を受けて渡米した2万トンの鉄の輸出許可を得るという仕事のために、朝から米国の役所と日本大使館との間を走り廻った。
 そして午後5時半からホワイトハウスで、ウイルソン大統領夫妻と単独会見をしたのである。

 ウイルソン大統領に面会した時の模様は鶴見の文章をそのまま引用する。
「間の扉が颯と開いた。
『どうぞこちらへ』
 という案内人の声が聞こえる。とっかは、席を起って自分は進んでいった。隔ての敷居を越えると厚い毛氈を敷いた広い部屋は灯を薄く点けて仄暗く見える。やはりルイ十四世式の椅子や卓子の幾つともなく刻んだ彼方に、今し方話をして居た二人の人影が、自分の進み入るとともに颯と分れて、二足三足此方に歩み寄って来る。
 正しくウイルソン大統領である。
『大統領、今日拝顔を致すことは、私の深く光栄と致す所であります』たしか、そんな風なことを言いながら自分は差伸べられた手を握った。それは温かにして大なる手であった。それから夫人に挨拶をする。
 大統領は自分に対って
『どうぞお掛けください』と言った。その終りに『サア』という辞を付けられた。それが自分の耳に遺った。アメリカでこういう慇懃な言葉を聞くことは実に珍しかった。
 大統領は黒の背広を着て居られる。壮健そうな、血色の良い顔で、頭髪は殆ど白かった。秀でた鼻、キリリと結んだ口、強き意志を表わす輪廓のハッキリした頤。しかし何よりも人の眼につくその碧くいて大なる眼、高貴なその人となりを表わす太い三日月型の眉毛、スラリとした中肉の体躯。端なくおエリオット夫人の言葉が頭を掠めて通る。
『ウッドローは丈が低うございましてね』
 しかし今眼の前に在る大統領は決して低い人ではなかった。五呎十一吋(1メートル80センチ)。丈は日本人にとっては決して低い方ではなかった。
『キャリフォルニヤからお出になりますと、ワシントンはお寒く思われましょう』
 と大統領が話しかけられる。夫人は今し方アルコールのランプの上で沸した湯を注ぎながらお茶の支度をしていられる。沸々と上る湯気の音と、折々匙と茶碗との触れる響きとがするのが、何となく静かな家庭的な気分を漂わしてきた。黒い衣服を着た頭髪の黒い白皙豊頬の夫人は、嫣然な笑みを浮かべて、二人の談話を聴きながら、茶を立てて居られる。
『エリオット夫人には度々お会いになりましたそうで、手紙で申して参りました。エリオット夫人は非凡な女性であります。エリオット博士は国際法の大家でありまして、私はあの人に国務省に来て貰いたいのでありますが、どうも余り近い親戚の関係から致しまして、そうする訳にも参りませんので―――』
 と言われる。
 夫人が茶碗を自分の方に差し出される。受け取って膝の上に置こうとすると、夫人はさりげなき風に、
『恐れ入りますが、大統領にお廻しを願いましょうか――』と言われたので、始めて自分は気がついた。自分は一個の平民ウッドロウ・ウイルソンと面会をしているのではなかった。アメリカ合衆国の元首と席を倶にしているのであった。茶碗を差伸べると、大統領は受け取って
『オー・サンキュー・サー』と言われる。そこにあった菓子鉢を廻すと、また
『ご面倒でござりました』と言う。
『先年トイスラー博士が東京から見えまして、日本の事を細々申されました。私はご承知の通り貴下の国に参ったことはありませんので……』と澄んだ力のある声で談し続ける。
『チャールズ・ラムが或る時大層激しい言葉で他人の悪口を言って居りましたので、傍らに聴いて居った友人が、「君は一体その人を知っているのか」と訊いたら、ラムが、「イヤ知らないからこそこんな悪口が言えるのだ。知っていればとても悪口なんど言えるものではない」と言ったそうです』
 と言ってさも愉快気にカラカラと高く笑われた。
 ワシントンでの評判では、ウイルソンという人は、如何にも冷静な、むしろ冷淡な人で、理智に富んだ学究的な人であるとのことであった。しかし自分はこの人の書いた物を沢山読んで、この人は決して理性の勝った人ではなく、むしろ情に厚い、詩人肌な、そして子供のような悪戯気のある人だと思っていた。ウイルソン氏が、いまラムの話をして、如何にも愉快気にカラカラと笑われるのを見て、自分は急にピッタリこの人の胸に寄りついたような親しみを感じた。自分は隙かさず、
『それでは日本には何時お出になってくださるのでしょうか』
 と訊いた。
『それはなかなか難しいことで、今ご返辞はできませんね』と言われる。自分は、日本に大統領の主義を慕う多くの青年のあることを話し、自分達の集りが、ウイルソン倶楽部と呼んで居ることも話した。そしてかつて大統領が、トイスラー博士を通じて吾々の会にご伝言があったのを機会として写真を撮って持って来たという話をすると、
『それはぜひお見せくださいませ』と言われる。
『持って来る途中で大分痛めましたので……』
 と言うと、夫人は横から、
『長いご旅行ですものね……』と言葉を挿む。
『この戦争が勃発しました時に、私は遠い日本から之を眺めて居りました。そして色々の政治家の理想や人道や正義などを高調する演説や声明を新聞で読みながら、やはり私は是は昔通りの戦争であると考えて居りました。しかしアメリカがいよいよ参戦することになってから、この戦争の局面が一変したと思いました。貴下の大音声が世界の隅々までも鳴り響いた時に、私は始めて、是は尋常ならぬ戦争である。是は正に世界史上に於ける新らしき戦争であると感じました』
 そんな風なことを自分は一生懸命に言った。今まで冗談を言って子供のように笑って居られた大統領は、この時急に厳粛な顔をして、椅子の上に居住いを正された。自分は更に続けた。
『私は二箇月前、西部海岸に上陸を致しまして、キャリフォルニヤから、東へ東へと旅をして参りました。その途中私は面白い見聞を致しました。西部においては米国人の戦争に対する態度は、頗る純理的であるようであります。中西部に参りますと、それが少しく変化をして実際的になって参るように思われますが、東海岸に参って見ますと、全く現実的な考えを以て戦争をやって居られるように感じられます』と。
 聴き終って、大統領は一句一句力を入れながら、
『キャリフォルニヤから、ミシシッピー沿岸を過ぎて、ニューヨークにお出でになると、アメリカの国民の変化にお気付きになりましょう。西部アメリカが真実のアメリカであります。ニューヨークならびに東部諸州はヨーロッパの影響を深く蒙って居りますから』と言ってちょっと言葉を切って、また、
『私は今朝新聞に出たロイド・ジョージ氏の演説を読んで、深く喜んだのであります。この演説において彼は、今までよりはズット深く吾々の理想の方に歩み寄って来たのであります。私はこの演説に対して祝電を送る積りで居ります』と言われた。
『私はまだロイド・ジョージ氏が今回の戦について、かくのごとき理想的な立場を闡明した演説を見たことはありません』と言って、続けて、
『私が休戦条約の締結について、上下両院に対して一昨日教書を発表致しました時に、私は務めて勝利という文字を挿入するのを避けたのでありました。アメリカ側においても、今回の大勝利ということを力説したいという意見もあったのでありますが、私はことさらに避けました』
 と言った。直ちに語をついで、
『私が平和会議に参る時には、かようなことを申そうと思います』と言われた。自分は自分の耳を疑うように、心を鎮めて氏の言葉を聴いた。
『この戦争は領土拡張の戦争ではありません。ゆえにドイツの植民地は戦勝国に賦与せらるべきものではなくして、国際連盟の委任統治に委せらるべきものであって、これらの植民地に対しては何国でも、自由に経済上交通のできるように致さなければならない。そして将来はこれらの植民地が自治の国とならなければなりませぬ。またドイツ人に関しては、私は共産主義がドイツに蔓延するであろうとは信じませぬ。彼等はロシア人に比して教育が進んで居りますから、極端な主義によって欺瞞されることはありますまい。しかしドイツに食料を送るということは、まことに必要なことである。私は何人と交渉をすることをも怖れない。しかしながら満たされた胃の腑と交渉することが常に安全である』
 と言って、声高らかにカラカラと笑われた。そこで自分は、更に自分の米国に来て以来の経験を談じ、
『そうして私がアメリカに来て驚いたことは、ドイツに対して非常なる反感の存在して居ることでありました。殊に休戦条約締結後もなおかつこの悪感情は減退せぬのみか、今もなお依然として敵愾心が……』と言いかけると、大統領は自分の言葉を遮って
『そうして憎悪心が』とつけ加えられた。大統領の言葉が続く。
『勿論この憎悪心は、ドイツ及びフランスにおいては、更に熾烈であります。しかしながらそれは彼等がこの戦争の惨禍を被むることが甚だしかったからであります』
 とちょっと切って、それから
『私は真実のアメリカ人たらんことを期して居ります。私はアメリカに生れたのである。私はアメリカ人を知って居る。故に私がアメリカ人の真実の心を了解せんと欲する時には、私はこの家を出て、大勢の人の意見を聞いて歩く必要はありません。聞いて歩いたとて、果して何人の意見が聞かれましょう。むしろ私は静かに独坐瞑目して思索するのであります。何となれば私の心の中には、真のアメリカ人が住んで居ります。故に私自身を正解することによって、自分はアメリカ人の欲する所を理解することができるからであります』と言われた。
『私は貴下の数多きご演説中、特に感動した大演説を記憶致して居ります。それは確か一九一四年、イリノイ州において、リンカーンの生れた丸木小舎の除幕式があった時のご演説であったと思います、そのご演説中において、貴下はリンカーンの淋しさということをお話になった。是が私に深い感動を与えました。私は、今もあの句を忘れることができないのであります』
 と自分が言うと、ウイルソン氏はしばらく黙って居られた。うつむいて何か考えて居られたようであった。付図顔を抬げて静かに語り出された。
『私があの演説を致しました時に、リンカーンを生前知って居ったという或る紳士から一通の手紙を受け取りました。彼は書中において述べた。「貴下の言うところは全く当たっている。リンカーンはお説のごとく淋しい人であった」と書いて寄越しました。一体リンカーンは真のアメリカ人でありました。彼は新しき眼を以て周囲の物象を眺め渡した。故に彼は人と物とに対して、世上の人々とは全く異なった観察を下して居りました。彼の天才は、他人の観る能わざる一角より人生を観照せしめたのであった。彼は淋しい孤独な心を抱いて、何故他の大勢の人々は自分の考え、感じ、思うと同じように感じてくれないのであろうかと不思議に思った。是が偉大な天才の感じる寂寥の心であります。リンカーンはかかる種類の人間であったために、彼はあのように淋しかったのであります。彼はこの広き世の中において一人ぼっちであった。この事は驚くべき事実である。彼は大統領の位に居り、多くの人に囲まれ、繁雑な仕事に鞅掌(おうしょう)した。しかも何人も彼を理解する者が無かった。何となれば彼は大なる天才に通有な独創力を有っていたからである。彼はその生涯を通じ覆面したる一個の像であった』
 そう言いながら、大統領は右の手を頭まで抬げて、それを静かに顔の前に下しながら、ちょうど覆面をした人の姿のような手振りをされた。
 その折の淋しい表情。
 彼の顔にありありと寂寥孤独の情が溢れていた。彼の大いなる碧き眼には、厳粛の情と悲哀の感とがまざまざと浮かんで居た。自分はその心を汲んで粛然として襟を正した。
 また、ウイルソン氏が言葉を続ける。
『私は神の摂理を信じます。さなくば私は自分の今まで致した事の半分も致すことはできなかったでありましょう。私の有っておりまする才能の程度では、とても一国の元首としての大任を遂行することはできませぬ。私はこの役に就きまして以来、日々色々の学問を致します。そして今もなお日々続けて学問をしているように感じます。ただ誠心誠意を以て之に当たれば、才能の不足は摂理によって補われると思いますからこそ、健康も損せず、続いて仕事をして居られるような訳であります』
 自分は今まで大統領の著述は大抵読んで居ること、また大統領の愛読書をエリオット夫人から伺って読んで居ること、殊に二三日前大統領の好きな小説ナンシー・ステアーを読み了ったことをお談した。
『何か利益になります書物を教えて頂くことはできませんか』
『貴下はウォーター・ベジョットの書物をご覧でありましたか。私は友人にこの書物をよく推薦するのでありますが、皆後で私に、良い書物を推薦してくれたとお礼を申します』
 と言って、力を籠めてベジョットの特長を語り続ける。
『一体、この人は新しき眼を以て英国憲法を読んだのであります』
 と言いながら両手を自分の前に颯っと開いて興奮したような風に、
『彼は、英国政府の三つの構成分子を説明して居ります。即ち国王、上院、下院である。彼はしかし政治学の学者ではありませんでした。彼はロンドンの銀行の事務員として身を起こしたのであります。けれどもその徹底したる観察力は凡庸の学者の及ぶところではなく、彼の政治に関する知識は驚くべきおのでありました。
 ベジョットに一人の母がありました。彼は非常な孝養を励んで居りました。母は彼に結婚を勧めました。するとベジョットの答が 面白い。母を持つということは不幸であります。けれど妻を持つということは過失であります』
 と言って、ウイルソン氏はあたかも十五六の子供のように嬉しそうに声を上げて笑った。
『ベジョットはこういうことを言うことができたのであります。何となれば彼は非常に良い母を持っていたからです。
 ベジョットは非常に進歩的な人でありました。けれども彼は、私が称して頭の堅い自由主義者という人間の一人であります』
 と言って、またカラカラと笑った。
『勿論貴下はエドマンド・パークの書物をご存じでありましょう。彼の著述は今日においても自由主義の指南車と目されて居ります。例えば彼が演説中の一節にこうあります。各国民をして己が政府を決定せしめよ』
 そう言って、大統領はまた両手を前に出して興奮したように打ち振りながら、
『それから勿論貴下は大詩人、例えばウォーズウォースやテニソンの詩をご覧にならなければいけない。あのテニソンの文句にあります通り……』と言って右の手を心持ち高く挙げながら大統領は朗々としてテニソンの一句を誦せられた。
『この詩もありますように、テニソン卿は書斎裡の詩人であった。実際政治には一度も関係したこともない人であった。それにも拘らず、この数行の間に政治家の心得るべき真理がみな入って居るではありませんか。一体政治において最も大切なことは、政治に関する知識ではありませぬ。人心の機微を洞察するということであります。一体大詩人というものは、人類の心の底に透徹する鋭い天才を有って居るものであります。でありますからテニソン卿のごときは、この数行の間に政治の真理を道破したのであります。一体政治学というものは、政治家には不必要なものであります。政治学と申すものはたとえて申せばあたかもエジプトのピラミッドの中から非常に精巧な機械を掘り出したようなものであります。この機械の一部一部の構造はまことに詳しく説明して見せます。さてこれをどう使ったらよいか。その用法がわからないといったようなのが政治学者の通弊であります』
 と言って、ウイルソン氏は面白そうにカラカラと笑った。
『デモクラシーというものは政治の真体であります。中世暗黒時代のごとき専制主義の時代においても、この社会組織を支えて居ったものは多数民衆即ちデモクラシーでありました。例えばあの大きな天主教の歴史をご覧なさい。いつでもこれは貧しき百姓の子供のうちから非凡の人間が現れて、その新しき血液を以て僧侶の階級に新しき力を与えたのであります。イタリーの最も貧しい百姓といえども、僧侶となることのできぬほど貧しき者はなく、教会の最も低き僧侶といえども、法王なることのできぬほど低き者はなかったのであります。でありますからデモクラシーが、カトリック教の大系統に新しき力を注入したのであります。これは政治上の権力者についても同じことであります』
 と言われたので自分は遮って、日本の封建時代においても同様な事があったことを話し、有為な貧家の児が仏門に帰して大名の相談役となり、並びに養子制度が俊敏なる相続者を武士の家に与えたことをお話した。
 大統領は熱心にそれを聴かれて、
『それは大層面白いお話であります。私はデモクラシーをいつもよく樹木に譬えて申すのであります。樹木が養分を吸うのは、上に美しく開いている葉や花から取るのでなくして隠れて地に埋まっている根から取るのである。また、私はデモクラシーを箱に譬えるのであります。箱というものは、いつも底で立っているもので決して頭を下にして立っているものではない。ピラミッドを逆さにして、頭で立てようとしても、それはできない』
 そう言って、ウイルソン氏はまた面白そうに笑った。
 もうこれ以上時間を取っては済まないと思って自分は席を起った。そして温かきウイルソン氏の手を握りながら、その日の会談を深く謝して閾を越えて次の部屋に出た」(『壇上紙上街上の人』9頁以下)

