鶴見祐輔伝 石塚義夫

inserted by FC2 system

   第2節 著書の紹介

 『南洋遊記』

 『南洋遊記』は、大正4年10月から大正5年1月まで、第一次世界大戦のさなかに、当時鉄道院参事だった30歳から31歳にかけての鶴見が、鉄道院発行の英文東亜交通案内記の第5巻南洋の巻を編集するに当たり材料を収集し、実地の踏査をするために、南洋各地へ出張した経験を基に書いた旅行記である。
 初版は大正6年3月であるが、大正13年までに9版を重ねている。大日本雄弁会(当時はまだこの下に講談社が付いていなかった。)の発行である。
 鶴見の著書は『後藤新平』全4巻以外は今日では古本屋の書棚からも姿を消し、稀に古書市で見付かっても廉価であるが、『南洋遊記』は別格で、平成13年の京王百貨店新宿店の古書市で9千円(『後藤新平』は全4巻で4万円)の値がついていた。その数年前或る人が3万6千円で入手した事実がある。箱入りで厚い表紙のこの本は当初から高価であった。例えば大正13年版の『南洋遊記』は6円であるが、同年に刊行された『三都物語』は2円50銭、『思想山水人物』も2円50銭である。

 『南洋遊記』は、鶴見の最初の著書である。巻頭に献呈辞がある。

 夙く雙親に別れし余を導きて今日あるを得しめ給ひたる
 伯父 本尾敬三郎
 義兄 廣田理太郎
 両大人の膝下に謹みて此拙き一書を捧げたてまつる

 廣田理太郎は鶴見の上の姉・敏子の夫である。理学博士で、富裕な人だった。若くして父母を喪った鶴見とそのきょうだいは、義兄のお蔭で高等教育を受けられたのである。廣田理太郎夫妻の間に加藤シヅエが生まれている。
 私の手許にあるのは大正13年版であるが、天皇陛下乙夜之覧(唐の文宗が昼間政務に多忙のため、乙夜(今の午後9時から11時)を過ぎてから読書したこと。転じて天子の書見。)、皇后陛下台覧、皇太子殿下台覧を賜うと開巻第1ページに記されている。巻末には新聞社19社の書評が掲載されている。みな好評である。
 巻頭の『南洋遊記』の文字は、岳父後藤新平の揮毫である。この本を書いた当時の鶴見の住所の「内田山」とは、旧麻布宮村町の井上馨邸の前で、現在の六本木6丁目、都立城南高校の並びのようである。鶴見は此処に後藤新平と庭つづきの家に住んでいた。

 本書は帰国した年の夏季休暇2週間で、熱海において大部分を執筆したが、さらにその翌年、大正6年1月に速記者に口述して補完、脱稿した。ガイドも雇わずに2人だけで外国旅行ができるとは、鶴見が英会話が達者であるからだが、当時まだ留学したことのない鶴見はどこで英会話を習得したのであろう。鶴見は明治44年(26歳)8月から明治45年9月まで、新渡戸稲造夫妻に随行して欧米(ほとんどは米国)を旅行している。新渡戸稲造の夫人は米国人だから、外遊中は勿論、帰国後も新渡戸夫人に学ぶ機会が多かったかも知れない。

 本書ができ上ったとき、その誤植の多さに鶴見は憤って本を床に叩きつけたというが、私の読んだ第9版になると誤植も無くなっている。
 『南方遊記』を書いたのは鶴見は31歳の時であるが、彼は30で既にこのような名文を書いたのだ。和漢洋の教養が深く、語彙が豊富であり、たいした文章力である。
 作家の多くは若い時の文章は漢字が多く、老年に至ると漢字が少なくなるといわれるが、『南洋遊記』も漢字が多い。漢字をあてられる字はすべて漢字にした感じである。もっとも明治時代は外国の地名を感じで表現し、各種の名称も漢語にすることが流行した。ちょうど現在の日本の会社が競って商号をカタカナにするのと似ている。
 著者は幼少より南洋の興味を深く感じていた人である。熱帯地も今回がはじめてではない。前記の欧米旅行中、1カ月は西インド諸島に遊んでいる。本書は興味本位で南国乃至外国に対する興味を刺激することが目的である。英文東亜交通案内記を編集するための報告書とは別の紀行文である。鶴見が本務を結了したる余力を以てその見聞を興味本位に記述したものである。因みに東亜交通案内記の英訳は、横井時雄(横井小楠の子)の手によって成った。
 表紙絵は、鶴見がネグロス島で撮影した写真を基として、本田穆堂画伯が意匠を凝らしたものである。
 国民新聞社々長徳富猪一郎、朝日新聞の杉村楚人冠をはじめ19の新聞社から寄せられた書評を箇条書きにすると次のような内容である。
○文章鮮麗で面白く読ませる。
○珍奇なる風景風俗写真は有益である。
○その文章頗る詩趣を帯ぶる所、恐らく官人中の文章家を以て許すべし。
○後藤男爵の○(原文では馬へんに“付”)馬として、鉄道院部内に辣腕の聞えある著者が、英文東亜交通案内書・南洋の巻に筆を著くるに当り、官命を帯びて実地を踏査し、帰来本務を結了したる余力を以て、その見聞を興味本位に記述したものである。
○南洋に志す人の参考書として得難き書籍であろう。
○著書は殊更に興味本位と断っているが、或は統計を引き或は写真を挿入し政治・地理・人情を説くこと詳細にして、最後に南進是非を以て終る。
○従来刊行せられたる多くの南洋紀行中異彩を放てり。
○著者は学生時代より雄弁家として知られ、少壮吏人中最も将来を嘱目せらるる一人なるが、この著によりてその文才も亦厳として別に一家を成す可きを示せり。
○凡そ旅行記というものは概して報告的で興味索然たるものである。殊に官吏などの作った旅行記から一頭地を抜き文章の華麗、叙事の精細に加うるに豊な想像もあり巧みな諷刺もあり軽いユーモアもあって一度繙けば吸い込まれるように引付けられる。
○興国の機運に際会せる日本に資本的南進策を慫慂せるもの。

 第1章鉄道官僚時代に関連記事がある。
 なお、大東亜戦争中、情報局の依頼で、南洋、中国その他いわゆる大東亜共栄圏の日本語学校の教科書とするための海外向けの絵本を講談社が作成したが、そのうちの一に『ホセ・リサール』と題する絵本があった。(『講談社の歩んだ五十年』昭和編567頁)


 『欧米名士の印象』

 本書は、大正10年に実業之日本社から刊行された。同社は恩師新渡戸稲造と関係のある出版社である。
 この本が出版されたのは、大正7年9月から大正10年4月まで欧米を視察して帰朝し、運輸局総務課長となった36歳の時である。暑中休暇を得て20日間にわたり速記者に口述して完成した本である。『南洋遊記』につぐ第2作で、巻頭に「愛弟良輔の墓前に此の一書を捧ぐ」という献呈辞がある。
 本書を書いた動機は、「初め自分は此種会見談を公私会合の席上で説話して歩いた。」「併し後其の反復絮説の繁に堪えざるに至って、寧ろ之を一部の書となすの容易なるを感じた」ためであるという。
 だが、新聞、雑誌記者でもない鉄道官僚が官費による海外出張の日に、著名人にインタビューして歩き、その記録を公然出版するというのはどんなものであろうか。

 第1期 休戦条約締結より平和条約調印まで
 大正7年(1918)9月に上陸し、第一次世界大戦末期の最も昂奮した米国人たちに面会した記録。戦争の終局よりパリ平和会議に至る時代で、近代史中の最も光彩に富んだ時期。ウイルソン大統領の全盛時代で、新自由主義と純理想論とが米国人の伝統的宗教情調を霊感せしめていた時期。
 人物論の対象とした人々は次のとおり。
 ウイルソン大統領 前国務卿ルート マッカドゥ蔵相 ヒューズ国務卿 ランシング前国務卿 米国労働組合首頭ゴムパース 大審院判事ブランダイス 米国新聞王ハースト 米国新人の一団 婦人運動・社会運動家ウオールド女史 労働問題の研究家パーキンス 英国の作家ゴーズウォージー 駐米英国大使レッディング 女流詩人ピーボディ 弁護士ムアーズ 上院議員ラ・フォレット 革命児ハザノヴィッチ

 第2期 平和条約調印より1919年暮まで
 平和条約調印後、交戦国の空気が一変し、ウイルソンの純理想主義に期待した欧米の自由主義者の失望、人心の不安、失業と労働争議の頻発の時代。
 人物論の対象とした人々は次のとおり。
 英国首相ロイドジョージ 前米国大統領タフト 英国外相カーゾン 米国平和全権ハウス 英国の全封鎖大臣セシル 米国商務卿フーヴァー 雑誌記者アーヴィン 米国鋼鉄王ゲーリー 宝石鑑定大家クンツ コロムビア大学教授シムコヴィッチ ロンドン・スクール・オヴ・エコノーミックス教授クラス 英国皇太子アルバート ビーアド博士 フォーラ婦人

 第3期 1920年新春より米国大統領改選まで
 英国の労働党が社会革新の純理想を提げて奮闘し、自由主義の大旆は病床のウイルソンから、英国労働党の年若き新思想家の手に移った観のある時期。
 人物論の対象とした人々は次のとおり。
 文豪ウエルズ フェビアン・ソサエティのシドニー・ウエップ 英国の新思想家グループであるレッド・ライオン・スクェーアー・クラウド 英国のギルド社会主義の提唱者コール ロンドン・スクール・オヴ・エコノーミックス教授ラスキー ロンドンのトインビー・ホール館長マロン 英国労働党書記長ヘンダーソン 英国労働党領袖トーマス 英国の思想家ノルマン・エンジェル 仏国の鋼鉄王シュネーダー 英国の新聞王ノースクリフ

 第4期 米国大統領改選より帰朝まで
 1920年に交遊した旧友の叙述
 人物論の対象とした人々は次のとおり。
 米国の著述家チャイルド 米国の実業家ヘンリー 銀行家ヴァンダーリップ 出版社副社長ヒューストン 英国の作家ギップス 米国の政論家サイモンヅ 米国の銀行家ロバーツ 米国の救貧事業家ジェーン・アダムス ウイルソン大統領 政治学者エリオット博士夫妻

 大正7年11月14日、第一次世界大戦の休戦条約成立の3日後に、ホワイト・ハウスで鶴見はウイルソン大統領に単独会見した。
 33歳の日本の一官吏が、米国大統領に面会できたとは、空前絶後の出来事である。鶴見がどうやって面会できたのかというと、ウイルソン先夫人の妹であるエリオット夫人からウイルソン大統領へ書簡を送ってもらったのであった。
 握手してくれたウイルソン大統領の手は、温かい大きい手であったと記しているが、これは徳富蘆花がトルストイと握手した時の、 「その手は大いにして暖かなりき」に倣ったものであろう。
 そしてウイルソン大統領は、鶴見との面会に応じたばかりか。パリ平和会議に出席することを鶴見に明かしたのである。この事をホワイト・ハウスはまだ発表していなかった。
 この席上で「リンカーンは寂しい人であった」と言ったウイルソンの言葉を、鶴見は後年追悼演説で引用している。
 また、ウイルソンがデモクラシーを樹木にたとえて、樹木が養分を吸うのは、上に美しく開いている葉や花から取るのではなくして隠れて地に埋っている根から取るのだと言った言葉を読んで、ここにウイルソン氏のデモクラシーの真髄が表われていると思って、鶴見がその頃教えに行っていた学校の学生に繰返しこの話をしたとウイルソンに告げている。これは鶴見が鉄道院に就職した後、弟妹を扶養するために、退庁後夜学の講師をしたことを彼自身が語った唯一の記録である。

 鶴見は記していないが、エリザベス・ハザノヴィッツ嬢に面会したのは、彼女の親友である河合栄治郎が取り計らったものであった。(松井慎一郎『鶴見祐輔と河合栄治郎』早稲田大学院文学研究科紀要第44輯第4分冊56頁)
 なお、この論文で松井が、「『欧米名士の印象』にも記されているように、鶴見がいかにつむじ曲がりとはいえ、ハザノウイッチやその友人たちを前に、日本に米騒動は起こらなかったと断言したことは、社会問題に対する理解の浅さを示している」と書いているが、これは相手の態度が癪に障ったので、鶴見には珍らしく旋毛曲りの返答をしたのである。鶴見は米騒動については小説『子』の「戦争と母」の章で取り上げている。
 本書のうちから、ウイルソン、ブランダイス、ハウス、ウエルズ、ノースクリフの章は、昭和43年にダイヤモンド社から発刊された『鶴見祐輔人物論選集』に転載されている。


 『三都物語』

 『三都物語』は、大正12年5月に丁未出版社から刊行された。大正13年4月までに5版を重ねている。
 巻頭に長姉広田敏子への献呈辞がある。
 鶴見は序文に言う。「史家ヴァン・ルーン曰く。『ローマ帝国とは、ローマと称する一都市の背影地帯の称名にすぎない』と。都市の研究はその国家の研究であり、また同時にその時代の研究である。吾人が生息する現代は、英米仏が支配する大西洋を中心とする文化の時代である。パリ・ロンドン・ニューヨークの研究は、吾人の生息する現代の研究である」
 当時鉄道省に勤務していた鶴見は、大正10年末の休暇と大正12年初めの休暇を利用して本書を書いた。
 第1章仏都巴里の第1節蟻と蜜蜂と鳩は、昭和4年に刊行された講談社の修養全集第5巻に収録された。
 巻末の「三都追懐」で鶴見は言う。
「人類の自由と解放との為めにあれ程の勇ましき貢献を為したパリの都が、人類の福祉の為めに、永久に保存されよと祈願する。
 また、燻ぶったロンドンの国会議事堂が、立憲政治というものを、世界に与えた追懐を、誰人も讃嘆の情なしに、眺めることは出来ない。ここからもう一度、世界に率先して、経済上の民主主義の模範が、顕われるかも知れない。
 そしてニューヨークの第五広通の絡繹とつづく車を思い浮かべるだけでも胸が躍る。今これから全盛期に入ろうとする、その勇みが大気のうちに生動している。自分は騒がしい不統一なニューヨークの町を、逸りきった青年の未来を望み見るように寛大な期待をもって眺める。
 この大いなる三都に遊んで、人に交わり、物象を眺めてのち、遊子は国に帰って、今更のように周囲を見廻わす。あれ程、爛熟した江戸の文華は、ニ十世紀の初めには、もう縷々として立ちのぼる一抹の線香の煙ほど細くなっている。一時は勢怒涛の如く見えた泰西文明の波も、実は一雨の後に溢れた谷川の水位なものであった。
 本当に人間の心の底の革命を、起さぬうちに、ドーッと遠浅にひいてしまった。その後に真実の創造時代が生れようわけはない。この町には、一七七六年も、一七八九年もなかったのだ。霊の自由なる発達の曙はまだ来ていない。まだ江戸の連続である。封建制度の伝統のうちに、漂流しているのだ」

 本書は知識階級にも好評だったようである。外交官の蘆野弘は次のように言っている。
「『三都物語』―巴里、倫敦、紐育のそれぞれ特色を描いた随筆風なもの―などは第一、題が気が利いて居るし、丁度鶴見さんの座談を聴く様な気持で楽しく読んだ。(『友情・蘆野弘の言』57頁)


 『鶴見祐輔氏大講演集』

 本書は、大正13年9月に大日本雄弁会から刊行された。昭和4年までに33版を重ねている。
 鶴見は大正7年9月から10年4月まで、鉄道官僚として海外視察を命ぜられ(昭和7年のアメリカから鋼材を輸入し、これと同じ重量屯の船舶を返す「船鉄交換」の対米交渉を含む)欧米諸国を巡歴した。その中には後藤新平の欧米旅行に随行した期間もある。
 帰国後3年間に鶴見は講演を求められること200回に及んだ。その講演の速記録をもとに本書は誕生した。鶴見が鉄道省に在勤中の講演である。
 本書が出版される時、鶴見は退官してウイリアムス・タウンへの講演に出発した。
 鶴見は英語演説1千回、日本語演説1万回といわれるが、その演説が本になったものは、本書と英文『現代日本論』(沢田謙による日本語訳あり)だけである。
 本書の内容については、第1章鉄道官僚時代に記述した。


 『思想・山水・人物』

 『思想・山水・人物』は、424頁。次姉矢崎千代子への献呈辞がある。
 その序文で鶴見は言う。
「現代の日本のようにせち辛い世の中では、我々は自分の性格にぴったり合した仕事に没頭する前に、先ず自分の生活のために働かなければならない」
「しかし終生かかっても、本当の事業を、自分の職業と為すことが出来ないで終る人がある。否、むしろ、しかる人々が多いのである。しかし、人間の絶えざる欲求は何等かの形において、真事業を探索せずには止まない。○(原文は“玄”を2つ並べる)において、人間は自分の専門外の仕事を始めるのである」
「ゆえに古来の大事業は、多く所謂専門家ならざる人々の手になったのである」
 そして言う。
「自分のごときも亦、久しい間、職業と生活との分離に苦しんでいた一人である。しかし、幸いにして、とにかく自分は、その生存のためにする職業の間から、自分の真に好ましとする仕事に力を割く余裕があった。その余業は、書斎において読書し思索し、文筆を執ることであった」
「自分はウエルズのように、文章を書くことが一番好きなのではない。従って一生の事業として文学を選択するとは考えていない。ただ自分は、仕事の間々に文筆を取ることが非常な娯しみなのである」

 大正10年の初夏に欧米から帰国後3年間に書きためた文章に新しく書き加えたものが本書である。
 第1篇断想は、時事新報に毎日連載したもので、書きはじめるときは切れ切れの感想を記すつもりであったのが、いつの間にか断想でなくして一貫した論文のようなものになった。
 これはウイルソンとモーレー卿と、英国労働党とを論じて、この英米両国の政界の基調を為せる自由主義の精神を述べたものである。
 第2篇から第22篇までは随想で、第23篇から第31篇までは旅行記及び旅行に関する感想である。
 そしてこれら全篇に通ずる共通の思想は、政治ということである。政治ということが自分の幼少からの一番強い興味であると鶴見は言う。

 梗概に代えて――目次――
 第1章 断想
  1.入日
  2.ピット
  3.マクドーナルド
  4.ヂスレリー
  5.フェアープレー
  6.恵まれたる国
  7.古今千年
  8.ウイルソンの死
  9.彼の随筆
  10.政治とユーモア
  11.大亜米利加人暦
  12.マシウ・アーノルド
  13.モーレー卿
  14.明るい南国児
  15.彼の女性観
  16.ベジョッド論
  17.新時代の開幕
  18.ラ・フォレット
  19.英国を偉大にせる力
  20.女王の御全盛
  21.フェビアン協会生る
  22.シドニー・ウエッブ
  23.バーナード・ショー
  24.ウエルズ
  25.オムレツを喰べ乍ら
  26.トーネー
  27.政治は利権より奉仕に

 第2章 専門外の仕事
 第3章 失意と修史
 第4章 人物月旦ということ
 第5章 空しき篤学
 第6章 人生の転向
 第7章 ひとりよがり
 第8章 書斎生活
 第9章 読書の方法
 第10章 執務法について
 第11章 訪れてゆく心
  1.旅
  2.旅
  3.旅の収穫
  4.ターキントン
  5.奈破崙の家
  6.ウイルソンの秘書官
  7.雨のアトランタ
  8.ラ・フォレット
  9.新渡戸先生(上)
  10.新渡戸先生(下)

 第12章 洋行の前と後と
 第13章 富士が見える
 第14章 指導的地位の自然化
 第15章 帝都の復興
  1.自由
  2.創造的精神
  3.都会生活者
  4.後年の歴史

 第16章 読む文章と聴く文字
 第17章 懐疑主義者ということ
 第18章 文学と政治との岐路
 第19章 国境生活者
 第20章 閑談
 第21章 善政と悪政
 第22章 ユーモアに就いて
 第23章 自由主義について
 第24章 曽遊山河
  1.エドワード七世街(上)
  2.エドワード七世街(下)
  3.カーゾン街の家
  4.モンチーチェロの山荘
  5.スターントンの二階家(上)
  6.スターントンの二階家(下)
  7.ウオーターローの獅子
  8.デルフトの立像

 第25章 紐育より南へ
  1.人間は投影で生活する
  2.文豪ウエルズの旅行観
  3.主観の世界から蝉脱して
  4.紐育から章聖頓へ
  5.日本贔屓
  6.米国一の美人
  7.健全な家庭
  8.サヴァンナの並木道
  9.不老不死の霊泉
  10.川船の一日
  11.米国中の仙境
  12.パーム・ビーチの豪章

 第26章 南の思い出(パーム・ビーチの夏)
  1.パーム・ビーチの夏
  2.南への旅
  3.素敵だなァ
  4.廊下三哩
  5.テニスの熊谷
  6.椅子車
  7.黄金の砂上
  8.帽子七十
  9.青天井の舞踊
  10.記者と読書
  11.映画の如く
  12.植物界の王者

 第27章 秋の軽井沢
 第28章 北支那の初夏
  1.見知らぬ国
  2.奉直戦争
  3.天壇は文鎮のように

 第29章 北京の魅力
  1.五百年の風雨に晒されて
  2.青空の下に王宮の黄色い甍が
  3.驢馬は長い耳をふり乍ら
  4.死ぬまで北京に
  5.駱駝は貴族のように
  6.珠簾の後に輝く眸

 第30章 旅ということ
 第31章 紐育の美術村


 『壇上紙上街上の人』

 『壇上紙上街上の人』は、大正15年11月に大日本雄弁会講談社から刊行された。530ページの本である。巻頭に「この一書を愛弟良輔の墓前に捧ぐ」という献呈辞がある。この書に収録された文章は、大正10年から大正13年までと大正15年に書かれたものである。序文を書いたのは、大正15年9月に、軽井沢に建てたばかりの山荘においてである。鶴見は大正13年に鉄道省を退官しているから、退官前後の時期である。
 大正7年9月以来、鶴見は欧米に出張、留学して、大正10年4月に帰国した。大正11年4月からは2ヵ月半、支那及び沿海州へ出張し、大正12年3月、再び支那へ短期間出張している。大正13年2月に鉄道省を退官し、5月に岡山県から衆院議員に立候補したが落選、7月に渡米、大正14年11月に帰国している。

 鶴見の旅行記には自然描写が少ない。社会と人間を多く描いている。本書にもその序文に次のような記述がある。
「少年のころより、烟霞の癖のあった自分は、大学を終えて社会に出てから、ますますその性癖が募っていった。しかし、それは単に、草枕の旅路を重ねて、名山大川の間に吟嘯しようという欲求からではなかった。今にして振り返って見れば、それは寧ろ、一地に膠着し、一社会に安住することから生ずる、廃頽的、乃至沈滞的傾向より遁れんとする。無意識なる自己保存本能の発露であったと思う。
 新しき環境の提供する刺戟によって、肉体的並びに精神的の新陳代謝作用を敏活ならしめんとする。潜在意識の要求に駆られて、自分は遠き国々を旅していたのであると思う。かかる内心の衝動に追われての、天下放浪であったゆえに、自分は単に人寰を避けて、風月に吟懐をやるということをしなかった」
「本書は、山川を描かず、社会を論ぜず、主として人間を記述した」

 本書の目的について鶴見は言う。
「自分が、本書において、第一に目的としたところは、理想主義の主張である。それは本書においては、何等理想主義の論策を試みなかった。ただ人を通して理想主義と自由主義とを説いたのみである。ウイルソンに大半の紙数を消したのは、現代世界の思想界の一大主流たる自由主義的理想主義の説明を、一人の人格ウイルソンの生涯に求めたのである。
 自分は、物の考え方に於て、常に人間を中心とする。人間より引き離したる思想自身を中心としない」
「第二に自分の目標としたのは、平明なる文字によって、思想を伝えんと欲することであった」
「自分の終生の希望は、何人も了解し得べき平明の文章をもって、思を紙に展べんとするにある。殊に自分は、簡明と素朴との境に入らんことを志している。………乍併、余の文情の低くして、天分の乏しき、文辞なお晦渋に走り、誇張虚飾の痕を免れざるは、深く顧みて慚惶の情なきを得ない」と書いているが、実際は晦渋難解な文章で書かれた本をアカデミックと感じる知識階級は、明快でリズミカルな文章で書かれた鶴見の本を通俗的と軽視したのであった。
「第三に、自分の志したるところは、国際精神の記述ということであった。十八世紀の封建主義が、十九世紀初葉に至って民族主義、国家主義となり、更に十九世紀後半に至って拡大して、帝国主義となり、今や再転して、世界協調主義と変ぜんとしていることである。この主流に逆う者は、到底時代の落伍者たるを免れない」
 不幸にして日独は鶴見の予言に逆って落伍者の途を辿ってしまった。
「本書は国際精神の理論を説かない。ただ、国際精神を具有して働く人々と、その国際精神の心持ちとを説いたのみである」
「第四に本書の期するところは、我々は、究局には、街頭に出て戦わなければならないとうことである。我々の思想が、実行の領域に入る時に、初めて我々の人格の真実なる完成が見出される、とのことである。この知行合一の境地が、本書の底を流るる思想である。ゆえに、本書は多く、街頭の戦士を記述したのである。これ又、本書題目の由来である。要は弁の人(壇上)、文の人(紙上)は更に進んで実行の人(街上)とならなければならぬとの趣旨である」
「ウイルソンの事業と、思想と、ウイルソンの働いたる社会との研究は、別にウイルソン全伝において発表する」
 として、鶴見は将来ウイルソン伝を書くことを宣言している。
 だが、実際には鶴見は、彼の畢生の著述とも言うべきウイルソン伝を書かずに死んでいる。
 鶴見が罹病することが無かったら、ウイルソン伝を世に出したであろうか。『成城だより』第6巻128頁以下に驚くべきことが書かれている。
「……実は私自身が街頭演説に大切な中年時代を過して、とうとうウイルソン伝を執筆せずして今日に及んでいるのだ。あの準備をはじめてから足掛け四十年、私は十九世紀末から二十世紀のウイルソン引退までの二十四年間の米国政治史を、随分材料を集めて丹念に読んでみた。しかし今日となっては大分忘れているから、もう一度読み直しをしなければならない。しかしもうこれを二度繰り返す時間も精力も興味もない。それに疎開騒ぎで材料は大分無くなっている。矢張りこういうことは、その熱情の燃えているときに仕遂げておくべきものだと思う」
 鶴見は、「一地に膠着し、一社会に安住する……」と綺麗事を書いているが、『自由人の旅日記』ではもっとはっきり、「我々は二六時中、同じ人と同じ物語をしていることの無聊に堪えないのだ」と言っている。
 現実的には夫人との不仲や夫人の実家の女系家族、そして偉大な岳父から逃避したかったのではなかろうか。
 鶴見夫人の笑顔の写真を読者は知らないし、笑ったことのない人だと長男の俊輔が言っている。
 岳父の後藤新平の妻は大正7年(鶴見33歳)に、後藤新平の母は大正12年(鶴見38歳)、後藤新平の姉は大正14年(鶴見40歳)に死亡しているが、この三女性は後藤新平の家に同居しており、鶴見の住宅は転々としているが、いつも後藤新平邸から遠からぬ位置にあり、或る時期は隣接地にあった。
 長期間外国で暮らしても本国では後藤新平が居て後顧の憂いがなかった。ただし、長期間の不在、鶴見が父親としての役目を果たさなかったことが、俊輔の不良化と俊輔と母との不仲の原因となったことは疑いを容れない。

 本読み、物書きに終始せず、最後には街頭に出でて戦わねばならぬとするウイルソンの生き方は、若い鶴見に大きい影響を与えたであろうし、事実鶴見はその後政界に入って行った。だが日本の政界はウイルソンを大統領にした米国の政界やグラッドストーンとヂスレリーの大論戦に固唾を飲んだ英国の政界とはその土壌を異にしていた。

 「1.ホワイト・ハウスのお茶」に注目すべき記述がある。30ページに鶴見は「其の頃教えに参って居った学校の学生に繰返し此の話を致したのであります」とウイルソン大統領に答えている。
 これは「経済往来」昭和2年8月号のXYZ氏の鶴見祐輔論の中に「大学卒業後は数多くの弟妹の生活を一身に背負うて、役所より戻るや直に夜学に教えて、小遣いを稼いだ」という記事を裏づけする鶴見自身の証言である。
 その他には『成城だより』第1巻182頁以下において、「大学卒業後も弟と妹とのために働かなければならなかった私は、あまり呑気な官吏生活も送ることはできなかった」と抽象的に書いてあるだけである。