 大正7年11月に第一次世界大戦が終り、鶴見は渡欧直前のナショナル・シティ・バンク頭取ヴァンダーリップに面会した。
 12月に、鶴見はホテル・アスターにおける外交問題研究会で、アメリカ労働組合連合会会長のサミュヱル・ゴンバースの演説を聴いた。また、ニュー・リバプリック社で、米国新人の一団と会話している。
 12月31日には、リリアン・ウォールド女史が主催する貧民救済施設を見学した。

 鶴見は大正7年9月に渡米し、10年4月に帰朝しているが、この間に一度も帰国していない。
 だがこの間に、大正9年にはパリで夫人と日を過ごしているし、大正9年9月にH・G・ウェルズを訪問後の某日、エリオット博士夫妻を南カリフォルニアに訪れた時も夫人を同伴している。大正10年3月にウイルソン大統領の引退を私邸に見送った時も夫人を同伴していた。
 英語も十分にできない夫人が、鶴見の後を追って一人で渡米したとは思われない。昭和7年1月鶴見が渡米する時に、弟良三の妻順子を同伴したことがある。このような同伴者があったのかもしれない。

 鶴見が積年、満腔の憧憬を傾倒したとはいえ、東洋の小役人が、民主党の有力者も容易に面会できない全盛期のウイルソン大統領にどうして謁見できたのであろうか。
 それは鶴見がサンフランシスコで知り合いになったウイルソン先夫人妹のエリオット夫人からもらったウイルソン夫人宛の紹介状をウイルソン夫人に送ったところ、ウイルソン夫人から面会の承諾を得たことに始まる。そしてウイルソン夫人に会ったら、大統領に拝謁できるよう懇願してみるつもりであった。だがこの日大統領は夫人と一緒に面会してくれた。
 面会時間は当初15分の積りでいたが、気が付いてみると50分を経過していた。
 この席上で鶴見は彼の主催するウイルソン倶楽部の写真を供覧した。
 また、驚くべきことに、ウイルソン大統領は日本の若い官吏に、平和会議に出席することを明かしたのである。ウイルソン大統領が、果して今度のパリ平和会議に往くであろうかどうかということは、当時アメリカの大問題になっていた。ニューヨーク・タイムス紙は、各地の世論の統計を集めて、7割5分は反対、2割5分は賛成と書いていた。しかしホワイトハウスからは一言もこれについての発表がなかったので、ますます天下の好奇心が募っていた時分であった。
 33歳、鉄道院の課長に過ぎない鶴見が、世界が注目しているアメリカの大統領に面会したということは、帰国後も友人間で大騒ぎされたことであろう。
 この謁見から9年後の昭和2年に、ニューヨークのアスター・ホテルで催されたウイルソン夜宴で鶴見がスピーチをして大喝采を博したが、この会見でウイルソンが、リンカーンは寂しい人であったと語った時の、ウイルソン自身の寂しそうな表情の思い出がそのスピーチに盛り込まれている。
 この会見の中でウイルソンが、テニソンの詩を朗誦したのであるが、昼間の激務で疲れていた鶴見は、ホテルへ帰った後それを思い出すことができなかった。彼はそれを生涯の痛恨事としている。
 鶴見が『欧米名士の印象』の中で、「それは温かにして大なる手であった」と書いているのは、徳富蘆花がトルストイと握手した時の「その手は大いにして暖かなりき」が下敷きになっていると思われる。※
 大正7年12月2日、ウイルソン大統領は上下両院の合同会議に出席して、パリ平和会議に臨席するため渡欧することを発表した。 その画期的な大演説を、鶴見はウイルソン夫人の好意によってホワイト・ハウスの家族席に坐って聴くことができた。それが鶴見の聴いた最初にして最後の演説となった。

 山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』では、鶴見は大正7年7月9日付で運輸局総務課長に発令されたと記されているが、国会図書館に保存されている辞令によると、同日付で文書課長に発令され、米国へ出張を仰せ付けられている。
 鶴見は7年9月から8年6月までニューヨークとワシントンで過ごした。

 ※蘆花の言葉は小説『母』の邂逅の章で、進がテーン博士と握手した時にも使われている。

 大正8年(34歳)1月4日にシオドール・ルーズベルトが逝去して、鶴見は申し込んでおいた面会が果たせなくなった。
 1月21日には、新聞王ハーストに面会した。1月29日には大審院判事ブランダイスに面会した。その直後烈しい流行性感冒に罹って重病の床に就いた。ワシントンで高熱のため殆んど死にかけた。
 2月19日には、在米の鶴見に鉄道院から、鉄道事業研究のため、1ヵ年間欧州各国への留学を命ぜられた。

 3月4日には、後藤新平の一行が、第一次世界大戦後のヨーロッパを視察するため、コレア丸に乗じて横浜を出航した。同行は後藤一蔵(新平の長男)・新渡戸稲造・笠間杲雄・田島道治。鷲尾正五郎であった。後藤一蔵は米国の大学に留学する目的で同行したのである。
 後藤は前年9月の寺内内閣の総辞職で外務大臣を辞職して、臨時外交調査委員を仰付けられ、この年の2月に拓殖大学の学長に就任していた。新渡戸稲造は、東大教授のほか、前年4月に開校した東京女子大学の初代学長を兼任していた。そして一行は外交官査証を携行しているのである。
 3月21日に後藤新平の一行はサンフランシスコに上陸した。これよりイギリス、フランスを視察して再びアメリカに戻り、11月3日にアメリカを去るまで鶴見は後藤新平の通訳として随行した感がある。従って後藤新平の行動日誌は、鶴見の行動日誌となる。
 後藤新平の欧米遊歴の志は、大正7年9月の寺内内閣総辞職の頃から萌していたらしい。そして重病の寺内亡きあと、官僚での首相候補者として、後藤は最も有力なる一人に挙げられていた。後藤も自己の双肩に落ち来たるべき責任の、次第に重大となりつつあると痛感したに違いない。世もまた後藤のこのたびの欧米遊歴をもって、次の首相たるべき準備と認むるものが多かった。後藤はこの旅行中多くの人に会い、多くの者を見、招宴に招宴を受けたが、主要なスケジュールを以下に示す。
 3月27日は、サンタ・ローザにて植物学者バーバンクと会見。
 3月29日には、ロサンゼルスに到着。
 4月11日にシカゴ到着。
 4月15日には、イリノイ州スプリングフィールドに到着。リンカーンの墓に詣で、ミッドデイ午餐会で後藤新平が演説した。新渡戸稲造の通訳である。後藤は若き日にドイツに留学したのでドイツ語はできるが、英語はできなかった。
 4月16日は自動車王ヘンリー・フォードと会見した。
 その会見の際、後藤新平は巨富を擁するフォードを動かして、日本に一大研究所を創設せしめ、以て日本の学術進歩を刺戟するとともに、フォードをして日本に一大関心を抱かしめんと欲したのであった。
 後藤はニューヨークを発して帰国せんとする頃、鶴見をフォードの許へ遣わして談合させようとしてフォードに書簡を送ったが、鶴見は遂にフォードに面会する機会を得なかった。
 4月17日にはナイアガラの大瀑布を見物した。
 4月19日にはニューヨークに到着し、鋼鉄王ゲーリーを訪問した。
 4月26日には、ウイルソン内閣の蔵相であったウィリアム・ギソプス・マッカドゥと会談した。
 4月28日には、ロング・アイランドのオイスター・ベーにあるシオドール・ルーズベルトの墓を訪れた。
 この年の1月6日に逝去したシオドール・ルーズベルトの墓は、丘の上の共同墓地に、鉄柵に囲まれた3、4間(5.4メートル乃至7.2メートル)四方の墓地にあった。鉄柵の外から、懐かしげに墓石を眺めていた後藤新平は、「簡単な墓だなあ!」とただ一語した。
 鶴見はその後、5月中旬と同年の秋にも墓参している。少年の日に母を喪った鶴見が最も敬愛した後藤新平の妻和子が、大正7年4月8日に逝去した。その臨終に先立つおよそ1週間程前に、和子夫人は鶴見に遺言した。
「あなたがまたアメリカにお出でになる折がありまして、ルーズベルト氏にご面会の機会がありましたら、万望(ばんぼう:ぜひにと願うこと)私からの伝言をお伝えください。今までお目にかかった人の中で、あのお方が一番偉い人傑であったと一生尊敬して居った女が一人、日本に居ったという事を、万望お伝えください」
 だがルーズベルトは、鶴見が渡米した大正7年には入院中で面会できず、翌年1月に急逝したため、鶴見は遂にこの厳粛な使命を果たすことができなかった。鶴見はせめてこの言葉をルーズベルトの墓前に告げるべく、一人でオイスター・ベーを再訪したのであった。

 6月2日に後藤新平は、カナダのハリファックス港よりアクイタニア号に乗ってイギリスへ向かった。随行は新渡戸稲造・笠間杲雄・田島道治・岩永裕吉そして鶴見祐輔である。笠間、田島、岩永、鶴見の4人は新渡戸稲造の門下生で、社会に出てからは後藤新平の下で仕事を始めた人々であった。この時の新渡戸は東大教授兼東京女子大学学長である。
 一行6人はその趣味性行において相共通するものがあり、笑声歓語、日より夜に続いた。
 だがこの船旅も2つの憂愁時があった。1つは新渡戸が眼疾のため医師に読書を厳禁されたことである。新渡戸の失望と苦悩は見るも痛ましきばかりであった。後藤は新渡戸の苦痛にいたく同情した。船中で次の佳話がある。
 その時鶴見は、日本より送られた倉田百三の『出家とその弟子』を携えていた。乗船するとすぐに、鶴見は、「これは先日、愛子から送って参ったのですが、近頃での名作だと思います。船の中でお読みになりませんか」と後藤に勧めた。6月3日、鶴見は、甲板椅子で、後藤が東北訛りの弁を挙げて、新渡戸のために『出家とその弟子』を読んでやっている姿を見出したのであった。
 他の1つはその日の午後、後藤新平が急に烈しい腹痛に襲われて病床に就いたことである。船医は盲腸炎と診断したが、英国に上陸後宮川医博に再診を乞うたところ、台湾で得た痼疾アミーバ赤痢の再発であると診断された。
 ロンドンに到着した6月8日から20日まで後藤は病床にあったが、6月22日には郊外ヘンドンの飛行場で、10分間ながら飛行機に試乗するまでに回復した。
 この時投宿したクラリッジ・ホテルで一行6人が風邪をひいてしまった。
 6月26日には、元米国大使ジェームス・ブライスを訪問し、ついでパリ平和会議から帰ってきたロバート・セシル卿を訪問し、最後に外務省を訪れて、バルフォアー外相の不在中代理をしていたカーゾン伯に面会した。このカーゾン卿との会見で、卿が後藤の通訳である鶴見のことを「これがあなたの有名なお婿さんですか」と言ったことが、鶴見を馬鹿にしたように受け取られ、後藤への応対にもどこか不自然な、人を茶化すようなところがあるような気がして、鶴見はカーゾン卿が嫌いになった。だが、昭和24年に、ハロルド・ニコルソンの書いた『カーゾン卿――最後の局面1919−1925』を読んでカーゾン卿を再評価するようになる。成城だより第7巻の「カーゾン卿の一生」に詳しく記されている。
 6月27日には、後藤と新渡戸はバッキンガム宮殿の園遊会に招かれ、英王ジョージ5世に拝謁した。この時の笑い話がある。米国滞在中はモーニング・コートで間に合ったので、フロック・コートは米国のホテルに預けてきたところ、英国の園遊会はフロック・コートが必要であった。窮余の一策としてロンドンの古着屋でやっと見つけて、後藤は古い、だぶだぶのフロック・コートを着、同行の新渡戸が当時痩せていた鶴見のフロック・コートをそれでもきちきちに着て園遊会に臨んだのであった。

 6月30日、後藤の一行はフランスに上陸した。随行は新渡戸・田島・岩永そして鶴見である。新渡戸はかつてパリに留学したことがあるがフランス語は英語ほど堪能ではなく、他の4人はフランス語はほとんど出来なかった。また笑い話が生まれた。
 一行がヴェルサイユ宮殿に着いて、フランス語ができるはずの新渡戸に守衛との交渉を頼んだところ、新渡戸はやおらステッキを後について身を支え、少し反り身になって、大声で言った。
「バー・レー・ヴー・フランセ?(あなたはフランス語が話せますか)」
 狼狽した彼は「あなたは英語(アングレー)ができますか」と聞くつもりで、思わず仏語(フランセー)と言ってしまったのである。守衛のフランス人は、まったくびっくりしたと見えて、
「ウィー、ウィー(然り、然り)」
 と大声に叫んだ。田島と鶴見とは、危く地面に転がるところであった。文字通りに腹を抱えて笑いながら、走ってその場を遁れた。この報告を受けた後藤の喜びというものはなかった。思うに新渡戸がかつて、ウィーンにおいて、ネクタイ無で日本公使館を訪れた後藤を、見て見ぬふりをしていた悪戯の復讐が、見事にできたと喜んだのであろう。
 ユーモアに富んだ新渡戸もまた、生前この話をされると、打ち興じて笑っていた。
 7月1日には平和会議の日本首席全権西園寺公望を訪問、7月3日には次席全権牧野伸顕を訪問した。
 7月8日にはフランスの首相クレマンソーを訪問した。クレマンソーは後藤と同じく医師出身である。(石塚注 鶴見は同席していなかったのであろうか。彼はクレマンソーとの会見記を書いていない。ロイドジョージもその姿を議会で見かけただけで面会を求めたことは無いようである。鶴見のようにインタビューの好きな人が、第一次世界大戦時の二大巨人に接近しようとしなかったのは意外である。)
 7月10日は、戦場となったラムスの町、シャロン戦跡、ヴェルダン砲台を視察した。
 7月15日にはベルギーのブラッセルスへ入り、翌日ベルギー王に拝謁して、後藤新平は勲一等の勲章を授与された。
 7月17日にはウォータールーの戦跡を視察した。
 7月18日にはドーヴァーに上陸し、再び英国の土を踏んだ。
 7月20日に駐英大使で日本全権団の一員である珍田捨己が後藤たちのホテルを訪ねてきた。用件は新渡戸の国際連盟事務次長就任の件であった。
 国際連盟の発足に合わせ、日本も四常任理事国の一員として事務次長を出すことになり、初代事務総長に就任した英国のエリック・ドラモンド卿から日本全権団は人選を依頼されていた。
 その時訪欧した後藤・新渡戸の一行が、滞欧中の日本全権団を訪問したことが、新渡戸起用のチャンスとなった。後藤新平も熱心に賛成した。この時、フィラデルフィアの実家に滞在していたメリー(日本の戸籍では万里)夫人も大賛成であった。新渡戸はそのまま残留して8月7日付で事務次長の辞令を受け取り、国際連盟のロンドン仮事務所があるサンダーランド・ハウスに出向いた。年末にはメリー夫人も米国からやってきた。翌年1月事務所はジュネーブに移り、4月に新渡戸夫妻もレマン湖畔のジャントゥに移り住んだ。新渡戸は昭和2年に辞任して帰国するまで7年間外国生活をすることになった。
 昭和2年の辞任に際し、新渡戸は鶴見を後任者に推したが、鶴見がこれを固辞したため前田多門が就任した。前田の後は杉村陽太郎が、昭和8年に日本が国際連盟を脱退するまで在任した。
 大正8年7月頃、後藤は一英人の筆に成る経済的国家改造案を読み、大いに得るところあり、これを飜訳して出版しようとしたが、鶴見と意見が合わずに中止している。
 7月29日から31日までは、後藤は田島と鶴見を帯同してマンチェスターを訪れている。
 8月2日は後藤がロンドン郊外にウイルソン大統領の右腕と言われたハウス大佐(マンデル・ハウス)を訪問した。
 後藤の一行は、米国へ戻る予定であったが、当時は第一次世界大戦が終わって200万の米国兵を本国に送還する最中なので、船腹が不足し、客船はしばしば欠航や変更になった。後藤たちも英国解○(糸へんに“覧”)が8月8日から9月6日に変更されたので、約1ヵ月をただ英国に過ごすも惜しいということで一行は再び大陸に赴くことになった。
 8月6日にはフランスのブーロニュ港に上陸した。随行は田島と鶴見である。
 8月8日はスイスのバーゼルに到着した。
 8月10日にはレマン湖を渡る船上で、松永安左衛門と邂逅した。
 8月13日の深夜ベルギーに入国、夕刻、オランダのハーブに到着した。
 8月18日に英国のフォークストーンに入港、9月6日までロンドンに滞在した。
 8月21日には後藤と鶴見は、元外相でこのたび駐米大使として赴任するエドワード・グレーを訪問した。

 9月6日はサウサムプトン港から往路にも利用したアクイタニア号に乗船して米国へ向った。随行は岩永・田島そして鶴見であった。船中で後藤は鶴見と甲板椅子を並べて、熱心に英語の勉強を始めた。その後、後藤の船室で鶴見が英文法の講義をした。
 9月12日には同船していたフーヴァーと会談した。後に米国大統領となったフーヴァーは、当時欧州各国の救恤委員長として活動しての帰路であった。
 9月13日、船は米国、キュナードの桟橋に着いた。この日から25日までニューヨークに滞在した。
 9月24日には鋼鉄王ゲーリーを再訪した。
 9月26日にはウイルソン大統領が発病した。そのため鶴見がエリオット博士と準備を進めていた10月1日のウイルソン大統領と後藤新平との会見は中止となった。
 10月6日には後藤と鶴見が前大統領タフトを訪問した。帰る時、後藤が間違えてタフトの帽子を持って帰りそうになりタフトに注意された時、鶴見が「いや、大統領。あなたは新しい帽子を失くなさらないでお仕合せをなさいました。後藤男爵という方はよくチョイチョイ他所で古い帽子と新しいのを間違えて帰る癖のある人ですからネ」と言って3人声を合せて高笑いした。
 このタフト氏に関する笑い話はもう1つ鶴見の『南洋遊記』に出てくる。タフト氏がフィリッピンの初代総督の時のことである。
「タフト総督が初めて馬背に跨って、バギオに達したときに、この気候を景色とに感服し、遂にこの地をフィリッピンの夏の都として、選定したのである。この時タフト氏はワシントン政府に電報を打って、余は只今バギオに到着せりと言った。蓋し氏はこの困難なる坂道を登って峻嶺の中に分け入ったことを得意満面本国に知らせたのである。然るに本国からの返電は、「乗馬は健在なりや」と一句簡単にして諧謔○(“臣”に“頁”)を解かしめた。その意蓋しバギオのごとき道路険悪の場所に、タフト氏のごとき大兵肥満の人士を乗せて登り来った馬は、さぞさぞ大儀であったろうと、ワシントン政府の悪戯者が箇様な戯談を返電したのである」
 10月8日、後藤新平は「20世紀急行」に乗って、ニューヨークのグランド・セントラル駅を発った。随行は田島道治と河上清であった。鶴見は彼等を駅頭で見送った。帰りの船も往路と同じ日本船コレア丸であった。後藤の一行が横浜に着いたのは11月13日であったが、後藤は船中で政友寺内正毅の訃報に接した。
 後藤新平に随行して過ごした大正8年3月から11月までの間に、鶴見は小閑を得て、単独で幾人かの人に面会している。
5月11日に上院議員ラ・フォレット氏、5月中旬に女流詩人ジョセフィン・ピーボデー女史、5月末に革命家エリザベス・ハザノヴィッツ嬢。大正7年11月11日から8年6月28日の間に前国務長官エリフ・ルート氏。この中でハザノヴィッツ嬢は大正8年5月以来何回も訪問している。
 なお、鶴見は触れていないが、彼がこの無名の反体制運動家との会見は、ハザノヴィッツ嬢の親友である河合栄治郎が取り計らったものであることが後の研究者によって明らかにされている。
 大正8年の鶴見がアメリカに滞在した時期に、英国皇太子アルバート親王がワシントンを訪問した時、鶴見は皇太子をまじかに見ようとして接近したところ、ニュース映画に写ってしまった失敗談がある。

 その他この年の出来事としては
 鶴見は言及していないが、この旅行中に新渡戸はワシントンで、ジョンズ・ホプキンス大学で同級だったウイルソン大統領と会って、親しく語り合った。(星新一『明治の人物誌』202頁)
 河合栄治郎も大正7年8月から8年5月まで農商務省の留学生として滞米しており、鶴見と一緒にウイルソン大統領の渡欧前日の記念すべき議会演説を聴いた。
 その後、河合が米国ではじめて鶴見を尋ねてきて、その夜鶴見を晩餐に誘った。二人は親しい間柄であるので、「そんなだしぬけなことを言ったって駄目だよ。アメリカではみんな前から約束して、殊に食事の約束は一週間も前から打合せて定めるから、すぐと言ったって時間がありはしない。それにあなたはアメリカに来て半年にもなりながら、そんな泥靴を穿いて、二日も三日も同じカラーをして、何ですか」と鶴見が難詰した。
 負けぎらいの河合はさも口惜しそうな顔をしたが、その時は黙って帰って行った。
 翌年1月頃、河合はりうとした身なりで鶴見を訪れた。鶴見がうっかり「今夜一緒にめしを喰おう」と言ったところ、河合は悠然とポケットから手帳を出して、「そうですね。来週の木曜日の午餐までは全部約束でふさがっていますから、木曜日の晩か、金曜日の夜なら、お約束いたしましょう」と答えて会心の笑みをもらした。

 大正9年(35歳)
 ロンドンに着いた鶴見は、10月末までヨーロッパで過ごすが、この時期に鶴見夫人の愛子が夫の許へ来たらしい。鶴見はずっと帰国していないので、愛子夫人が単独で渡欧したのか、誰かに連れてきてもらったものと思われるが、その間の事情は不明である。それにしても2歳にならない和子を日本に置いて、よくも渡欧したものである。親に預けたくても愛子夫人の実母は既に死去していた。(加藤シヅエも1歳とゼロ歳の子を実家に預けて、夫の後を追って渡米している。)

 パリに住んでいた鶴見夫妻がドイツへ向う前日、ミドルトン夫妻が鶴見たちのアパートメントを訪れた。夫人のフォーラの愛子夫人への印象は、「本当にあの時ぐらい、美しいと思ったことはありません。美しい衣裳を着て、部屋の隅につつましやかに立っていた愛子の姿、女性のモデスティの象徴のように」であった。(『成城』8巻)(ミドルトンは米国劇作家協会長)
 1月21日に鶴見は、フェビアン・ソサエティのシドニー・ウエップに面会した。この時スコット氏からもらったエッチ・ジー・ウエルス宛の紹介状を、誤ってウエルスとは仲の悪いウエップに送るという粗相をした。
 鶴見は、「憎くても厭でもドイツ人はあなた方の隣国の民である。如何に嫌っても是は変わりません。して見れば今のように苛酷な償金を以てこれを窘めつけずに、施すに恩を以てして、彼等の心を柔らげるようになさっては如何ですか」と蒋介石を想わせる寛容論を語って、フランス人の激怒を買ってきた。
 ここでも鶴見は、「日本は反動的な国と言われているが、他人に対する寛大さは、日本の方が良くはないかと私は考えている。仏教伝来の思想であって、トレランス(寛容)ということが、割にわれわれの中にあるように思う。今度の欧州戦争の有様を見ると、西洋人は敵に対して甚だ苛酷なものである。イントレランスなものであると私は感じた」とウエッブに語って、「しかしあなたの国では、社会主義者の言論を極端に圧迫しているではありませんか。即ち他人の言論に対して毫も寛大ではないではありませんか」と逆襲されている。

 英国滞在は約1ヵ月で鶴見は渡仏することになる。
 英国の岸を離れた時陰鬱に曇っていた空は、ドーヴァー海峡を渡ると一天忽ち晴れ渡ってフランスの翠微が日光の下に嬉々として輝いていた。

 1月下旬にパリ。サンラザール駅に到着。友人Kが出迎えた。シャンゼリゼーのクラリッジ・ホテルに投宿。
 暫くして凱旋門から5分程のアパートメントを借りて移った。下女はフランス人であったが、当時鶴見は全くフランス語を知らなかった。
 鶴見は老年期に『成城だより』で、散歩が嫌いだと書いているが、35歳のこの時、やはり散歩が嫌いだと記している。
 外国生活の好きな鶴見も、この頃望郷の情に悩んでいる。それで夫人を呼び寄せたのであろうか。
 パリでは、町角の珈琲店の街路椅子(ストリートチェアース)を見ても、道行く婦人の粧いを見ても、ホテルの召使の様子を見ても、何となく垢ぬけのした身だしなみが感じられる。
 フランスは貧民の幸福な国である。パリにおいては貧者も富者と同じように人生を味わうことができる。貧しい服装の下女がオペラの一等席に坐ってもつまみ出されることはない。鶴見は『三都物語』に記していわく、
「香水舗のコテイの店は、何時入って見ても、森閑として人の気配も無かった。薄褐色の毛氈を店一杯に敷きつめて、硝子の棚に幾個かの香水箱が品よく列べてあるだけであった。そして、それらの香水を見廻しているうちに、きっと足音もなく十八、九の綺麗な娘が出てきて、にっこりと微笑みながら、ご用はと聞くのであった」
「ニューヨークのデパートで「ホワット・ネキスト」と叱られるように次の注文を催促されるのとは全く異なっていた」
 パリは趣味と礼儀の町なりと。

 5月初旬にドイツのクルップ会社のライバルであるフランスのクルーソー工場の所有者シュネーダーに面会した。米国の鋼鉄王ゲーリーの紹介である。

 7月にイタリーのゼノアでの国際海員会議に出席して、パリに戻る。(『自由人の旅日記』30頁)

 9月に再び英国に渡り、9月17日にエッチ・ジー・ウエルズに面会した。鶴見は35歳であったが、当時の紳士の服装としてステッキを携行していた。
 9月27日に米国へ転学を命ぜられた。
 10月6日にロンドンのレッド・ライオン・スクェーアー・クラウドで労働運動の新人たちに会った。
 その席ではじめてギルド社会主義の提唱者で、フェビアン・ソサイエティを脱会して、労働党調査部の有力者であり、英国ギルド同盟の首脳であるジー・ディ・エーチ・コールに会った。労働運動の先駆者トーネーと会ったのも此処であった。
 当初ハーヴァード大学で会い、ロンドンのスクール・オブ・エコノミックスの教授になったラスキーに、ロンドンで再会したのもこの頃である。
 労働党の領袖で、鉄道労働組合長のジェー・エーチ・トーマス、労働党の書記長ヘンダーソン、労働党の思想家ノルマン・エンジェルに面会したのもこの時期であった。

 11月2日に鶴見はニューヨークに到着した。
 12月初旬に、元ナショナル・シティ・バンク頭取フランク・ヴァンダーリップに面会した。
 12月24日頃、小説家から駐伊大使なったリチャード・ウォンボーン・チャイルドを鶴見夫妻が訪問した。
 12月末にホワイトハウスで、ウイルソン夫人に面会した。
 12月の或る日、エリザベス・ハザノヴィッツ嬢を訪れた。3度目の訪問であり、この時来合わせた労働運動指導者のロシア青年に対し、日本の米騒動を否定する、鶴見には珍しい感情的な発言を記した『欧米名士の印象』は、後年或る研究者をして、鶴見を社会問題に対する理解の浅い人物と誤解せしめた。(早稲田大学大学院文学研究科紀要第44輯第4分冊56、57頁)
 9年11月から10年4月までの間に、鶴見はジェーン・アダムス女史と会談しているが、席上鶴見は「われわれ日本で自由主義の議論を唱えて居る者は」と発言したことを大正10年に『欧米名士の印象』に載せて刊行している。当時鶴見はまだ鉄道省に在職中であったが、明治44年にはじめて渡米して「自由主義を名乗って、世の中に出てゆく日が来るんだぞ」という内心の声を聞いて、空恐ろしいような感じを覚えた時とは時代が変わったことを思わせる。

 『後藤新平』の年譜によると、大正9年9月15日に、後藤新平は麻布宮村町71から麻布桜田町50の新邸へ移っている。その南隣りの麻布三軒屋町(南荘)に鶴見の新邸ができたのであるが、鶴見は当時外国に留学中であった。

 大正7年9月にに、船鉄交換の交渉の任を帯びて渡米した鶴見は、そのまま鉄道事業研究のため、1ヵ年間各国への留学を命ぜられ、さらに大正10年1月末まで留学延期を命ぜられた。この間大正8年3月から11月までは、後藤新平一行の欧米旅行に随行している。大正10年3月末にニューヨークを出港するまで2年半の欧米生活の中で、鶴見は多くの人々にインタビューをしている。
 米国では、ナショナル・シティ・バンク頭取ヴァンダー・リップ、自動車王ヘンリー・フォード、鋼鉄王ゲーリー、ウイルソン内閣の蔵相だったウィリアム・ギップス・マッカドゥ、後に大統領となるフーヴァー、前大統領タフト、上院議員ラ・フォレット、女流詩人ジョセフィン・ピーボデー、革命家エリザベス・ハザノヴィッツ、前国務長官エリフ・ルート、小説家から駐伊大使になったリチャード・ヴォンボーン・チャイルド、ジェーン・アダムス女史。
 英国では、元米国大使ジェームス・ブライス、パリ平和会議の全権ロバート・セシル卿、外相代理カーゾン伯、英国に来合わせていたウイルソン大統領の右腕と言われたハウス大佐、元外相・駐米大使エドワード・グレー、シドニー・ウエッブ、エッチ・ジー・ウエルズ、英国ギルド同盟の首脳ジー・ディ・エーチ・コール、労働運動の先駆者トーネー、スクール・オブ・エコノミックス教授ラスキー、鉄道労働組合長ジェー・エーチ・トーマス、労働党書記長ヘンダーソン。
 フランスでは、クレマンソー首相、クルーソー工場の所有者シュネーダー、大新聞マタン主筆ローザンヌ。
 だが何と言っても最大のインタビューは、米国のウイルソン大統領との単独会見である。