 明治時代の高等官は高給だった。早く結婚したかったら官吏になれと言われたほどである。ただし、それは高等官に限り、判任官のような下級官吏は当時も薄給であった。

 しかし鶴見は大学を卒業(25歳)した3年後(28歳)には結婚している。
 もっとも新婚家庭には弟の良三、憲も同居していたらしく、鶴見は28歳で結婚しても、第一子が生まれたのは5年後である。
 高等官の高級については、芹沢光治良が『人間の運命』で、自身の経験に基づいた記述をしている。

 私は鶴見が新渡戸稲造伝と河合栄治郎伝を書かなかったことを残念に思う。新渡戸稲造の小伝は、本書第5編第34項と『新英雄待望論』後篇第4、第4項に試みられている。
 鶴見の生涯の大作となるはずのウイルソン伝は、彼が最後に残しておいたアフリカ旅行と同様未完に終ってしまったが、ウイルソンの小伝は、本書第1篇と『新英雄待望論』後篇第9に試みられている。

 梗概に代えて――目次――
 第1篇 ウイルソンと其の周囲
  1.ホワイト・ハウスのお茶
  2.父と子
  3.清福一門に鐘る
  4.ウイルソン夫人の印象
  5.ウイルソン引退の日
  6.紫藤花下の家
  7.残念――花日紅満天
  8.ウイルソン逝く
  9.政友ハウス
  10.秘書タルマテイ
  11.文友ペーヂ
  12.大法官ブランダイス
 第2篇 現代米国を動かす人々
  13.ローズヴェルトに会はざるの記
  14.ニュー・ヘーヴンに春日遅々―タフト
  15.米国のみが産出する人傑―ラフォレット
  16.貴い話
  17.満腹の経綸―フーヴァー
  18.鋼鉄王ゲーリー
  19.ターマニー・ホールの雄―スミス
  20.映画界の両雄―ダグラスとメリー
 第3篇 新聞界の英雄児
  21.ノースクリフ卿
  22.ハースト
  23.ロリマー会見記
  24.ウイリアム・アレン・ホワイトの話
 第4篇 支那大陸の人々
  25.偶像破壊の渦まき
  26.実行支那の人々
  27.広東大本営の孫文
 第5篇 明治大正の日本人
  28.伊藤公の思出
  29.その日の山縣老公
  30.大隅老侯の片鱗
  31.原敬氏の印象
  32.一高の夏目先生
  33.咢堂と木堂
  34.新渡戸先生
  35.軽井沢より


 小説『母』

 1.あらすじ
 洋行帰りの若き銀行家大河澄男は、新緑の熱海の山路で、木細工屋の娘・朝子に一目惚れして、周囲の反対を押し切って結婚する。
 だがやがて情熱が冷めてくると、二人の性格の矛盾が現われてきた。子が二人生れて、朝子が子の世話に追われて身支度を怠り勝ちになると、朝子の欠点が澄男の眼に写るようになる。
 そして澄男は芸者浜子と深い仲になって行く。澄男は朝子に辛く当たるようになるが、昔は嫁に行った女に帰る家はなかった。朝子はひたすら辛抱し、子供の成長に生甲斐を見出すようになる。
 或る日珍らしく澄男の妹・月子が訪れるが、それは浜子が妊娠したことを知らせ、浜子が産んだらその子を朝子が引き取れという澄男の要求の使者としてであった。
 幸い朝子の身辺には、婦人運動家の長谷川治子が居た。長谷川治子は朝子に対して、芸者の子を家に入れることは断固拒絶しなければならない。そのために澄男が離婚したら、自分が母子三人を引き取ると言ってくれる。そして朝子に今から学校に入って勉強して、独立の職業婦人となることを勧める。
 だが澄男の従弟で学者の木下一郎は、長谷川治子の考えを旧式と批判する。そして彼は言う。「あなたは長谷川さんのように生まれついた方ではない。誰でも家を離れてノラになれるのではない。あなたは人に愛せられ、人を愛していなくては生きていられない人だ。澄男さんがあなたを愛さなくなった時に、あなたが不幸になるのではない。あなたが澄男さんを愛せなくなった時に、あなたは不幸になるんです」
 朝子は眼から鱗が落ちたように思う。今までは、澄男が自分をいじめているとばかり思ったことは、実は自分も同罪で、澄男を胸のうちから追い出していたのだと知ったのだ。
 17のときの小娘のようにいつまでも澄男に甘えようと思わず、早く母に別れた澄男のために母代りになろうと決心する。
 朝子は他所行きのように盛装して化粧し、快活に夜遊び帰りの夫を迎えるようになる。澄男は次第に浜子から遠のくようになった。浜子が流産したことも幸いだった。
 親が仲直りをすると、子供まで賑やかに快活になった。
 だが家庭の幸福が戻ると今度は澄男の経営する共存銀行が倒産するという不運が訪れた。その半年後に澄男が病死する。朝子は大伴侯爵の女中頭となって邸へ住み込んで働くことになった。或る日、長男の進は大伴侯爵の坊っちゃんと喧嘩をする。侯爵家では召使の子の謝罪を要求するが、進は頑固として拒否する。朝子は進の態度に満足して侯爵邸を出て行く。
 大河一家は長谷川治子の家に居候することになった。
 朝子は芸者浜子に夫の形見を届けて浜子を感泣させる。
 優秀な進は学校が退屈でたまらないと母に打ち明け、熱海の母の実家で自然に親しみ、好きな課外読書を思う存分楽しむが、来日した米国の政治家テーン博士に面会する機会を得たことから、再び都会の喧騒に牽かれて帰って行く。
 澄男が零落してから、うっかり顔を合わすと借金でも申し込まれては大変だというようによそよそしかった妹の月子が、もうその心配は無くなったようだと見極めて、春子を養女に求めてきた。だが朝子は丁重にそれを辞退する。

 進の一中合格の感動的シーン。

 熱海の所有地が売れたので、朝子は薬屋を開業した。
 大正3年。第一次世界大戦の勃発と不景気の到来。その年末、年が越せずに、朝子は薬屋の建物と土地を抵当にして、旭銀行から2千円を借りた。
 その後返済に窮して一郎に相談した時、一郎ははじめて朝子への慕情を打ち明けた。だが朝子はそれに答えずに去った。
 万策尽きた朝子が薬屋を処分して熱海へ帰ろうと決心した時、第一次世界大戦による好景気が訪れて、商品は飛ぶように売れ、朝子は旭銀行へ返済することができ、山路頭取が伸ばしつつあった魔手を逃れることができた。
 戦争景気に乗った朝子は事業の拡大を求めて薬屋をやめ、弟とともに京橋で大きな金物屋を始める。だがウイルソン大統領の平和勧告書が交戦各国に送られると株が暴落し、物価が下落した。朝子の店が買い込みの約束をして置いた品物も大暴落し、店に持っていた品は“がら”落ちである。客足はとまる。銀行の資金回収が始まる。問屋や銀行に迫られて倒産の危機が訪れた。加えて弟の健吉まで旭銀行借りて思惑買いをやった鉄が大暴落したのであった。山路頭取の魔手が再び朝子に伸びようとする。その時、産を成した芸者の浜子が健吉の苦境を救う。その後連合各国はウイルソンの平和提議を拒絶し、戦争は継続されることになる。鉄は再び暴騰し、健吉の思惑買いは成功する。危機を脱した朝子は事業を廃して子の教育に専念することにする。
 その頃朝子に失恋した木下一郎は、大学教授を辞めてアメリカに永住すべく旅立つ。
 だが何という悲劇か。多年の奮闘の甲斐あって大河一家が中流階級に浮上したというのに、積年の苦労が朝子の肉体を蝕んで、彼女の上に死の影が迫る。

2.書評その他
 昭和4年6月の初版本には、「母としての日本婦人(序にかえて)」という序文が付いている。序文がある小説も珍らしいが、序文の次に「この小説を書いたわけ」という文章がつづく。政治家を本領とする鶴見は、純文学をめざすのではなく、政治思想のプロパガンダとして小説の形を選んだのである。他に同類を求めれば、木下尚江の『火の柱』は、彼のキリスト教的社会主義のプロパガンダある。鶴見の趣旨に由来するものであるから、鶴見はその小説の巻頭にすべて「この小説を書いたわけ」を付するべきであった。それをしなかったために、鶴見の小説は低く評価されたり、見当違いの攻撃を受けたのである。議論を物語の形でなす方法を、鶴見はH・Gウエルズに学んだが、日本ではこの方法は定着しなかった。
「この小説を書いたわけ」は、その後の版には付されていないので、次にその全文を再録する。

「  この小説を書いたわけ
        1
 小説と銘打って、私が本を出すのはこれが初めてである。
 従って私は、色々の感慨を覚える。それを此処に記しつけておきたい。
 私は子供のときから小説が好きで、ことに英語が読めるようになってからは、英文の小説を沢山読んだ。そんなことから、小説と小説家とを、少年らしい純真な尊敬心をもって眺めていた。しかし、小説というものは、ある特別な才能をもって生れた人の書くもので、到底私のような凡庸な人間の筆を染めるものではないと思っていた。ゆえに小説を作ろうというような気は、毛頭なかった。
 今から七年前、米国から来たビアード博士に、
「僕は小説が書きたいんだけれど」
 と沁々と話したことがあった。
 ところが博士が、
「本当にそうだ。小説に托して思いを述べることが出来たらねえ。しかし、小説家となるには、特別の才能をもって生まれなければ駄目だ。だから僕は小説に志さない。
 その代り僕は歴史を書くことに決めた。
 歴史でも、小説と同じように、社会民心に影響を与えることが出来る。歴史は小説と違って、勉強さえすれば、誰にだって書けるものね。
 よい歴史を書くと、一世の人心を風靡することがあるよ」
 そう言って彼は、古今の大歴史家の話をした。
 それはまだ私が、役人をしていた時分だ。
 私は成程と思った。私は小説と同じように歴史や伝記が好きである。そこで私も、ビアードさんのように歴史を書こうと思い立った。
 けれども、歴史と小説とを較べれば、何と言っても、小説の方が、世上に及ぼす影響が大きい。
 第一小説の方が、読む人間の数が多い。歴史などという鹿爪らしいものは、手にも取り上げて読まない人でも小説なら読む。
 それに小説は国境を超越し、時代を超越し、階級と、年齢とを超越する。小説は千年前の外国人の作でも、今日我々が読んで、泣いたり笑ったりするのではないか。そうして老幼貧富の別なく、心を動かされる。
 そうして、小説は理知よりも、感情と感能とに訴えるから、人を動かすことが深刻である。
 かかる意味からして、私は小説礼讃者である。
 古代ギリシャの都市は亡びた。しかしソフオクレスの物語は残っている。平安朝の町の甍は見る影もない。しかし紫式部の源氏物語は、地球の亡びざる限り、この地上の人類に宝蔵せられるであろう。スエーデンという名を知らない人でも、ノラの人形の家を知っているではないか。
 そういう風に芸術品としての小説を尊崇する私は、この不才を鞭打って小説を書こうとは思わなかった。私が多少の自恃心をもって世に書き残さんと試みつつあるものは、他にあるのである。私は自分の分を知っている。私は純清なる芸術品としての小説を記して、ツルゲネーフやバルザックの流れを汲まんとするのでは決してない。
 私が小説を書いている心持は、一個の時論記者、即ちジャーナリストとしてである。思想宣伝家、即ちプロパガンディストとしてである。簡単に言えば、自分の議論を、小説と言う形に托して、天下に送るということであるのだ。
 英国の小説家ウエルズh、後世に残るような立派な芸術品を出している。それでありながら、文豪ヘンリー・ジェームスが、彼の小説キップスを激賞して、
「ディケンスの描かんとして描く能わざりし一の社会層を、君は今や最も見事に描出せられたり」
と言ったのに答えて
「否とよ、余は純芸術家たらんと志して、小説を作るにあらず。余は徹頭徹尾時論記者“ジャーナリスト”なり」と叫んでいる。即ち彼の目的は、彼の思想宣伝にあるというのである。
 ユーゴーの噫無情も、馬琴の八犬伝も、同じく思想宣伝の小説であって、芸術のための芸術ではない。ただ出来がよいから、芸術的価値があるというだけだ。
 ゆえに純文芸としての小説に、深き尊敬の情を抱きつつも、私は思想宣伝の一形式としての小説の存在を認める。
 その立場から、私は小説を書いているのだ。
 ゆえに私は今までの小説の型や約束に少しも拘泥しない。私の勝手な形式で、物語を記し、勝手なところで議論をする。
        2
 私が思い切ってこんな風な小説を記すに至った動機はある。
 それは私が近頃の日本の小説について慊らずとするところがあるからだ。私のような小説好きの人間でも、近頃は小説を読むのが億劫になった。それは小説が嫌いになったのでは決してない。その証拠には、英語やフランス語の小説は、今でも大好きで新しいものを始終読んでいるからである。
 そこで私は、世間には私のような人もあるであろうと思ったのである。そういう人々のために書いて見たいと思ったのである。そういう気軽な、明るい、七面倒くさくない小説を書いて見たいと思ったのである。
 それには“ずぶ”の素人らしい小説を書いて見ようというのである。そうして、これから天下の素人が、続々と私よりもっとうまい素人小説を書く流行を作って貰いたいと思うのである。
        3
 そういう風であるから、私は小説を書くときに、いつも読んでの後、読者の胸のうちに気持よい印象を残したいと祈願している。つまり、明るい人生を描きたいのである。
 それから私は、ユーモアというものが、今日の日本に欠けていると思うから、自分の至らざる筆をもって、あるユーモアを提供したいと常に考えて筆を取っている。
 また私は、小説によって、知識を提供したいと思っている。余談と見えるようなことまで論じてゆく私の気持はそれである。
 ゆえに、楽天的な、壮健な、明るい、可笑味に富んだ、強い、正しい人々の社会を描きたいのだ。
 ここにも純芸術的ならざる私の気分がある。社会の諸相をあるがままに、冷たきは冷たく、酷なるは酷に、凶悪なるは凶悪なるままに、陰鬱なるは陰鬱なるままに、正直に描出することを純芸術家の立場とするならば、私は少くとも、そういう“じめじめ”した社会には興味はない。また私などが態々書く必要はないのだ。
        4
 それから、この小説について、私に取って、ことに感慨の深いのは、表題なのである。
 私は十六歳のときに別れた薄命な母の思い出を抱いて生活している人間である。私の一生を貫く心持ちは、この母に対する思慕と同情と感謝と、従ってその期待に添いたいという情熱とである。
 その大切な母という文字を、この初めて記す小説の表題に選んだのであるから、私としては特別に感慨が深いわけだ。
 ところが、この小説母は、私の母とは全然関係はなく、また私自身の生涯にも何の関係もないのである。
 小説を書き出してから私の驚いたことは、
『あの小説のモデルはだれですか』
という質問を屡々うけることである。
 甚しきに至っては、
『どうか僕のことを書かないでください』
とか、さらに甚しきは、
『君は僕のことを書いているね』
と攻撃する。
『僕の小説には、モデルなんか一人もないんだよ』
と、私は一々答えていたが、この頃は面倒臭いから、放っておくことにしている。
 然るに一昨年夏、ウェルズの近業『ウイリアム・クリツソールドの世界』の序文を読んでいると、そのうちに矢張りモデルのことが書いてある。
 彼は言う。
『世間では、小説にはモデルがみんなあるものと考えると見えて、私の小説なども、よくモデルのことで彼是言われる。例えば、ブリットリングの話のごときは、世間では私の自叙伝か何かのように考えて、ブリットリングが長男の戦死の報を得て泣いた部屋はどれだと、私のエセックスの別荘を訪ねて来る人がある。そんな部屋などある筈はない。何となれば私の息子は戦死などしていやしないのだ。
 それよりもっと驚かされたことは、私の小説トノ・バンゲー中の少女ビアトリスは私である、と名乗り出た婦人のあることだ。その婦人が自ら名乗り出なければ、著者たる私は永久にその人の名前すら知らなかったろう』と。
 私はこれを見て、非常に面白く感じた。
 これは恐らくは、凡ての小説家の経験したところであろう。
 ある婦人が、私の親戚の婦人に、
『鶴見さんのお母さまは、熱海の方だそうですね』
と、言われたというのを聞いて、私は苦笑した。私の母は、熱海という土地は一度も見ずに死んでいる。
 しかし、この小説母を書きながら、私はよく母のことを考えていたことは事実である。
 私の考えの根本にある感じは、日本の女性は、母となったときに、実に荘厳な玉座に坐っているということである。
 世界の国々の女性たちは、それぞれ色々の特色を持っている。しかし、母となったときには、日本の女性に及ぶものはないと、私はいつも考えている。そうして、そこに日本の女性の栄光があると考えている。
         5
 私はこの小説母を、もう一度卒読して、色々の欠点を意識した。
 その一番に眼についたことは、殊に初めの方で、私が固くなっているということである。初めて小説を書くという、“はれがま”しさのために、私は第一回のごときはえらく固くなっている。自分ながらおかしい程、力を入れて書いている。
 これを私は、すっかり書き直そうかとも思った。しかし時間も無いし、また書き直すと、前後の気分が揃わなくもなるしするので、そのままにして本にする。それも私の初めての小説としての記念である。
         6
 私はこういう経験がある。
 大正14年の2月ごろであったと思う。私は米国を講演して歩いていた途次、シカゴの町に寄った。そうして有名なシカゴ座という活動小屋に坐って、映画を見ていた。その出しものは、その数年前に米国文壇を風靡した『こんな大きさ(ソービッグ)』という小説であった。それは、イードナ・ファーバーの書いた話で、米国の母親気質を書いたものである。涙を催される可憐な話だ。
 しかし、そのとき私の感じたことは、日本人として我々が書いたなら、母という感じは、このファーバーの感じとは全然違うものであろう、ということであった。
 それが久しく私の頭の中にあった。
 それから2年経って、講談社の人々が私に、小説を書けといわれたときに、うっかり、
『日本人で誰か母という題で書いたら面白いんだが』
と口を辷らして、その結果、とうとうこんな話を書くようになってしまったのである。
         7
 この小説母は、まだまだ永く続く筈である。私の政治上の仕事があまり忙しくならない限り、私はもっと長くこの話を続けていって見たいと思っている。従っていま纏めて出版するこの本は、母の最初の一篇であって、これから何巻かかって済むか自分にも見当の付かないものである。
 私は拙きながら初めての小説の単行本となって世に出づることを、ある満足感をもって眺め、この小冊子を祝福して江湖に送る。
  昭和4年5月10日
         雨の東京郊外にて 祐輔」

 なお、戦後再刊された『心の窓は開く』の「はしがき」にも鶴見が小説を書いた理由が大要次のように記されている。
「小説に序文を書くということは、少しく異例に属するようである。しかし私の小説自身が普通の小説とは方の違ったものであるのだから、さらにこれに序文を付けたとしても、あながち不思議でもあるまいと思って、このはしがきの筆を取ったのである。
 昭和4年に『母』を出版するに際し私は自分の小説を書く理由を、序文の中に述べておいた。しかしそれからもう18年にもなるのであるから、私はもう一度繰りかえしてこのことを記しておきたいと思う。
 ウエルズは『トノバンゲー』や『ポリー君の歴史』や『ルイシャム君と恋』のごとき、不朽の純文芸品を発表してる大家である。それにも関らず彼が自ら『時論記者』と称したのは、彼の生涯目的が、純文芸にあったのではなくて、大衆の指導にあったからである。であるから彼の小説の中には、小説に何の関係もない理窟が長々と書いてある。彼の作品中私の一番好きな『荘厳なる探索』のごときは、筋も何もない長篇の論文であって、ただ小説という銘を打つ必要上主人公として青年を一人取り出し、彼をして世界中の旅行をさしているだけである。また今から12、3年前に彼の出した『ウイリアム・グリソールドの世界』という2巻の長篇のうち、前巻2百頁はマルクシズム攻撃の論文である。
 そんなわけで小説を書く態度としても、ウエルズのような大家ですら勝手に論文を書いている場合があるのである。
 私は自分の思想を世に問う一つの方法として、小説という形式を選むにすぎない。即ち論文や随筆や旅行記として書いたのでは読んで貰えない読者に呼びかけたい為めに小説という形に托するのである。
 しかしこれは私一人に限ったことではなくして、近世の傾向の一つだとも考えられる。即ち近頃世界では、素人が小説を書くことが流行り出したのである。例えば科学者が科学に関する知識を一般に普及さすために小説の形で書いたり、宗教家が説教と同じ気持ちで小説を書いて大衆の教化に従事したりしているごときが之れである。つまり小説という形を取ると大勢の人が読むからである。その理由は、近頃の世の中は、人々の生活が段々忙しくなってきたので、家に帰ってから気楽に読める物を取り上げて、一日の疲れを休めたいという人が多くなったからである。そういう人々はなかなか自分の専門以外の論文などは読んでくれない。だから勢い読み易い物語風なものを、小説として読み、芝居として眺め、映画として観、ラジオとして聞くのである」

 また、初版本にある次の文章は、戦後太平洋出版社から刊行された『母』からは削除されたが、昭和62年の講談社学術文庫では復活している。
 最後の章「朽ちざるいのち」より。
「彼がもし英国で大戦後流行した、『解らないもの』という芝居に出てくる未亡人が、戦争で二人の愛児を二人とも殺されて、いっさいの信仰を捨て、徳行を捨て、牧師の詰責に会うと、威丈高になって、
『神信心ですと?まあ、なんの神信心です。
 夫に死なれてからの二十年、行い澄まして模範夫人と謳われた私が、最愛の長男を戦場になくしたとき、私は跪いて神に祈って、祖国のためこの息子を召させ給いし御心を感謝致しますと、申しました。そうして勇ましく戦地にいって、子供の墓に花輪を捧げてきました。しかし、二番目の子供を戦地に送ったときは心の中で、この子供だけは、神さまは今までの私の苦労と善行に免じて、助けておいてくださるものと信じました。それがどうですか。その最後の――私の地上に持ったたった一つの宝物を、またむざむざと戦場で奪われたとき、私は何と思いましたか。
 あまりに無慈悲な神さまだ。二十年の善根が何の甲斐だ。二十年の信心が何の甲斐だ。
 私は欺されたのだ。だから私はその日から、神信心をやめて、お酒を飲みカルタ遊びを始めました。それが何が悪いんです。今からもう一度行いを改めれば神さまが私を許されるですって?まあ何というあなたの言葉です。歯のうくようなあなたのような人の宗教論は真平です。
 神さまは私をお許しになっても、私は決して神さまを許しません!』
 といって泣くあの一節を、今の進が見たら、きっと躍り上がって言ったろう。
「そうだ。その通りだ!この大事な母さまを、殺してしまうような神様は、僕の敵だ。僕の一生の不倶戴天の仇だ!」
と。そうして、それをだれが無理だと叱ることができるだろう」
 筆者石塚もこの文章はカットした方がよいと思う。

 『母』は鶴見が最初に書いた長編小説である。鶴見は、昭和4年6月に出版した『母』の序文で、「「母」は私が小説という形で世に送った最初のもの」と書いており、昭和26年に再刊の『最後の舞踏』は、「私が初めて書いた小説である」と書いている。だが、『母』は婦人倶楽部に昭和2年5月号から、『最後の舞踏』は同年6月号からそれぞれ連載を開始している。単行本は『母』は昭和4年6月に、『最後の舞踏』は同年11月に出版されている。
 鶴見が最初い書いた小説は、厳密に言えば大正15年に書いた合作小説『旋風』の「恋」の章であるが、これは短編である。そして鶴見の短編小説はこの一作のみである。これはアサヒグラフに掲載された。
 小説『母』は、昭和4年6月号で完結し、その月のうちに単行本となって講談社から出版された。昭和3年2月に鶴見が衆院議員に当選し、同年9月に彼の『英雄待望論』が50万部という大ベストセラーになったこともあって、小説『母』はこれに次ぐ大ヒットとなった。

 小説『母』は、英語・ドイツ語・スペイン語・中国語に飜訳された。
 もっとも英文『母』は好評でなかったようである。英文『母』が出版された昭和7年に、北米西岸のポートランドで領事をしていた蘆野弘は、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた「私の鶴見祐輔観」の中で次のように書いている。
「……自分は鶴見さんの為に、当時瀟酒な新しい建物が出来上がったばかりのタウン・クラブという婦人倶楽部で茶会を催した。……その時鶴見さんが「母」の英訳本――ビアード博士の聊か当惑した様な序文が付いて居る――を置いて行かれたので、妻が特別に懇意にして居た婦人連に回覧した。後で感想を聞くと「あの方のお話は大層面白かったけれど、この本はどうも……」と言って後は笑うばかりであった」
 大正8年に鶴見が英文の短編小説を二つ書いて、作家のリチャード・ウオソンボーン・チャイルドの閲に供したところ、「これは小説じゃない。論文だよ」と言って笑われたことがある。(『米国』昭和2年版330頁以下)

 だが日本では版を重ね、戦後間もなく刊行された太平洋出版社版は、毎日新聞の調査では昭和23年の出版物中のベスト・テンに入っている。その後、昭和31年頃角川文庫、昭和62年に講談社学術文庫に収録されている。昭和4年6月5日が初版であるが、同年9月8日には200版を発行している。当初講談社は売れ行きを危ぶんで1万部しか出そうとしなかった。全国を遊説していて自分の人気に自信のあった鶴見は5万部を要求したが、最終的には24万部という大ヒットになった。(『講談社の歩んだ五十年 昭和編』158頁)

 『母』は映画や演劇にもなった。映画は第1回が、昭和4年10月、松竹キネマ株式会社蒲田撮影所で撮影された。監督は野村芳亭で、後に名優となった高峰秀子のデビュー作(子役)である。戦前に2回映画化され、昭和25年の3回目の映画では、初代水谷八重子が朝子に扮した。映画『母』の主題歌には、「母のゆく道」が時雨音羽作詞、大村能章曲編、三門順子唄。「母の子守唄」が時雨音羽作詞、佐藤長助曲編、樋口静雄唄、鶴見が作詞したものもある。
 演劇は、中井泰孝脚色の4幕11場、田中総一郎脚色の3幕27場。

 小説『母』を読んだ著名人から次のような感想が寄せられている。
 佐藤紅緑「最近の小説中これほど精神的で、これほど有益なものは他に絶無と言ってよい。私はこういう小説こそ真の小説だと信ずる」
 伯爵二荒芳徳「近頃多大の感触を私の心に与えた」
 森律子「鶴見さんのように実社会と直接交渉を有せられる方が、文学に手を染められることは誠に結構なこと」
 金子堅太郎「近来稀に見る名著述」
 永田秀次郎、与謝野晶子、宮田修、鳩山春子からも賞賛の辞が寄せられている。
 井上準之助は鶴見に対して、「君の小説の『母』を読んだが、あの主人公が娘さんにいきなり結婚を申し込むところなんか、ありや君は恋をしたことのない証拠だね」と言って笑った。たしかに鶴見は見合い結婚である。
 小説『母』は田中義一首相や吉田茂の雪子夫人も読んでいる。

 掲載紙、掲載日不明
「母性読本としての小説『母』を読む
 前半省略
 小説『母』を読む者は先ず著者の『序に代えて』の一文『母としての日本婦人』並びに著者の『この小説を書いたわけ』を読んでおかねばなるまい。さもないで、小説としての『母』を読む時は、いずれもが軽い失望を感ずるに違いないからである。

 小説『母』はいわゆる小説とは全然趣きが違う。小説としての文芸的価値を期待できない。小説の筋は極めて甘いローマンチックなもの、筆は頗る幼稚な固い素人の書き振りであり、会話が多く理に走り、本文と全然関係のない議論や説明が非常に眼ざわりになってキザである。
 然しながら著者の『この小説を書いたわけ』を読めば『私が小説を書いている心持は一個の時論記者、即ちジャーナリストとしてである。思想宣伝家、即ちプロパガンディストとしてである。簡単にいえば自分の議論を小説という形に托して天下に送るということであるのだ』と、そして思想宣伝の一形式としての小説てう立場からこの『母』を書いた結果は、これまでの小説の型や約束に少しも拘泥せず、勝手な形式で物語を記し、勝手な場所で議論してあるのである。

 この事を諒解してこの小説を読む時は、固苦しいところもキザなところもなくなり、議論や説明は、著者の母性観として、母性論として読者の肯定を促すかのように迫って来る。
 鶴見氏の演説がユーモアに富んで聴衆の頤を解かせる如く、この小説の会話にもまた処々に軽いユーモアを受け入れて読む者の心持を軽くさせる。著者の明るい人生を描かんとする苦心からであろう。かくて小説『母』を読み終って感得することは、『女』として弱き者も『母』としては強く雄々しく生きることを教えた点である。
 著者の理想とする『母』は、小説のヒロイン朝子の如き女性をいうのではあるまいか。朝子は鶴見君の理想に描いた女性であり、氏の『女性観』は朝子を通じて読者に訴えてある。この小説にはモデルはないという著者の断りも尤もである。その他『母』の中にはシーザー、ソフオクレス、ヘルン、プラトー、グラッドストンなどの偉人、哲人の言を引き、海外の生活や習慣を説いて読者に知識を提供し、進少年を藉りて英雄崇拝論をやり、欧州大戦と個人の経済生活を巧みに説いて婦人の経済知識にさめんことを教えている等々いずれも著者の周到な用意と弁駁の余地のない論陣とがこの小説の全体に張られてある。
 以下省略」

 宮城音弥 角川文庫版『母』の解説 昭和30年より抜粋

「……小説ほど、作者の精神をはっきりと『投射』するものはない。
 小説は『想像』の産物だが、どんなに勝手な想像をしたと思ったときでも、やはり、心の内面をうつしているのである。
 本書の読者が第一に注意すべき点は、この小説が、著者の母に対する限りなく深い愛情の表現だということである。
 本書は現実の母の物語を描いたものではないが、現実の母に対する愛情を表わしたものである。
 人々を感激させ、五百数十版を発行したのは、読者が、著者の母への愛情に共感したためであろう。
 日本では、長い間、愛情性格が表面的には否定されていた。恋愛は、美しいかも知れぬが、よくないこととみなされてきた。こんな所では、女性はコドモへの愛情をもって恋愛に代える傾きがある。そして、男の子と母親の結びつきが、とくべつに強い。
 この物語のうちにも、到る所に、この傾向が表われている。
 この物語の特徴は、日本人の生活を、誇張したと思われるほど、“はっきり”と示していることである。それは、一時代前の日本人の理想かも知れない。しかし、それは、今なお、われわれの精神の本質をなしているものといってよかろう。
 読者は、本書を読んで、作者のよどみなき麗筆に魅せられるが、同時に、その博学に驚嘆させられるにちがいない。
 今回、フロイトの精神分析は、日本作家に、強い影響を与えているといわれているし、カブキに至るまで、その傾向を取り入れ初めているが、作者は、すでに、本書のなかに、それを広く取り入れている」

 沢地久枝著『ひたむきに生きる』昭和61年刊より抜粋

「いつか読み返してみたいと何十年か思っていた本は、鶴見祐輔の『母』である。
 『母』を読んだのは小学生のときで、四十年以上も前のことになった。
 上流社会の美男美女という設定にして、人間の運命のはかりがたさを思わせる展開を描いているが、縁のない庶民には魅力のある小説だった。
 鶴見俊輔氏によると、『母』は総数で約五十万部売れたという。(石塚注 50万部というのは父祐輔先生が屡々口にする『英雄待望論』の発行部数と混同しているものと思われる。『母』は24万部であると前掲書で講談社の幹部社員天田幸男が証言しており、また、昭和6年6月号の「新自由主義」誌にも「『母』は20万部を超えた」という記事が見られる。)
 戦前の社会での五十万部は『事件』である。大衆受けのする本を、ある目的のために書き、成功しためずらしい一冊であることを再読して知った。
 見たことのない国、味わったことのない食べもの。そんな人物が存在したとは名前も知らぬ歴史上の人物ののこした言葉――。
 ここには、読者の読者レベルも生活レベルも無視して、あらゆることが語られている。『母』を読みかえして驚いたことはふたつある。三十歳の美貌の未亡人朝子の生き甲斐が長男進を偉い人間、立派な男に育てあげることとは忘れていた。
 鶴見が書いた『子』という続篇をどれほど読みたいと思ったことだろう。
 わたしが驚いたふたつ目のことの一部は、『母』が絢爛たる知識・教養の書であることだ。『母』がベストセラーになった理由は、消化しにくく耳なれない人物や書名、あるいは格言などが、そういうものに無縁であった人々の向上心を快く刺戟したためではないかと思う。
 シャンペンや珈琲、台湾の木瓜(パパイヤ)、フラワー・ティーとよばれるウーロン茶、帝国ホテルでのアフタヌーン・ティー、軽井沢のテニスコート――。禁断の世界へ読者は誘いこまれる。『涙は人生の恵みだとある西洋の詩人が謳った』と書いてあれば、読者は『ああ、涙には恵みがあったのか』と素直に驚き、納得したことであろう。
 哲学者カーライルが、『人間の幸福は算術の分数のようなものだ』と言っていると書かれていれば、『なるほど、そうか』と思い、ひとつ利口になったと実感する読者がいたのだと思う。実用的教養書のおもむきがあったのである。
 作者は大河澄男の会話として含蓄に富む言葉を語らせた。先人ののこした叡智からくみとってきた言葉を『母』の各章にちりばめてある。
 スコットランドの詩人バーンズは、生活安定の基礎になる程度の財産を『独立の巌』といったという。バーンズ自身はその目的を達せず、貧苦のうちに死んだという文章は、生活者であり、とくに不運のなかにいる読者たちは、しみじみとした気分で読んだと思われる。
 読後になにも『収穫』ののこらない本がある一方、触媒的役割を果たしてくれる本がある。その一冊が人生の岐路をきめる本もある。『母』の余韻は深かった。   以 上」

 小説『母』を庶民が読んで受ける感じは、まず登場人物の言葉が丁寧過ぎることであろう。庶民の家庭ではこのような会話はしない。朝子は熱海の木細工屋の娘で、玉の輿に乗ったとはいえ、上流階級の生活は12年しか続かなかった。作者の鶴見もこのように上品な会話の家庭の出ではない。鶴見の岳父・後藤新平も東北の下級武士の子であり、県庁の給仕から一代で成り上った者である。恐らく大臣伯爵となった後藤新平の子たち――上流階級として躾を受けた愛子(のちの鶴見夫人)たちによって作られた会話が出所ではなかったか。
 次に大袈裟に感激して泣くことである。中学の入試に合格したくらいで、泣いて喜び合う家庭が他にあるだろうか。読者はしらけるであろう。
 そして上流階級志向、そのための進学熱である。進が中学に進学した大正初期には、義務教育は小学校尋常科6年までであり、小学校の高等科に2年通学できる子は恵まれている方であった。ましてや中学校へ進学できる子は、近所の人々から特別な眼で見られたのである。圧倒的多数の子は小学校だけで社会へ出たのであった。朝子も薬屋を開業した時、13歳の小僧太一を雇っているが、鶴見は小僧太一と進を明らかに差別している。
 薬屋開店のくだりに次の文章がある。
「その話を初めてきかされた時に、進は一寸いやな気がした。彼は熱海の叔父の家が、木細工の玩具屋であることは、少しもいやでなかった。しかし、自分の大事な母が、東京の町中で薬屋を初めるということには、ある屈辱を感じた。それと同時に彼の心中で、激しい反抗心が、勃然として湧き起こった。この美しく若い母を、薬屋の店頭に永く坐らしておいてすむものか、という涙ぐましい感激が、嵐のように彼の心底に狂い起こった」
 何という選民意識か。全国の薬局に対する侮辱ではなかろうか。朝子だって田舎の商店の娘だったではないか。
 そして奇異なのは、朝子一家が長谷川治子の家に居候していた時も、薬屋を営んでいた時も女中を雇っていることである。
 小説『母』は、本当の庶民の哀歓を描いたものではない。上流階級の者が没落して、短期間の苦闘の後に、再び上流階級に復帰するという筋である。よくこんな小説が庶民大衆に受け入れられたものだと思われるが、貧乏人はみずからの貧しい生活をなぞった作品よりも、しばし現実を忘れて夢と憧れの世界に遊びたいのである。かつて松竹映画がもてはやされた原因である。
 朝子の悪戦苦闘が酬われて、隣家の令嬢のピアノの音が聞こえてくるような山の手の閑静な、芝生の庭のある邸宅に住んだり、軽井沢の別荘でテニスや乗馬を楽しむ朝子の子たちの姿を描いても、下層階級の読者は嫉妬も反感も抱かず、憧憬と羨望に終始するばかりである。
 鶴見の小説は人物が登場するごとに、その服装を詳細に描写している。男性でありながら、女性の服装に関する知識が豊富である。夫人から仕入れたものであろうか。外国に単身で長期滞在中に書いたものも多いのに……。
 この辺りは若くして父を失ったが、裕福な親戚に助けられて高等教育を受け、中流階級に割り込むことができた鶴見の生き方が投影されている。偉い人になることが生きる意味であり、作者同様に作中人物も総理大臣をめざしている。支那事変以降、男の子の最高目標は、陸海軍大将となり総理大臣がこれに次いだが、大正時代の最高目標は総理大臣だったのである。

 作中の不自然な面の一は、熱海の山路で、洋行帰りの30歳の澄男が17歳の田舎町の娘に一目惚れすることである。知的な金髪美人を見てきた澄男が、多少器量が良くても、田舎娘に夢中になるとは思えない。まして30の男と17の娘が、一度会っただけで、ジプシーの男女のような熱情をもって愛し合えるとは考えられない。

「折角賑やかな気分で澄男が戸外から帰ってきても、内気な朝子が笑顔を忘れることがあった。ことに外国文芸の教養の乏しい朝子には、澄男のユーモアが解らなかった。時としては皮肉と間違えて沈んだり、冷笑(ひや)かされたかと思って怒ったりした。それが澄男に堪らなくつまらなかった。そうして、自分のユーモアにどっと笑い崩れてくれる話し相手が欲しくなってきた」
 これは鶴見夫人を批判した言葉ではなかろうか。

 朝子が大伴侯爵邸に奉公していて、春子を苛めた大伴の坊っちゃんをかばって進が喧嘩をして、大伴家から謝罪を要求された時、断固拒否して大伴邸を出て行くシーンを読んだ私はどうかなという疑問を十代の頃から抱いていた。
『三都物語』で鶴見は、ウエルズの『トノバンゲー』の中で、主人公たるジョージが、母親の主人たる大地主の甥となぐり合いの大喧嘩をして、お詫びをしなければ、この家に置かないと言われたときに、「自分は謝まる訳がないから謝まらない」ときっぱり言うくだりまで読んで、涙が浮むほどうれしかった」と書いている。
 この話が『母』のこの箇所の下敷きになっているようだ。
 朝子は「どんな位置身分のある方でも、どんな大勢の人に向かっても、自分の道理のあるときは、一歩も引いてはなりません」と教え、「あなた方を卑屈な人間にする処でした」と反省する。そして作者の鶴見は「その翌る日、親子四人は、僅かの荷物を片付けて、この大伴侯爵の家を出ていった。それが、どれだけ大きな影響を進の将来に及ぼすことになったかは、その時親子四人は知らなかったのだ」と書いている。

 鶴見はまだ苦労が足りない。父が若くして病死したといっても富裕な姉の夫に庇護されて高等教育を受けたではないか。明治時代、彼と同じ世代の大部分は小学校だけで(中学校まで義務教育になったのは昭和22年からである)丁稚奉公にやられたのだ。
 古典落語の「子別れ」で、夫の浮気のために子を引き取って離婚した妻が、子がひたいに傷を受けて帰って来た時、「鈴木さんとこの坊っちゃんにぶたれたんでは仕方がない。痛いだろうが我慢をおし。あすこの奥さんには、始終仕事をいただくし、坊っちゃんの古い物を頂戴して、お前に着せたりしているのに、これくらいのことで気まずくなったら、もうお仕事もよこしてくれないし、お前もあたしも食べることができなくなってしまうから、亀や、痛いだろうけれども、どうか我慢しておくれ」と口惜し涙にむせびながら子に頼むシーンの方が遥かに庶民の共感を呼ぶであろう。
 貧乏人は胸を張っては生きられない。膝を屈して生きる忍従を教えるべきではなかろうか。

 邂逅の章に、(戦前の版の225頁)「東京の町の夕方の空の色を見んと思う人は、冬の夕方六時七時の頃、日比谷公園に近き高い六階建の家の窓から夕陽の落ちた西の空を眺めるといい」という記述があるが、この建物は何というビルだろう。市政会館・日比谷公会堂が完成したのは、昭和4年10月であるから、『母』の婦人倶楽部への連載が終った昭和4年6月までには間に合わない。
 昭和4年6月に発行された『太平洋時代と新自由主義外交の基調』の発行所は、麹町区内幸町太平ビルとなっている。明政会の代議士が屡々集まったのは太平ビル内の新自由主義協会であるから、日比谷公園に近い太平ビルのことかも知れない。戦後太平洋出版社の所在地は、千代田区内幸町2ノ3幸ビルとなっている。
 やはり邂逅の章に(戦後の版の231頁)、「進は、一郎に教えられていたように、臆するところなく、小さい手を差し出して、『ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・サー』と言って、その大きい手を握った。それは、大きい温かい手であった」とあるが、鶴見は徳富蘆花の文章から引用したものと思われる。
 後年、鶴見の『新英雄待望論』に、鶴見がウイルソン大統領に面会した時の記述がある。(57頁)
「私もすく椅子から立って握手した。その時私は、徳富蘆花が、ヤスヤナ・ポリアーナでトルストイを訪問して握手した時の文章を思い出した。曰く、『その手は大いにして暖かなりき』」

 小説『母』は、鶴見の母の生涯をそのまま描写したものではない。小説家でもない鶴見が、よくこんな架空な物語を書けたものである。
 小説『母』が婦人倶楽部に連載された昭和2年5月から昭和4年6月までは、鶴見が「国内の政治運動と国外の日本文化紹介運動との二つの仕事に、一身を打ち込んでいたので、全く東西南北、万里の旅路に日を送っていた」時期であった。それは昭和3年2月の衆院選で岡山第一区でトップ当選したことと同年9月『英雄待望論』を著してベストセラーとなったことを中心として鶴見の一生の最盛期であった。そういう時期に書かれたと言えると同時に、小説『母』もまたベストセラーとなって鶴見の最盛期を盛り上げたのである。

 鶴見の小説は純粋の文学ではなく、小説の形をとった政治思想のプロパガンダである。
 鶴見はビクトルユーゴーの『ああ無情』も宝井馬琴の『南総里見八犬伝』もかかる思想宣伝の小説に含めている。そうするとストウ夫人の『アンクルトムスケピン』やフィリッピンのホセ・リサールの『ノリ・メ・タンゲーレ』や徳永直の『太陽のない街』もこの仲間に入るのであろうか。
 鶴見の小説の広告には理想小説という文字が冠されていた。理想小説とはリアリズムの小説ではない。著者の理想とする生きかた、生活を描いた小説ということであろう。

 鶴見は「この小説を書いたわけ」の中で「……楽天的な、壮健な、可笑味に富んだ、強い、正しい人々の社会を描きたいのだ。……社会の諸相をあるがままに、冷たきは冷たく、酷なるは酷に、凶悪なるは凶悪なるままに、陰鬱なるは陰鬱なるままに、正直に描出することを純芸術家の立場とするならば、私は少くとも、そういうじめじめした社会には興味はない」としてリアリズムの立場に立つことを肯んじないが、それは小説に対する場合であって、鶴見の人生に処する態度がすべてそうだというのではない。
『中道を歩む心』で鶴見は次のように書いている。
「我々の人生に対する必要なる態度は、事実を正面から凝視することである。如何に不愉快なることであっても、事実である以上は、我々は正面から恐るるところなく凝視して、これに対応する手段を案出しなければならない。事実を回避する感情論によって、我々は遂に何地にも到達する事はできない」

 昭和62年に出版された講談社学術文庫の『母』のまえがきで、鶴見和子が「父はなぜ小説を書いたのだろう」と疑問を呈している。娘ではあるが、知識階級の多くがそうであるように、彼女もまた鶴見祐輔の著書は読まなかったのであろうか。
 講談社学術文庫版は、初版本の復刻と思われるが、初版本にある「この小説を書いたわけ」がカットされている。
 それを読んでから鶴見の小説を読まないと「その内容は非芸術的な愚劣なものである(昭和6年1月、久米龍川著『岡山県人物縦横』122頁)というように見当違いの批評をするようになる。


  小説『子』

 1.あらまし
 危篤状態に陥った母の朝子は奇蹟的に回復し、療養先の熱海で進の一高合格の報告を涙のうちに聞く。
 一高に入学し、寄宿寮に入った進は、部活やコムパなど一高生活をエンジョイする。
 林先生の優れた英語の教授法に接して感動する。
 首席で入学した進は同級生の中に各方面で自分より優れた者を発見して、敗北感や恐怖心を抱くようになる。
 そして入学早々、上級生たちのストームに見舞われて、武芸の必要を痛感した進は、剣道に志す。
 或る夜進は上級生の泉と夜道を歩いていて、不良少年のグループに襲われた学生を助けるが、不良少年の首領は何と、かって春子をいじめた大伴侯爵家の長男であった。
 熱海から軽井沢へ移った朝子の健康は順調に回復して行く。夏休みに泉は軽井沢の別荘に招かれるが、折から勃発した米騒動を視察するため進とともに関西の策源地へ乗り込んで行く。
 その頃第一次世界大戦の休戦条約が調印され、泉の演説に陶酔した一高寮は興奮の坩堝と化す。
 かつて朝子を金縛りにして奪おうとして果たせなかった旭銀行の山路頭取は、今度は世間知らずの貴族政治家大伴侯爵を巧みに誘って、折からの世界大戦を利用した製鉄会社を企画する。ところが勃発後間もなく予想外の休戦となり、山路が株式応募金を流用していたため会社は破産の危機に瀕する。山路は別件の背任罪で大伴を脅迫して、急場を凌ぐため大伴の不動産を提供させようと迫るが、芸者浜子の機転で救われる。
 進は高等学校の野外演習で房総へ行き晩秋の闇の中で歩哨に立つが、知恵者の高島が畠の薩摩芋を掘って焼芋を作り、来合わせた級友たちと談笑しながら喰う。
 数え年17歳の進の心が春に眼醒めてくる。彼は修善寺の旅館で図らずもかいま見た白い女性の裸身や天城越えの途中で出会った村の娘の肉付きのよい二の腕が迫っても迫っても迫って来る。
 世界大戦の終結で経済的な大打撃を受けたのは、大伴侯爵だけではなかった。澄男の妹月子の稼ぎ先である梅小路子爵も同様であったのである。月子は梅小路家の破産を救うべく、死ぬより辛い思いをして朝子に金を借りに行く。月子は、朝子が夫を喪って貧窮のどん底に喘いでいる時は、借金でも申し込まれては大変だと思って遠退き、また、春子を養女にもらい受けようとして断られた時は、絶交を宣言して席を蹴ったこともあったのだ。
 当初朝子は立腹し、また、苦心惨憺して得た財産を失うことを恐れるが、結局月子は澄男の妹だという意識から梅小路家を救うために金を出してやる。
 アメリカへ来た一郎は、テーン博士の令嬢ルーシーに慕われ、富豪の令嬢デフネーに恋を打ち明けられるが、留学中の岡上千枝子と婚約して欧州を回って日本へ帰ることになった。
 進は文芸評論家名和友一の家に出入りするうち令嬢の糸子に激しく恋してしまい、糸子もまたひそかに進を深く愛するようになる。家族ぐるみの交際が始まって名和友一と朝子は互いに敬意と好意を抱き合うようになる。
 進は一高を首席で卒業し、東京帝大法学部に合格した春の宵、桜の花の下で糸子と抱き合って、二人の秘めてきた想いを確め合う。

 2.書評その他
 三宅晴輝 角川文庫版『母』の解説 昭和32年より抜粋
『子』はリアリズムに従ったものではない。だから小説技術の上から見ると構成や表現の言葉や密度の上に欠陥があるのは、致し方がない。年代を大正期の第一高等学校ということにしてあるが、その一高の寮生活の空気は正に明治期であって明かに時代錯誤が感ぜられる。大正期の一高生は明治期のそれとは、非常に違った空気の中で生活して居たのだが、そういうことは筆者に於て少しも問題ではないのである。「母」が子を育て、「子」が「母」の願望に答える、という姿を描きたいだけなのである。秀才の「子」が一高へ入り、勉強もし、撃剣もやり、恋もするということを述べた。明治期の一高生の合言葉は言う迄もなく立身出世である。母の願望もまたこれである。部分的描写として、ストームの場や発火演習の場が鮮明であるのは、筆者に実感があって、いささかリアリズムになっているせいであろう。
 年代は明治、大正、昭和に亙り、この時代的背景をもって一人の青年が生長する姿を描けば、三部作はおろか、五部作にもなろう。そうなると、明治二十年前後に盛んで大体明治三十年代で終りを告げた政治小説がここに復活するのではないかと期待される。

 三宅氏は時代考証の欠落を指摘しているが、次のような感想を述べている人もある。
「駒場(石塚注 昭和10年に向丘から移転した)の寮生活は、私がかつて鶴見さんの小説『子』を読んで憧れた一高寮生活そのままといった感じで……」(『教養の思想』に寄せた阪谷芳直「鶴見祐輔と河合栄治郎」111頁より)

 小説『子』は、婦人倶楽部に昭和5年1月号から7年3月号まで連載され、7年5月に講談社から単行本となって出版された。651ページ。昭和15年までに130版を重ねている。戦後も昭和32年と46年に角川文庫となって出版されている。小説『子』は、小説『母』の続篇であり、小説『子』の続篇として、小説「妻」が婦人世界に昭和25年12月号から連載を開始したが、26年5月号で中絶している。
 鶴見が昭和25年10月に公職追放が解除になり多忙になったためか、出版社の都合か、原因はわからない。婦人世界は実業之日本社で発行しているので、出版社が潰れたわけではない。鶴見は婦人世界には、大正12年と昭和8年にも寄稿している。
 原稿は書いたが出版されずに終ったり(「日蓮」)、雑誌に連載されたが単行本にならなかったもの(「七つの海」「トノ・バンゲー」)はあるが、雑誌の連載中に中断したのは、「妻」だけである。
 鶴見は昭和5年5月から、一時帰国を除いて、昭和8年1月まで欧米に滞在していたから、『子』はほとんど外国で書かれた小説である。

 進が一高へ首席で入学後、同級生中に各方面で自分より優れている者を発見して敗北感や恐怖心を抱くところなどは、鶴見自身の経験を書いたものであろう。

 鶴見は自分の長所や紳士的態度を意識していて、小説の登場人物の長所等として記述している。
 例えば『子』の中の
「泉清は、一高の偶像であった。
 彼は文科三年甲組の首席で、その文とその弁とをもって一高一千の健児を圧したのみならず、彼は甲都学生界切っての剣客であった。………そうして、その白皙な容貌にいつも温柔な微笑を湛えている姿を見て、誰いうとなく、彼を木村重成と綽名した。
 彼の声望は一高を圧していた。どういう面倒が起っても、彼が顔を出せばおさまると言われたものだ。
『泉は将来、どんなにえらくなるだろうなあ』と、大勢の同学生が言った。
 殊に彼を人気者としたのは、彼の謙遜ということであった。彼には秀才通有の驕慢というものが微塵もなかった。それがために凡ての生徒が彼と話しているときに、非常に気安かった」
 これは鶴見自身のことである。

 また、「弟」の中の
「光雄は兄とこうして歩いていると、怺らなく誇りがましいような気がした。むこうから来る一高生は、みんな帽子を取って兄に挨拶した。中学生は兄を見て互いにひそひそと何か私語してゆく。
(兄さんは本郷の英雄なんだなあ。)
 彼は心の中でそう思ってうれしかった」
 これまた鶴見自身のことであろう。

 さらに鶴見の書いた小説の主人公が、家事使用人を呼び捨てにしないことなども、鶴見自身の紳士的態度を描いたものであろう。
 鶴見の政治秘書だった赤塚正一は、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた「恩師 鶴見祐輔先生」の中で次のように言っている。
「私との対話の中では一度も『赤塚クン』とは言わなかった。必ずサンづけであった。こんなことも国会議員と秘書の間では、珍しい配慮ではなかったか」
「国会の廊下を歩いていた時、『赤塚さん、私はあなたに歩調を合わせているのです』と言われた。『君、歩調を合わせたまえ』とは言われなかった」

 鶴見を剣道の達人であったという人が居るが、中学時代はそれほど稽古していないし、大学進学とともに運動をやめているらしいので、剣道をやったと言えるのは、高等学校時代だけである。達人とは生涯をその道に打ち込んで高い水準に達した人のことではなかろうか。
 鶴見も運動家を自称するが、本当に運動をしたのは高校くらいまでで、社会人になってからはゴルフをやったが、戦後は多い時で週1回である。毎日ジョギングや水泳をやったわけではない。

 第一次世界大戦の休戦条約締結の夜の騒ぎは、鶴見がかつて一高の寮で経験した日本海海戦大勝の報を得た夜の寮の騒ぎが下敷きになっている。

 英語の林先生は、鶴見たちが教わった夏目漱石が一部転用されていると思われる。

 評論家名和友一の家庭で催される会は、鶴見が家庭で主催した火曜会がモデルであろう。

 たいした文章力である。語彙も豊富である。名文が多い。鶴見の小説で『子』が一番の傑作だ。状況、動作、会話も詳細でリアルに表現されている。容貌、服装から室内の調度に至るまでその記述が細かいのは、映画が一般化されていなかった時代の特徴である。
 昭和27年、筆者石塚が17歳の時は、自然描写の名文に感動し、陶酔したが、老年期の今日再読すると、自然描写などまどろっこく感じる。鶴見の小説の特徴として篇中に議論が多いが、筆者も十代の頃は人生や社会についての知識が得られて有益であったが、老年期の今、再読すると煩わしいのは、自分がせっかちになったのか、専門の小説家の小説の形に慣れてしまったためか。
『母』もそうであるが、鶴見の小説は登場人物の会話が丁寧すぎる嫌いがある。伊豆の村娘の笑い声まで「ホホホホホ」になっている。
 また、一高生たちが人力車に乗って軽井沢の別荘を訪れることなどは、鶴見の選良意識、ブルジョア意識が現われたものであろう。鶴見は所詮プロレタリア大衆にとっては、別世界の人であった。

 書名は『子』であるが、進の純情な青春物語がすべてではない。大伴侯爵、梅小路子爵の経済的苦境や朝子が月子の嫁した梅小路家を救うために金を貸す話など大人向けの話も挿入されている。

 鶴見の小説には、下級警察官(『子』)や下級憲兵(「妻」)への反感が感じられる。鶴見はエリート官僚で下級公務員の仕事の苦労を経験していないからであろうか。

 鶴見の分身とも言える名和友一に言わせている「今日の世界は昔のように、源義経や、加藤清正の偉い時代ではないんだね。いつまでも偉い人とか偉い事業というものは同じだと思ったら大間違だよ。彼等の時は、何んでも大臣大将となるということを、人生の目標としたもんなんだが、大間違だね。
 これからの偉い人とか、偉い国民とかいうものは、世界の人類の幸福にどれだけ役立つか、という物指しを当てて定めなければいけない。これからは愈々全世界に乗り出して、世界文化の宝庫へ何かの貢献をしなければならない時代にんったんだね」という論旨は、『新英雄待望論』そっくりである。
 筆者石塚は、昭和3年の『英雄待望論』は、第二の南洲、第二の龍馬奮起せよと記されているのに、昭和26年の『新英雄待望論』では、「これより後の日本のアムビーションは世界文化の殿堂に、大きい燈明をかかげるような聖業を創造することだ」「全人類の恩人日本より出でよ」となっているので、戦後大流行の文化国家建設(現在では死語になってしまっている)に付和雷同したものと思っていたが、鶴見はH・G・ウエルズの影響を受けて、昭和7年には既にこのような開明思想を抱いていたのであった。不明を恥じねばならぬ。

 大正時代に日本の女性(木下一郎と婚約する岡上千枝子)が、自動車の運転をするのは稀有なことではなかろうか。

 鶴見は気がつかないのであろうが、「芽ぐむ若葉」の章で、春子の顔を描写する時に、「よく通ったギリシャ鼻が、誰にも一番に眼につく」と記し、「永久の女性」の章で、糸子の顔を描写するに当たり、「ギリシャ鼻の素直な線が一番に眼につく」と同じような表現をしてしまっている。

 山路の陥穽に落ちた大友侯爵が万策尽きて押印しようとする刹那、芸者浜子が現われて山路の作った書類を破り棄てるシーンがあるが、なぜ浜子が大友を助けたのかがわからない。朝子の敵である山路の奸計を破砕させて読者を喜ばせようとしたのかも知れないが、大友もまた子供同士の争いから、使用人の朝子を追い出した主人ではないか。

 名和友一と社会運動家木曽川健が商工奨励会の大講堂で演説したのは大正8年なのに、鶴見は「昭和文化協会の発会講演で」と書いている。『子』は進が数え齢20歳東大に入学したところで終っている。それは大正10年のことである。『子』が婦人倶楽部に連載されたのが昭和5年1月号から7年3月号までであり、当時鶴見は1年の大半を外国で暮らしていたこともあって、このようなミスをしたのであろう。