 聴いた演説は、
 上下両院の合同会議におけるウイルソン大統領の演説
 外交問題研究会におけるアメリカ労働組合連合会会長サミュエル・ゴンパース

 出席した会議
 イタリア・ゼノアでの国際海員会議

 見学・臨場した場所
 米国
 リリアン・ウォールド女史が主催する貧民救済施設、ナイアガラの大瀑布、シオドール・ルーズベルトの墓、リンカーンの墓
 欧州
 第一次世界大戦の戦場となったラムスの町、シャロン戦跡、ヴェルダン砲台、ウォータールーの戦跡

 鶴見は大正7年9月に渡米したのであったが、8年2月19日には1ヵ年間欧州各国へ留学を命ぜられた。(外国留学中、本俸の3分の1を下賜され、1ヵ年1800円の割を以て学資を支給され、そして1ヵ年600円の割を以て学資を増給されている。因みに大正6年の鶴見の俸給は、月額91、2円であった。)
 さらに9年5月27日に、10年1月31日まで留学延期を命ぜられた。(学資も1ヵ年800円の割を以て増給された。)

 その他この年の出来事として
 9月15日に後藤新平は麻布宮村町(内田山)から麻布桜田町へ移ったが、その新邸は右に洋館、左に日本家屋があった。洋館は2階だが、個人の住宅では考えられないエレベーターがあった。96歳という当時では記録的な長寿の母のために設置した。
 鶴見俊輔は『時代の先覚者後藤新平』の中で、エレベーターができた時には、後藤の母はもう死んでいたと書いているが、後藤の母が死んだのは新邸へ転居した3年後である。
 俊輔はその前年に生まれているが、曽祖母の没後、エレベーターが俊輔坊やの遊具になったのは事実であろう。
 日本家屋のさらに左に北荘と呼んだ建物があり、後藤新平の弟の彦七一家が住んでいた。
 前庭の逆側に南荘と呼んだ建物があり、鶴見一家が住んでいた。

 なお、『後藤新平』第4巻56頁(年譜)では、大正9年9月15日に後藤が麻布桜田町新邸に移ると記されているが、『鶴見和子曼荼羅』環の巻364頁では、大正8年の秋に麻生区三軒家町に移ると書かれている。
 鶴見の三軒屋町の家というのは、後藤邸内の家屋(南荘)であるから、母屋の主人より先に転入したとは考えにくい。それに大正8年の秋には後藤も鶴見も外遊中である。
 また、後藤邸の敷地は町境にまたがっているため、鶴見の住む家と後藤邸は町名を異にする。曼荼羅では鶴見邸は「道路一つ隔てた三軒屋町」とあるが、後藤の敷地内なので道路はない。
 鶴見はこの年、エッチ・ジー・ウエルズに面会した時、「過去二年間世界各国の新思想家と交際し、殊に過激なる思想家の集会に屡々出席した」と告げている。(『印象』296頁)

 この年鉄道院の監督局総務課長だった五島慶太が退官して武蔵電気鉄道の常務取締役になった。後に東急王国の総帥となった人であるが、彼は東大卒業後農商務省の工場監督官となったが、大正2年に工場監督官が廃止になると鉄道院へ移った。大正7年12月に36歳で監督局総務課長になっている。鉄道院時代に交際があったのであろうに、鶴見はこの人については全く触れていない。
 この年鉄道院が鉄道省となった。

 大正10年(36歳)
 1月に、前年12月に東京市長になった後藤新平から、「米国市政の腐敗並びにその矯正運動に関し、至急調査して報告すべし」という電報が届いた。鶴見は前年ニューヨーク市政調査会え、ビーアド博士の講義を聴いたことを思い出した。渡欧直前であったビーアド博士は、同役の市政調査会専務理事ルーサー・ギューリック博士への紹介状を書いてくれた。鶴見は幾日となく市政調査会で色々の人々に会見し、その材料を収集し、長文の報告書を記して後藤に郵送した。すると後藤から「日本でも同様の調査会を作ることにするから、更にできるだけ多量の材料を集めて送るよう」との返事が来た。

 3月4日に引退したウイルソンを、2千人の崇拝者とともに私邸で見送った。悲惨な病躯に変わり果てた姿に、鶴見の双頬に涙が走り、鶴見夫人は眼がかすんで見えなくなるほど泣いた。この日が鶴見のウイルソンを見た最後となった。群衆が散り去った後、鶴見夫妻はウイルソン夫人とマーガレット嬢に面会したが、ウイルソン氏は既に臥床したので面会できなかった。

 この年の春、カリフォルニアのエリオット博士夫妻(博士夫人は、ウイルソンの先夫人の妹)を鶴見夫妻が訪問している。

 4月19日、鶴見夫妻は、サンフランシスコを発って帰途についた。大正7年9月以来2年半ぶりに鶴見は帰国する。官命による船と鉄との交換交渉で渡米し、ウイルソン大統領にインタビューし、スペイン風邪(大正7年から大流行し、世界の人口の半数が感染し、4千万人が死亡したといわれる。)に罹患し、後藤新平の欧米視察に随行し、第一次世界大戦のフランスの戦場跡を訪れ、後藤新平の一行が帰国した後は、イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、チェッコ・スロバキアを視察して回った。一部夫人を同伴している。そしてこの間にウイルソン大統領のほか新聞王ハースト、大審院判事ブランダイス、ビーアド博士、英国ではロンドン・タイムス社長ノースクリフト、フランスでは大新聞マタンの主筆ローザンヌにも面会している。
 鶴見はアメリカでは下宿にも入り、ホテルにも泊り、アパートも借りた。

 5月初旬帰朝した鶴見は、各方面の先輩友人の嘱に応じて約2百回の講演を行った。その速記録を蒐集して大日本雄弁会が、大正13年に『鶴見祐輔氏大講演集』を出版した。
 講演集は340頁であり、次の10篇が収録されている。
「1.傷ましき偉人の胸臆」は、大正10年10月東大講堂えの講演である。内容はウイルソン論であって、大正10年刊行の『欧米名士の印象』の「1.ホワイト・ハウスのお茶」と「53.英雄回頭即神仏」を合わせたものである。
「2.世界の中心はロンドンより何地へ」は大正10年10月、名古屋鉄道50年祝典での講演である。
 冒頭の大正8年7月に欧州戦争の最も熾烈に行われたヴェルダンを訪れた時の話は、『後藤新平』第4巻第1章第3節「4.地に生ゆる二百の銃剣」に収められている。中盤に語られる英国皇太子アルバート親王が訪米した時の事は、『欧米名士の印象』の「30.お伽噺の王子様」に収録されている。
 交通人を対象にする講話であるので、全世界の文明の中心となるには、交通の中心地にならねばならないとして、概要次のように語っている。
 第一次世界大戦の原因の一は、ドイツが世界の穀物庫ロシアより欧州諸国へドイツの鉄道で輸送させ、さらにベルリンから鉄道でハンブルグ港へ運び、海を渡ってニューヨークへ齎す交通中心経路を完成しようとしたためである。それによってスペインの無敵艦隊を破って以来、世界交通の中心となったロンドンを第二位に落とそうと図ったのである。ドイツが大敗した今日、ロンドンの覇権を争うものはニューヨーク以外にない。
 新興ニューヨークは果してロンドンを凌駕できるであろうか。
 英国では一番勝れたところの財力と知能を持った人間が、世界の漫遊をして世界の形勢を視察して来るのであるから、ロンドンは全世界の知識を集めている。ゆえにアメリカの商売人とロンドンの商売人とが競争しようと思っても知識の点で遅れを取る。
 最後に、最近に至り世界の交通中心は、太平洋に移らんとしている。太平洋は世界の宝庫である中国とシベリアを持っているからである。太平洋に面するのはアメリカと日本と英国(本国でなくオーストリアなどの植民地を指す)である。
 世界の無限の宝庫である中国と中央アジアに世界の交通経路の中心が向かうと考えられる。物質のない日本を中国を通って行く交通経路に引入れるために、日本の取るべき唯一の途は中国との提携である。
 青島は鉄道の中心たる可能性を持っている。青島を自由港として交通を開いたならば、幾年か後には一大商港となるであろう。黄河の周囲に中国の物産がある。黄河の奥である甘粛省、新疆省を貫いて、中央アジアからコンスタンチノーブルに出て、一方は甘粛省の蘭州からシベリアに通ずる一大交通経路ができれば、世界の交通経路が一新する。この時日本が世界の交通経路の街路に当たるべく準備したならば、日本は世界の大動脈から外れずに済むと思われる。しかし侵略的の手段主義によって中国を制してはならない。

「3.光明は破壊の上に」は、大正10年6月に、東京銀行集会所で、銀行関係者に対して行った講演である。最初に大正10年3月にハーディングが大統領に就任した時に用いたマイクロフォンらしきものが将来普及すると政治運動に一大変革が来るであろうという話。
 次にウイルソン大統領が引退した日、3千の崇拝者が見送った話。これは『欧米名士の印象』の「53.英雄回頭即神仏」に収録されている。
 次にエッチ・ジー・ウエルズは『世界歴史大観』で、アイルランドと日本は、世界の文明を吸収したけれど、まだ世界に対して何等貢献していないとして、日本については僅かに2頁しか書いていないことは、日本として三省すべきことであるということ。
『世界歴史大観』でウエルズが述べていることを紹介し、ウエルズと会見した時の会話に及び、ウエルズは、世界の国家というものが昔と違って非常に大きくなったので、今までのように一人の人、或るいは数人の偉い人がその人の力で社会を引き締めて行くことが地理的に不可能になったと言い、それではどうやってこれが改正されるのかについて、次のようにウエルズの説を紹介している。
 欧州戦争後の各国の間に存する憎悪敵対の情が旺盛である。この仇敵の情が深いため平和条約もその後の通商条約も収まりがつかない。その原因は一国の教育が間違っているからである。自分はいま必要なことが2つあると思う。
 第一は世界歴史の書き替えである。何故かというと例えば英国の学校では英国至上主義を叩き込み、外国を憎悪し、排斥する教育をしている。その後世界の歴史を教えている。
 これからは自分の国の歴史を教える前に世界歴史を教えるべきである。その世界歴史も今までの世界歴史とは違ったものを教えたい。その後で英国はこういう特殊な発達をしている。英国が世界の文明に貢献したのはこの点とこの点である。そしてフランスと較べて英国の勝れているのはこの点である。よって人類文明の発達に対し、英国国民として全世界に貢献すべき方向はこの方向であるというように教えれば、無意味な排斥的な考えが無くなって、英国人としての自覚が生ずる。そして同時に他の国民に対する親愛の情が起こる。
 第二は、自分が今の子供に教えたいのは、例えば親と子供との間の行動の法則はどういうものであるかというような行為の法則である。西洋文明は過去100年まではキリストの聖書が基礎を為していた。だが、聖書の宗教的部分は別として、日常の色々な行動を教える部分が時代後れになっている。
 チェッコ・スロヴァキアの首府プラーグでは、ソコールという団体運動によって愛国者の精神が浸透し、多数が団体となって運動する法則を身につけた。その結果街は静かで乱に及ばない。
 最後に新時代に人間を多く惹きつける本当の精神は、社会奉仕の精神でなければならない。
 また、自己の才能を発揮するという精神が如何に尊いかということを教えなくてはならない。
 このウエルズとの会見記は『欧米名士の印象』の「33.世界新文明の基調は社会奉仕の精神と創造的本能」に収録されている。

 次はロンドンの貧民窟にあるトインビー・ホールを訪れて、主幹のマロンから英国の労働運動が盛んになってきたわけを聴いた時の話である。
 マロン主幹は言う。英国の労働者の特色は、忠実の精神である。仲間の間では争っても、外には出さないで、仲間内で片づけてしまう。鉄道労働組合長のトーマスが非常に贅沢をしても、一旦組合長に選出した以上は、ロイド・ジョージと太刀打ちができるように、後援するからトーマスは外部に対して交渉する場合に強い。
 そういう風に各団体はいつでも共通であって、仲間割れしないように、互いに自制してやって行くということが、イギリスの労働者の珍しい精神である。
 このマロン主幹との会見記は、『欧米名士の印象』の「38.トインビー・ホールの一夜」に収録されている。

 次に英国の労働者本部で聴いた話が紹介されている。
 ロシアでは筋肉労働者が独裁して、中産階級や貴族出身者は排除されるが、英国の労働運動は、知識階級や貴族階級を包容する。階級闘争の露骨な形でなく、社会全体を改善しようという国民運動であるから、労働に縁のない若い学者を優遇してその人々の知恵を借りて労働運動をやっている。

 次に新聞王ノースクリフに会見した時の対話が紹介される。
 最初に鶴見の、この数世紀にイギリスは何故こんなに偉大になったのかという問に対し、英国にはスコットランド人とイングランド人という2つの人種があり、スコットランド人は保守的で用心深く、正確な頭を持った人間である。従ってロンドンの銀行や保険業、或るいは統計のような緻密を尊ぶ仕事は、必ずスコットランド人がその頭になっている。イングランド人は無謀と思われるほど冒険的な人間で、進取の気性に富んでいる。従って進取の気性を要する事には必ずイングランド人を上に置いて、その下に女房役としてスコットランド人がついているから万違算なきを期することができるとの答である。
 ついで新聞業で成功した秘訣を問うと、自分は新聞の事以外考えたことがないという答が返ってきた。
 このノースクリフとの会見記は、『欧米名士の印象』の「44.英国新聞王」に収録されている。

 最後に英米比較論。
 イギリス人は専門家になって細かい自分の仕事をやりながらも、大体の問題についてはそれを統一した考えを持つことを忘れない。実に物をよく大局から見ている。アメリカではその点が欠けていることはアメリカ人自身が認めている。
 アメリカは48州から成り立っているので、一国という国家意識よりも州意識が強い。エッチ・ジー・ウエルズは、アメリカには国家精神が無い。本能的に自分を中心に考える癖があると言っている。
 従ってアメリカの問題をわれわれが研究する時には、アメリカは何を考えているかということを一掴みに掴むことは非常に難しい。米国には国論という組織的な思想は無い。

 そして題名の由来として、アメリカがウイルソンの理想主義からハーディングの現実主義に、何事も理解なしには考えずに変動している間に、ヨーロッパでは色々な思想家が静かに自分の頭の内でジックリと物を考えて方針を定めて行くような気がする。だから暗黒時代に新思想が出たように、物質的に破壊されて一方から言えば非常に退歩したところの欧州から新しい思想が出てきて、物質的に全盛を極めたアメリカは気が驕ってあるいは精神的に後れて行く。即ち光は破壊の上に昇らんとしていると語る。
 特に金融に関した話ではなく、欧米旅行の見聞報告である。