  『最後の舞踏』

『最後の舞踏』は、講談倶楽部に昭和2年6月号から3年10月号まで連載され、4年11月に単行本となって講談社から出版された。鶴見が40代前半の頃である。戦後は昭和26年4月に太平洋出版社から刊行されている。昭和26年版で268ページである。初版本には黒木三次(陸軍大将・伯爵黒木為禎の子。貴族院議員)への献呈辞がある。
 鶴見の子たちはインテリなので、皮肉にも父の英雄論には背を向けるが、二男の直輔(三菱商事勤務・経営学専攻)は、『最後の舞踏』を筆者に推奨した。
 鶴見はこの小説は明治45年、27歳の時に、新渡戸博士に従って1ヵ月を旅した西インド諸島の光景と情調とを心眼に描きながら書いた旅行記のようなものであるという。
 そしてこの小説を書いた時は、米国へ屡々講演旅行をしており、米国の友人の家々に泊まり歩いて、清談に日を過ごすことが多かったので、その外国生活の自由な晴れやかな気持が、心の中に生動していたという。


 あらすじ
 時は大正末期、舞台は西インド諸島をめぐる豪華遊覧船。
 主人公は高山巌という26歳のハーヴァード大学の学生。
 1ヵ月に及ぶ南国の海の旅で、高山は女子大生のドロシーに愛され、若き富裕の未亡人フィスクに誘惑され、白系ロシア人のネーディア嬢に接し、英国の評論家の令嬢ミリアムを知るという華やかな異性との交友を展開するが、結局高山はドロシーの愛を容れず、フィスクに裏切られ、ネーディアに拒まれて終るのである。
 美貌の未亡人をめぐって、ドレーク大佐と三角関係を生じて乱闘に及んだり、英国の評論家ローレンス・モリス(ミリアム嬢の父)と議論をしたり。英国マーボロー子爵らとトリニダート島での狩猟と冒険、そして最後の船内講演会における高山の名スピーチなど多彩な出来事が盛り込まれている。

 主人公の高山巌は数え年26歳という設定であるが、鶴見がこの小説に描いた時代の十余年前に、西インド諸島を旅行した時、彼は満27歳であった。新渡戸博士のお供であった鶴見が、外国の女性と交際するはずはないが、同船の人々の行動や船内の雰囲気から、鶴見の空想力が産み出した物語である。
 それにしてもこの作品が上梓された昭和初期の男女関係の窮屈な日本で、恋愛遊戯とも目されそうな男女交際の描写がよく反発を受けなかったと思う。また、高山巌のようなプレイボーイが大正時代に日本に居たとも思われない。
 本書は鶴見が初めて書いた小説だと言うが、英国の評論家ローレンス・モリスに言わせていることは、鶴見の「現代日本論」そのままである。
 そして白系ロシア人のネーディア嬢は、鶴見が『欧米名士の印象』で紹介したエリザベス・ハザノヴィッツがモデルと思われる。
 さらに上陸を前にしての講演会で大好評を得た高山のスピーチは、大正13年に渡米して、排日移民法を攻撃した鶴見の演説そのものである。
 主人公が鶴見に似ている箇所が少なくない。鶴見は主人公に自分とは別の人物を設定して描写しようとはせず、鶴見が感じたように主人公に感じさせ、鶴見の言いたいことを主人公に言わせている。会話が長く、演説化している。登場人物は鶴見の操り人形である。
 鶴見は自分の意見を小説の形で表現するのだと言っているが、この小説はまさにその通りで、登場人物の個性的な会話や行動を記述せず、登場人物の口から鶴見の意見、主張を言わせ、果ては英国の穀物条例、パナマ運河、エドワード七世、トリニダート島、アメリカでの講演の心得など解説や知識の提供を行っている。小説と銘打ちながら議論が多く、半分は論説である。頭が痛くなって投げ出した人もあるかも知れない。
 若い時から鶴見は博学であり、外国語の本も沢山読んでいる。また、女性の着る物に関する知識が豊富なのは、どこから仕入れるのだろう。
 この小説の中に白人達も麻雀をやるシーンがあるが、鶴見は麻雀をするのであろうか。鶴見の『思想・山水・人物』378頁に「自分たちは、木の机を出して、四人で、支那の遊びの麻雀をした」との記述がある。
 この小説の中で鶴見は、「だれか、天才が日本から生れて、日本歴史を英語かフランス語で書いて、世界に発表しませんかね。私は日本人の事業として、こんな偉大な仕事はあるまいと思うんですがね」と登場人物に言わせている。日本史を書くことは鶴見の遠大な志であった。随筆も小説も史伝も究極的には日本史を書くための修行の過程であると彼は言っている。だが、それは未発に終った。
 自由主義思想を訴える本を書けなかった戦前の「非常時」に、「タゴールを凌ぐ」と言われた鶴見の「古今を通じての名文」で英文日本史を書けばよかったのだ。それこそ彼が政界で活躍するよりも遥かに大きい社会への貢献となったであろうに。
 なお、『最後の舞踏』は、昭和63年に工藤美代子によって雑誌「ターザン」8月24日第57号に紹介された。その文章は次のとおり。
「……こうした男たちの、まさに権化のような人物を小説に書いたのが、鶴見祐輔という政治家であった。……そして、いくら『小説』とはいえ、実際の経験がなければ、とても書けないような臨場感あふれるシーンが多いので、かなり著者の自己投影がなされていると考えていいだろう。
 さて、新しい空間をコントロールする過程が、現代における冒険だと前に書いたが、その“デン”でいくと、これから紹介する小説『最後の舞踏』は、実によくその仕組みが出来上がっている小説だ。
 まず、その空間を、西インド諸島を旅する豪華船の中に限定している。そこには、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなど、さまざまな人種が登場し、さながら世界の縮図を見る思いである。それぞれの登場人物が、その背景に自分の『祖国』を背負っており、それゆえに船内の空間は登場人物たちを通して彼らの祖国へと無限に広がっておく設定になっている。
 フランス人の美しい未亡人を通して、主人公はヨーロッパの社交界を垣間見ることもできるし、ロシアの亡命貴族の娘の口から、革命に揺れる新生ソ連の姿を、まざまざと知らされる。そして主人公は、いちいちその幻の空間に敏感に反応し、知的刺戟を受けるわけである。
 しかし、彼が受けたのは知的刺戟だけではなかった。それだけなら書斎で本を読んでいれば充分である。
 主人公の高山巌は、肉体的な刺戟も強烈に受けるのである。そのうえ、他人にも刺戟を与えるところが、彼の『冒険者』であるゆえんだろう。
 もちろん『最後の舞踏』は小説である以上、主人公が理想化されすぎているのは事実である。だが、それだけに逆に、『冒険者』に必要なあらゆる資質を、まるでカタログのように羅列してくれる結果となる。

『冒険者』が乗り込んで行く新しい空間には、常に風景画がある。
 目の前に現出する新しい風景画に描かれたオブジェクトは、なんといっても『女』、それから『自然』、そして、その両方を含む『社会』――といったところではないだろうか。
 それでは順番に、この『風景画』のディテールを少しずつ紹介してみたい。
 まず、主人公の高山巌は、アメリカのハーヴァード大学の学生である。背の高さは1メートル77センチ。要旨は次のようになる。
『すらりと矢のように真すぐな姿勢、日にやけた男らしい赭顔。真黒な髪の毛、日本人には珍らしくよく通った鼻すじ、綺麗に手入れした鼻下の髯。強い意思を現わす頑丈な顎、健康な唇、そうして、その一切に統一を与えている澄み切った黒い双眸(ひとみ)』――と、いうわけど、大変なハンサム・ボーイで、その上にオシャレである。たとえば船の甲板に散歩に出るにしても、
『ニューヨークで作った白のリンネルの夏服を抽出しの中から引きずり出して、シャツも下着も一切新しく取りかえ、ノックスで買った紺に白の点のあるボータイを“リウ”としめて、ナポレオン伝を小腋にかい込み……』――と、いう具合だ。
 だからもう、メチャクチャに女性にもてるのである。そして客観的に見ても女性にもてるのが当然だと思えるほど、彼は女性の扱いに“たけて”いる。特に女性との会話は、すべて英語で行われているのだが、それは『芸術(アート)』の域にまで達しているといえるほどである。
 ハヴァナで船が停泊した時は、美しいフィスク夫人と埠頭で幌つきのビュイックを借りて、町までドライブに出掛ける。車中でジプシーの歌を唄う夫人に、巌が話しかける。
『『なんだって、そんなセンチメンタルな歌を唄うんだ、ベッシー』
 今の今まで、ミセス・フィスクとよそよそしく呼びかけていた巌が、突如として、名前のエリザベスを、しかも親しい略語でベッシーと呼びかけたので、彼女は思わずにっこりとした。
『何故そんなに笑ってばかりいるの?何かいいことでもあるの?』
『ええ、あるのよ。大ありよ』
『他人には言えないこと?それとも星の降る晩にはかまわない?』
 と彼は段々体を女に近づけていった』――
 このフィスク夫人以外にも、アメリカの名門ヴァッサー女子大学に学ぶ18歳のドロシー、亡命ロシア貴族の娘ネーディア、イギリスの著名な評論家の娘ミス・モリス、それにマーボロー子爵夫人、エレガントなウッド夫人など、十代から三十代までの様々な国籍の女性が、巌に、夢中になる。
 しかし、巌のほうは、特定の女性を決めずに、スイスイとその女性群の中を泳ぎまわりながら『男と女とが、いつ恐しい感情の激流に捲き込まれるか解らないような危険を感じながらの交際では、男女の自由な交際は起こり得ない』などと思っているのだ。
 そんな巌に反感を持つ白人男性が現れるのだが、闇夜の甲板での立ち回りで、巌はあっさりとその大男を投げ飛ばしてしまう。
『『おい一寸待て、今君が俺を抛り出したのは、あれは何だ。何という業だ』
『あれが日本の柔術というものだ。俺は日本の大学で選手にまでなった柔術家だ。俺にかかってきたのが君の不運だ。これからは日本人に手出しするなよ。あぶないからな。さよなら』』
 実に颯爽と、巌は船室へ消えていく。ここで実証されるのは、巌がそのウイットに富む会話や誠実なマナーで、白人船客の心を奪ったばかりではなく、肉体的にも優れており、柔術という日本のスポーツをマスターして、彼に敵対する人間をコントロールする能力があったということだろう。
 これで、巌は新しい空間における、人間のコントロール権を完全に握ったことになる。
 その『風景画』の中で、人間のコントロールがなされた後、『冒険者』の視点は『自然』へと移行する。
 トリニダッドに着いた巌は、英国貴族たちと3人で、マングローブの林の中を小舟で下り「鉄砲撃ち」へと出掛ける。このオリノコ河には、鰐や巨蛇が生息していて、河中で襲われた人間は跡を絶たない。
『それでも、後から、後からと若き者、富める者、貴族の子、学問のある者共が、水を求め、山を求め、森を求めて来るのだ。――中略――これは詮ずるに、原始以来、人間の心の底に、抑え難き情熱として奔騰している冒険の情熱なのだ』
 黒豹、鰐などを仕留めた一行は、小舟が大破したにもかかわらず、ジャングルを歩いて無事帰船する。ここでも、巌は最も過酷なる自然状況にチャレンジして勝利者となる。

『人間』『自然』と並んで、この作品で大きなファクターを占めているのが、社会問題である。こちらは、現実に巌が社会問題に関与するのではないが、古今東西の政治家、思想家を引き合いに出し、常に社会の改革へと熱き血潮をたぎらせている。
 その思索の様子は、実際に著者が政治家であったことを考え合わせて読むと、主人公の強い社会コントロール納得がいく気がする。
 いずれにせよ『最後の舞踏』は、移住を考えている男たちの『冒険マニュアル』と思えば、ぴったりなのだ。そして、明治・大正の時代には、実際に高山巌のバリエーションのような人物が存在したのである」

 工藤美代子の「明治・大正 サムライたちの大冒険」と題するこの文章と宮城音弥の『母』の解説と三宅晴輝による『子』の解説は、鶴見の著書には珍らしい識者による書評である。もう一つ沢地久枝の『母』の解説と同氏の著書『ひたむきに生きる』の中の鶴見祐輔と『母』についての文章がある。

 鶴見の著書では、外国語の片仮名表記が独特である。例えばタキシードがタクシード、ハローがヘロー、グレープ・フルーツがグレープ・フルートとなっている。
 『成城だより』第5巻の冷汗の出る話には、昭和4年に出版の際、担当者が鶴見の英語の表記を自分の英語に書き直したと書かれている。著者はそれを知らずに昭和26年版も訂正せずに印刷してしまったそうである。


  『自由人の旅日記』

 本書は昭和5年2月に日本評論社から出版されたものであるが、この中の第2巻「三都物語」は大正12年に丁未出版社から刊行されたものを収録しただけである。昭和26年に太平洋出版社から刊行された鶴見祐輔選集の「米国山荘記」は、本書の「北米横断飛行」の章と、『北米遊説記』の中の「米国山荘記」の章を抜いて一冊としたものである。なお、本書の巻頭の両腕を腰に当てた鶴見の写真は、戦後「ターザン」という雑誌に鶴見の記事が載った時に掲載された。(『最後の舞踏』の書評参照)
 鶴見は『南洋遊記』以来、海の内外の旅行印象記を書いてきたが、その狙いを本書の序に記している。曰く。「私が本当に記して見たいと思っていた旅行記は異邦の山河を悠遊して、触目偶感の裡より、その国の人情と文化と生活との如実の姿を探らんとしたる人間記録である。かかる心持をもって記されたる書としては、カイゼルリンク伯の「哲人の旅日記」があるが、哲人にあらざる私は、世界の山河水草の間に於いて、如何なる姿して人の子は生活し、如何なるを美しと見て人類はその日を送りつつありやを窺い知らんことである」更に鶴見は言う。「この一書のうちに採録したる五篇の文章は、私が過去二十年の文章生活に於いて、最も会心として私かに誇るもののみである」
 本書の出版は昭和5年2月であるが、本書のために筆を取ったのは、「少年の日」と「旅のいろいろ」だけで、「政治・小説・旅行」は、昭和4年6月に国民新聞に連載したものである。第3巻「北米横断飛行」も近年(と言っても北米横断飛行は、昭和3年1月のことであるが)執筆されたものである。

 第1巻第1章少年の日は、岡山一中の2学年が終了した春休みに名古屋の実家へ帰る途次、月が瀬の梅を尋ねて、笠置山から桃香野へ一人で旅した時を思い出しての紀行文である。
 そして帰宅すると彼の母は病床に伏していた。そして1ヵ月後に母はこの世を去った。さらにその30年後に鶴見は飛行機で笠置山の上を飛ぶのである。昭和4年3月、大阪の中央公会堂で小選挙区制反対の熱弁をふるって満堂の聴衆を酔わせ、演説が終るや直ちに朝日新聞社機で議会へはせ戻ったのであった。

 第2章旅のいろいろより拾ったことば
「我々は二六時中、同じ人と同じ物語をしていることの無聊に堪えないのだ。同じ壁を睨んで、同じ机に向って、同じ色の着物をきていることの苦痛に堪えないのだ。その平凡と無聊との牢屋から、ぱっと朝日の射す春の野に出るような気持で、人の子が未知の山川と町と村とを尋ねて旅に出るのだ」
「私は大学を出てから、数多き旅路に上った。海を渡って外国に出たことも、今は早やニ十回に垂とする。日本内地の旅に至っては、殆ど数うることを得ない程数多くなった」
「私が旅において最も趣味を感じるのは、船の上である。一切の世累から解放せられて水光接天の偉観を、欄に倚ってひとり眺めていると、恍として殆んど少年無心の日に帰るの思がある」
「白路砥のごとく坦としてつづく上を、風を追うて走る自動車の上に坐して、遠山近水の変化を送迎する心は、到底地上の何物をもっても替えることを得ない悦びである」
「汽車の窓に倚って、眼前を走る山河を望むのも、捨てがたき旅情である。私は東京発の特急列車に投じて、東海道を走ることを、このごろの道楽の一つに数えている。私は多くの文をこの車中に綴った」
「米国の広い寝台車に乗ると、夕食後間もなく寝床に入って、枕許の電灯をつけて読書することを実行してから、米国旅行中に町から町へ夜汽車に乗ってゆくのが楽しみになった。二ヵ月の旅行中私はこうして、新刊の書物を十冊以上寝台車上で読んだ」
「人間は年を取るにつれて、交友の範囲が広くなり、用事が増える。従って誰でも、自分の家では、落ち着いて本が読めなくなる。筆が取れなくなる。私はもし旅をしていなかったならば、この最近数年は、殆んど新刊書を見る折はなくして終っていたであろう」
「私は旅に出ているときは、その旅に関係あるものは決して読まない。旅行しながら、その旅行地に関する他人の書を読むと、その意見が先入主となって、自分の意見の独立と自由を妨げる。故に私は旅行前又は旅行中は、成るべくその土地のことを書いた本は読まないようにしている。旅行をすました後に読んで、自分の印象と比較して、自分の印象と比較して、自分の誤りを正すことにしている」
「旅のよろこびは、新しき友を得ることである。家郷にあっては、四角規帳面の人も、旅にしあれば、○(「疑」の右側が「欠」)然と打ちくつろいで、裃を脱して語る。かかる心は、友をつくる心である」
「世界を放浪した二十年のうちで、取りわけ強い魅力を覚える町は、京都と北京とパリである」

 第3章政治・小説・旅行
 第1節から第4節までは、昭和4年に結婚したリンドバークの人気を分析した文章である。
 第5節から第6節までは、文明論である。
 第7節から第9節までは、政治論である。
 第10節は政治と文学のかかわり。
 第11節から第13節までは科学と機械の現代文明論である。
 第14節から第15節までは民衆論である。
 第16節から第17節までは小説の社会的地位についてである。
 第18節から第19節までは旅行論。
 第20節から第22節までは、昭和3年の秋、太平洋沿岸の米国諸州へ講演した時の自動車旅行記である。

 第2巻「三都物語」 別項による

 第3巻「北米横断飛行」より

 昭和2年11月2日 横浜出港。船中で4つの雑誌へ小説を2ヵ月分8章脱稿。(婦人倶楽部へ「母」。講談倶楽部へ「最後の舞踏」。キングへ「死よりも強し」。雄弁に「二つの世界」)
 11月11日 ハワイ着。ハワイで、休戦記念日の講演会で講演。ローヤル・ハワイアン・ホテルの大食堂。聴衆150人。
 11月17日 サンフランシスコ上陸。サンフランシスコで2、3回演説。11月19日の夜行で発ち、キャンサス州のウイチタ市へ。上陸後1ヵ月10日は各地を講演旅行。カナダのモントリオール2、3日。ニューヨークの太平洋問題調査会の大夜会で演説。
 12月17日 ニューヨークのアスター・ホテルの大広間。外交研究会の例会。聴衆3千人。満州問題で、週刊雑誌ネーションの主筆ガーネーと立会討論。
 12月28日 ニューヨークのアスター・ホテルにおけるウィルソン夜宴で演説。15分間。ラジオでも放送。滞在していたチェース家のアンナとエリザベスに示した。
 演説の訳文は、第2章講演者に収録した。
 昭和3年1月6日 「政界の風雲急なり。すぐ帰れ」の電報届く。ショットウェル博士のお茶の会。前駐土米国大使モーゲンツー氏宅の夕食と観劇。
 1月9日 プロヴィデンス市のブラウン大学で講演。
 1月13日 ニューヨークのタウン・ホールで、「デモクラシーと極東の将来」と題して、中国人の謝徳怡と立会演説。聴衆2千人。午後10時ペンシルヴェニア駅へ。
 1月14日 午前8時半、ピッツバーク駅下車。クリーヴランド行の急行に乗り換える。
 午前9時、ピッツバーグ発。
 午後0時40分、クリーヴランド市に到着。タクシーでクリーヴランド空港へ。
 午後5時33分、クリーヴランドを離陸。無蓋機。
 午後7時15分、ブライアン市に着陸。給油。クリーヴランドから2時間2分。
 午後7時35分、ブライアンを離陸。シカゴ郊外の飛行場に着陸。クリーヴランドから4時間18分。
 午後9時28分(シカゴから時間が変わる。)シカゴ離陸。別の飛行機。(有蓋機)
 午後11時18分、アイオア・シティ着陸。シカゴから1時間50分。
 午後11時38分、アイオア・シティ離陸。
 1月15日 午後1時45分、オマホーに着陸。
 午後2時5分、オマホー離陸。第3の飛行機に乗る。
 午前2時20分、引き返して、オマホーに再着陸。
 午前7時45分、オマホーを再離陸。
 午前10時10分、さらに引き返して、オマホーに再々着陸。汽車に変更する。
 1月16日 午前10時30分、グリン・リヴァー駅に到着。
 夕刻、オグデンで乗り換えて、ソート・レーキ市に到着。ニュー・ハウスホテルに投宿。
 1月17日 午前2時45分、ソート・レーキ空港に到着。
 午前7時、ソート・レーキ空港離陸。
 午前9時6分、エルコに着陸。
 午前9時15分、エルコ離陸、排尿に悩む。
 午前11時15分、リノに着陸。
 午前11時21分、リノを着陸。
 午前11時17分(桑港時間)、サクラメント空港着陸。
 午前11時19分、サクラメント空港離陸。
 午前11時58分、サンフランシスコの陸軍飛行場に着陸。
 午後0時13分、サイベリヤ丸い乗船。出港2分前。

 北米横断飛行と言っても、ニューヨークからサンフランシスコまで無着陸で飛んだわけではない。
 昭和3年では米国人でさえ飛行機が珍しかった。航続距離の短い、それも郵便飛行機に便乗して、クリーヴランド空港を離陸してサンフランシスコの陸軍飛行場に着陸するまで、途中8ヵ所の空港に離着陸している。オマホー空港では霧が深いため2度も引き返し、とうとう汽車に乗り換えてソートレーキ空港へ行った。飛行機も4回乗り換えている。最初に乗ったクリーヴランドからシカゴ郊外までの飛行機は無蓋機だ。当時は無蓋機も有蓋機も乗客は操縦士と同じ飛行服を着て、パラシュートを背負って乗るのである。巻頭に飛行服を着用した鶴見の写真が載っている。
 鶴見がニューヨーク最後の演説を行う前に、タウン・ホールの幹事イリーが開会の辞で「……一身の危険を犯して、公約を果たさんとする日本の紳士に……」と述べた事態が危うく発生するところでもあった。それは1月15日にソート・レーキ市の手前のロック・スプリングス駅で、ロック・スプリングス空港は雪で飛行機が飛びそうもないので、このまま汽車でソート・レーキ市へ行くよう駅員に勧められた際、ソート・レーキ空港から先は夜間飛行をしないことと知らされ、それでは帰国の船に間に合わないので、どうしてもロック・スプリングス空港から飛行機に乗ろうとして、慌てて降りようとした時に汽車は発車してしまった。そのため鶴見はロック・スプリングス空港から飛ぶ飛行機に乗れなくなってしまったが、この日同空港を離陸した飛行機はソート・レーキの手前の3千メートルの高峰の中で、大吹雪に出遭って墜落したのである。まさに危機一発であった。

「北米横断飛行」の巻には、昭和3年1月14日から1月17日までの北米大陸を横断飛行した旅行記のほか、昭和2年11月17日にサンフランシスコへ上陸してから、昭和3年1月12日にニューヨークを去るまでの鶴見の第2回米国講演旅行の記録が収録されているが、中でも眼を牽くのは、昭和2年12月28日のウィルソンの誕生日の記念夜宴における鶴見のスピーチである。
 当日のメーンスピーカーは、ウィルソン内閣の国防長官だったニュートン・デイ・ベーカーで、鶴見はその前座を務め、時間も僅か12分であったが、鶴見の演説が終るや前民主党大統領候補者ジョン・デーヴィスが、すっくと立ち上って喝采した。すると1500の会衆がどっと一斉に立ち上がって、長く喝采した。
 ウィルソンの長女マーガレット・ウィルソンが、つかつかと歩み寄って、
「今まで、父に関する演説は度々聴きました。しかし、泣かされたのは今晩が初めてです」と、深い感じをもって言った。
 あくる日のブルークリン・イーグルが、
「昨日のウィルソン夜宴は、日本人の鶴見氏の演説が最も深い感動を聴衆に与えた」と書いた。
 当時ワシントン大使館に在勤していた鶴見憲は夜宴に出席したが、原稿無しの英語演説であれ程に聴衆を引きつけることは、普通には出来ない芸であると思った。
 この短い演説をしながら、鶴見は激しい昂奮の全身を電流のごとく流れることを感じた。それは生れて二度目である。
 明治40年の2月、鶴見は同じような昂奮を壇上で意識した。それは一高の嚶鳴堂で「日本海海戦の回顧」という演説をしたときで、鶴見はその時、若い東京帝大1年生であった。その時の聴衆の感激と鶴見自身の感激とを、彼は一生の貴き思い出として秘蔵してきた。
 この夜のウィルソン記念宴が、ちょうど20年ぶりで同じような感激を鶴見に与えた。抑えきれないような感激が、彼の胸の中に荒れていた。
 宴が果て、憲とも別れてプラーザ・ホテルへ帰った鶴見は、18年間思いつづけたウィルソンのために心ばかりの花束を、その淋しい墓前に捧げたような満足をもって、その晩はニューヨーク中央公園を脚下に見るホテルの15階の窓の中から、いつまでも、いつまでも、マンハッタンの大きい都を見下していた。
 読者は想い起こす。『北米遊説記』の一章を。大正13年8月、ウイリアムス・タウンでの第2回の講演で、西洋文明を懐疑して東洋文明の偉大を論じているうちに、聴衆のうちにある激しい強い力を感じ出して、鶴見が息のつまるような感激を覚えたことを。終ると嵐のような拍手が延々とるづいた。無限の感慨を抱いて宿舎に帰ってきた鶴見は、排日移民法の憤りを6千万の日本人に代って米国国民の頭上に叩きつけたことを、薄命な生涯を終った母に報告したいと思って夜の白むまで枕に伏して泣いたのであった。
 後年鶴見は『成城だより』第7巻で語る。
「私の一生で、自分でよく出来たと思っている演説は、二度しかない。一度は「日本海海戦の回顧」で、いま一つは、一九二七年十二月二十八日夜、ニューヨークのホテル・アスターで、ウィルソン誕生記念会に出席してしたウィルソン追悼の英語演説であった」

 鶴見は「我々は二六時中、同じ人と同じ物語をしていることの無聊に堪えないのだ」(17頁)と言っているが、この「同じ人」の中に、鶴見の妻も含まれているのではなかろうか。鶴見は陰気な妻と同居しているのが厭で外国に住んだのではないか。


  『英雄待望論』

『英雄待望論』は小説『母』とともに、鶴見祐輔の代表作である。今日でも××待望論という言い方が行われているが、その語源は本書である。
『英雄待望論』は50万部売れたと鶴見は言う。(『講談社の歩んだ五十年』で、天田幸男は33万部と証言している)この本は昭和15年(20版)に至るまで版を重ねている。
 今日では100万部単位のベストセラーが出現しているが、昭和3年の日本の人口が7千万人であり、義務教育が小学校までであったことを思うと、当時としては破天荒は発売部数であったであろう。
 なお、この本は鶴見のその他の著書とは異なる誕生のいわれを持っている。昭和3年11月10日に昭和天皇の即位の大礼(御大典)が行われることになり、講談社の出版部でも御大典記念の五大計画を立てた。それは(1)大日本史全17巻(2)修養全集全12巻(3)講談全集全12巻(4)鶴見祐輔の『英雄待望論』(5)永田秀次郎の『全国民に訴う』である。
『英雄待望論』と『全国民に訴う』は、修養、講談二大全集の宣伝の意味もあって出版されたものである。二大全集というものが、英雄崇拝的な全集であり、それらの前哨戦として、英雄心を日本中にかきたたせようとした宣伝用の小冊子なのであった。
 鶴見もその序文で、二大全集の購読を勧めているが、表紙のカバーはなく、装幀もなく、定価も50銭と格安である。
 昭和2年に出版された『中道を歩む心』と『北米遊説記』が各2円50銭、昭和4年に出版された『母』が2円であることから見ても、『英雄待望論』が小冊子として出現したことが窺われる。この廉価が空前絶後の大広告とあいまって驚異な売れ行きにつながったのであろう。昭和3年9月23日の東京朝日新聞には2頁にまたがる大広告が掲載された。
 この『英雄待望論』は、鶴見のどの著書よりも多く売れた。

 『英雄待望論』は、昭和3年という鶴見の人生の最盛期に書かれた。別の見方をすれば、『英雄待望論』と小説『母』と衆院議員の当選が、鶴見の全盛期を形成したとも言えよう。この年1月、米国で議会解散近しの報を得た鶴見は、飛行機で北米大陸を横断して帰国し、2月に岡山第1区から立候補してトップ当選した。4月20日に特別議会が開会されると政友民政両党の議席数が伯仲している状況に乗じて、少数党を結成して議会のキャスティングヴォードを握り、田中内閣の心胆を寒からしめた。特別議会は5月6日に閉会になると、鶴見は7、8月の2ヵ月間、客を謝し、政治と断ち、全精力をおの1巻に傾注したのであった。
 前巻370巻という比較的薄い本で(例えば『北米遊説記』は、478頁、『中道を歩む心』は503頁である)、第1章は英雄論、第2章は人物篇(伝記)、第3章は思想篇、第4章は国策篇である。
 人物篇に登場する英雄は、カヴール、ビスマーク、豊太閤、シーザー、ナポレオン、西郷南州、ディスレリーで、思想篇に紹介される人物は、アリストートル、マキャヴェリー、ジョン・ロック、ジェームス・マディソン、ルソー、カール・マルクス、プレートー、エドマンド・バーク、ジョン・スチュアート・ミル、マジニー、トーマス・ヒル・グリーンである。
 序文の書き出しにある人間の世界は集中時代と膨張時代を繰り返すという言葉を鶴見は屡々主張するが、これは鶴見が言い出したことではなく、メシウ・アーノルドの言葉であると鶴見は「死よりも強し」(のち「師」と改題)の荘厳なる落日の章に記してある。
 また、本書の第4章国策篇の文章の一部が、昭和17年版の欧文社刊、保坂弘司著『現代文の綜合的研究』に引用されている。
〔あらすじ〕
 序文の概要は次のとおりである。
 人間の世界は集中時代と膨張時代を繰り返す。徳川時代は集中時代で、明治時代は膨張時代である。そして日露戦争以後は再び集中時代に入った。だが昭和時代は再び膨張時代が開幕しようとしている。
 人間の能力には分析力と綜合力がある。分析時代が集中時代であり、綜合時代は膨張時代である。
 膨張時代に転向すべき機運として、人口問題がある。日本民族はここにもう一度英雄的努力を為して、国民生活打開の新運動を起こさなければならない。
 そのためには第一に綜合的天才を竢って、国民思想の統一をはじめなければならぬ。その思想界における天才の出現とともに、実行界の天才が出なければならぬ。第二の西郷南洲、第二の大久保甲東、第二の勝海舟、第二の吉田松陰は今どこにいるのだ!
 実行界において見るならば、世界史上の英雄は悉く統一と建設の人傑であった。決して批評と破壊との代表者ではなかった。その大きい根本的な能力は綜合的の能力であった。
 われわれはあまりに永い分析と懐疑との時代に倦きた。(石塚注 大正時代の15年間を指す)今よりぞ日本民族は綜合と信仰との新時代に入るべきである。それが荘厳なる英雄時代であるのだ。
 その英雄時代は、ただ国民の中に、英雄を待ち望むの心旺するありて始めて起こる。
 今日の日本に必要なことは、かかる英雄を待ち望む心だ。その英雄待望の心を呼び起こさんために○(原文は“玄”を2つ並べる)に古今の英雄の伝記を綴って江湖に送る。
 今日の時代は、著者の少年時代に較べると、偉人とか英雄とかいうものに対して、冷淡になっている。或る人々はむしろ蔑視し、冷笑する。それは国民の意気銷沈時代の特色だ。いつまでのそれではならない。

 第1章 大社会の完成と天才の出現の概要
 1.安政元年の開国から74年間に、普通教育の普及、産業革命、普通選挙という三大事件が起こっている。
 2.永い欧州大陸の花盛りが、欧州戦争を転機として、永久にこの土地を見捨てた。
 欧州の戦乱が欧州の文化を、新しくして粗野なるアメリカ合衆国のうちに追いやりつつある。現代の欧州人はアメリカ人を眼下に見下している。しかし、今日粗野にして弱年なるアメリカが、上品にして気力衰えた欧州に代ることは、あまりに見え透いた事実である。
 アメリカは、サモアとハワイとフィリッピンにまで進出し、飛石伝いにアジア大陸に迫ってきた。
 欧米列強の帝国主義の支那大陸横断侵略は、欧州戦争をもって引き潮となった。そしてトルコの復興、インドの風雲、支那の国民革命が台頭してきた。
 支那の国民運動は、ある時は英米自由主義国家に近づき、ある時は露国共産主義国家に歩み寄る。そしてシベリア一帯に横たわる露国共産主義の勢力と、さらに無視し難き未来の勢力として、濠洲・カナダ・ニュージーランドの英国自治領植民地を望見する。その一切を太平洋問題という。
 3.今日では日本国中の人々が、ほとんど皆、世界の経済的政治的変動の影響を被っている。
 四海同胞とか、世界一家というようなことは、もはや詩人の空言ではなくして、われわれお互いの生活自身である。その根本は器械文明の発達の結果、大工業が起こり、すべての人類が世界的工業によって生活しているということである。このような大きい社会が出来上がりつつあった時に、世界の学者や実務家たちは、その前途を楽観して、これより後は、人間の生活は安定し、飢餓は絶無となり、戦争は地上から姿を消すであろうと言った。
 なるほど飢餓だけは無くなった。だが、景気不景気の変動、激烈なる国際通商競争、新しい器械の発明と古い工業の没落等より起こる労働者の失業、中産階級の生活難等はかえって深刻になりつつある。また、戦争の数は減ったが、一度勃発すれば全人類の財産生命を掃蕩するような大破壊を現出する。
 われわれは、かかる器械文明時代の大きい社会の保存と円満なる発展について、もう一度考え直さなければならない。
 近代の器械文明の結果として生まれたこの大きい社会は、幾千、幾万人の専門家が自分の受け持ち受け持ちの部門において築き上げた社会であって、全社会を通覧する綜合的天才の作った社会ではない。
 人類はいま、思想の世界と実行の世界とにおいて、かかる綜合的天才の出でんことを渇望している。
 人間の社会は指導者なくしては進歩しない。多数の人の胸の中に。光り輝けるものがあって、これが少数の天才に霊成して、偉大なるものが地上に生まれるのだ。

 この「大社会の完成と天才の出現」の章を、鶴見自身の筆で総括すると次のとおりである。(『鶴見祐輔選集』(一冊物)昭和17年版11頁)
「当時(石塚注 昭和3年を指す)の日本の周囲にありし世界の大勢を概論し、更に祖国日本の内部に起伏した事相を叙説し、進んで『荘厳なる探索』をなすことが国民の大きい課題であることを陳じ、再転して、『大社会』の何たるやを略説し、結論して、かかる雄渾なる時代の要求に応ずるが為めには、蓋世の気魄、胸肚に鬱勃たる英雄児の出現に俟たざるべからざることを述べ、英雄の出ずるが為めには、先ずその民族の中に、英雄を希求し、英雄を待望するがごとき情熱なからざるべからざる所以を縷述した」

 第2章は人物篇で、国を統一した政治家、英雄の列伝(8人)である。
 第3章は思想篇で、財産中心の保守思想、急進思想、理想主義のそれぞれの思想家の列伝(11人)である。

 第4章 国策篇――将来の日本――新東方策の提唱の概要
 1.昭和に至って日本民族は、新状況に置かれ、新環境に当面し、これに伴って新問題を発生した。
 新状況とは、普通教育の普及、産業革命の完成、普通選挙の実施である。
 新環境とは、欧州戦争の結果であるヨーロッパ各国の疲弊、米国の超均衡的優勢、ロシア革命の齎した世界的不安、支那大陸の動乱である。
 新問題とは、日本国内における人口の激増、国民生活程度の向上、この両者の結果たる生活難である。
 かくのごとき一切の事情は、日本国民の新政治を要求する。新政治の基調は、国内においては、経済政策と思想問題の解決であって、国外にあっては、新世界制作の発見である。
 2.文明とは、人間の思想と政治とが、統一されてゆく道行である。世界統一の傾向は進んだ。ゆえにかかる統一の大潮は乗ずるものは興り、逆行するものは亡びる。
 3.思想的、政治的に統一されてゆくということは、世界の人類が、単一の思想を持ち、単一の政治を持つということではない。
 人間思想の統一とは、すべての人が同じ思想を持つことではなくて、他人の思想を了解し得るということだ。
 人間政治の統一とは、必ずしもすべての民族が同じ政治機関と同じ法制とを有するということではない。民族のの特有なる性質をますます濃厚に発揮しつつ、世界人類としての協力と調和との可能なような政治境地に到達しようということだ。
 統一は異なるものの調和であって、一切の人類の単一化ではない。人間の単一化は、人間の器械化だ。人間の器械化は、人間の自殺だ。
 4.思想の世界は、東洋文明を西洋文明との2つに統一されかけている。
 政治の世界では、欧州戦争の後、富める米国が出現した。欧州戦争で生じた債権の取立てを迫られた欧州諸国は、ヨーロッパ連邦を組織して、アメリカ合衆国に対抗することを考えた。欧州の強国が再び戦争をしないことを約したロカーノの平和章程も、米国の対欧債権取立てが推進力となって成立した。このヨーロッパ連邦にはその支配下にあるアフリカ大陸を含むものである。
 5.北は樺太、南は台湾、西は朝鮮を領有し、南洋諸島の統治の委任を受けた日本は、明治の大陸政策を完成させたが、3千3百万の人口の農業国は、今や7千万の人口を有する工業国となった。日本は新しい世界制作を必要としている。
 米国はハワイ、サモア、フィリッピンを領有して西太平洋に進出し、英国は長江より威海衛に上り、露国のシベリヤ鉄道は完成している。そして明治初年当時は世界の何地にも無かった日本移民の排斥が日本の人口流出を不可能にし、世界的保護政策の熾烈が、日本の製造工業品の輸出を次第に国難にさせている。
 6.明治44年、支那に革命が起こって満州朝廷が倒れて以来17年間争乱の絶えなかった支那大陸は、大正14年に孫文が死んだ後、広東を中心に怒った国民党の革命は、全支那に波及して、昭和3年5月には遂に北京を攻略して、大体において南北支那を統一した感がある。
 昭和元年の国民革命は、孫文の遺した三民主義が、一種の宗教的熱情をもって党員を動かした。
 一時は露国共産党と急接近した国民党は、その後露国と袂別し、欧米自由主義国と協調するようになった。
 日本と支那とは、国が近いということと、同じ文字を用いるということだけで直ちに仲よしになれるわけではない。
 二つの民族の間に、精神的理解と経済上政治上の利害の一致が必要だ。
 われわれから言えば、今日の支那に大切なことは、秩序である。統制ある政治である。支那の人々の要求していることは、不平等条約の撤去である。
 日本は人口増加の結果、日本の内地だけでは生活が頗る困難となってきた。従って支那大陸は日本にとって絶対に必要不可欠だ。人口問題の解決のニ策である大集団的移民と外国領土の武力的奪取は、今日の世界では許されない。して見れば、日本としては工業によって多数の人口を養うほかない。そして工業的日本の活路は、主として支那大陸である。支那は生産品の市場であり、工業投資の対象であり、日本内地工業の原料供給地であり、日本食糧の供給地である。具体的には長江沿岸の貿易と満蒙における投資事業である。この日本の平和的経済的要求を支那が受け容れてくれるかどうかである。
 7.結論としては、今や世界の国家乃至社会は。非常に大きい単位になりつつある。今までどおりの小さい国家単位では経済上に生活できなくなりつつある。従来は一国単位であった。今や大陸単位となりつつある。
 一番早く大陸単位を実現した国が、アメリカ合衆国であった。ゆえにこの国が今日、あのように繁昌しているのである。48州の自由貿易が米国富強の秘訣である。

 アメリカ合衆国に対抗すべく組織されるであろう欧州連邦と南北米大陸連邦との完成を控えて、鶴見はアジア大陸を単位とする大終済組織(東亜国民連盟)を提唱する。
 東亜国民連盟の範囲は、日本・支那・シヤム(タイ。極東で日本と支那以外の唯一の独立国)とする。
 活動の目標は、経済上の共存共栄と文化の建設である。この経済的新連盟は、欧米諸国の東洋移民排斥政策と保護貿易政策によって結成を促進されたのである。
 当面の具体策として、関税同盟、東亜における交通網の完成、貨幣制度の問題がある。

 鶴見は昭和3年の時点で、「今や日米戦争の悪夢は太平洋上より消失した」と書いている。

 大正4、5年の南洋旅行の際、シヤム(タイ)のみを打切って帰国したことを後悔している。

 ビスマークの章で鶴見は、「彼は、カヴールと違って、徹底的な反動主義者であった。神授君権論を奉じて民衆政治を蛇蝎のごとく嫌った。彼は自由主義を毛虫のように憎んだ」と評しながら、数年後にビスマークを礼賛した伝記を書いている。
 それは鶴見の内に自由主義とともに同居する英雄主義の所産である。

 ナポレオンの章で、「彼は少年の時から、一切の感情とか愛情とかいうものは一擲する決心をした。道義というような出世の邪魔物も西の海へさらりと投げ捨てた。そうして鉄のような意思と鏡のような理智とで、この世の栄華を一切征服するという所願を立てた」
「数学家である彼は、数字のように明瞭にかつ精確に一切を計画していた」
 と評しながら、数年後にナポレオンが空想家であり、ロマンティストであるかのような伝記を書いている。

 鶴見は言う。「私はいつか南洲翁のことを、ゆっくり書いて見たいと思っている」
 そして資料を柳行李一杯買い取ったが、とうとう執筆せずに終っている。西郷隆盛など戦時中に書けばよかったのに。

 カール・マルクスの章で鶴見は言う。「今やマルクス主義は実行不可能のものとして、世界多数の人々から捨てられつつある」
 戦後、共産主義社会への移行は歴史の必然性と多くの青年たちが信じていた時代があったことを思うと、昭和3年における鶴見の卓見、洞察力は偉とせざるを得ない。

『英雄待望論』は、『母』と並ぶ鶴見のベストセラーであるが、知識階級の反応はどうだったろうか。
『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた芦野弘(昭和7年現在、米国ポートランド領事。駐米大使斎藤博がニューヨーク総領事時代の部下)の「私の鶴見祐輔観」には「『三都物語』は楽しく読んだ。併しその後、盛に出されたらしい著書は全く読んで居ない。一つはその頃外国に居たせいもあるが、実の所鶴見さんの英雄崇拝か英雄待望思想は、その頃でも已に時代からずれてると感じて居たからである」と記されている。
 二男の鶴見直輔も、「父の英雄論は駄目なんです」と私に言った。鶴見は子たちには、彼等が知識階級であるために理解されなかったのである。
『英雄待望論』が書かれた昭和3年とはどのような年であったか。
 鶴見は昭和17年に出版した『鶴見祐輔選集』(一冊物)で、昭和3年を回想して次のように記している。
「当時の日本は昭和の御代に入ってから後、僅かに三年で、外交としては国際連盟全盛時代であり、内政としては消極的な弥縫補修時代であり、思想としては依然として分析批評時代であった。国内に於ては人口増加の趨勢年とともに激甚して、失業者逐年増加し、自暴自棄の思想は青年の精神を蝕み、懐疑的敗北主義思想が、ややもすれば溌溂たるべき若人の頭脳に浸潤せんとしていた」
 だが鶴見は昭和26年に出版した『新英雄待望論』において次のように当時を回顧している。
「昭和三年は日本の全盛時代であった。日本は米英二国とともに世界の三大海軍国であった。ドイツは未だ第一次世界大戦敗北の創痍が癒えていなかった。ソ連も亦、未だ一九一七年の社会革命の破壊から充分に立直っていなかった。日本の国際的地位は実に高かった。日本は西部太平洋上の一大勢力であった。日本に相談することなしには、東亜の問題は解決できなかったのである。当時の日本民族の理想は、文化的には、東西両洋の統合者となり、政治的には、東亜の安定勢力となることであった。日本の意気は天に沖するがごとく旺んであった。その民族的覇気を基盤として、『英雄待望論』は記述されたのである。あの小著が五十万という意想外の売行を示したのは、偶々そういう時代の潮に乗ったからである。あの当時の日本は、実に火の出るような国であった」
 同じ人の時代認識とは思えない文章の違いである。
 昭和3年といえば、前年に金融恐慌が起こっている。講談社が平成10年に発行した『日録二〇世紀・昭和三年』の書き出しは、「日本が不況の最中にあった昭和三年……」とある。この年のまとめとして、「初めて実施された男子普通選挙の直後、共産党の壊滅をねらう「三・一五事件」が起きる。一方、関東軍は中国の内戦に乗じ、意のままにならなくなった張作霖を列車ごと爆殺した。そしてこの年、新たな天皇に期待してか直訴が頻発する中、十一月、盛大な即位礼が挙行された」と記されている。
 昭和3、4年は鶴見の全盛期である。

 世間は不況で暗かったが、鶴見の人生は最高に輝やいた。鶴見の個人的な事情が良好であったことと、不愉快なことは忘れ易く、楽しい記憶が残る思い出というものの傾向から、「あの当時の日本は、実に火の出るような国であった」という感想が生じたのであろうか。さらに、終戦直後の悲惨な状態も、古き佳き時代のイメージを形成したのかも知れない。
『鶴見祐輔選集』(一冊物)を続ける。
「ゆえに私の叫んだ英雄主義の思想のごときは、戸惑いしてニ十世紀に現れたドン・キホーテのごとき徒らに一部のインテリの嗤笑を買った」
「英雄時代の讃美より、もっと切実なことは就職と結婚であったのだ。綜合と信仰よりも大切なことは、事務の鍛練と保身処世の術とであったのだ」
 だが昭和16年に大東亜戦争が勃発し、緒戦に日本が勝利すると、『英雄待望論』は14年前の予見だと鶴見は胸を張る。『鶴見祐輔選集』(一冊物)は言う。
「しかし一部のインテリが、どう思おうとも、日本の大衆の胸の中には、その当時新しき雄渾なる時代を待ち望む熾烈なる欲求が燃えていたに違いない」
 そして緒戦の戦勝の実績を述べた後、
「私が英雄待望論を公にした時には、世人の夢にも思わなかったような偉大な時代が到来したのである。我が国の支配する陸地は、昭和三年の当時に比すれば、約十倍に及び、しかも今後拡大さるべき陸地の大きさは、更にこの幾倍かに及ばんとしている。
 この広大なる土地の上には、実に七億を超ゆる大衆が生存し、その土地の上には世界の重要資源が無尽蔵に横たわっているのである。この土地を開発し、この大衆を指導し、新たなる大東亜を建設することが、日本民族の現実の仕事となったのである。
 英雄時代は正しく到来したのである」
 昭和17年において回想する昭和3年は、知識階級に自説が容れられない邪悪な時期だったようである。
「火の出るような」という表現は、鶴見はその小説「七つの海」(昭和16年に神戸新聞に連載。単行本になっていない)で用いている。
「その当時、彼の少年時代の畏友であり、大先輩であった須崎俊藏は、帝大文科の哲学科の助教授になって、遠くドイツに留学していたが、遥に書を信一郎と秀信とに寄せて、新興ドイツの火の出るような光景を叙述しその中にこんなことを言ってきた」
 鶴見はヒットラー政権下のドイツを賞讚したのである。


  『北米遊説記』付『米国山荘記』
『北米遊説記』は、昭和2年7月、大日本雄弁会から出版された。487ページである。
 この書は、大正13年8月から14年11月までの1年4ヵ月、鶴見が単身排日移民法実施後の米国に渡って講演と新聞雑誌への寄稿によって、排日移民法の不当を抗議し、日本文化の紹介に努めた記録である。
 大正13年に鶴見は鉄道省を退官して衆議院議員に立候補したが落選し、傷心の身で米国へ赴いた。当初の講演の契約は二作だけだったので、2、3ヵ月で帰国する予定で出発したところ、鶴見の英語演説は大好評を得て、想像もしなかった2、3百か所からの講演の依頼が殺到し、約1年半も滞米する結果となった。(その講演の主要なものを沢田謙が邦訳して『現代日本論』と題して、大日本雄弁会から出版されている)
 特に3千万人の読者を有すると言われる週刊誌ゼ・サタデー・イヴニング・ポースト(昭和38年に廃刊)が、日本人ではじめて鶴見の5個の論文を掲載してくれるという幸運をつかんだ。日本で失敗した鶴見は、米国で成功したのである。
 本書のうちウイリアムス・タウンの記事24回分は、大正15年7月に大阪朝日新聞に連載され、米国山荘記52回分は、大正15年7月から秋にかけて、東京時事新報に連載された。今回その残りを付記して本書と為したのである。
 本書刊行の真意は、太平洋時代の当ライトともに、日本は世界的日本として誕生しなければならぬということと、その新日本の大切なる相手は、対岸の米国であることと、従って我々が米国に知られ、米国を知ることの必要が増加したことと論ぜんとするにある。
 本書を後藤新平に捧げる理由もまたそこにある。
 そして我々は内においては、公明正大なる自由主義の精神を必要とし、外に向っては寛宏博大なる国際精神を必要とするという心得をもって記したのが、『米国山荘記』である。
 本書が出版された昭和2年は、排日移民法が米国で実施された直後で、日本国内で反米空気の旺んであったころである。従ってこの程度の著書でも、余りに親米的であるとして非難された。
 なお、昭和26年に太平洋出版社から刊行された第二次鶴見祐輔選集(第一次は昭和17年に潮文閣から刊行。一冊もの)として、『北米遊説記』と『米国山荘記(『自由人の旅日記』の中の「北米横断飛行」を併載)が選ばれている。第二次はこの2冊のみ。

 序に続くはしがき――「太平洋時代の暗示」の中の、修正された次の文章が、昭和17年に欧文社から出版された保坂弘司著『現代文の綜合的研究』に引用されている。
「大陸の風土と産物とは、人々の視野を狭くし、好尚を俗悪にし、現実享楽の生活に堕せしめる。この時ひとり海のみが千古にわたる波涛の純潔さで人間の視野を広くし、その趣味を高雅にし、力を礼拝せずして心霊を欣求せしめ、手を額にして日輪沈む西方不朽の堺を憧憬せしめる。ゆえに永久の文化は水に囲まれた国に起った」
 なお、同書は『英雄待望論』の文章も引用している。

 この「太平洋時代の暗示」という明快にして格調高き文章の要旨は、ギリシャを中心とした地中海文明の次に、イギリスを中心とした大西洋文明があり、いまアメリカと日本を中心とした太平洋文明が幕をあけようとしている。
 しかし今日のままの日本では、古代ギリシャにも、近代英国にもなれない。一切の形式道徳の覊を寸断して本来の純真を復活し、あらゆる装飾芸術を粉砕して、自然に即する単純美を回復し、偽善の外衣に埋もれたる社会生活の伝統を一擲して、若き青春の純情を更生するのでなくしては、本当の若き日本は生れて来ないということである。

 大正13年の夏、鶴見は5回目の渡米を試みた。ちょうど排日移民法成立の直後に当たり、全日本に反米の感情が、旋風のごとく荒れ狂っていた時であった。鶴見はこの日本民族の憤りを代表して、米国37の大学その他100余ヵ所の集会で講演して歩いた。この講演旅行は1年半にわたり、足跡はアメリカ合衆国(当時は北米合衆国と称した)から、カナダ、ハワイにまで及んだ。そして筆と舌とによって、約2千万人の米国人に、現代日本の事情を物語り、かつ、かなり手ひどく米国文化の病弊を指摘し、米国外交の矛盾を攻撃した。その体験から感得した米国の印象を旅行記に託して記したのが本書である。

 ウイリアムス・タウンというのは、マサチューセッツ州の小邑で、この地のウイリアムス大学の総長ハリー・ガーフィールド博士(ガーフィールド大統領の第二子)が、1921年に、大学の夏休みを利用して、外国から知名の政治家と学者を招聘して、大学教授、政治家、実業家、新聞記者に講演させ、あるいは全員で討論して国際問題を研究させることを開始した。日本人で最初に招聘された講師は、藤沢利喜太郎博士である。2人目が鶴見であり、ガーフィールド総長が前駐日大使モリス氏に相談した結果白羽の矢が立った。この年は当初日本人の講師は予定されていなかったのだが、この年排日移民法が上下両院を通過して日米間の大問題となったため、急遽日本人の講師を招聘することになったのである。

 この時、鶴見の後輩で外交官の芦野弘が、ニューヨークから馳せ参じて講筵に列していた。芦野の回想記によると、鶴見は講演の前夜、「いざ晴の舞台となると急に気になり出して、前の晩になって草稿を読み直しながら辞書を持出してしきりに一語々々の発音を確めたりして居た」という。
 結果的に鶴見の「講演の内容は立派であり、英語は無論教育のあるアメリカ人に解らせるには十分であり、老若男女の聴衆に相当の感銘を与えたようだった」と書いている。(『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた芦野弘の「私の鶴見祐輔観」55頁より)
 松本重治の回想記には、ビアード博士の提案で、博士の長男ウイリアムを稽古台にして、博士のアパートの裏庭で講演原稿を鶴見が読み、ハーバード大学の学生のウイリアムが鶴見の発音の誤りをいちいち直して、数日間のリハーサルのお蔭で鶴見の発音上のミスが全然無くなったと書かれている。(『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せられた松本重治の「先人の足跡を憶う」127頁)

 鶴見の英語演説が成功して嵐のような拍手と大勢の握手を受けて宿舎へ帰ったが、万感胸に迫ってどうしても眠れない。彼は薄命な母を偲んで朝まで泣いたという。
 鶴見は「明治の男」であるが、しばしば泣いている。そして彼の小説中の人物を泣かせている。彼は若い頃から男が泣くことを肯定し、姉に宛てて次のような手紙を書いている。
「姉上様から頂く手紙を拝見いたしますといつも涙がこぼれます。僕は感情が強うございます。けれども感情の強いのは私の誇りでございます。で私は姉上様の御手紙を見て昔を思ったり、母上様の御写真を出して泣いたりするのを一番自分の愉快とします。日本では泣くのをわるいと致してございますが、リンコルンの偉かったのは涙脆い点であったと申します」

 鶴見が「この一章を記さんが為めに、私は上来の数万語費やした」という第8章米国講演論より拾ったことば
 新しき天才への呼びかけ
 日本が、小さい島国国民から蝉脱して、大きい世界国民に変わらなければならない。
 そのためには日本人の一人一人が、その持って生れた天禀に従って、世界の舞台に躍り出してゆく修行を、充分に積んでゆかなければならないと思う。かくして、日本人が世界人になるとともに、日本の文化と生活とを世界に紹介して、世界的と為さなければならぬ。その一つの方法は、日本人が文章(ことに新聞雑誌による言論)と言論(公開講演)とに依って、世界論壇の主流に棹し、以って、日本思想と日本生活とを大声に叫び出すことである。
 今日のところでは、日本語を世界語と為すことは、何といっても困難である。
 日本語が世界語となる日まで、我々は一切の不便を忍んで、現在の世界語の一つに依って、日本と世界との接触をするより仕方ない。その最も有力なる世界語は、今日においては英語である。

 世界語をもって、日本精神と日本生活とを、世界に宣布する一つの方法として、米国の講演行脚がある。
 世界の三分の一の富を集中した米国は、やがて独自一己の文化を造って世界文明の中心と化すべきことは、火を睹るよりも暸かである。
 日本の事情を米国に闡明することは、日本を世界的ならしむる捷径である。
 米国人は講演を聴くことを非常に好む国民である。
 米国の講演が他国と異なることは、他国では聞きっ放しにしておくところを、米国ではよいと思ったら実行する習慣があることである。いま一つは、講演者の人間に対する興味である。

 米国で成功する講演はどんな内容のあるものかというと次のとおりである。
 (イ)簡潔にして、要点に触れること。議論は具体的でなくてはいけない。余計な形容詞も無益。長談議は禁物。
 (ロ)ユーモアのあること
 (ハ)個性の鮮明なること
 (ニ)真情流露的になること
   原稿朗読を好まない

 米国の聴衆の特色は次のとおりである。
 (イ)敏感
 (ロ)お人好しなること
 (ハ)婦人多し。八〇パーセントは女性。しかし女性向きの話は不可
 (ニ)パーソナリティに感じ易し

 米国講演者の資格
 第一、米国に関する知識と経験
    米国人を理解し、米国に対して同情があるか否か
 第二、英語の修得
    聴衆に解らせようという苦心と努力