「4.急変し易き米国の国民性」は、大正10年9月9日、東京商工懇話会における講演である。
 第一次世界大戦のためシベリア鉄道が杜絶したため、ヨーロッパとの交通は米国に由ることになったので、米国との関係はより深くなり、米国の研究は中国の研究と匹敵するような重大事となった。
 今度の戦争の結果、米国は世界第一の債権国となって、列国の帝王が米国のモルガンの鼻息を窺わなければならなくなったとして、参戦する前の米国の状態と戦争に対する米国人の考え、気持、態度、行動。
 米国の国民性とウイルソン大統領の判断と誘導。
 参戦と決した時の英国の行動、指導者、優れた人傑の活躍ぶり。
 パリ平和条約が発表された時の米国の世論の動揺。ウイルソン大統領に対する批判と人気の凋落。その理由。
 米国の世論の急変。戦後の景気の悪化。
 従来の二国間戦争と異なる償金の支払いの問題、ケインズの提案の内容、過酷な賠償金を課せられたドイツの国情と生き方について語っている。
 ウイルソン大統領の盛哀と米国の世論の変化については、特に詳しく述べられている。
 次は米国の国情を理解する好適例として大正8年の禁酒法の事が語られている。どういう風にして禁酒法ができたか、どういう影響を及ぼしているかとうことを考えると、よく米国人の性質がわかるという。相当長く、かつ、面白く語られていて、今では禁酒法時代の米国を知る稀有な資料であろう。
 なお、この講演の中で鶴見は、日米戦争ということは、われわれが公けに論じなければならない時期に際会していると告げている。

「5.米国労働運動と英国労働党」は、大正11年11月、労使協調会評議員会における講演である。
 自分はどうかしてアメリカ人の心理状態を了解したい、アメリカ人の国民性はどういうものであるかということを了解したいとその事だけに心を集め、そのためには人に会うのが一番なので色々な人に会った。殊に1917年の夏から秋にかけて起こった労働争議の時には方々旅行をして、アメリカの国民性というものが、アメリカの労働争議にどういう風に変化を及ぼして行くものであるかという立場から、人に聞いて歩いた。
 1918年(大正7年)のウイルソン大統領の全盛時代には、米国の労働者のウイルソン内閣への信頼が厚かった。アメリカ人は挙国一致して戦争の目的のために努力していた。労働者も労働争議ということを考えなかった。1918年9月に、カリフォルニヤ州の労働組合長の意見を訊いたところ、自分達はウイルソン内閣を援助する。ウイルソンは労働運動に非常に同情がある。彼の前後8年の施策の大部分は労働者に対して非常な同情のある施策をしたので、労働者の人々が非常に感謝をしていると答えた。
 また、シカゴでゴンパースの率いる労働組合から離脱して、労働党を起こそうと呼びかけたところ、賛成したのは96組合のうち2組合だけであった。だが、それは労働運動は政治的になってはいけないということではなくて、ウイルソンがわれわれ労働者のために尽くしてくれたので、今、ようやく休戦条約が成って、これから平和交渉に入ろうとする際に、労働党を作ってウイルソンに叛旗を翻えすに忍びないという気持からであると労働運動に従事している人から聞いた。
 さらに、1919年2月、ニューヨークとニュージャーンとの間を結んでいる艀舟がストライキで止まって、ニューヨークへ石炭が来ないという騒ぎがあった。当時平和会議でパリに居たウイルソンが、争議の首領に早く争議を止めるよう電報を打ったところ、電報が来た翌日労働争議が止んだ。
 ところが、1919年4月頃からベルサイユ条約の内容が世間に漏れるようになってから、ウイルソンに対する全世界の人気が一変した。アメリカにおいて最も進んだ意見を代表していた新聞雑誌が一斉にウイルソンに反対するようになった。彼等と一緒に常に新しい社会運動の左翼に属していた労働団体の人々が、これに同調した。
 それと同時に、左翼の進歩派の人からは、ベルサイユ条約はあまり非人道的で峻酷であるとし、最右翼の保守党の人からは、この条約があまりに手緩いというので、自由主義を標榜する新人や労働組合の連中とアメリカ第一主義を主張し常にウイルソンに反対する金持や資本家からウイルソンは腹背に敵を受けることになった。
 この労働者たちの不平と金持の不平というものが社会現象として現われたのが、ストライキである。1919年の春から年末にかけて、アメリカで実に激しいストライキが続発した。
 大正8年5月、ローレンスで起こったストライキと同年10月のボストンの巡査のストライキ、シアートルで起こったアメリカの労働組合の中で最も過激なI・W・Wと在郷軍人団との衝突、同年9月から11月にかけて行われた鉄の製造に従事するスチール・ウォーカーズのストライキ、有煙炭の石炭坑夫のストライキ……鶴見がインタビューによって知ったその内情を報告している。
 そして石炭のストライキに対してウイルソン内閣は断乎鎮圧する態度であったこと、かつてウイルソンを信頼していたゴンバースは政府を正面から攻撃して左翼に属する人に声援を送ったが、ほとんどの新聞は急進的な労働運動に対して同情を示さなかった。
 資本家は一致団結して飽くまでこれを鎮圧してしまわなければならぬという立場をとり、資本家と政府が一緒になって労働者に対する物凄い闘争が起こった、
 第三者たる国民は、勢力のある新聞がほとんど労働者に同情の無い立場をとっていたために、絶対多数は労働者に対して同情が無かった。
 結末は労働者の敗北であったが、その敗因は色々考えられるが、一番著しい原因で、その時代だけの原因が2つある。第一の原因は政府が国民を参戦に誘導するためにプロパガンダを行ったため、ドイツを憎む、敵を憎むという激しい精神が横溢していた。休戦になったからと言って急に消滅するものではない。ドイツに対するこの憎悪の情を新聞や雑誌はロシアのボルシエヴィズムへ向けるように努めた。そして労働運動を憎むという精神に転じた。
 第二の原因は、労働運動の指導者が作戦計画を誤ったことである。
 石炭を最も必要とする冬にストライキを行ったため、世人の憤慨を買った。資本家は新聞を利用してこれはロシアのボルシエヴィックから来ていると宣伝したため、労働者に対する同情が冷却した。
 そして労働運動の最左翼は、多くは新しくヨーロッパから移住してきた外国人であったので、アメリカ精神を諒解せず、ストライキをして、アメリカ人を苦しめるという国民の憤慨があった。
 しかしもっと永久的、根本的の原因がある。それは自分だけの意見ではなく、色々な人に意見を聞いたが、第一にアメリカ人の考え方が、100人のうち99人までは資本主義的であるということだ。今日の資本主義の制度の中で、自分が生存競争の優勝者になって見せるという気が、アメリカ人全体にある。社会制度のシステム自身を疑うという考えを持っていない。最近に起こって来た政府に対して非難攻撃を加える労働運動は、アメリカ人の多数が同情を持っていない。
 第二に、アメリカの政治組織が、労働運動をする人々にとって、非常に不利益である。アメリカは徴兵制でなく志願兵なので、兵隊を労働者の鎮圧に使うのに都合がよい。
 警察官も公平な第三者でなく、政権を握っている者が自由に使える機械なので、労働者が主張を通そうとするのに非常に不利益である。
 第三に、アメリカの経済制度が、英国のように労働運動を起こすのに非常に不適当である。新しい国アメリカでは一代で富を為した人間ばかりだから、露骨な生存競争的精神があると同時に、富を失ってしまえば何も残らない。英国のように名誉というものが無いから、財産に対する執着が強い。
 第四は最も大きな理由であるが、歴史的、人種的理由である。
 南北戦争は、奴隷解放の人道的な戦争であると教えられたが、もっと深い経済的な根拠を持っていた。それはニューヨークとフィラデルフィアの沿岸に新しく興った資本家、即ち大きな産業の持主、大銀行を持っていた東部海岸の資本家とワシントン以来大きな地面を持って、奴隷を沢山使って農業に従事していた大百姓との衝突である。南の農業は自由貿易を利益とし、北の資本家は幼稚工業の維持のため保護貿易を利とした。そこで関税の問題から南北の衝突となった時に、東部海岸の大工業家だけでは南部の大地主に当たることができなかったので、ミシシッピーあるいはオハイオあたりに新しく地面を開いていた小農乃至中農の連中と妥協して南と戦おうとした政治的の運動である。
 戦後、ニューヨークやボストンに居た工場労働者が、西部へ移住して農民になってしまった。東部海岸の資本家がこれを補充するために、欧州からの移民を受け入れた。この時の移民はかつてのアングロサクソン系の移民とは異なるポーランド、ハンガリー、ギリシャの農民で、言語も異なり、文明も低く、生活程度の低い人々であった。資本家にとっては、無知な、生活程度の低い、柔順な労働者が都合がよかった。
 ところがこの欧州戦争がこれらすべての民族を一大溶鉱炉の中に投じて、新しい人間を造り出した。そこで飜然として眼の醒めた労働者が今までのわれわれの受けていた待遇は不当であるとして、新しい気分で労働運動を起こしたのが平和条約後に起こってきた運動である。
 今までのゴンパースの率いた労働運動とも違って、言葉の違う連中がこういう労働運動を始めた時に、ほかのアメリカ人がこれに対して反感を持ったのは当然である。
 次に英国労働党について語る。
 アメリカにおいては、知識階級や中産階級と肉体労働者とが截然と区別され前者は排除されている。イギリス労働党6百万人の労働運動に知識を与えている源泉はフェビアン・ソサイティーである。労働党副書記長ミツドルトンにインタビューした時の詳細な話が紹介されている。ツケが払えなくなった労働者の客に、居酒屋の主人が推せんする候補者に投票させて酒代を棒引きにする話などは、日本では信じられないことである。
 そしてフェビアン協会について説明されている。
 さらにアメリカの労働運動との相違点が説明されている。その1としてイギリス人の優れた特色として中庸の徳について語られている。その2はイギリス人の物の見方が世界的であることが挙げられている。その3にイギリスの労働運動は仲間割れをしないことが挙げられている。

「6.ユダヤ人ドイツ人排斥の原因を論じて、世界における排日感情の台頭に及ぶ」は、大正10年10月10日鉄道協会例会で行われた講演である。
 第一次世界大戦後、日本人に対する感情が世界全般において悪化して来た。
 同様に排斥されているユダヤ人、ドイツ人との間に共通することは、他の民族と異なる優越性を持っているということである。
 これら三民族が優れた特長があるために全世界から嫉妬せられるということのほかに、世界の諸国民と異なった特色を有するために嫌われるのである。ユダヤ人はいつも自分たちだけが団体となって他の人種と交らない。
 ドイツと日本はいずれも世界第一の国民と誇称して、ほかの民族の上にありと考えている。
 しかし三人種が別々の理由で嫌われている面もある。
 まずユダヤ人についてであるが、ユダヤ人以外の西洋人は、ユダヤ人と結婚しない。ユダヤ人もまたユダヤ人以外と結婚しない、ユダヤ人以外の西洋人は、ユダヤ人を自分の家の食事に招かない。アメリカ人は、ユダヤ人をクラブにも入れない。一流のホテルは、ユダヤ人を泊めない。
 このように排斥される理由として、第一にユダヤ教はキリスト教と相敵視している。第二にユダヤ人が人種的に一団となって他の民族と孤立する。第三にユダヤ人は理財の道に明るく、大金持が世界中到る処に出現して、その国の国民の商売を圧迫することが挙げられるが、更にユダヤ人同士寄り合うという集団性が強いこと、そして社会的な作法に無頓着で、服装も構わず、清潔な人種ではないので、交際していて不愉快を感じること、話が理に落ちて面白味が無い、思想傾向が批評的であるので、友人に対する愛着心に乏しいことが考えられる。

 次はドイツ人が排斥させる理由であるがユダヤ人と異なり、ドイツ人を個人として嫌っている人はあまり無い。ドイツ国民、ドイツ帝国を排斥するのである。その理由は第一に、ドイツ帝国、ドイツ民族の利益のためには如何なるものをも犠牲にするという露骨な国家主義である。
 第二は、経済的にドイツが着々として他国の市場を侵略したために、他国人の反感を買ったのである。
 第三は、一国が自分の持っている文明を他国に強制して、自国の文明は世界で一番偉大なる文明であるからお前達も範を取らなければならない。われわれの考えることをお前達も考えなければならない。しからざれば真実の道徳でないということを公言し、これを理想としてドイツが侵略主義を取ったことに対する列国の憤慨である。
 このようなドイツ至上主義は、ドイツの政治家が一個の手段として自国の文明を謳歌し、これが全国民に浸潤して、ドイツ人はほとんどこれを盲信するようになった結果である。ドイツ民族は他国と異なって、個人の意見というものが全然無く、国民は皆政府と同じ思想を持つということは、世界にとっても由々しきことである。

 ドイツと反対の例として、フランスを考えると、欧州戦争でフランスが敗け色となった時に、全世界から集まった同情の第一の原因は、フランスという国が一種の超国家的、超人種的な文明を持っているからである。第二の原因は、フランスが過去50年間に非常に超国家的に傾いた。政治的にも経済的にも各国と衝突することが少ない。
 次にイギリスを考えると、大英帝国の繁栄は、古代ローマ帝国を除いては世界歴史中にないと思われるにも拘らず人に反感を与えないのは何故か。ウォーター・ワイルはそれを中庸の徳であると言った。足るを知り、止まるを知るところの道徳を持っていることが、イギリスが今日富強である原因となす。
 そしてジョン・ブライトのように、自国の欠点を反省する義人を有することがイギリスが滅びないで今日に及んだ理由である。
 次にロシアに対するアメリカ人の感じを言うと、ザーの専制政治国のロシアと平民政治国のアメリカとは相容れざる国柄であるにも拘らず、ロシア文学はアメリカ人に愛読されていた。アメリカ人達は小説に出てくるロシア人に対して、深い同情を持っていた。ゆえに一たび革命が起こるとアメリカ人の同情は翕然として解放されたロシアに向ったのである。
 最後に日本が何故に排斥されるかということであるが、キャリフォルニヤ問題だけでなく、中国問題にまでアメリカの反感が及んでいる。
 また非論理的な誤解として、日本人は不正直なので、銀行の現金出納は中国人を傭っているとか、日本の名家の夫人は悉く売春婦出身であるなどがある。
 日本という国は一種の黒い影を西洋人の心中に投じている。その原因は第一にユダヤ人のように、日本人は外国人と一緒にならない。日本人だけ別々になる。第二に日本の文明が外国の文明と非常に違う。日本人及び東洋人の通性は物を抽象的に考える。アングロサクソン人は物を具体的に考える。そして教育も違う。日本人は暗記力を中心とした教育を受ける。英米人は判断力を養うことに重きを置いているから、他人の説を暗記するよりは材料によって自分の説を立てる。第三は日本人が優れているためである。殊に農業労働において著しい。第四は日本の政治に対する反感である。第五は外国人の宣伝である。
 それではどうしてこれを矯めることができるか。まず言語の障壁を撤することである。次に注入的教育をかえて、自分自身の意見をまとめる習慣を養うことである。次にドイツのような日本至上主義を改めて、国際精神を養うことである。
 さらに、アメリカ人が、ザーの専制政治下にあっても、トルストイの文学に登場するロシア人個人個人を愛したのは、その文学が英語で記されて米国に紹介されたからである。
 われわれは外交官、商売人、学者として外国と接触しているだけである。外国人との眼に映ずる日本人は、理性の方面だけである。高尚なる文学によって日本人の性格を外国に紹介してもらわなければ、日本に対する愛着は起こって来ない。日本人の天才によって、あるいはドイツ語、ロシア語、英語、フランス語等で、日本人が真実の日本人らしい生活を記述して、外国人に読ませるまでは、真実の了解は得られまいと憂慮する。