    解る英語
    一字一句でも、自分に誤ちはないかと反省する細心
    自分は外国人であるから、英語はまずいという謙虚な心持

    品格のある英語
    興味のある英語。正確な英語より面白い英語。文学的英語

 第三、見識
    講演後に質問続出するから、これに一々応酬するだけの、自分の意見が出来ていなければならない。

 第四、演説の技巧
    美文や高調子でなく、平坦にして、一歩一歩理性に訴えるような座談式演説がよい。
    明晰簡潔な表現法と奇知とユーモアに富んだ面白味。
    壇上から満堂の聴衆に親しみを感じさせるような態度。

 第五、健康

 明治44年に新渡戸博士の講演旅行に随行していた時は、桂公の官僚政治の全盛期で、殊に帝国大学法科という官僚的空気のうちに育った鶴見は、正直に言って、外国の大学を講演して歩くという仕事の深い意味を、それ程理解していなかった。

 大正13年の米国講演の成功は、衆院議員に当選以上の価値がある。
 大正13年と昭和5年の落選がなかったら、米国講演旅行はなく、新渡戸に次ぐ太平洋の架け橋にはなれなかったであろう。

 本書は米国の講演旅行の記録であり、重要な講演の要旨も第2章講演者、第1節北米遊説に記したので省略する。


 本項は鶴見祐輔の著書の紹介ではなく、「経済往来」に掲載されたXYZ氏の「鶴見祐輔論」の紹介と付言である。

 昭和2年8月号の「経済往来」にXYZ氏の「鶴見祐輔論」が掲載された。その全文は次のとおり。
       一
「筆者かつて某所において、鶴見祐輔氏の講演を聴いたことがある。寸分の隙もないその服装、いかにも外国で鍛えられたようなその態度、輪郭の整った白皙の顔立、聡明を表わすその双眸、これらが既に聴衆の心を捉うるに足る。況んやその声は幅広くしてしかもよく透り、日本語をかくも操れるかと思われる抑揚、溢れるごときその情熱、誠に当代一流の雄弁家なるかなと感じた。講演終って聴衆がドヤドヤと会場を雪崩れ出る時に、口々にその夜の感激を語り合い、その眼に涙を浮かべる若人も見受けられた。彼は確かに多数の鶴見ファンを持っている。それらのファンは彼の掲ぐる主義の故に集まるのではない。彼よりして深き理論を聴かんとするのでもない。ただ彼の中に醗酵しつつある力に触れんとするのである。沈滞と頽廃消極と陰鬱のすべてを支配する現代日本において、何物か人を動かさずんば止まざる活力の彼より出ずるを受けんがためである。
 彼は筆者が今まで月旦し来れる数氏とその行径において、やや趣きを異にする。しかしここに彼を月旦の俎上に上せるは、彼が一個特異なる個性の持主であるからである。同時にまた彼を月旦するは必ずしも彼独りのみを論ずるのではない。彼と年輩を等しくする壮年の人材について、少しく筆者の所見を開陳したいからである。
       二
 彼は群馬県高崎の在において、豊かならざる小吏の子として生れた。父は任地を転々として移ったために、彼もまた学校を頻繁に変わったが、中学時代を送ったのは岡山市であった。彼が今日岡山県下において議員の候補として立たんとするは、全くこの縁故からである。この時の校長は服部綾雄氏といい、米国で奮闘苦学した立志伝中の人物で、相当の雄弁家であった。彼が後年壇上の雄者として立つに至れるは、この校長に負う所が多いのであろう。型のごとく首席をもって卒業し、母校の輿望を背後に負うて、彼は一高の門を潜った。
 彼を生んだ父は豊かではなかったが、豪放不羈の生活を送った。これがため莫大なる夫妻を累ね、彼の母をして空しく寂寞に泣かしめた。父の死するや彼は遂に限定相続をなすの止むをえなかった程であると聞く。彼が交游に対して「父」を語れることなきに拘わらず、一語「母」に及ぶ時に、常に彼の眼は曇ると言う。彼は日本の家庭における父の専制と母の忍従とを存分に見せられた。この忍従の裡における母の唯一の希望と慰藉は、秀でた長男祐輔氏の立身出世であった。彼が「母」を偲んで痛恨い堪えないのは、父の生前における母の辛労に対する同情と、これを報ゆる時を待たずして母に別れたことであろう。彼が学窓生活を終えた時、母なきを嘆して声を揚げて泣いたという。彼の亡き母に対する追懐は、それが一種の恋であり信仰であり、彼を慰め鞭つ力であった。彼が近時母を題材として小説を書いているのも、小説に托してこの思いを写さんとするのであろう。かくして若く父と母とに別れた彼等兄弟姉妹は、別々に流浪の生活をなし、彼は義兄広田理太郎博士に養われて、一高と大学を卒業することが出来た。その後は数多くの弟妹の生活を一身に背負うて、役所より戻るや直ちに夜学に教えて、小遣を稼いだ。彼を描くに当たって、貧と涙とがその過去にあったことを忘れてはならない。ここにも彼の奮闘的一面が窺われる。
       三
 話は前に戻って、彼を迎えた一高は何物を彼に提供したか。当時の一高は言わば未来の日本の舞台に表わるべき思想の争闘を縮図において表わしていた。一方の派は一高の伝統を維持し、一高の対外試合に勝を占める所に、一高生の誇りがありとし、集団生活を自己目的とし、個人の生活の如きはその手段なりとした。集団生活の維持のためには平和と統一とが必要であった。これがために最も都合のよいことは、伝統を唯一の権威として、異論異説を抑止することであった。この傾向は当時野球を以って柔道を以って剣道を以って競漕を以って、凡ゆるものにおいて、武名天下に冠たりし光栄の歴史を背景とする時に、若き学生を牽引するに余りあった。この派は主として運動部の人々を主力とし、言うまでもなく絶対多数派であるが、言論界における代弁者は、現大蔵省の官吏青木得三氏であった。言う勿れこれを以って渺たる一高の思潮なりと。この傾向は当時日露戦争前後の澎湃たる国家主義の余沫であり、一高といい一部分社会における国家主義の反映に外ならないのである。
 わが鶴見祐輔氏は、その学才と雄弁と更に政治的才幹とを以って、当然に国家主義の寵児となるべき運命があった。何故なれば国家主義派は統治を持っている。才幹は統治の局に当たって充分にこれを揮いうる。のみならず統治者は常に人材を迎えんとする。かくして鶴見氏は自他共に国家主義派に赴くべき誘惑の前に立っていた。しかも遂に彼がこの方向に進まざりしは、別の誘惑が彼を導いたからであり、ここに彼の未来の転回が期せられていたからである。
       四
 それは当時一群の新思想家が台頭して来たからである。彼等は集団生活を以って自己目的なりをするに反対し、個人人格の権威を以って絶対最高なりとした。これを以って集団の統一と平和とに必ずしも追随はしなかった。これらの名において個人の自由なる生活に干渉することに反抗した。伝統の名において画一的の規律を求むるに対して、個人に内在する理性の声に最後の審判を求めんとした。対外試合の光栄ある武勲は、彼等にとって些々たる飾物に過ぎない。一糸乱れざる寄宿舎の規律は、一片の形式にしか受け取れなかった。人としての教養に最高の価値を置かんとする彼等に対して、これらは唯渺々たる空骸としか見えなかった。正にこれ社会生活が一定の階段に達したる時において、早晩現わるべき新思想が現われたのである。倫理観における人格主義、社会観における個人主義が即ちこれであった。敏感なる青年学生は、社会における思想界の変化を予報する。況んや俊秀の子弟を擁する当時の一高はやがて日本に現わるべかりし新思想を先ず時計台下に持ったのである。
 この新思想は二つの方向から唱えられた。一は文芸部を中心とするものであり、一は弁論部を中心とするものである。前者は文芸哲学よりその流れを汲み、後者は主として源を宗教の方面に仰いだ。前者の代表者として阿部次郎、安倍能成、小宮豊隆、魚住影雄の諸氏あり、後者の代表者として前田多門氏の如きがあった。殊に魚住影雄氏は若き予言者として、校友会誌上に寄宿制度の画一主義を難ずるや、勿論囂として天下為に騒然たるものがあった。これらの先駆者が絶対多数派に敢然として対抗し、新原理の威信の為に毫も屈する所なかりしは、誠に推讃に値するものがあった。鶴見氏が一高の門を皷ける時は、恰もこの両思想の争闘がやがて現われんとする萌芽の時代であった。而して彼の一高生活を指導した方向は言うまでもなく新思想であって、彼を導いたものは先輩前田多門氏であったのであろう。
       五
 彼は後年筆に弁に、向陵三年の生活に負う所多かりしを語っている。年少功名の念燃ゆるが如き彼に、暫し立ち止まって自己を反省せしめ、豊かな教養のた生活を開展してくれたのはこの時代であったろう。それは誠に人間の一年において特筆すべき転回機であった。彼が先輩同僚に感謝し、弁論部に溢美の辞を送るのは尤のことである。彼が浸ったその生活を更に充分にしたものは、新に迎えられた一高校長新渡戸稲造氏であった。筆者が曽つて新渡戸氏を論評したように、新渡戸博士が彼の如き一群の学生を持ったことは、誠に博士にとって幸であったと共に、彼の如き青年にとって博士を得たことは、誠に渇ける者に飲料が与えられたようなものであった。早く双親を失いて肉親の愛に餓えたる彼は、その生来の英雄憧憬の心と相俟って、博士に親灸し傾倒し、これから彼の生涯に消えない美しい師弟関係が結ばれた。誰かに頼らずにいられない人なつこい彼には博士の如き性格の恩師は実に恰当である。彼が一高時代に受けた人格主義と個人主義とは、博士によって更に動かぬ生活原理として吹き込まれた。
       六
 彼はかくして多くの学生がただ教室の講義に没頭し、それ以外の天地を知らない中に交って、恩師と先輩同僚の幸福なる雰囲気に擁せられ、欧米の優れた思想家の古典に親しみ、豊かな教養の世界に浸っていた。多くの青年に容易に恵まれないような美しい師弟と友情との生活を充分に享有した。彼が人生の楽園として学生時代を追懐する亦、誠に故ある哉である。
 常人の持たざる以上のような生活を持ちつつ、一方単なる学生としても、彼は輝ける経歴を加えて行った。主席を以って一高を卒業し、大学においても渡辺銕蔵氏と屡々主席を争い、秀才鶴見の名は学生界に喧伝せられた。殊に彼の事務的才幹は一高当時において、多くの委員等に挙げられて、夙に衆人の認むる所となった。それらの光った才能の中でも、とりわけ彼の名をして輝かしいものとしたのは、言うまでもなく雄弁家としてであった。彼が法科大学第一回生(石塚注 東大法学部一年のこと)としてなした「日本海海戦の回顧」なる演説は、彼の雄弁家としての地位を確立せしめたものであり、その洗練された修辞、溌溂たるヴァイタリチー、人を魅するような態度、東都学生をして渇仰の的たらしめた。この雄弁は彼もまた半生の上出来であったと述懐したという。次で大学卒業間際における緑会弁論部における「ポーツマス条約の記憶」なる演説もまた、青年弁論家として白眉と称せられた。殊に彼が一高弁論部の先輩として、親しく後輩を誘導し、寛容よく人を包容する為に、多種多様の性格の青年が彼の家に集まり、求むる所のない枯淡性格は、一度集まった青年を永く引き留めて、十数年の親しい交游を作り上げた。学生時代以来彼の元に集まる青年が、火曜会というのを組織して、毎月一回名士を招待して話を聴いた。しかし実際は彼の家に集まり、彼を中心とする濃やかな友情の空気に浸りたいからであった。コセコセとしてまたトゲトゲとした切ない日本の社会の中に、ここだけには和らいだ愛の空気が漂っていたからである。彼はこうした空気の主人公となるにふさわしい人であった。この後輩の中から多くの官吏と会社員と学徒が出たが、その中で後年名を知られたものの中に、河合栄治郎、蝋(原文は旧字体)山政道、平野義太郎の諸氏がある。こうして秀才として雄弁家として先輩として、彼は輝く未来を嘱望されて帝大を卒え、社会生活へ一歩足を踏み入れた。当時彼がいかに期待を以って見られたかは、今日到底想像も及ばない程であった。
       七
 ここまで述べ来って、筆者は停止して再び彼の思想を点検するの必要がある。彼は学生時代におおいて個人主義理想主義の洗礼を受け、この点において当時の多数学生より時代において先んじたことを述べた。
 しかし問題は、彼がどの程度にまで深くこの思想を自己のものとして体得したかにある。彼は果して倫理観としての理想主義、社会観としての個人主義を、人格的に結びつく程、これを理論づけ基礎づけたかどうか、彼の中に根強く巣食っていた国家主義と立身出世主義とを、完全に克服しえたかどうか。彼の中に潜む国家主義と立身出世主義とは、明治が与えた牢乎不抜の人生観である。尋常一様に新思想を呼吸した位では、これらの旧思想は根絶さるべくもない。これを征服しこれより離脱せんが為には、一方において国家主義と立身出世主義とを理論的に意識し分析し批判し、他方において個人主義と理想主義とを体系的に把握し、理論的に基礎づけねばならなかった。これを完了しない間は、旧思想は新思想と雑然として混在し、それ自身対立し矛盾する両思想は、一人格の中において併立し争闘する。
 彼は時代に先んじた少数者の一人ではあったが、果して以上の思惟の経路を完了したかどうか。筆者は遺憾ながら否と確言せざるを得ないのである。彼と等しく一高時代における新人であった人の中でも、文芸部の系統に属した人々は、幸にして個人主義と理想主義とを深めることが出来た。彼等が思想家であった事の当然の結果として、これを為さざるを得なかったのである。こうして吾々は阿部次郎氏や安倍能成氏等が一高当時と終始一貫して、その理想主義を更に深め更に強めていることを見出すことが出来る。然るに弁論部系統に属した法科出身の人々においては、これらの新思想を充分に理論づけるだけの思索的努力を果さなかった。その限りにおいて彼等の個人主義と理想主義とは、単に国家主義と立身出世主義に対する消極的のものたるい止まって、旧思想の一隅に僅かの存在を保つ寄生虫のような貧弱なものであった。
 もし卓抜な指導者がいたならば、彼等をしてこの思索的努力と理論的基礎づけを暗示し得たに相違ない。然るに不幸にして新渡戸博士は、常識として理想主義と個人主義とを教うるには適任ではあるが、これを体系化する頭脳の所有者ではない。更に不幸なるは、当時の法科大学において彼等を指導するに足る一人の教授もいなかったことである。阿部次郎氏等が文科大学において、ケーベル博士や夏目漱石氏を持ち得たに反し、当時の法科大学には思索することを教え得る教授はいなかった。たとえ倫理観として理想主義を教えないにしても、社会観としての個人主義を理論的に教え得る人があって然るべきであった。このことはただに国家主義に対する個人主義を喚起し得なかったのみならず、凡そ社会組織というものに対する批判を教えなかったことになる。明治三十年代より大正五六年代に至るまでの法科大学卒業生が、社会観上においてほとんど無一物とも言うべき状態にあって、後年社会問題の勃興するやすべての法学士諸氏が、その適従に迷い、何等の知識も見解も持ち合せがなかったのは、その責は実に往年の法科大学にある。ここには六法全書の解釈と、生きた力のない実証科学とがあるのみであった。思索すること批判することを教うるものはなかった。鶴見氏等はこの点においてもまた不幸であった。
       八
 学才と弁才と文才と欲求とを兼備する帝大卒業生は、国家主義と立身出世主義の奴隷となる誘惑が頗る多い。国家機関は人才を歓迎する。出世の可能性を持つものは出世主義に傾き易い。ただ強固な反対思想の体得者のみが、この誘惑に抗争し得るのである。鶴見氏が受けた学生時代の教養が、これに抗争し得るほどの根柢のないものであったことは前に述べた。結果は果して何であったか、曰く、往年の新思想家はただ官界の能吏となり循吏となり、官僚の一走狗となるに止まったのである。もし個人主義理想主義の成果が、単にここに止まるならば、国家主義と出世主義と何の選ぶところがない。ただ異なるところは賄賂を貪らず同僚を売らざる教養ある紳士というに止まる。学生時代の新人の落ち着くところ、単にこれに止まるとせば、前時代の先輩に比して、その差の余りに少なきを恨むのみである。
 殊に鶴見氏が鉄道院というほとんど氏と何等性格的に交渉ない所に職を奉じ唯々として満足していたことは、人をして物足らず感ぜしめた。更に最も氏に遺憾なことは、後藤新平氏との縁組であった。筆者は返す返すもこの縁組を鶴見氏のために悲しむものである。後藤氏にとっても鶴見氏と異なる性格の女婿を持ったが幸福であったろう。鶴見氏にとっては後藤氏の如き華美な政治家を岳父に持つべきではなかった。もし彼が重厚質実国士のごとき岳父を持ったならば、彼の行径は今少し異なっていたであろう。後藤氏の令嬢愛子夫人は、鶴見氏の内助者として幸労を共にしうる賢婦人である。夫人との縁組は祝すべきであるが、後藤氏との縁組は鶴見氏にとって回復の出来ない損失であった。勿論彼はこの縁組によって色々のものを得たであろうが、彼の失えるものに比して到底言うに足りない。彼は元来不遇の中において、清貧に甘んじ、屈するところなく権威に反抗するところにおいて、最もその真価の輝く人物である。そのヴァイタリチーとその弁才とは、彼を犬養尾崎の立場に立たしめて、始めて彼は生きるのである。少くとも彼の中に潜む出世主義と縁を切るためにも、権門の付け馬となることは最も鬼門であった。彼はこの縁組によって十数年、彼を麻痺せしめ鈍ならしめる誘惑と戦わねばならなかった。人生付馬となるなかれというが、特に彼の場合においてこの言を痛切に感ずる。彼はこの縁組によって毫も立身出世をしなかった。しかも損失を充分に受けた。誠に算盤の合わない縁組であった。しかし第一次桂内閣の花形役者としての後藤男との縁組は、別の意味において彼の未来に栄華を期待せしめた。学生時代の新人として彼を眺めた後輩を失望せしめはしたが、現世的の意味においては、新に彼の未来に嘱目集まった。しかも彼のその後の十余年の属僚生活は、その何れもの期待を裏切って、往年の才人鶴見祐輔は空しく、瓦礫の中に朽つるを思わしめた。
       九
 ここまでで彼の経歴が停止すれば、それは要するに一片才人の末路を語るに過ぎないが、わが鶴見氏の生涯に最近の打開があったことによって、彼は本文月旦の俎上に載せるに値するのである。彼は大正十三年一月、十余年の鉄道省の属僚の椅子を捨てて、前途のほども測られない浪人の身となった。周囲の事情がこれを促したのでも何でもない。全く彼自身の内部的醗酵が然らしめたのである言う勿れ後藤子爵の愛婿である。生活に苦労の要らない殿様の道楽だと。彼はその生活において毫も後藤子の恩恵に浴してはいない。のみならずその退官に際しては、後藤子と意見が合わないで激論をしても敢行したという。彼の内部に起りつつある変化が、属僚生活に嫌たらないで、生涯の打開に出たと見るべきである。これには色々のことが預かっている。彼は学生時代より英語が得意であった。そのために鉄道省の役人をしても、常に外国的の仕事に廻された。鉄道省の編纂した英文日本旅行案内は彼の手を煩わすこと多く、今でも世界における有名なガイドブックの一とされている。彼は海外視察の名の下に頻繁に海外へ派遣された。南洋支那満州欧米に至るまで、足跡天下に遍しと言うかく南船北馬し、その結果が数冊の旅行記となって現れている。曰く『南洋遊記』『思想山水人物』『三都物語』及び最近著『壇上紙上街上の人』等である。これらの旅行が最も彼を益したのは、彼をして国際雄弁家の地位を作り上げたことである。元来彼は語学の天才である。日本語をあれだけに自由に使いこなせる人は多くあるまい。日本人が悉く日本語を使えるのではない。母国語を自由に使える人が何人あるか分からない。彼の演説を聴くものの直に感ずることは、日本語というものがかくも微妙な表現をすることが出来、かくも音楽的に抑揚をつけることが出来るかということである。言語には共通の才能がある。もし一つの言語を自由に使える人は、大抵外の語も卒業出来るものである。鶴見氏は日本語の外に英語を完全に物にしている。新渡戸博士を先生に持ったことも彼には刺戟になったであろうが、語学が資本となって彼は米国に日本の代弁者としての地位を確立した。殊に一昨年招かれてウイリアムス・タウンの政治学会に講演するやチェックスロヴァキアの外相、英国のタウネー氏等と相併んで最も好評を博し、全米到る処に講演行脚をなし、「ユースケ・ツルミ」の名一躍して全米に宣伝された。大雑誌「サターデー・イーヴニング・ポスト」は、外国人の寄稿としてはロイド・ジョージとクレマンソーとの外、唯ユースケ・ツルミのみに托したという。恩師新渡戸博士の蒔いた種を育てて、出藍の誉ある国際人となった。
 しかし単にこれだけのことでは、海外旅行は彼に大したものを齎したことにはならないが、重要なことは、彼が断えず海外に使して欧米の新運動に接し、異国の名流と会談したことである。日本のごとき息詰まるような土地から離れて、自由の空気を海外に吸うだけでも、人間は蘇生もするし成長もする。動もすれば十余年間の社会生活は、若々しいフレッシュなものを失わしめ、官界の属官生活は人をして血の気のない化石とするものであるが、幸にして彼は数次の海外生活よりして、この危険から脱することが出来た。のみならず海外における読書と交友とは、学生時代以来埋もれかかった個人主義と理想主義とをして、死灰再び燃やしめた。殊にこの点においてウイルソンの彼に与えた影響は大きい。彼の近著『壇上紙上街上の人』の巻頭ウイルソンの記を読むものは、評する者と評さるる物と心意相投じ、紙上人なくただ真情の溢るるものあるに感嘆するであろう。彼のウイルソンを語るや、眉昂り頬熱し聴衆を捉えずんば止まない。かかる傾倒し得る人物を持つこと既に幸いである。況んやこれを現代に持ち得たる鶴見氏もまだ幸なる哉である。彼がウイルソンから獲たものは、一言にして言えば自由主義である。故大統領が欧州大戦中勢力の頂点にあった時、彼はアメリカに滞在していた。そして道徳的指導者としてのウイルソンの業績を恣に観察した。ここにおいて久しく彼の心に潜んでいた学生時代以来の思想家としての情熱と、国士としての識見が復活して来た。これが彼をして属僚生活を続けるに堪えないで、局面展開の路を揺らしめたのであろう。元来もし運命が正当に彼を恵んだならば、帝大を卒った時に、個人主義理想主義を旗印として、文明批評家として立つべきであった。青春の気漲り成長の可能性の豊かな時代において、その弁才と文才とを以って立ったならば、彼は今頃は無冠の帝王として青年を支配していたであろう。その傾向において彼はジョン・ブライトとかジョン・モーレーとかに類する型の人である。古くは明治十八年徳富蘇峰氏が、「新日本の青年」を提げ、近くは吉野作造氏がデモクラシーを唱えたような運動が、最も彼に適しい仕事であった。然るに十余年あたら秀才をして槽櫪の中に老いしめた。齢四十を越えて、彼は初めてその所に出た。彼と動燃の法学士が碌々として老いつつある中において、彼は敢然、打開の路を選んだ。内に何物が溢るるに非ずんば為し得ざるところであり、空しく人生を送らざらんとする真剣の気を有する者にして初めて可能である。彼はここにおいて往年の秀才の名に恥じなかった。勇気誠に推讃に値する。
       十
 勇気は多とすべしであるが、彼の前途は決して平坦ではない。退官の後、日ならずして岡山県下に逐鹿場裡の人となったが、不幸予想に反して大敗し、莫大な負債を彼に背負わしめた。勇ましく戦に出た若武者にとって、この初陣の痛手は悲惨なものであったろう。のみならず今後の方向についても、彼の前に開かれる道は何れも障害が伴っている。再び入って官僚の走狗となるか、これは彼の良心が許さぬであろう。また後藤子との縁故が、反対党にそれを許さないであろう。然らば既成政党に入って陣笠から鰻上りに上るか、彼の趣味と性格とが党人と話を合わせることは出来難い。のみならず彼の性格には善い意味では悪ということの出来ない良心的な所があると共に、強いとか太いとか粘着性とか徹底性とかいうものが欠けている。細い優しい鋭い敏いという言が連想されるがこれと反対の傾向が不足している。これは党人生活において頭角を表わすに適すまい。それでは無産政党に入るかというに、彼は過去の大学教育に禍されて、同年輩の人々と同様に社会問題に理解が乏しい。この問題が近代社会の重要問題たることに、充分の把握が足りない。また社会主義の研究も不足しているために、徒に唯物論という名に反感を抱くことになる。彼が無産政党の陣営に加入するには、更に一段の変化が必要である。残る路は奈辺にあるかというに、思うに自由党を組織して自由主義を旗印とすることにあろう。しかしこの点においても、日本において自由主義というものが、いかなる形で唱えられるべきか、またいかにそれが知識的になっている青年に訴えられるように、理論的の体系に作り上げるかが問題である。自由主義は今でも日本において存在の意義を有する。しかしその自由主義が英国の自由主義そのままのものであるか。それとも日本が必要とする自由主義が特別にあるのではないかこれが鶴見氏の敲推を要する点である。もし自由主義がよいとしても、日本の知識階級は畸形的に理論癖がある。彼等を満足せしむるためには、よほど自由主義を洗練せねばなるまい。これは英米においても容易に為されなかったことであるだけ、鶴見氏にとっては過重の負担である。彼の前途はこの二つが、どれだけ彼に成功するかに懸っている。われわれは刮目して彼の前途を諦視しよう。
 少なくとも現在の彼の地位は、決して順風に帆を揚げているのではない。彼の自由主義程度のものにおいても、旧守派は危険を感ずる。然るに思想界は畸形的に前進して自由主義のごときは時代遅れと一括的に退ける。何事もバランスのとれない現代日本において、彼のごとき立場の人は身を置くに最も不利である。窮屈で余裕のないせっぱ詰っている日本人は、物皆をあるべき価値に評することが出来ない。使うべきに使い用うべきに用うる取捨は、日本の到る所に欠けている。この偏狭な社会に立って、彼のごとき壮年の登場者は、動もすれば左顧右眄し行路を決するに自己の声に聴かんとせずして、人言に迷わさるるの憂いなきか。彼に警戒すべきはこの点にある。
      十一
 彼や心事純潔実に玲瓏玉のごときものがある。彼と親しく交われる者が、衆口一致推賞する点は、彼に邪心なく求むる所ないことである。従って彼は実によく人の長所をみて短所を忘れる。己を忌憚なく痛罵し難詰するものを寛容に遇して往く。異なる性格のものが彼の友人後輩の中にあって、凡てのものが彼を囲んで和楽の気に浸り得るのは、この美点から来るのである。異なる性格を愛し、己を難ずるものを容れることは言うに易くして行うに難いことである。その人に何事か頼むところある強さを持つか、己を持する謙虚にして不断の成長を所期するかの二つに非ざれば望めないことである。この意味において交友に対する自由主義は、一定の水準以上の人物にして、はじめて採り得るところである。彼の自由主義は、単なる一片の社会思想ではない。その身辺に処する根本生活に矛盾しない根深さを持っている。殊に彼が後藤子の女婿として、自身はこれがために毫も出世を図らなかった代りに、その友人を岳父に推賞し充分に地位を与え充分の手腕を揮わしめたことである。しかも彼の推挽に預かれるこれらの交友が、遠く彼を凌ぐ場合にも、彼が毫も嫉妬の念を抱くことなしに、始終歓喜して友の出世を迎えたことである。心の潔きものにして始めてこれは可能である。鶴見氏は友として誠に信頼に値する。彼の社会的生活がどうあろうとも彼の私人としての生活は、友人後輩の美しい賞賛の的である。齢四十三は時既に遅いと言えないでもない。しかしまたこれからだと言えないこともない。強壮な肉体とフレッシュな心の持主にとって、年齢は必ずしも問題ではあるまい。十余年間官界に潜んでいた彼が、今後いかに日本の社会に太い足跡を刻んでゆくかは、確かに興味ある見ものである。それはあの時代に育った壮年の人物が、どれ位新時代に順応し得るかという意味において、また彼の自由主義理想主義がどれ位日本の民衆に共鳴されてゆくかという意味において、筆者のごとき批評家には好個の試練である。彼の類例尠い雄弁と、漏らすに由なき情熱とは、他人の窺及し得ない業績を挙げるかも知れない。たとえその成否は別として、悠久の天地を望んで、信ずるところに邁進すべきである。一高時代の新人十余年瓦礫の中に朽ちそうではあったが、結局同時代のものの眠れる中に再び、彼は新天地に飛躍することが出来た。今は時を得顔の人々がやがて老いゆく時に、彼の理想主義はいつまでも消えない新鮮な思想の源泉として、彼を復活させ成長させるだろう。ここに理想主義を採るものの強みがある。彼の只管に念とすべきは、人の声に聴かずして天の声に聴くことである。時代に容れられるを求めずして、世界の歴史の世界の法廷に立たんことである。たとえ彼を待つ障害は家根の瓦のごとく多くとも彼よ願わくば往け信ずるもののために。