「7.真理の解放」は、大正11年10月21日に青年会館において、雑誌「婦女界」愛読者大会の場で行われた。
 冒頭の、5年前にAのことを河馬と言ったBを、5年後にはじめて河馬を見たAが撲ったという笑い話は、大正13年に鶴見が渡米して排日移民法に抗議して歩いた時、講演に仕込んでおいた笑い話の一で、講演自身より有名になった。
 鶴見和子は、後藤新平は巧まざるユーモアであったが、鶴見祐輔は巧むユーモアであったと言っているが、この笑い話も早くから準備したものらしい。だがこの話は鶴見の創作ではなく、ニューヨークの芝居の落ちだと『三都物語』318〜319頁に書いてある。(大正12年版)
 講演は幾つかの話で構成されているが、そのうちの一つに夫を失って働きながら子を育てている女性が、自分の子供を善い人間に育てるだけでは足りない。善人が成功するような世の中に作り変えなくてはいけない。このたびルーズベルトが新政党を起こして、アメリカの社会を革新する運動を始めたと聞いて、自分の寄付できる最大限度の金を新政党に寄付するのだという感動的な話が紹介されている。
 それから第2話の中にも出てくる大正8年7月にフランスのベルダン砲台を視察した時の凄惨な描写。
 さらに、第一次世界大戦によって変わってきた戦争というものの意味を考えるために、エッチ・ジー・ウエルズの『ニ十世紀の予想』と『空中戦争』の概略を紹介して、戦争をやめるという努力をしなければ、科学の進歩とともに人間が物を壊す力が発達したから敵味方とも滅びてしまうという訴え。
 最後に米国のロビンソン博士の『世界歴史』を紹介して本題に帰って次のように語る。人間は地球に生まれてから50万年になると言われるが、50万年前までは野蛮人であった。ガリレオが地球が動くと言って牢に入れられたのは300年前である。だが王公の力を以てしても、真理の発達を抑えることができなくなって、自然科学の世界では天下晴れて正当に真理を考えることが許されるようになった。
 だが、その他の抽象的な学問については、まだ本当に真理のとおりに考えることが許されていない。それは人間の中にある50万年のうち5千年以前の野蛮人の部分が、本当の真理を世の中に発表することを好まないからである。言い換えれば、人間というものは、世の中の進むことを好むものではない。古いことや仕来りを止めるのを好まない。
 家庭内の新旧思想の衝突はそこから来る、新しいものが頭に入ることは非常に難しい。ガリレオのように本当のことを言っても、それが新しいとなかなか人の心には入らないものである。

 この講演を聴いていたく感動したのが有馬武郎と心中した中央公論の美貌の記者波多野秋子である。
 この講演の直後に、波多野秋子から鶴見へ宛て届いた書簡が、国会図書館に保存されている。その一部は次のとおりであるが、彼女は「美貌の雑誌記者」と言われているが、百年の恋も一瞬に覚める悪筆である。判読できない文字は……で表記する。自分でも「乱暴な字であけすけと書く」と言っているが、悪筆のため読めない箇所が多い。書簡には鶴見の講演を聞いた感激が記されており、講話にも容姿にもすっかり参っている。
 大正11年10月21日付
「……興奮したので額があつくてたまりません。なぜ石本恵吉夫人(後の加藤シヅエ)もいらっしゃいませんでしたとなじったほど私は感動いたしました。あんな若い小娘の前でさえ、あんなに真剣におなりになるのですもの。あなた様を世界の桧舞台の上に見出して……私はどんなに……熱と力に打たれることでしょう。可哀想にあの若い娘さん達は、思いのままに飜弄されてしまいました。ある時は春の……ある時は厳粛な死の事実……こんな形容は失礼でしょうか。ともかく名優の舞台を見ているような酔心地にもなりました。眼をつぶっていますと……きたない会館が英国議会のようにも見えて来ました。……こんな国においておく……おしい気がいたしました。私はくやしくてたまりません。……絵のような大政治家と……私の懸念を……あなたがあまりにお美しくいらっしゃることでございます。……あなたのお姿や……のチャームのためにひょっとして……一句もむだのないお言葉……あなたがもう少しきたなくおなり……御忠告……」
 余白に鶴見のメモがある。
「一九二二年一〇月二一日、自分が東京の青年会館で婦女界主催講演会で「真理の解放」をいう演説を女学生約二千人にした。その日の秋子さんの感想である。一九二五、一二、八
 お手紙を貰っても、まだ自分は彼女の心が本当に解らなかった。翌年有島君と心中して後やっと解った。愛子は解らないような顔をして秋子さんの心を知って居たらしい。矢張り女同士である。祐輔」

 この後、波多野秋子が有島武郎と心中する直前に鶴見に次の書簡を寄せている。
 大正12年5月29日付
「未来を信じない私は、この世で話したい方と思い切りおはなしして死にたいのでありまして、美しい人を出来るだけ見て、好きな方と沢山おはなしをして死にとうございます。私のような厭世家でもそうした時はしみじみ生きているよろこびをかんじます。
 いろいろの夢を私は持っています。楽しい夢を描いて生きています。そうした夢の一つでも現実に……はじめてはっきり生きている意義を見出したり、その瞬間私は死んでもいいのです。
 私は何でもいい……ほんとうに生きてみたいのです。あなたのようにいつも裃をつけて洗練された社交的な手腕を見せるすべを……。あなたのお手は私たちの間で評判です。美しいものを見るとよく「つるみさんの手よりきれいかしら」と申します」
 余白に鶴見のメモがある。
「この手紙は彼女が有島君と心中する二週間程前に書いたものである。一九二五、一二、八祐輔」
 大正12年6月、軽井沢の別荘で二人は情死したのであった。

 もう1通は大正11年10月3日付である。彼女は女の身で一高生、東大生の参集する鶴見邸での火曜会に出席を許され、大正11年10月2日に、ビアード博士、詩人ニコルス夫妻を招待した時にも彼女も招かれて同席している。
「昨晩はありがとうぞんじました。いいお仲間に入れて下さいました御親切なお心を……気持で感謝いたしております。あく抜けた、さえた社交的の御手腕にはホトホト驚嘆いたしました。天才的な語学といい……今の日本におきますのは惜しいようなお方だとしみじみ感じました。……黒紋つきのお姿を拝見して……ゆうべはとろとろしてよくねむれませんでした。かなしい気持の方が多くて母の名をよびました。
 この複雑な心の中を言いあらわしてくれる言葉のないのを淋しくぞんじます。聡明な、そして寛大な……お察し下すってお許し下さいますことを祈っております」
 余白に鶴見のメモがある。
「一九二二年ビアード博士一家、詩人ニコルス夫婦を招待せる時、秋子さんも招いたその令嬢である。
 自分はこの手紙の底にあった彼女の心を真に了解せずに読んだ。彼女が翌年有島君と心中して後に気が付いた。祐輔」
 波多野秋子の書簡は3通とも鶴見の自宅でなく、勤務先の鉄道省へ送られている。多情多恨な彼女は、好男子で才子の鶴見に夢中になったのではなかろうか。鶴見37、8歳の頃である。
 平成6年以降の朝日新聞に、誰かが、波多野秋子の墓が、港区赤坂7丁目の覚永寺にあると書いていたので、すぐに筆者石塚が臨場したが、覚永寺のあった所にはビルが建っていた。

「8.世界的勢力たるウエルスの作品と人物」は、大正11年11月青年会館において行われた講演である。冒頭に鶴見が大正9年9月にウエルスに会った時に贈られた言葉が紹介される。
「私は日本を尊敬していた――平和と戦争との両方面において。300年の太平を続けた国は日本だけでありました。しかし、日本は、自分の生存を防衛する必要に迫られたときに、戦争においてもまた、優れた国民であることを示した。ちょうどあなたが外国に居られるときは、そのように外国の服を身につけられるように、日本は本来は欧米の衣裳であるところの武装をして、支那とロシアとに対して、自分自身を美事に防禦せられたのであります。もしそうされなかったならば、あなたのお国の今日は、インドの現状と同じであったでありましょう」
 ウエルスの話は、鶴見が2年半の外遊中に聞いた最も面白い話であった。
ウエルスの世界思想界における地位は、アナトール・フランスの言によれば、「現代英語国民中における最も偉大なる思想的勢力である」。
 ウエルスが大正4年に出版した『ブリットリング氏悟りを開く』という小説は、米国人を激動せしめ、米国をして英国側に加入して参戦せしめたる一原因となったとされている。ストウ夫人の『アンクルトムスケビン』を想起させる。
 ウエルスの58冊の作品を年代別に区分すると、第1期は明治28年から41年までに書いた『時間機械』『空中戦争』等約28冊の科学的伝奇小説である。第2期は明治41年から大正元年までに書いた『トノ・バンゲー』『熱狂の友』『荘厳なる探索』等の純文芸的作品の時代である。第3期は思想宣伝家としての今日のウエルスである。
 そして第一次世界大戦後に有名な『世界歴史大観』を著わした。
 ウエルスの作品全体の基調をなす思想は、第一に未来に対する興味である。第二に現代の欠陥は社会組織の不完全から来ると考えている。第三はユーモアである。
 次に鶴見は、ウエルスの科学小説『ニ十世紀の予想』『眠れる人の眼醒むる時に』『空中戦争』の概要を紹介している。
 次に鶴見はウエルスの読者に婦人が多いということを指摘し、『トノ・バンゲー』『荘厳なる探索』『ポリー君の歴史』『熱狂の友』を挙げて、ウエルスの描いている女性について、鶴見の感じることを述べている。
 さらにウエルスについて鶴見は次のように述べている。
○彼の全作品を貫く思想は、現代の社会組織が支離滅裂で、人間の生活が整頓されていないということである。そして、この無秩序の間に秩序を作り出すことが、人間生活の最上要件であるというのである。
○ウエルスは社会主義を信奉したが、レーニンが現在の資本組織を根本から破壊しようとするのに対し、ウエルスは今日の制度を改良して良くすることができると考えている。
○ウエルスは社会の無駄を攻撃している。精神の浪費、物質の浪費を人間の最上の悪徳として、それは愚なることであるから、この愚と無知とを地上から追放すれば、人生はずっと幸福になるという。
○ウエルスが現代英語国民中の最大の思想的勢力であると評される所以は、第一に文芸作家としての彼の地位から来る。彼は貧民の生涯を如実に描き出した点において、前後に比類なき独特の地位を占めている。
○ウエルスはその文章をもって独特なる地位を占めている。現代の要求する文章であった。
○ウエルスは英国に生れたため、その英語は英米両国をはじめ世界に読者を有している。
○ウエルスは一方科学者であり、他方空想家であった。
○ウエルスが『ニ十世紀の予想』の中で試みた予言のほとんどは適中している。
 彼の予想のうちで最大規模のものは、世界が一国になるという予言である。そうでなければ人類は一大激戦を試みて死滅してしまうというのである。彼は戦争を防止するために、一切の力を傾尽しようと決心した。それから彼のすべての作品が、彼の思想宣伝の道具と化してきた。国際主義が彼の小説の骨子となって現れた。
○ウエルスは芸術家(アーチスト)と呼ばれるよりは、時論記者(ジャーナリスト)と呼ばれることを本懐とした。
○ウエルスは第一次世界大戦中に、無神論者から有神論へ一転した。

「9.郷土を愛する心」は、大正12年5月20日、上毛学友会の席上で行った短い講演である。
 この中で鶴見は、「山岳は思想を練るところで、平原は力を試みるところ」という西洋の学者の言葉を引用している。そして群馬県の生んだ偉人として、新田義貞と新島襄と内村鑑三を挙げている。
 鶴見は従来の歴史はあまりに多くの注意を政治家と帝王と軍人とに払った。真実なる歴史は新しき眼をもって書き換えられなければならないとして、英雄の記録から人類の恩人の記録への変更を提唱している。
 これはウエルスの『世界文化史体系』の影響であろうが、「全人類の恩人、日本より出でよ」という『新英雄待望論』の思想は、この時既に発芽しているのである。
 そして日本は国難を前にしていると叫び、この国難に処する道は、われわれが偉大なる確信を有することであるとし、その確信とは思想の力であるとし、そして思想は実行の決断を伴う時において人類の幸福となると説いている。

「10.ウイルソンの生涯を憶う」は、大正13年2月8日、東大の講堂で行った講演である。鶴見は大正10年にも東大で「傷ましき偉人の胸臆」と題してウイルソンを語っている。そしてこの講演集に収録された10篇のうち9篇は鶴見が鉄道省に在職中のものであるが、本篇は退官直後のものである。
 講演の内容は、「1.傷ましき偉人の胸臆」と重複する部分もあるが、ウイルソンについて書かれたその他の幾つかの文章に見られない叙述もある。
 この講演の中で鶴見は強調する。
「七十年の生涯を、何の迷うところなく疑うところなく、真に自己の信ずるもののためにまっしぐらに人生の荒波の中に飛び込んで、如何なる逆境に処しても、如何に大勢の周囲から非難され嘲弄されても、堅忍不抜その地位を持して死んだとするならば、たとえ彼の思想、彼の行為については、われわれの依存を挟むべき余地があったとしても、それはわれわれ人類共通の所有財産であるところの尊い人間的記録(ヒューマンドキュメント)である」
「われわれは最近二つのドキュメントを眼前に見送った。その一はソシリアリズムのため一身を捧げたレーニン、他の一はリベラリズムのために命をすてたウイルソンである」
「ウイルソンは徹頭徹尾批評家ではなかった。盲目的に前進する人であった。レーニンもそうである」
「二十二歳の時の論文「米国における内閣政治」は、合衆国百弊の端は下院及び上院における委員政治にある。英国のごとく内閣責任政治となし、大統領中心の制度にしなければならないという結論で、ウイルソンが死ぬ日まで守ってきた政治思想である」

 ウイルソンについて書かれたその他の幾つかの文章に見られない叙述として次のようなものがある。
○ウイルソンの生誕地の描写
○ウイルソンの家系
○ウイルソンが平和会議で渡欧した時に、母の生誕地の小さい村の教会で演説をした話
○ウイルソンの修学時代。プリンストン大学におけるウイルソン。ウイルソンが志を立てた時の話
○卒業後、弁護士を開業したが顧客が無くて廃業したこと。卒業後、ジョンス・ホブキンス大学に入り直して、歴史の研究をし、「議院政治論」を書いて博士号を取ったこと
○プリンストン大学の教授時代のこと
○ウイルソンの先妻のこと
○『アメリカ国民史』をはじめ、学究的でない著述も多数あること
○ウイルソンの政治学者、歴史学者としての地位
○ウイルソンが歴史家としての地位を確立した論文「分離と統一」の内容の紹介
○ウイルソンの文章についての毀誉褒貶
○プリンストン大学総長の時の大学の改革
○富豪の反対とウイルソン総長排斥の勢い
○ウイルソンを大統領候補に擁立する動き
○ニュージャージー州知事時代の業績
○ウイルソンが大統領に選出された時のアメリカ政界の状態
○ウイルソン大統領の業績
○欧州戦争の勃発とウイルソン大統領の態度
○パリ平和条約締結の困難と経過
○ウイルソンの政治思想と功績
 そのほかついにウイルソンがドイツに宣戦布告した時、民衆の歓呼をよそに、アメリカの青年を死の庭に送らなければならなくなったことを深く悲しんだ話、欧州の国民たちがウイルソンを救世主のように歓迎した話、パリ平和会議でクレマンソーやロイドジョージに押し切られたこと、支持者の失望とウイルソンの敗死など他の本にも記されていることがより詳細に語られている。

 鶴見は昭和26年に書いた『新英雄待望論』で、クレマンソーやロイドジョージを「群小の実際政治家」とこき下ろしているが、大正13年の講演で既に彼等を「群小政治家」と呼んでいるのに驚く。この二人は当時の大国であるフランスとイギリスを代表する大政治家で、国際政治の大立物である。第二次世界大戦後のチャーチルやスターリンに比肩すべき巨人であった。

○『鶴見祐輔氏大講演集』の「2.世界の中心はロンドンより何地へ」で、全世界の文明の中心となるには、交通の中心地にならねばならぬと主張して、中国の青島に開港して、物産のある黄河を経て、その奥の甘粛省、新疆省を貫いて中央アジアからコンスタンチノーブルへ出る一大交通経路の構想は、昭和16年に書いた小説『七つの海』にも似たような話が出てくる。
 この講演は交通人を対象とするものであったが、かかる交通立国案は鶴見自身鉄道官僚出身であり、世界的な旅行者(後年交通人協会会長を務める)であることからの発想であろうか。
○鶴見は生涯約1万回の日本語での演説、講演を行ったが、講演集が刊行されたのはこの1冊だけである。1回分だけの演説が収録されているものは、明治43年雄弁創刊号に「ポーツマス条約の記憶」、大正5年大正堂書店発売の『模範式辞及演説』に「千岳万峯風雨声」、昭和3年雄弁新年号付録『現代名演説集』に「東西文明の衝突と民衆政治の本質」、昭和3年雄弁5月号付録『普選代議士名演説集』に「民衆意識の一転機」、昭和5年大日本雄弁会編『十分間演説集』に「郷土を愛する心」、昭和27年新党結成準備委員会のパンフレット「新党への躍進」に「謙虚なる反省を以て若き世代の踏石たらん」がある。
『現代日本論』は、鶴見の英語演説を沢田謙が飜訳したものである。
○6月7日に運輸局総務課長を命ずる鉄道省の辞令が国会図書館に残っている。因みに鉄道院は大正9年に鉄道省となった。山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』によると、鶴見は大正7年7月に運輸局総務課長になっている、一高の同期生岩永裕吉が文書課長(前任者は鶴見)、田島道治が人事課長、金井清が中部局庶務課長になっているところを見ると、鶴見は当初大正7年に運輸局総務課長に発令されたのかも知れない。鶴見が書いた『種田辰雄伝』によると、大正11年に鶴見が中国及び治海州へ出張した時期や大正12年に再度中国へ出張した時期には、運輸局旅客課長の種田乕雄(鶴見より1年早く東大を出て、すぐに鉄道院に入った。鶴見は内閣拓殖局に入り、翌年鉄道院へ転じたから、鉄道院への入省は2年遅れている。)が運輸局総務課長である鶴見の課長代理をしている。してみると大正7年9月から大正10年4月まで鶴見が外国へ留学した期間も種田が代理を務めて、大正10年に帰国するとともに、鶴見は運輸局総務課長に復職したのかも知れない。種田乕雄は大正7年10月に運輸局旅客課長になっている。彼は大正13年に運輸局長(高等官二等)に昇任し、その後私鉄の経営に転じた。鶴見は大正13年2月、退官の花道として鉄道省監察官(高等官二等、鶴見が高等官一等になったのは、昭和15年に内務政務次官になった時である。)になっている。してみると鶴見は大正7年から大正13年まで、6年間運輸局総務課長のポストに居たことになる。

○この年の暑中休暇を利用して書いた2年半の欧米留学でインタビューした54人の知名人との会見記が、『欧米名士の印象』と題して大正10年11月、実業之日本社から出版された。524頁、定価3円50銭であるから決して安い本ではない。巻頭に「愛弟良輔の墓前に此の一書を捧ぐ」という献呈辞がある。この書を刊行するのは、エッチ・ジー・ウエルズに刺戟されたところが多いと序文に書いている。当初鶴見はこの会見談を公私会合の席上で説話して歩いたが、その反復絮説の繁に耐えざるに至って著書にして刊行することにしたという。事実帰朝後の講演は200回に及んだとのことである。当時鉄道省に在職中の鶴見は、大正10年7月11日から前後20日に亘って全篇悉く速記によって完成した。
 この書のうち英国外相代理カーゾン候との会見記が、鶴見に無断で飜訳されて英国の新聞に掲載された。辛口の批評を書いた鶴見は冷汗をかいた。
『鉄道青年』大正10年12月号に「欧米名士の印象を読む」という書評が載っている。その主な部分を紹介する。

『鉄道青年』大正10年12月号
   欧米名士の印象を読む
 鶴見祐輔氏が、大正7年から10年まで、鉄道省の留学生として欧米に旅行中各地を遍歴して、現代著名の新人名士と広く接見して、その印象を集めて帰朝後出版した。

 一般の漫遊者のようなお座なりの態度からの試みでなく、敬虔にして厳粛なる真理を探ねる者の心で、大戦のため破壊された現代の文化生活を如何に再建し如何に改造すべきかという実際的な使命を荷っている人々から、それぞれの主張、信念を聞き記したものである。

 著者の文章は改めて言うまでもなく、その流麗暢達である演説と等しく、修辞の枠を極めたもので、現存する人物を髣髴として眼前に活躍せしむる概がある。
 今や新時代の黎明は抗し難き力を以て伝来の旧き醜き誤れるものに一斉に挑戦しようとしている。此場合最も大切なことは思潮の流れ行く方面を正確に見極めることにある。それには潮流を代表すべき人々の著書を多く漁猟することであるが、又一面それ等の人々の思想の陰にある日常生活、人としての態度、不用意の間に発する一同そういうものに却て文字に現れた思想や理論にもまして正鵠なものを発見することが出来る。此点から見ても本書の価値は決して僅少なものではない。

 ただ強いて言えば本書が現代デモクラットの社会運動家の紹介が比較的足りないと言う点である。

 以上は好意的な書評であるが、某紙には、鉄道事業研究のための留学なのに、鉄道関係者へのインタビューがないという痛い所を突いた批評もあった。

 その他この年の出来事として
○都市公論10カク号に「都市市配人制度」を寄稿。
○某紙10月号に鉄道省参事官の肩書で、「世界歴史の書換え」を寄稿。
○鶴見がハザノヴィッツに会ったのは、河合栄治郎の紹介、推薦による。(『曼荼羅』茸の巻148頁)
○現代10月号に載った『南洋遊記』の広告の肩書は「鉄道省参事法学士」。
○この年、チェース家を訪問している。大正13年に再訪。(『北米』479頁)
○この年、ニューヨークで、ウエルズの『世界歴史大系』を買って耽読した。(『成城』6巻211頁)
○10月14日、帝国劇場にて、名古屋鉄道50周年演説会に、阪谷芳郎、長尾半平、岩谷小波らとともに演説した。演題は「世界の中心はロンドンより何地へ」
○11月3日には、前年鶴見がロンドンで面会した英国新聞王ノースクリフ卿一行を後藤新平邸に招待した。
○12月22日、鶴見に「職務勉励二付」「金一四〇〇円ヲ賞与ス」という辞令が発せられている。
○この頃、鶴見はウイルソン全伝を執筆中であった。後に破棄す。

 大正11年(37歳)
○4月に中国及び沿海州へ出張を命ぜられ、2ヵ月半の視察旅行を行っている。不在中は旅客課長の種田乕雄が総務課長の代理を務めた。
○5月初旬、北京に文学革命運動の明星、北京大学の胡適を訪問した。英語での会話である。その数日後胡適が鶴見をホテルに訪れた。
 30そこそこで『中国哲学史』という大作を発表していつ胡適を見、32歳でギルド社会主義の巨擘として、世界的声明を有するコールを想って、鶴見は自分達は今少し愧じて反省しなければならないと思った。
「中国のすべての問題の根底に、人口問題がある。人口の増加は、家族制度が厳存していては止む時がない。あなた方の新運動も、この人口問題、家族制度問題の根本に触れなくてはだめではないか」
 という鶴見の問いに
「中国の家族制度は、もはや崩壊しつつある」
 と胡適は答えた。また、
「儒教という教義の厳存する中国において、如何にして家族制度が崩壊するか」
 という問いに対しては、
「儒教なんてものは、中国では死んでしまった」
 という驚くべき答が返ってきた。
 そして胡適は、儒教が中国人の思想をそんなに支配したと思うのが誤りであるとし、また儒教の内容を分析評価し、孔子の人格の感化を否定し、弟子を感化したことを否定した。
 鶴見は儒教全盛の中国において、大胆に率直に、儒教と孔子の権威を否定しようという、年若き偶像破壊論者の熱情に感動した。
 胡適との会見記は、大正15年に刊行された『壇上・紙上・街上の人』に収録されている。
○胡適を訪れた頃、鶴見は中国の文学革命の中で、胡適と並んで大きな地位を占めている習作人教授(日本語で会話)、天津の南開大学総長伯○(くさかんむりに“今”)、北京国立大学総長蔡元培(通訳あり)を訪問した。鶴見は蔡総長と別れるに際し、「日本におきましても、従来のような、偏狭な国家主義ではいけない。真実の国際的良心を持たなければいけないという考えをもって奮闘している者があることをご記憶ください。そして、真の国際的良心、即ち人類たるの自覚に基づいて、初めて、徹底したる日中両国の親交が成立するということを確信している者が、日本に居ることを、どうか先生のお胸にお留めおきください」と告げている。

 北京で、山東魯督弁の王正廷(昭和4年には蒋介石政府の外交部長)を訪問し(英語で会話)、山西自治運動で有名な山西省太原府を訪れて山西督軍兼省長閻錫山に面会した(通訳あり)。閻督軍の中国語を通訳が日本語に訳すのが下手で、意志が十分に疎通せず、中国語を英語に飜訳する通訳を選べばよかったと鶴見は後悔した。
 また、揚子江に沿った南通州に張賽を訪問した。中国研究者は太原府とともに南通州を訪れるが、太原府が政府の力による行政事業であるのに反し、南通州の張賽は個人経営にかかる経済発展事業であう。
 張賽は胡適と異なり、中国の徳育の中心は中国伝来の儒教によるのがよいと答えた。

○5月25日に岩波書店から『米国々民性と日米関係の将来』192頁を刊行した。大正6年の『南洋遊記』、大正10年の『欧米名士の印象』につづく第3作である。筆者石塚はこの本を未だ入手できずに居るが、大正13年に出版された『三都物語』の巻末の広告に載っている。
○6月25日に長男俊輔が誕生した。第二子である。第一子の和子とは4歳違いである。俊輔は父が総理大臣になりたいので、昔の首相伊藤博文(俊輔)の名を取って命名したと迷惑そうに言っている。だが二男直輔にも「輔」の字が付いているところを見ると、俊輔の言っていることは推量に過ぎないのではなかろうか。
 この頃は桜田町50へ新築した後藤新平邸の隣家(三軒屋町53(南荘))に居住していた。自宅で開催する火曜会には120名もの出席者があり、島崎藤村が講師に招かれたのもこの頃である。与謝野晶子と有島武郎が連れ立って訪れたのもこの家である。

 後藤新平は、大正7年9月に外務大臣を辞職して以来公職に就いていなかったが、大正9年12月に東京市長に就任した。
○チャールズ・エー・ビーアド博士の来日に先立つ2月24日、前年に暗殺された安田善次郎からの寄付金350万円ほかを基金として財団法人東京市政調査会(会長後藤新平)の設立が認可された。
 9月14日にビーアド博士とその家族が東京駅に着くと、山高帽にモーニング姿の後藤新平がプラットフォームに出迎えていた。それからビーアド博士と後藤は帝国ホテルへ向かったが、いたづら好きの鶴見はわざと同乗しなかった。後藤はドイツ語はできたが英語はできなかった。アメリカ人のビーアド博士はドイツ語は苦手であった。だが二人だけで話すにはドイツ語によるほかない。そうすれば却って仲がよくなるだろうと鶴見は考えたのである。
 自動車から降りたとき鶴見がビーアド博士に、
「お二人の話はどうでした」
 と訊いたら
「アハハハ。二人でドイツ語で話をした。私の錆びついたドイツ語でね」
 とビーアド博士は答えた。それから半箇年の滞在中、二人だけの時は、「錆びついたドイツ語」で盛んに話し合った。そして言葉が行き詰まると、顔を見合わせて哄笑した。二人はこうして親しみを増して行った。
 後藤の本旨は、ビーアド博士に東京市政の研究に没頭させることだけではなかった。世界的な大学者という多大の宣伝価値を有する彼を十二分に利用して、都市問題に対する関心を日本の朝野に喚起することもその目的の一であった。
 後藤はビーアド博士をしばしば東京における講演会に出席させただけでなく、11月上旬から中旬にかけて、かんさいの各都市に伴い、みずから壇上より彼を紹介しつつ、都市問題の講演をなさしめた。鶴見はこの時、通訳をして行を共にした。この時に鶴見はビーアド博士一家を案内して、京都奈良の秋色を賞でた。その山容水色が、この一家の人々の魂を魅して了った。ことに修学院の御園のあでやかな紅葉と、法隆寺のさびた境内とが彼等を驚かせた。
 10月2日、鶴見はビーアド博士一家と詩人ニコルス夫妻を自邸に招待したが、婦人公論の記者波多野秋子も招かれて、鶴見の接客振りに大いに感激している。
 ビーアド博士は報酬を全然受け取ろうとしなかった。叙勲の沙汰があった時に固辞したことばは感動的である。
「どうか、日本の皇室と政府とは私に何の恩賞も名誉も与えてくださるな。私は久しき以前から日本に対する西洋諸国の我侭非難を快からず思っていた。然るに今度私が日本へ来て、皇室の殊遇を蒙ったとあったら、米国の評論家や世間一般は何と言うでしょう。ビーアドが日本を弁護するのは当たり前だ。彼は日本の皇室から、あのような名誉を賜わっているからだ。そう言われたならば、私の言葉には一切権威が無くなってしまう。私の日本論は、日本人に喜んでもらうとか、何か報酬を受けようとかの心から出ているのではない。一個の学徒として、真理の探究者として、私は正しいと信ずることを言っているのである。今後ビーアドの日本論に権威あらしめようと思召されたら、どうか、一切の報酬と殊遇と名誉とをお与えくださるな。ただ私をして一介の旅行者として来り、一介の旅行者として去らしてください」(『北米』370頁以下)

○大正11年6月26日に東京市政調査会の発会式が挙行された。会長後藤新平の下に、鶴見は前田多門らとともに9名の理事の一人に推され、評議員を兼ねた。理事の任期は5年であるが、鶴見は昭和21年まで再任を重ねた。

○10月21日には日本青年会館において、雑誌「婦女界」の愛読者大会に招かれ、約2千人の若い女性に「真理の解放」と題する講演を行った。その速記録が『鶴見祐輔氏大講演集』に収録されている。
○10月はこのほかに一高の十月大会で、「感激の生活と真理の把握」と題して演説をしている。
 この演説について向陵誌153頁に次のように記されている。
「大会には、久しく向陵論壇を後にせられし先輩鶴見祐輔氏来りて「感激の生活と真理の把握」と題して、壮重なる弁舌と巧妙なるジエスチェアを以てクレマンソーを論じウイルソンを語り、H・G・ウエルズを紹介し万人に自由主義時代の来らん事を渇仰し、感激の精神を忘れず、之を深め之を高めよと二時間余に亘りて熱弁を振い、満堂の聴衆を惚然たらしめたり。」