 筆者XYZについて、松井慎一郎は、『鶴見祐輔と河合栄治郎』の中で次のように述べている。
「その筆者XYZとは『経済往来』の編集に関与していた河合栄治郎や本位田祥男らが替わり合って執筆するための共同のペンネームであった。鶴見の論評者として、鶴見のことを知り尽くした親友が選ばれるのは自然なことである。
 文中にある鶴見と新渡戸との関係や火曜会の様子などは、鶴見と密接な関係にある者しか書けないものであり、河合の筆による可能性が極めて高い。仮に河合が直接書いたものでなくても、その執筆者が河合から色々と情報を得て河合の鶴見評を大いに参考としながら書いたと見ることもできよう。いずれにしても、ここで展開される鶴見評は河合の鶴見評とほぼ同じものであると見ていいだろう」

 文中に「……その中で後年名を知られたものの中に、河合栄治郎、蝋山政道、平野義太郎の諸氏がある」という文句があるところを見ると、河合栄治郎が直接書いたものではないようである。
 河合栄治郎の昭和2年7月26日の日記にも「今日の新聞によると(経済)往来が出た、早く鶴見さんの論評をよんでみたい」と書いてある。

 なお、文中「彼は群馬県高崎の在において、豊ならざる小吏の子として生れた」とあるのは誤りで、鶴見は群馬県新町の生れで、父は紡績会社の工場長であった。

 鶴見は昭和2年、42歳で、まだ衆院議員になっておらず、『英雄待望論』や小説『母』も出版していなかった。雄弁家、随筆家として知られる程度なのに、はやくも「鶴見祐輔論」が書かれている。
 XYZ氏のほかにこの頃次のものが発表されている。
 昭和元年 岡山一中の烏城74号
 4年 児島秀彦
 「鶴見祐輔の学生生活を慕う」

 昭和2年9月号 雄弁
 吉田和一(甲子太郎)
 「鶴見祐輔伝」

 昭和3年
 平倉清一郎
 「鶴見祐輔論」


 『中道を歩む心』

『中道を歩む心』は、昭和2年11月に大日本雄弁会講談社から発行された。鶴見が42歳の時である。この年の11月2日に横浜港を出発して渡米し、翌年1月17日にサンフランシスコを出発して帰国するまで鶴見は滞米した。この年はアメリカ以外にも満州、朝鮮、南北支那、ハワイと訪れているが、いずれも滞在期間は短い。この年には本書のほか、英文『現代日本論』沢田謙の飜訳による『現代日本論』『北米遊説記』が出版されている。さらに雑誌では、婦人倶楽部の5月号から「母」、講談倶楽部の6月号から「最後の舞踏」、キングの7月号から「死よりも強し」の連載が始まって、生涯で最も多作した時期であった。
 本書は大正15年に創設された新自由主義連盟のバイブルであるが、戦後は復刻されなかった。鶴見は戦後は新自由主義を口にしなくなった。
 この本は鶴見が、従来新聞雑誌等に発表した論文随筆を集録し、その巻頭に「中道を歩む心」という一篇を加えたものである。本書は新自由主義連盟の経典扱いを受けたものであるが、新自由主義論は全体の22パーセントで、残りは随筆と紀行文である。

 中道を歩む心 読後感 ○鉄道官僚出身の鶴見の交通網立国論は、昭和2年の本書のほか、昭和16年に神戸新聞に連載された小説「七つの海」でも主張されている。
 だが、戦後は交通網立国論は主張していない。新自由主義とともに、時代に適合せざるものとして沈黙したのであろうか。
○鶴見にはムッツリーニのことを。第9節政治に於ける痛快味では、ナポレオンや豊臣秀吉と同列に讃美しているが、第5章第1節天下を動かす大雄弁では、芝居気たっぷりだと嗟嘆している。


「雄弁」創刊当時の思出
 講談社の創業者野間清治が創刊した雑誌「雄弁」(明治43年〜昭和16年)の創刊に関与した鶴見の創作秘話である。
「私は大学の四回生であった。野間さんも、若々しい顔をした月給取りであった。法科大学の事務員だったのである。………その時分の野間さんは、今日のように肥えて居られなかった。中肉中背、眉目秀麗なサラリー・マンで、大そういい感じを人に与える人であった」
 明治42年秋、法科大学の緑会に弁論部が置かれ、第1回の大会が開かれた。その席上鶴見は後に青年雄弁集に収録された「ポーツマス条約の記憶」という演説をした。その晩学生集会所の懇親会で、教授、学生に続いて事務員の野間清治が演説をした。
 或る日野間が先日の弁論部の皆さんの演説を集めて雑誌を出してみようと思うと鶴見に持ちかけたが、雑誌出版に経験皆無のうえ、四回試験・卒業試験・文官高等試験を控えていた鶴見は関心を示さなかった。
「明治四十三年二月に雑誌雄弁の創刊号が出た。………それが出ても、まだ私は、大して興味を抱かなかった。それは、当時の世の中の事情もあった。あの当時は、桂公の第二次内閣が、何時まで続くか解らないようなすばらしい勢で栄えていた時なので、謂わば日本の官僚政治の全盛時代であった。だから、当時の法科大学の空気は、よき官吏になりたい、というのであった。今日のように、社会運動、民衆運動の盛な時代には、ジャーナリズムの社会的価値も、大きいけれど、当時の社会は――少くとも帝大法科の学生であった私たちの眼に映じた社会は――そういうものに今日程の権威を認めていなかった。
 かかる社会的雰囲気のうちに於て、雑誌雄弁を出したということは、今日になって見れば、野間さんの先見の明と言われ得るけれど、一方から言えば、かなりの向う見ずでもあった。
 ところが、創刊号は、大成功であった。再版から、三版まで刷るという勢で、事務室へ、外の用事でゆくと、野間さんは、「鶴見さん、三版が出ました。まるで、夢のようです。まるで夢のようです」と眼をうるませて、飛び上らんばかりにして、悦んで居られた」
「ところが、野間さんは、原稿の不足に弱り抜いて居られた。それで、私なども、大分ご用命をうけたわけである。当時、私はロンドンタイムスの週刊を取っていたので、それを種にして、原稿を作った。………私は野間さんに引摺られて、大学の食堂へはいって、放課後、暮れ易き冬の日の午後から、晩へかけて、食卓に坐って、私がロンドンタイムスの反対党首領バルフォア―の演説を訳出すると、野間さんが、鉛筆でこれを紙の上に記されて、こうして、原稿が出来たのであった。そうして、ライスカレーかなにかを、二人で頬ばりながら、夜の九時十時まで働いたことを思い出す」


○大正13年の排日移民法は、日本だけの悲劇だけでなく、欧州からの移民に極度の制限を加えたもので、日本は偶々傍杖を喰ったものであるということは、この文章によってはじめて知った。『北米遊説記』にさえ、そのような記述はない。
○ジェファーソンの「ヨーロッパを米国の工場と為し、米国は永久に大地主、中地主の農業国と為さん」とした考えも今日から見ると首を傾げざるを得ないし、「デモクラシーは恒産あり生活の安定せる人々によってのみ可能だ」ということばに驚かされる。
○「米国が驚くべき幸運の国であり………かかる容易なる成功は、その成功者に……運命と自力とを混同させる」という米国観は、「上陸したのは岩と石との荒地であった。何の設備もない掘立小舎で、この厳しい冬を過しているうちには、百二人のメーフラワー号の渡航者の大半は死亡し、生存した者の大部分は病床に就いて、健康な六七人の者は、看病のために食物を作る余裕もなかった。
 春がめぐってきても、この岩石の多い土地では、充分の食物が取れなかった。
 オランダから出帆する時に、船を買い、道具を求め、入植の許可を購うために支払った金員の利子が、幾年経っても払いきれなかった。
 冬の永いニュー・イングランドの一角に、誰を相手とし頼りとすることもなく、半ば餓死、半ば病みつつ戦いつづけたこの「メーフラワーの渡航者」から、今日の世界第一の大国が生まれようと、誰が予期したろう」(『新英雄待望論』71〜73頁)という記述と何という落差の大きさを感じさせることか。


 梗概に代えて――目次――
 第1章 新自由主義論
  1.中道を歩む心
  2.哲人政治家チェルゴー
  3.マシウ・アーノルドの文章と思想
  4.現代日本に於ける新自由主義の地位
  5.新自由主義と政党
  6.日本政界に於ける自由思想の使命
  7.新自由主義への途
 第2章 随想
  1.道程を愛する心
  2.生きたる偶像の彫刻
  3.今日を楽しむ心
  4.ルビコンを渡る心
  5.自己の発見
  6.大樹礼讃
  7.政治家の風格
  8.清談礼讃
 第3章 随筆
  1.グレープ・フルートの話
  2.楡の樹の宿
  3.日本障子
  4.雨の礼讃
  5.一高の思出
  6.アスクイス夫人のこと
  7.異郷に友の発見
  8.精神的お医者様
  9.文章のちから
  10.外国語勉強の収穫
  11.英語の研究
  12.「雄弁」創刊当時の思出
 第4章 政治
  1.政治といふ観念
  2.普選の心理
  3.若き日本を作るために
  4.二大政党か小党分立か
  5.支那の動乱と米国
  6.空飛ぶ雁金
  7.国民外交の誕生
  8.日本更生の根本策
  9.政治に於ける痛快味
 第5章 演説
  1.天下を動かす大雄弁
  2.処女演説の思ひ出
  3.読者と聴衆
  4.座談と演説
  5.演説雑感
  6.創造と雄弁
 第6章 身辺雑筆
  1.身辺小景
  2.軽井沢の初夏
  3.街頭よち書斎に帰りて
  4.外国旅行の用心二つ
  5.小笠原へ
  6.軽井沢便り
 第7章 紀行
  1.都会と田園の思出
  2.近頃の旅日記より
  3.北支の旅
   (1)東京より京城へ
   (2)朝鮮の風光観
   (3)世界一の土木工事
   (4)別荘は旅順へ
   (5)環境の内の思想
   (6)日本盲の留学生
  4.動乱の支那を視る
   (1)一個の支那観
   (2)中世欧州と支那
   (3)科学的精神
   (4)三民主義の将来
   (5)宣教師の引揚げ
  5.太平洋会議
   (1)世界的大問題
   (2)太平洋問題調査会
   (3)タフト号上の客
   (4)布哇の曉風
   (5)寄宿舎生活
   (6)日米折衝
   (7)爆弾来
   (8)明日の英国の支配者
   (9)支那問題円卓会議
   (10)議事日程作成
   (11)イー・シー・カーター
   (12)白人濠洲論
   (13)余日章君
   (14)ウイルバー博士
   (15)会議の根本性質
   (16)おづおづとした讃辞
   (17)次回は日本に


○後に新自由主義連盟の経典となった『中道を歩む心』は、昭和2年11月に出版されている。この時点では『英雄待望論』も『母』も単行本で出ていない。『母』は昭和2年5月号から婦人倶楽部に連載が始まり、『最後の舞踏』が昭和2年6月号から講談倶楽部に連載が開始されたが、その他の小説はまだ出現していない時期である。
『中道を歩む心』以前の著書というと、『南洋遊記』『欧米名士の印象』『三都物語』『思想・山水・人物』『壇上紙上街上の人』『北米遊説記』『米国国民性と日米関係の将来』『偶像破壊期の支那』『鶴見祐輔氏大講演集』『現代日本論』で、旅行記、随筆、論文である。内容もやや固く、読者も限られる。
○『中道を歩む心』の目次と中表紙に「新自由主義論」と副題を付しているが、第1章新自由主義論は、503頁のうち119頁だけで、その他は随筆や紀行文である。
 新自由主義協会の会員たちが、昭和7年4月17日に向が丘遊園へピクニックに行った時、新自由主義の経典の乏しきを嘆く声があった。
○第4章第8節の日本更生の根本策に述べられてる世界交通路のプランは、後年『七つの海』に描かれている。
○昭和初期、日本は台湾、樺太南半、朝鮮を領有し、人口は6千万人くらいであったのに人口問題がクローズアップされている。
○鶴見は、明治44年の秋、北米ロード・愛ランド州のプロヴィデンス市の山の手で、「自由主義を名乗って、世の中に出てゆく日が来るんだぞ」という小さな声が頭の中を走りすぎたと『中道を歩む心』の序文に書いている。
 安積得也氏は、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた文章でこの事をとらえ、その題名を「勇気人鶴見祐輔」としたほどである。
 だが明治44年というと鶴見は26歳、東大を出た翌年で、内閣拓殖局から鉄道院に転じたばかりである。東大在学中から新渡戸稲造に親炙して教えを受けてきたとはいえ、「当時は桂公の官僚政治の全盛期で、殊に帝大法科という濃厚な官僚的空気のうちに育った鶴見としては、正直に言って、外国の大学を講演して歩くという仕事の深い意味を、それ程理解していなかった(『北米遊説記』139頁)」のである。
○官僚主義全盛の明治44年には、自由主義は危険思想であったのだ。
○昭和2年頃は、社会主義が思想界の主流あった。
○鶴見の新自由主義が従来の自由主義(英国の自由党の社会思想)と違うというなら、別の名称を用いた方がよかった。例えば漸進主義とか中道主義など。
 自由という文字が戦前迫害された。
 終戦直後は放縦と混同された。
〇「家に帰って、夕食して、風呂にでもはいって後、書斎に入って、悠然とした気持で、筆を取った」とか、「一生懸命に読書と文字との仕事に没頭していた」などという文章を見ると、鶴見の居た頃の鉄道省は毎日5時で帰れたらしい。大蔵省や内務省ではこうは行かなかったであろう。閑職の三流官庁へ就職したことが結果的によかったようだ。だから在官中も著述ができ、退官直後から思想家として活動できたのだ。
 この間後藤新平からの御用は無かったのだろうか。
 大正2年から12年までは、後藤新平が大臣や市長として最も活躍した時期である。鶴見はそのうち外国へ行った年が6年あり、うち足かけ4年連続して外国に滞在している。
 また、鶴見が退官した大正13年現在でも、和子は6歳、俊輔は2歳になっていたが、鶴見は子供の相手や家庭サービスはしなかったのだろうか。
〇「私は余財が出来たら、庭の隅に道場を設けて、また剣道をはじめようと多年考えて、この時期を待っている」(375頁)という他書に無い記述がある。



 本項は鶴見祐輔の著書の紹介ではなく、某誌に掲載された河原忠吾による鶴見祐輔の選挙運動に関する記事である。

 大正十五年 掲載誌不明 河 原 忠 吾
 政界革新の烽火揚る 史上に輝く選挙美談
 岡山県第七区青年の奮起

 鶴見祐輔は、突如二十二年振りで岡山に帰って来た。鶴見氏の家代々の墳墓は、岡山県川上郡富家村にある。
 赤穂義士談中に出てくる松山城受取の鶴見内蔵助が先祖だと聞いている。
 だが氏の家庭は、維新の際、他国に出たので、氏も岡山には縁が薄かった。小学校の二年間、中学校の五年間、合せて七年間を岡山に過しただけである。
 前々年(大正十三年四月)落選。岡山県第七区。真庭久米義軍。
 前年(大正十四年十二月二十六日)再度落選。一八一票の僅差。
 大正十五年一月十六日、真庭郡の中心地勝山町の勝山小学校の講堂で演説。立錐の余地なし。
 夜、岡の屋旅館における歓迎会。
 人口一千人の町の一五〇余人が出席。
 町長旦が歓迎の挨拶。
 柴田某の別荘に泊る。

(勝山を皮切に、これから両郡を巡歴する。)
 筆者河原忠吾、菱川忠義随行。美甘村、新荘村へ。
 一月十七日、午後四時 湯原村
 小学校で講演会。浴場の二階で歓迎会
 湯原に泊る。
 一月十八日 勝山中学校で講演会。

 大正十五年一月十六日、岡山県勝山町岡の屋旅館における歓迎会での挨拶
「皆さま方、お久しぶりであります。一昨年当地に参ってから、本年今日ここでお目にかかりますまでに、あなた方のお身上にも色々の変化があったでありましょうが、かく申す鶴見祐輔の一身にも、数々の変化がござりました。今、こうして再び御壮健のお顔を見るだけで、私の胸は一杯であります。
 私は、一昨年の選挙に破れました後、アメリカに参りました。私の露骨なる米国文明の罵倒論と、東洋文化の神聖論とは、到るところで、米国の輿論を聳動いたしました。四百余ヶ所からの招待状をうけとり、各所満員の聴衆に対して、昂々然と演説をいたしました。名だたる世界の大新聞が、米国といわず、英国といわず、フランス、ドイツ、トルコの新聞までが、数ならぬ私の事業を賞讃し、喝采してくれました。その時、私は、実に残念に思った。この鶴見祐輔は、岡山県第七区の選挙に立って大敗し、日本人に認められずして、はるばる米国へ来た。そして米国人に認められたのかと思うと、まことに口惜しかった。私は、日本には選挙区はないが、アメリカには選挙区があるのかと思って、心から口惜しかった。
 私はニューヨークの旅館で、何度もこの事を考えて見た。私のまごころが足りないために、あれほど一生懸命に戦ったけれども、真庭、久米両郡の選挙区民諸君に、私のまごころがわかって頂けなかった。
 私の如きものが日本の政界に入るのは嘘だとしみじみそう思った。私は正直に告白いたします。私は裏切られたと思った。人間の心に誠は通じないものだと思った。
 しかるに皆さまは、この不肖なる鶴見祐輔をお忘れもなく、昨年の末になって真庭久米義軍というものを起して御奮闘くださった。その当時、私はこれ程の大事件とは夢だに思っていませんでした。投票の二三日前になって、次第に此方の容子がわかって参りました。その時私は黙っておりましたが、幾度も東京で皆さまの事を思い、人間のまごころは通ずるものであるということを感じました。この戦いには皆さまは負けたとおっしゃる。それは大変な間違いであります。われわれは勝った。明かに勝った。純真なる男子の熱情が政界の腐敗を追いまくった。私のまごころは、一年半の間、消えずに皆さまのまごころに残っていた。金力と権力と伝統との総ての力をもってしても、この純真にして燃ゆるが如き男子の魂をひしぐことはできなかった。われわれは腐敗と暗黒と無定見と無節操との総てのものを敵として戦った。そうして明白に勝った。僅かに一八一票の少数をもって敗れたといいうが如きは、形式の末に現れたことであります。人間の情熱と崇高なる精神とを標準として物事を評価するものがあったら、われらの収穫は勝利の収穫であると審判するに相違ない・・・・・・地面の中に熱湯が流れていたとしても、これを掘り下げてゆかねば、その有無はわからない。不思議なる哉、今、われわれがこの方面を掘り下げてみましたところ、腐敗堕落したと言われていた岡山県第七区の選挙区の地の底には、滾々たる熱湯が音をなして流れていたのであります。皆さま方と私とは、この煮えたった湯を掘り当てたのであります。この熱湯は、真庭郡と久米郡との地下にのみ流れているのではない。全日本の地面の底を流れているのであります。ただ勇気と正義の心とをもって掘るものが出て参りますれば、日本六十余州、到る処にかかる熱湯と熱情とが噴出して来るに違いない。その熱湯をこの山の中で先ず掘り当てたという点について、私は真庭久米両郡の同志諸君に対して、心からのお礼を申し上げます。区々たる鶴見一人が代議士になるならぬの問題でない。私が、みなさま方の熱情に感激した。人間のまごころは通ずるものであるということを発見したのがうれしい。
 諸君。私は諸君とともに城山まで参ります。何処でも喜んで負戦さをいたします。生かそうと殺そうと皆さまのお心のままである。数ならぬ私でも御国のためにお役に立つことがありますならば、どうぞ思う存分に使って頂きたい。
 私は、一昨年選挙の当時、私が十六歳の時に別れた亡き母の魂を想い起こしました。母は十人の子供を育てましたが、私は男の子の頭でありました。母は、一年の間、塩だちをして私が立派な人間になることを神に祈ってくださいました。そして、どうかお国のために役立つ人間になってくれよと泣いて励ましてくれました。私が大学を出て、役人になって、どうにか暮してゆけるようになった際にも、母の声が心の中でささやいた。このまま安閑として死んで行っては、泉下の母に合わす顔がないと。断乎として官界を退き、政界に打って出たのであります。これ取りも直さず、薄命にして一生を終った母に対する弔合戦であります。故に私は、何事かよきことをこの地上で致さなくては死んでも死にきれぬ身柄であります。今日、こうして熱情ある皆さまが私を取り巻いて、あれだけの義戦をして頂いたということを一と目母に見せたかった。いえ、母は必ず泉下に於いてこの有様を見ていると私は信じております。これで私は、始めて亡き母に対しても申し訳が立つと思うのであります。

 二郡には、今、鶴見祐輔氏後援会が組織されている。次の趣意書を見よ。

 凡そ偉大なる国家は、偉大なる国民を基礎とし、偉大なる国民は、高尚なる道徳に発す。而して、自由主義に基く、最も高貴なる道徳こそ、実に新日本の基礎にして、同時に革新政治の根本なれ。此の意味に於て、吾等同志が、新自由主義の正しき理解と堅き志操の把握者たる敬愛なる理想的代表者鶴見祐輔氏を推戴し、混沌たる現下の政界を革新し、以って理想を実現するは、吾人の尽すべき最善の任務なりと信じ〇(原文は"玄"を2つ並べる)に同志を以って同氏後援会を組織す。
  大正十四年十二月二十七日



「七つの海」

 あらすじ
 1.正金銀行神戸支店長の織田文雄は、大伴首相に懇望されて米国大使を引き受ける。大伴首相は、「このままにしておくと日本と支那との関係は、遠からず戦争になる。それは永くかかる。その時一番心配なのは、ロシアとアメリカの態度だ。そこでこの二つの国に今までとは型の違った人間を送りたい。ロシアの方は永い間労働運動をやっていた高浜大道をやる。アメリカには国士型の実業家である織田文雄を派遣したい」と考えた。
 織田文雄は国務長官の山荘で、国務長官および上、下院外交委員長と密談する。
「アメリカは必ずフィリッピンから撤退する。しかし米国の撤退後日本がフィリッピンを併合しはしまいか」との国務長官の問いかけに、「日本は喜んで、フィリッピンの独立保障条約を結ぶ」と織田文雄は答えた。そしてその条件として米国が九国条約を廃棄して、新しい太平洋協定を日本と結ぶことを要求した。その具体的条項は、支那と日本に委して、西部太平洋を日本海軍に委すこと。そしてアメリカはワシントン大統領の遺訓どおり西半球に帰ることであると喝破した。支那の門戸解放と機会均等は、日本民族の名誉を賭して保証すると断言した。
 日本とアメリカはいま握手した。大きい国際危機が救われた。(昭和16年6月27日 第39回)
 その後ハースト系の新聞記者ダグラスが、織田文雄と国務長官との密会を嗅ぎつけてインタビューに現れた。
 その翌日ハースト系の新聞は、日米基本協定商議という大見出しをつけて、日本の駐米大使が国務長官たちと密議を重ねていると書き立て、その内容として、支那を事実上日本の勢力下に置き、その代り日本はフィリッピンの独立を保証し、かつ南洋の資源は日米両国共同で開発する。そのために米国は日本に対し50億ドルの資金を提供して、満州と支那と南洋とを開発しようというのであると報道した。
 これが全米国に一大センセーションを捲き起こし、支那びいきの米国人が一斉に反対運動を起こした。
 織田文雄はひるまず攻勢に出た。彼は日本大使館に数十人の米国新聞記者を招いて語った。
「自分は太平洋上の恒久平和のために、日米両国の諒解を切望した。そしてその諒解を不動の成文として取り結ぼうと努力した。しかるに遺憾ながら、これが悪意をもってする捏造記事として、歪められたる記事として天下に発表された。それがために今や、全世界の妨害がこの神聖なる事業に集中せんとしている。これを救うものは、一に任侠なる諸君の同情のみである」
 織田の誠実が若い新聞記者を感動させ、彼等は織田を後援すると叫んだ。
 この次に凱旋という第46回が書かれたのだが、「当局の注意により削除」されている。日米交渉に成功して帰国した織田を中学生の松平秀信が横浜港に出迎える話である。
 国会図書館に保存されている日本学芸新聞のネーム入り原稿用紙に赤鉛筆で次のように書き込まれている。
「第44回から第46回までは、友誼的交渉に依り日米修好条約を締結していることは、枢軸外交を阻害し、日米間の楽観的気分の醸成するにより不可なり」

 2.主人公は松平秀信。彼の父は41、2歳で北海道長官に栄進したが、冤罪を被せられて失脚し、秀信が小学5年の時に死んだ。彼の母は遺族扶助料と遺産で、秀信とその妹の花子を育てている。
 秀信は中学1年の時、ムッソリーニに会ってきた高杉良吉博士の英雄待望論に感激し、英雄的生涯を志す。彼は中学2年の時、熱心に勉強するかたわら、先輩高田信一郎の指導で、剣道の稽古に励むようになる。また、高田の従兄である東大の学生須崎俊蔵に接してその卓見に心眼を開かれる。
 母の期待を一身に担って勉強した秀信は首席で一高へ入学する。一高では豪放磊落な山下勘介と親友になる。一高では1年生の秀信が、総代会で上級生のストームを非難し、柔道部の憤慨を買うが、3年生で総代会議長の高田が見事にこれを収拾する。
 秀信が2年に進級した時、鴎外と並んで文壇を代表する作家に、英語を教わる幸運に恵まれる。3年に進級した時、著名な南部末造博士が校長として着任した。南部校長の着任の挨拶は高杉博士の講演と同様聴衆の一高生を感動させた。南部校長は叫んだ。「いま世の中は太平洋時代というものになるのだ。そして太平洋の中心は、日本なのだ。3千年の間、日本民族は今日のために準備されてきたのだ。日本文化と日本精神とをもって、世界を指導するのが諸君の仕事なのだ。諸君はこの小さい島から抜け出して、七つの海の末、六つの大陸の端までも、日本文化の使途として、道を世界に伝えなければならないのだ」
 南部校長の講説に感激した松平たちは、校長の自宅での面会日にも押しかけるようになる。その翌年松平は首席で一高を卒業した。

 3.大任を果たして帰国した織田文雄は、大使を辞職して西須磨で悠々自適の生活を送っていたが、娘の瑞枝が学習院女子部の中等科に入学したので、一家は東京の借家へ移った。その頃文雄は駐米大使としての功労を買われて貴族院議員となった。
 瑞枝は立松純一夫妻の紹介で川崎美代子と親しくなる。美代子も今年学習院中等科へ入学したのであった。美代子の兄で一高生の慎一の案内で二人は一高の記念祭を訪れ、紅組の大将である松平秀信の水際立った腕前を見、審判をしている角帽の高田信一郎の姿を目にした。彼は一高の偶像であった。
 その高田は帝大緑会の委員として織田文雄に講演を依頼するため織田家を訪れた。織田は緑会で南部博士の講演を聴いてひどく感激した。織田は南部校長から帝大法科3年の木下光雄の学資援助を依頼されて快諾する。
 木下光雄は南部博士が兼職している東京帝大の政治史の講座を譲ろうと想っている秀才であった。木下光雄は運動はしないが、乗馬とピアノが趣味であった。木下はそれ以来折々織田家を訪れるようになり、瑞枝にピアノを弾いてきかせたり、映画の話をしたりした。だが父が叔父立花純一を理想の男性としてきた瑞枝は木下光雄を避けるようになった。木下光雄を瑞枝の夫に擬していた母の園江は、或る日夫にそれを打ちあけて、夫から木下の欠点を指摘されて納得する。