○11月には日本青年会館で、「世界的勢力たるウエルズの作品と人物」と題して講演を行っている。その速記録は『鶴見祐輔氏大講演集』に収録されている。

○山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』によると、この年の秋に鉄道時報社から『偶像破壊期の支那』が出版された。筆者石塚はこの本を未だ入手できずに居るが、大正13年に出版された『三都物語』の巻末に付された広告が載っており、『新英雄待望論』の巻末に付された「鶴見祐輔先生著作目録』にも載っている。
 しかし、『米国々民性と日米関係の将来』はこの著作目録に載っていない。また、著作目録に載っている『世界少女物語』を筆者石塚は半世紀にわたる古本屋めぐりにも拘らず未だに入手できない。
○秋、東京のキリスト教青年会館で、ウイルソンとウエルズの話をした、大暴風雨の夜であったが、聴衆は300人も集まった。
○大正11年の著述
 中外商業7号に「支那紀行の一筋」を寄稿。
 週刊朝日10月15日号に「偶像破壊期の支那」を寄稿

 大正12年(38歳)
○前年12月30日に、社会主義ソビエト共和国連邦(ソ連)が結成されたが、2月1日にソビエト連邦極東全権アドルフ・ヨッフェが、物凄い殺気が渦巻く東京駅に到着した。12時40分に特急列車がプラットフォームに滑り込むと、それッ!と2百数十名の背広姿の警官がヨッフェの乗っている車輌を包囲した。新聞記者も写真班も近づけない。何時凶漢が表れてヨッフェを襲撃するかも知れないので、私服の警官たちは人間の壁を作って、ヨッフェの一行が電車から降りてくるのを待った。
 そういう殺気立った危険な空気の中で、後藤市長は一私人の資格でヨッフェを東京に招いて、日露国交回復の交渉を開始しようというのである。
 ヨッフェは同日午後4時35分から約3時間にわたって築地精養軒で後藤と会談した。そして翌日麻布桜田町の後藤邸を答礼のため訪問した後、病気治療のため熱海の海浜ホテルへ赴いた。
○2月5日には、赤化防止団が邸内に乱入して、家人に後藤新平への面会を強要して、後藤が不在と知ると、家財器具を破壊し、窓碍子を破壊した。隣家の鶴見は書生の急報に接して、木刀を携えて駈けつけたが、暴漢は既に逃走した後であった。
 2月28日に右傾団体の暴漢は再び後藤邸を襲い、後藤新平に代って面会した長男一蔵の頭を乱打して裂傷を負わせた。5日は土曜日だったので鶴見が在宅していたが、この日は月曜日で鶴見は出勤していた。この時、5歳の鶴見和子が現場に居合わせた。(『曼荼羅』環の巻365頁。『女書生』450頁)
 なお、この事件は警視庁差止令により邦字新聞には掲載されなかった。

○2月26日、後藤新平の母利恵子が98歳で逝去した。後藤の妻はその5年前に52歳で他界している。だがまだ姉・初勢77歳が同居しており、庭つづきの隣家には鶴見に嫁した長女愛子28歳が住んでいる。愛子夫婦には孫の和子5歳と俊輔1歳も居る。

○3月に鶴見は再び中国に出張した。旅客課長種田乕雄が不在中再び総務課長を代理した。旅程の詳細は不明だが、3月24日に青島に居たことは確認されている。この旅行中に鶴見は広東大本営に孫文を訪問している。その会見記は大正15年に出版された『壇上紙上街上の人』に収録されているが、38歳の鶴見は孫文を過小評価している。曰く「もとより、自分はカヴールに会おうと思って来なかった。しかしマヂニーには会えるかも知れないと思って来た。そうではない。自分の会ったのはコッスートであった」
 そして中国を指して「大きい国と小さい人」と嘆いている。

○4月27日に後藤新平は、日露交渉についての政府との意見の相違が市政にまで悪影響を及ぼすことを憂い、大正9年12月以来その任にあった東京市長を辞職した。後任は助役の永田秀次郎である。
○5月6日には東京において後藤新平はヨッフェと会談した。当時鶴見は後藤の身辺にあって、対ヨッフェ交渉の手伝いをしていたが、この日の会談には後藤に同行して、会談に立ち会った。
 2月1日に横浜に入港したヨッフェは、8月10日敦賀より出国した。

○5月20日には上毛学友会において、「郷土を愛する心」と題する短い講演をした。速記録により『鶴見祐輔氏大講演集』に収録されている。
○5月28日、丁未出版社より『三都物語』が出版された。鶴見の第5作である。なお、『三都物語』は、昭和5年に出版された『自由人の旅日記』に吸収されている。この両書は鶴見の長姉・広田敏子に捧げられている。鶴見とそのきょうだいは、敏子の夫・広田理太郎の好意によって高等教育を受けることができたのである。
 鶴見は、「吾人が生息する現代は、大西洋を中心とする文化の時代である。而して、大西洋を支配する三個の国民は、英米仏の三国である」から、「三国の国民の文化が結晶しているパリ・ロンドン・ニューヨークの研究は、吾人の生息する現代の研究である」という。
 鉄道省に在職中の鶴見は、大正10年末の休暇に第一篇仏都パリを記し、大正12年年初の休暇に第二篇英京ロンドン、第三篇米都ニューヨークを書き上げた。『欧米名士の印象』とともに大正7年9月から10年4月までの2年半の外国留学の産物である。梗概に代えてその目次を次に掲げる。
●パリ
  1.蟻と蜜蜂と鳩
  2.三都のホテル
  3.公園と売店
  4.若葉の下の幸福
  5.女王のように
  6.文明の結晶
  7.趣味と礼譲
  8.ギリシヤの伝統をうけ継いで
  9.カフェー店
 10.女の都
 11.炉辺
 12.気の散る町
 13.細い曲線の都
 14.享楽生活と金
 15.平和と倹約
 16.客観性
 17.新聞
 18.会話の天才
 19.歓楽の底の哀愁
 20.一枚の絵巻物

●ロンドン
  1.一面の花園
  2.高貴なる何物かを
  3.ニューヨークからロンドンへ
  4.人類の安息所
  5.パリからロンドンへ
  6.紳士の国
  7.英雄崇拝
  8.月並生活と脱線心理
  9.女王の前でトー・ダンス
 10.一輪ざしと投げ花
 11.詩の国と散文の都
 12.男性の郷土
 13.子供の王国
 14.町の隅々に漂う貴族の影
 15.二人別々の女性
 16.凛々しい馬上姿
 17.球は青空を流星のごとく
 18.気の落ちつく町
 19.旅する人々
 20.勝手気儘の町
 21.後庭の老松

●ニューヨーク
  1.大西洋を西へ
  2.霊の雄叫び
  3.宗教吟味
  4.革命の家
  5.人の波
  6.光の海
  7.王朝交迭
  8.空碧し
  9.響の都
 10.二十四弗の島
 11.人生は競技
 12.淋しい町
 13.外国人の町
 14.ニューヨークの守り神様
 15.文芸の根の冬籠り
 16.一画の風韻
 17.厩住居の小説家
 18.栄華の大路
 19.倶楽部の町
 20.穴居生活
 21.直線の都
 22.ナイヴィティ
 23.十七歳ごろ
 24.誇張癖
 25.河馬を見た話
 26.スラングの都
 27.底に隠れたあたたかさ
 28.暴君としての子供
 29.疲れたる夫
 30.社交界の女性
 31.エフィシェンシーの都
 32.山荘悠々
 33.ロンドンとパリとの間を彷徨いつつ
 34.ニューヨークよ、汝の面を西にむけよ

 本書は大正12年、鉄道省の官吏であった鶴見が、大正7年から大正10年までの欧米三都の見聞と論評を記したものである。
 第2回は昭和5年に明政会事件が発生して衆院選に落選した鶴見が長い欧米の講演旅行の途次、昭和7年に英露独仏を訪れている。
 昭和11年9月に鶴見はロンドンを訪れ、11月にモスコーに着き、シベリアを経て帰国しているが、途中独仏を訪れたか否か不明である。その後鶴見は欧州を訪れていない。

○9月1日の朝、至急面会したいという後藤新平の要請を鶴見から伝えられて、男爵であった養父を相続して貴族院議員になっていた池田長康が麻布桜田町の後藤邸を訪れた。
 その時は加藤友三郎が病死して山本権兵衛が組閣中であった。
 後藤の要件は、山本首相が貴族院の会派である研究会を昔のようなものと誤認して、甚だ取扱いが悪かったので、研究会の幹部のお冠を曲げてしまった。組閣がそのためにスムーズに進展せずに居る。それで池田に一切を任すから意思の疎通を計ってもらいたいということであった。
 池田は男爵仲間で構成している公正会の幹部である。そして公正会は子爵を中心に構成しており貴族院の最大会派である研究会とは犬猿の仲であった。
 しかし池田は研究会の幹部と常に連絡をとっており、研究会も池田には好意的な態度を示していた。
 この事件を承知している後藤が、池田に目を着けたのだ。br>  池田は後藤は示した条件を見て、研究会が容認すると判断して後藤の依頼を引き受けた。研究会は好んで組閣に反対しているのではない。余りに子供扱いにされたので、山本内閣になったらいよいよ馬鹿にされるぞと感情的になっているのだと池田は見ていた。
 池田が研究会の幹部を訪問する前に後藤邸と庭つづきの鶴見邸へ立ち寄って雑談していると突然家が持ち上がってきた。テーブルは倒れる。茶器菓子鉢は転落する。障子、襖ははずれて倒れる。塵埃濛々で何が何やら見当がつかない。ようやく大地震だと2人同時に気がついて、「地震だ!気をつけて」と叫び合った。2階に居た2人は柱と柱を手で支えたが、家全体があたかも暴風雨に揺れる船のように、上下左右にギイギイと家鳴りして震動した。少し静かになったのを機に階下に下りると再び強い揺り返しが来た。
 後藤邸では当時家屋は完成していたが、庭は未完成であった。植木職人が数人来ていたが、彼等はみな樹にへばりついていた。3、40間もある石の塀が総崩れとなって、外から家屋と庭が丸見えであった。

 池田が研究会の幹部である黒田清輝子爵を別邸に訪ねると、黒田家では広い庭に畳を出して提灯を樹につるして再度の地震に備えていた。
 会談の結果両者の意見は一致して、黒田は自分が一切を引き受けたから池田はもう他の研究会幹部を訪問しないでよい。後藤氏に研究会は組閣に協力すると伝えてくれと言った。
 池田は再び後藤を訪れて黒田の回答を齎らした。
 後藤は研究会の回答を得ると直ちに山本首相と協議し、当夜深更宮中において親任式が行われ、山本新内閣が誕生した。

○10月6日、後藤復興院総裁の召電を受けて、チャールズ・エー・ビーアドが再び日本を訪れた。以来彼は、政府及び市の当局と幾度となく会見しては、当局、特に後藤総裁に向かって、しばしば有益なる進言をした。その進言は後に10月30日、長文の覚書として一括して後藤総裁に提出された。その内容は『後藤新平』第4巻に収録されている。
○11月3日ビーアド博士は、熱烈なる書簡を後藤総裁に呈して、理想に邁進せんことを強説した。
 鶴見は訳文を後藤総裁に示したが、後藤総裁は「腐儒の意見だ!」と一括した。後藤総裁は政友会の修正案に妥協することにしたのである。その理由を後年鶴見に語った。「あの時、俺がやらなければ、ほかに復興事業のやれる人間はいなかったからだ」と。
○11月にビーアド博士は帰国した。
○12月22日、鶴見は職務勉励につき2090円の賞与を賜わっている。
○この頃のアサヒグラフ第101号に、次の記事が載っている。
“噂の人”舅御後藤さんのフトコロ刀 鶴見祐輔君
「私は断乎として薦めたんです。然し周囲のものは非常に危みました。ヨッフェ氏が来るという2月頃の険悪な空気というものはなかったですからね。実際外務大臣か次官位の椅子を賭ける位のケチな了見でこんな仕事が出来るもんですか」と後藤子の愛婿鶴見祐輔さんはお舅さんの野心を極力打消そうと努める。

「ウイルソンだって教育改革の大問題に乗り掛かった時無論彼には大統領たらんとする野心はなかったと思います」ヨッフェ氏から後藤氏への覚書が手交された時徹宵して飜訳した鶴見君が、わが事のようにオヤジの事で殊に力瘤を入れるのは無理もない。

「この問題は早晩ドウしても解決せざるを得ない。後藤は日頃からアアした男だものだから皆が鳴物入りで囃し立てる。どうも大変な騒ぎだ」と白い目玉をグルリとむく。

「何に?私が参謀格だって?そんなことはない。重大な後藤の身上の問題として話に与る事もあるが……何しろ私も役人ですからねえ……」と役人であることがモドかしそうにも見える。

 何と言っても鶴見君は後藤子のフトコロ刀、ウイルソンに於けるカーネル・ハウスという格だ。昨日の帝国ホテルに於ける汎太平洋午餐会の英語演説なども却々立派な出来だった。彼を潰しにすれば恐らく有数な新聞記者になるだろう。

 2年間鉄道省から外国留学を命ぜられて、新聞特派員のように欧米のあらゆる階級の大立物を会見(インタビュー)して来て本まで著わした。
 但し同書によれば鉄道に関する人物には一人も会っていない!

○12月27日、難波大助、虎の門で摂政宮を狙撃。
 29日、山本内閣総辞職、後藤新平も内務大臣兼復興院総裁を辞任。後藤の政治活動はこの日で終った。

○この年の著述
 大正12年5月に丁未(テイビ)出版社から『三都物語』が刊行された。(この書は、昭和5年に日本評論社から刊行された『自由人の旅日記』に収録された)この書の奥付の裏に次の本の広告がある。
『米国々民性と日米関係の将来』岩波書店刊
『文明政治家ウイルソン』岩波書店刊(近刊)
『偶像破壊期の支那』鉄道時報者刊
『世界人たるの意識』大日本雄弁会刊
 因みに岩波書店の創立者岩波茂雄は、一高で鶴見の1年上級であった人である。
 右のうち『偶像破壊期の支那』は、昭和26年に出版された『新英雄待望論』の著作目録に載っており、『米国々民性と日米関係の将来』が出版されたことは鶴見が認めている。(『成城』1巻216頁)
 だが、『文明政治家ウイルソン』と『世界人たるの意識』は、山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』によると未完に終っている。
「欧米婦人の趣味」掲載紙不明
「命を賭して入京したヨッフェ氏」婦人公論6月1日号
「世界の安定と日露関係」掲載紙不明7月13日号
「世界滅亡とウエルスの予言」女性7月16日
「人物月旦ということ」サンデー毎日8月26日号
「人生の転向」サンデー毎日9月30日号
「読書の方法」サンデー毎日10月7日号
「随想 秋の軽井沢」サンデー毎日11月25日号
「大震災に対する潮のごとき世界の同情」婦人世界10月23日号 18巻11号
「アスクヰス夫人のこと」婦人公論5月号
第2章 講演者 第1節 北米遊説へ
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