 4.東大卒業を目前に控えた高田信一郎は、南部先生を訪問して就職の相談をする。南部先生は、これが自分の天職だと思う仕事を選ばなくてはいけない。利益とか立身とかを目安として職業を選んだら後悔すると教え、大学教授にならないかと訊いた。だが高田から膨張日本のために一生を捧げたいという希望を聞くと、南部先生は即座に拓務省を勧めた。
 高田の後を追うようにして首席で東大法学部を卒業した秀信は、ドイツに留学中の大先輩須崎俊蔵からの書簡に感動して商工省を選んだ。そして東京に家を借りて、静岡から母と妹を迎えた。女中も雇った。
 秀信の新居へ山下勘介がやって来た。彼は伯父から巨額の財産の遺贈を受けて、南洋へ出掛けることになった。
 勘介はまず西貢に上陸して、人力車を雇って「小巴里」と呼ばれるこの町を見物し、ついで河向うの支那人の町ショロンを見物した。
 翌日は父の旧友島田健三の案内で、郊外五十哩の山中にあるトライアのゴム園を見た。
 その翌日は千トン余の川船に乗ってメーコンの大河を遡った。一夜を船中に過ごして翌日の午後カンボヂヤ王国の首府ブノム・ペンに着いた。そしてこの町唯一の日本人添田三郎の案内で町の中を見物した。その大宮殿を見て、かつてクメール王朝時代には周辺の諸国を含んだ大帝国であったことが偲ばれた。
 その翌日は自動車でアンコール・ヴァットとアンコール・トムに向かった。そしてブノム・ペンのホテルで同宿した霧島友義から、彼が採掘権を得た錫の出る鉱山の開発を託されて帰国する。

 南部先生を訪れた勘介は、南洋開発の事業に着手する前に、2、3年世界の実際を見る旅に出ることを勧めた。
 商工省に入った秀信は、2年余りを全国の工場視察を行った。
 拓務省に入った高田信一郎は、この3年余りを内地農民の海外移住事業に当たってきた。
 勘介は日本を発ってからの2年半、シベリアを横断し、飛行機でアフリカの空を飛び、北米大陸を横断し、いまアマゾンの大河を船で遡っていた。

 川崎慎一は東大工科を出て、内務省の土木局に入った。暫く見習いをしてから、私費留学を願い出て、イタリー、スイス、フランス、イギリスを見て、ドイツへ入った。そしてヒットラーの作った交差点のない、時速百キロで疾走する高速自動車道に驚いた。
 次にアメリカへ渡り、「公園道路」に再び驚かされる。

 高田信一郎は29歳になり、南部先生からの川崎慎吉博士の令嬢美代子との縁談を断ったことがきっかけとなり、秀信の妹花子と結婚することになった。
 一方秀信は大学生時代から想い続けていた織田瑞枝の家庭へ出入りすることを許された。
 3年の洋行から帰った勘助を迎えて、偕楽園の大広間で、十人余りの人々が有益な会話を交換していた。
 出席者は南部先生、高田信一郎、松平秀信、織田文雄、秋山(夏目漱石がモデルと思われる)、立花純一、川崎慎吉、須崎俊蔵ほか。
 支那と満州へ3ヵ月の出張を命じられた秀信は、瑞枝に別れを告げに行った春の夜、言葉少ないながらお互いの愛を確かめ合うことができた。
 支那と満州を視察して提出した報告書を評価された秀信は、つづいて南洋とインドへの出張を命ぜられた。その報告書は政府の国策の一部として採用され、程なく彼は新設の企画院の課長に抜擢された。
 勘介は再び仏印へ鉱山開発に赴くことになった。そして彼は川崎慎一の妹・美代子と結婚する。
 勘介は単身で再びブノン・ペンを訪れてカムボヂヤ政府との交渉を進め、3年ぶりにアンコールを訪れ、案内者を連れて鉱山を踏査し、ゴム園予定地も定め、自分達の住宅の位置も定めた。それからハノイの仏領印度総督府を訪れ鉱山採掘権を裏書させることに成功するとフランスへ向かった。パリの植民省と外務省にせっせと通って、仏印係の役人と親善関係を結ぶと、次はロンドンとベルリンへ行って、両国政府の東洋係と親密になると次は米国へ渡った。
 米国ではワシントンの政府の役人で、東洋に関係ある者と交際してから、ニューヨークへ行って大新聞と大通信社の社長や東洋係と親交を結んだ。これらの交渉に空は通訳を雇い、そして惜しげもなく金を使った。
 それから日本に帰ると各方面との連絡を水も漏らさぬように取った。そして大勢の鉱山技師や農業専門家等を連れてカムボヂヤに出掛けて行った。
 1年後にこの鉱山には錫は無いということがわかった。また、この地方はゴムの栽培に適しないということが確認された。この時までに勘介は彼の持っていた金の大半を失い、得たものはマラリア病だけであった。
 だが勘介は錫山と農園へ未練をもたず、あっさりアンコールから引き上げてしまった。一時帰国した勘介は父を説得して岩手の鉱山を売り、その大部分を受け取って今度はオーストラリアの東北にある仏領ニュー・カレドニアへ赴いた。技師等とともに妻の美代子も同伴した。そしてニッケルの採掘に成功した。彼の鉱山からニッケルが出ると同時に、世界のニッケル相場が暴騰した。3年後に彼が帰国した時は、「世界のニッケル王帰る」と新聞が書いたほど彼は成功した。
 次に勘介はオランダへ行って大活躍してから、今度はジャワの首府バタヴィアへ赴いた。それはニューギニア開発の交渉のためである。ニュー・カレドニアの成功者として世界的な名声を得てハーグで大歓迎された勘介は、蘭印総督との交渉も円滑に進んで、鉱山開発権と農地開拓権を手に入れて、石油の採掘に成功する。されに三百町歩の土地の開発権とその開発に要する人間の入国の特許を得る。

 拓務省の課長であり、各省少壮官吏の中心的存在であった高田信一郎は、辞職して心を錬磨する道場を開くことになった。そして「そのうち日本中をひっくり返すような大きい声で、大国民運動をはじめる」という。信一郎は富士の裾野に、父から贈与を受けた金で土地を買い、住宅と剣道の道場と青年の講習場と寄宿舎と図書館を建てた。

 企画院に移った秀信は、高杉部長から経済、国防、貿易等あらゆる制作を包括する世界的な根本政策計画案の作成を命ぜられてこの大仕事にとりかかる。秀信は修善寺温泉で3ヶ月かけて意見書と計画案を作成して部長に提出した。高杉部長は大いに賛成し、部の課長会議でも誰も依存は無かった。しかし、企画院全体の会議にかけると、外務省から来ていた近藤隆一の猛反対に遭った。総裁の統裁で秀信の案は院議となったが、閣議では外務省はじめ各省から反対意見が続出した。そして閣内不統一で内閣総辞職にまで行き着いた。高原企画院総裁に殉じて辞職するという高杉部長を、闘わずに罷めるのは逃避だといさめて秀信は部長とともに企画院に残ることにした。その夜、秀信は瑞枝と婚約していることを母に打ち明ける。
 瑞枝と秀信の母は好意を抱き合っているが、織田家の一人娘をもらうことは容易なことではない。秀信の母から一部しじゅうを聞いた秋月清子は南部先生へこの難題を持ち込んだ。南部先生は織田文雄の一番の親友である立花純一を味方にする必要を感じ、折から織田が企画院の五ヶ年計画に賛成するよう説得を頼みに来た立花純一に、秀信と瑞枝の結婚を織田文雄が承知するよう立花が織田を説得することを依頼した。
 立花純一と秋月清子と南部先生は揃って織田夫妻を訪れ、言葉巧みに松平秀信を推奨した。織田夫妻は一人娘を松平秀信に嫁がせる決心をする。
 次の企画院総裁小室利一は。学歴も官歴も無い新聞記者上りであったが、新首相に起用されたこの異色の人物は秀信が起案した五ヶ年計画に全面的に賛成した。
 ニュー・ギニアへ赴いた勘介が7年ぶりに帰国した。彼は極楽鳥の雛の飼育のほかに棉花の栽培と油田の採掘に成功して何億という富を有するニュー・ギニアの石油王となっていた。さらに彼はオランダ政府から3百万町歩の土地の開発権とその開発に要する人間の入国許可を得たのである。
 その時政変が起こり新首相となった小島省三は、企画院総裁に高杉を、書記官長に35歳の秀信を抜擢した。
 秀信が立案した第二次五ヶ年計画は、かつて企画院総裁の時、秀信が起案した第一次五ヶ年計画を全面的に支持した商工大臣小室利一の応援を得て閣議で決定された。
 次いで秀信は川崎慎一が作り上げた世界新交通幹線計画を彼に代って小島首相に説明した。小島首相はこの計画を実行するとなると各省庁の権限争いとなって何年掛かるかわからないと言って、首相直属の委員会を設けて研究してから閣議に提出することとなった。そして小室商相を委員長、高杉企画院総裁を副委員長、秀信を主席委員とし、関係各官庁の少壮官吏中の逸足を集めて、欧亜連絡交通委員会を設置した。川崎慎一も民間委員として任命され、川崎慎一の研究所の設立に出資した勘介もこの大計画に資金を提供することになった。
 世界新交通幹線計画は完成し、議会の開かれる2日前に閣議に提出された。この計画が閣議で決定すると小国農相は辞職し、秀信が国務大臣・企画院総裁に任ぜられた。
 秀信は衆議院予算委員会で世界新交通計画を説明して政府委員席の拍手喝采を得たが、議員側の年長者間の反対勢力が結集して、この計画の経費を予算から削除することに決まった。一部の閣僚からは解散は避けて削除に応じようという意見が出たが、意外にも小室商相がそれに同意した。小室は秀信に人気をさらわれそうになったので秀信を裏切ったのだ。閣議で削除承認が決定すると秀信は直ちに辞表を提出した。天下の同情が翕然とっして彼に集まった。
 松平一家、高田夫妻、そして南部先生も勘介がドイツから買った最新式の旅客機で、勘介の案内でニュー・ギニアへと旅だった。

●読後感と覚書
「七つの海」は、昭和16年5月20日から12月2日まで神戸新聞に連載された。鶴見の最初で最後の新聞小説である。単行本になっていない。
 中絶した「妻」を除けば、鶴見が書いた最後の小説である。鶴見が56歳、衆議院議員、太平洋協会の専務理事として活躍していた時期である。
 大東亜戦争が勃発する直前に完結しているが、「神国の理想である八紘一宇の大宣言」だとか、「大東亜共栄圏」などという文字がつけ足したように用いられている。時代に合わせたつもりであろうが、時代と妥協したために、戦後『友』は単行本になれたが、「七つの海」は単行本になれなかった。
「あの赤化して亡びんとしていたイタリーを救った新しい民族を誕生させたムッソリーニ」と讃美する識者の演説や、ムッソリーニの写真を机の前の壁に貼って勉強する少年を登場させたり、ヒットラーの作った高速道路を紹介したりするところは、自由主義者鶴見のもう一つの面である英雄主義の発露である。

「七つの海」は第46回を当局の注意により削除しているが、それは鶴見が日米関係の成り行きを楽観していると編集者の案じていた箇所である。事実鶴見は楽観していたからこそ米国に留学中の和子と俊輔を早く帰国させなかったのであろう。太平洋協会に出入りする政府高官や将軍と交際があっても、開戦近しとの情報を鶴見は入手できなかったのであろうか。開戦後も清沢洌は、鶴見は戦争の前途を楽観していると言っている。(清沢洌「暗黒日記」昭和18年7月9日)これらは鶴見の楽観的な性格からの発想であろう。

 登場人物のタイプは鶴見の従来の小説と同じである。文武両道に秀いでた青年と美女。松平秀信と織田瑞枝が恋を確かめ合うシーンは、『子』の大河進と名和糸子のラブシーンそっくりである。
 高田信一郎は、泉清である。松平秀信が危機に遭遇して剣道を志願し、高田信一郎の指導を受けるところも『子』そっくりである。
 松平秀信が、「お父さまの弔合戦だけではない。お母さまのご苦労に報いるためにも、僕は偉い人間にならなければならない」と言って頑張るところや、子の受験と母の心配など、『子』の前篇『母』とそっくりである。『母』も『子』もそうであるが、「七つの海」も登場人物がよく泣く小説である。
 そして「七つの海」も『子』と同じく、「英雄待望論」の具体化、日常生活における実践篇である。

 松平秀信が一高で英語を教わった秋山銀次郎先生は、鶴見が一高で英語を教わった夏目漱石がモデルである。一高の校長南部先生は、新渡戸稲造がモデルである。
 高田信一郎から膨張日本のために一生を捧げたいという希望を聞いて、南部先生が拓務省を勧めるところは、新渡戸博士の勧めで内閣拓殖局を選んだ鶴見自身の経験を書いたのではなかろうか。東大を次席で卒業した鶴見が、大蔵省や内務省を選ばず、内閣拓殖局に就職した理由がここに記されているように思う。
 高田信一郎が東大教授を兼任している南部先生から大学に残って国際政治学を完成しないかと勧められるところは、『愛』によく似ている。『愛』では、光明寺求大学教授の道を選ぶが、「七つの海」の高田信一郎はそれを断って拓務省へ入る。
 鶴見も秀才であったから、大学に残るように勧められたことがあったのではなかろうか。鶴見も大学教授になる機会があったと、「成城だより」に書いている。
『愛』で篠沢教授の「君のように優秀な成績を持っている人は、何にでも望み次第のものになれる。役人もいいし、実業界もいい。それに君は筆が立つから大新聞でも悦んで取るだろう。また君ぐらい語学の才があれば、外交官も面白かろう」という言葉は、そのまま鶴見に当てはまる。
 だが鶴見は弟妹を扶養するため、薄給の助手を避けて、高給の高等官を選んだのであろう。この小説でも高文に合格して商工省に就職した松平秀信は、東京に家を借りて静岡から母と妹を迎えている。女中も雇ったのだ。
 その他この小説は色々なところからの引用が見受けられる。
「……世の中の人情というものを、よおく見ておおきなさい。お父さまの知事時代は、その地方の方は、まるで下にも置かないようにしましたが、おやめになって、岩渊に逼塞なさると、誰一人、振り向いて見る人もありませんでしたよ。……誰もあなたにお辞儀をしているのではありませんよ。内閣書記官長という権力にお辞儀をしているのよ……」
 というくだりは『友』にもあるが、その元は「後藤新平」伝に、後藤夫人の言葉として記されている。

 マンゴスティーンの描写は、『南洋遊記』そのままである。
 山下勘介も南洋旅行も鶴見の南洋視察の体験から書いたものであろう。

 松平秀信とその父は、他人の美点に感服する感服屋だと書いてあるが、「感服屋」は後藤新平が鶴見に付けた仇名である。

 136回から138回までは、鶴見には苦手な経済の話が書かれている。
 134回以降、松平秀信が、尊敬する上級生である高田信一郎と対等の口をきくのが解せない。
 高田信一郎を神陰流の名人書いているが、名人とか達人というのは生涯をその道に励んだ人のことで、まだ若い彼にはふさわしくない呼び方である。
 鶴見も一高時代に剣道をやっただけで達人と呼ぶ人が居る。
 鶴見は旅をしなければ偉くなれないと言うが、半生を旅に過ごした鶴見は偉くなったのか。また彼の言うように、偉くなった人はみな旅をしているか。
 白人の支配、富の不平等論は、「七つの海」以前から鶴見は書いている。
 そしてこの小説もまた鶴見の僥倖による解決が出てくる。高田信一郎は父から贈与を受けて道場を開き、山下勘介は伯父から莫大な財産を相続して海外へ出かける。
『愛』ではアメリカで石油が湧出し、『友』では学費を提供してくれるパトロンが登場する。これは鶴見が経済の事をよく知らないので、空想的な解決をしようとするのであるが、社会の底辺で苦闘している堅実な読者をバカにしたものである。
 銀行家の名を織田文雄にしたが、織田は、『師』で登場させているので、他の名にした方がよかった。彼を米国大使に任命した首相の名は大伴にしたが、大伴は『母』で悪役で登場する。不注意であった。


『鶴見祐輔選集』

 昭和17年、潮文閣刊。
 紙の不足した戦時下であり、全編僅か214頁の薄い本である。『鶴見祐輔選集』とだけで、特に書名はない。
 第1編第1章1.14年前の予見、第2章大社会の完成と天才の出現、第3編人物論は、『英雄待望論』から転載したものであり、第1編第3章1.永遠の国日本、第1編第4章羅馬の盛衰、第5章英帝国の起伏、第6章欧州史の教訓、第2編英雄論は、『膨張の日本』から転載したものである。
 今回の出版に当たって新たに書かれた文章は僅少である。もっとも「選集」というのであるから、過去に出版された本のうちから選ばれるのが当然ではある。
 奥附に「全二十四巻予約定価一円八十銭」と記されているところを見ると、当初は24巻の選集を出すつもりであったらしい。実際にはこの第1巻だけで後が続かなかった。
 戦後に太平洋出版社からやはり選集として、『北米遊説記』と『米国山荘記』が出版されたが、この2巻で終わっている。
○本書出版に当たって書き加えた僅かな文章が、鶴見が戦争に協力した動かぬ証拠となった。前言―世界史は転回すの文章で、鶴見は完全に親米英の立場を捨て、日本と東洋を中心に考えるようになった。
 そして大東亜戦争を正義の戦争であるとし、真珠湾の九軍神を讃美した。
 もっとも鶴見は従来から米英一辺倒ではなく、白人種の世界支配を批判してきた。
○第1編第1章2.英雄時代の到来では、鶴見が『英雄待望論』を出版した昭和3年を次のように記している。
「……国内に於ては人口増加の趨勢年とともに激甚にして、失業者逐年増加し、自暴自棄の志操は青年の精神を蝕み、懐疑的敗北主義思想が、ややもすれば溌溂たるべき若人の頭脳に浸潤せんとしていた」
 戦後、『新英雄待望論』で、「あの頃の日本は日の出るような国であった」と記していることと著しい時代認識の相違が見られる。
 そして当時『英雄待望論』が、知識階級にどのように受け取られたかを次のように記している。
「……ゆえに私の叫んだ英雄主義の思想のごときは、戸惑いして二十世紀に現れたるドン・キホーテのごとき徒らに一部のインテリの嗤笑を買った。
『我々はあまりに永き分析と懐疑との時代に倦きた。今よりぞ日本民族は総合と信仰との新時代に入るべきである。それが荘厳なる英雄時代であるのだ』
となした私の言葉は、大凡そ時代に縁遠き白昼夢として嘲笑されたのだ」
 英雄時代の讃美より、もっと切実はことは就職と結婚であったのだ。総合と信仰よりも大切なことは、事務の鍛錬と保身処世の術とであったという。
○『英雄待望論』を出版した3年後に満州事変が発生し、13年後に大東亜戦争が勃発した。だから『英雄待望論』は予言の書であるという。では日米開戦こそ鶴見が唱道した英雄時代の開幕なのか。親米派、国際協調論者の鶴見の言とも思われない主張である。
○さらに、「真珠湾とマレー沖海戦で大勝したのみならず、マレー半島を蓆巻、フィリッピン群島の占領、蘭領印度全島の降伏、ビルマの制圧に至り、今や日本の支配する陸地は、昭和三年の約十倍に及び、しかも今後拡大さるべき陸地の大きさは、更にこの幾倍かに及ばんとしている。
 この広大なる土地の上には、実に七億を超ゆる大衆が生存し、その土地の上には世界の重要資源が無尽蔵に横たわっているのである。
 この土地を開発し、この大衆を指導し、新たなる大東亜を建設することが、日本民族の現実の仕事となったのである。何という生甲斐のある時代に生れた我々であろう」
 と米英の反攻はまったく考えていない楽天ぶりが披露されている。


『二つの世界』(後に『友』と改題)

『友』は当初『二つの世界』と題して、雄弁の昭和3年4月号から4年10月号に連載された。ほかの小説は連載終了後単行本になったが、『二つの世界』と「七つの海」そして「トノー・バンゲー」は戦前単行本にならなかった。
『二つの世界』は、戦後『友』と改題して、昭和27年に太平洋出版社から刊行された。それは昭和6年にはじまった満州事変以来、世の中がだんだん窮屈になって、この程度のものでも出版するのが難しくなったからである。上杉宗造の言っていることなどは、当時の国粋主義者から見れば、けしからぬことであったのである。
「小説に序文を書くということは、少しく異例に属する」と鶴見自身も言っているが、鶴見の小説にはみな序文が付されている。もっとも『死よりも強し』の初版本(昭和9年)の序文と『師』を改題した昭和26年版の序文を比較すると後者は一部削除されている。『母』の昭和4年版と昭和62年の学術文庫版を比較すると、「母としての日本婦人(序にかえて)」は両者に付されているが、前者にはある「この小説を書いたわけ」が後者には除かれ、鶴見和子の「『学術文庫』版まえがき」が加えられている。『母』については、昭和14年版に「普及版序文」が付されており、昭和24年版に「新版のまえがき」が付されている。
『愛』昭和25年版、『心の窓は開く』昭和26年版、『最後の舞踏』昭和26年版、『弟』昭和27年版、『友』昭和27年版にはそれぞれ序文があるが、いずれも戦後に書かれた序文である。
『友』の序文は内容がある。二つの世界とは、成功活動即ち政治の世界と思索研究批判の文化の創造の世界をいうようでもあり、また理性の世界と感情の世界、さらに未来を夢みて、本ばかり読んでいる人生と愛欲の渦巻きのうちに大胆に身を投げて、青春の日を恣ままに楽しむ人生を指すようでもある。

 あらすじ
 中学校を卒業した高杉健一は、京都市役所に勤務して実家に仕送りしながら、独学を続けて3年が過ぎた。
 その春健一は智恩院で、前首相光明寺輝政の美しい令嬢友子と出会う。そして雄弁大会で演説して傍聴に来ていた令嬢とその兄に面会を求められて、光明寺邸へ遊びに来るよう勧められる。さらにその後健一は嵐山で光明寺輝政に近づく機会を得る。光明寺輝政の美しい令嬢に、二度三度接するうちに、健一の思慕の情が募って行った。
 だが友子に想いを寄せたもう一人の青年が居た。従兄の上杉宗造である。彼は東大卒業の祝宴の宵、友子に結婚を申し込むが、宗教心の篤い彼女は、宗造がマルキシズムを信奉していることを知ってその申出を拒む。欧米へ旅立った宗造は2年を経て今帰国した。宗造は英国の理想主義運動家の下で古今5千年の史実を探索すること2年、人類が歩んで来た道の、如何に深刻にして荘厳であるかに開眼し、一学説、一独断の決して人生百般の生活を解決できるものでないことを悟り、より謙虚な態度をもって、偉大なる人生に対向しようと決心するに至ったのであった。
 当初、洋行帰りの宗造と苦学の健一は反発し合うが、天峰老師と宗造の会話を契機に、二人の間に友情が芽生える。
 再び光明寺輝政は首相になった。彼は甥の上杉宗造を秘書官にしようとしたが、宗造は辞退して高杉健一を推した。首相秘書官となって、友子に身近に接するようになった健一の心は、友子への恋情で麻のごとく乱れてしまった。しかし彼は光明寺一家と輝政・友子父娘の幸福を壊すに忍びず、首相秘書官を辞職して帰郷することにした。京都帝大への進学を援助するという光明寺輝政の好意を受けて。

●読後感
○冒頭の友人たちと自炊するシーンは、鶴見が中学4年の頃、岡山の禅寺で友人3人と自炊生活をした経験から描いたものであろう。
○健一が上杉宗吉の大きい西洋館を訪れた時の「なーんだ。こんな贅沢な家なんかに住んで」という反感は、長姉の嫁ぎ先である広田理太郎の大きい西洋館をはじめて訪れた時の反感であろうか。
○時代は昭和初期のようであるが、当時は上杉家のような富裕な家庭でも、自家用車を持たずにタクシーを利用していた。
○光明寺輝政は、後藤新平を一部モデルにしていると思われる。後藤新平も座談の名人であった。また光明寺輝政の暖かい家庭は、家庭を愛したシオドール・ルーズベルト大統領やウィルソン大統領の姿を採り入れたものと思われる。
○前首相の家庭で麻雀をやるとは意外であった。筆者石塚は、麻雀は上流階級ではやらないと思っていた。
○帝大出の鶴見が珍しく苦学生の生活を描いている。働きながら勉強して、行政官から弁護士、弁護士から政治家となるコースがあることを教えたのは、苦学生に希望を持たせるが、「碌々たる書簿堆裏の俗務に」とか「俗悪な市役所の空気と戦い」などの文句は、エリート意識から来ることはたしかである。
○この小説の背景の時代である昭和初期は、社会主義研究全盛の時代であった。
○「今ごろ英雄崇拝でもあるまい」という上杉宗造の言葉は、当時『英雄待望論』を出版してベストセラーになった鶴見の耳に、知識階級からの批判の声も入っていたのであろう。
 芦野弘は、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた「私の鶴見祐輔観」の中で、「……実の折鶴見さんの英雄崇拝か英雄待望思想は、その頃(昭和3年)でもすでに時代からずれてると感じで居た……」と言っている。
○この小説は、マルクスの唯物史観を信ずる人物が登場したり、「一押しで旧勢力は倒れる」と叫ぶ青年が登場したり、鶴見のものにしては珍しく大胆である。「旧勢力」とは山縣有朋を頂点とする藩閥官僚組織を指す。
○この小説では、健一は片想いである。鶴見のその他の小説のように相思相愛ではない。
○この小説では、「心の窓は開く」とともに、政治の世界を描いている。
○光明寺輝政に大命が降下しそうだというので、上京した彼を出迎える政客たちを指して、輝政の妻が二人の子に、「よく見ておおきなさい。あの人ごみはね、お父さまのお迎えではありませんよ。総理大臣のお迎えですよ」と教えるところは、後藤新平が東京から台湾に帰任した時に、台北駅黒山のように群がる出迎人が、犇めき騒いで彼の周囲に寄り添う光景を、和子夫人が二人の子に、「あれを御覧なさい。あの大勢のお迎えの方々は、お父様をお出迎えにいらっしゃったと思ったら大間違いですよ。あれは台湾民政長官をお出迎えにいらっしゃたのですよ」と教えた故事(『後藤新平』第2巻556頁)が基になっている。
○宴会の席順のことでの光明寺輝政と健一が会話した時の話で「……それである時、総理に、大臣はこんな細かいことをお気になさらなくてもいいでしょうと申し上げたら、だまーって、例の調子でじっと僕の顔を見て居られるんですね。僕は少し薄気味が悪くなって、立ちすくんでいると……」というあたりは、逓信大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の秘書官をした鶴見の経験ではなかろうか。
○「青年の日から厳格な禁欲生活を送ってきた彼の身内には、六十に近い今日もなお、若い日のままの純情が残っていた。日本の習慣に従って恋愛でない結婚をした彼は、恋愛に蕩尽される感情がそのまま血管の中に流れていた」という文章は、そのまま鶴見にあてはまる。
○光明寺輝政は247頁では「六十に近い今日」となっているが、167頁では「六十五とは見えないような若々しい声で」となっている。この小説を書いた昭和3年4月から4年10月までは、鶴見の人生の最盛期であり、多忙を極めたためのミスであろう。
○「それから勇気だ。つまり自分の正しいと信じること、自分の魂の自由のためには生命を賭しても戦うという勇気がなくては、本当の自由主義者にはなれない」(270頁)
 これはそっくり鶴見に返したい言葉である。鶴見が現行不一致、口舌の徒に過ぎないと言われるのも勇気を欠いたためである。
○健一が光明寺輝政の援助を受けて京都帝大へ進学するという結末も、また、鶴見の安易な解決になっている。多くの苦学生にはそんな僥倖は得られない。父が病死して貧窮が一家に迫ったが、富裕な義兄に救われて、貧乏のどん底まで落ちなかった鶴見である。彼は徹底的に貧困をなめたのではない。本当の貧乏を知らない。そして自分の力で窮乏から這い上がったわけではない。
 『愛』では農夫をして渡米した古々呂広太郎が油田を掘り当てて千万長者となり、『友』では苦学生の高杉健一が首相の経済的援助を受けて京大へ進学する。こんな事が現実に起こるであろうか。本当に苦労していない下層階級の現実を知らない鶴見の空想的な解決である。貧しい読者は立腹するのではあるまいか。
 青年の恋情よりも、父娘間の愛情を優先することの是非も議論のあるところであろう。
○鶴見の議論を聞くのが厭な人は、彼の本から遠ざかるであろう。鶴見のプロパガンダ小説は、読んで疲れるし、普通の小説のように楽しめない。
 著者の議論、主張、解説は、青少年の読者には受け容れられるが、中老年の読者にはうるさい。


『新英雄待望論』

 序文の要約
 公職追放以来鬱積していた抑えきれないような痛憤が、堤を切った洪水のように流れ出した一が本書である。
『英雄待望論』と『新英雄待望論』との大きな相違は時代の相違である。
 日本の破たんは、明治以来富国強兵を目標とし、個人の自由と人類愛を後回しにしたことが原因である。
 これより後の日本のアムビーションは世界文化の殿堂に、大きい灯明をかかげるような聖業を創造することだ。


 梗概に代えて――目次――

 前篇 新日本の誕生
 第1 運命の日
 第2 大衆と天才
 第3 人類史の転廻
 第4 困難の恩恵
 第5 民族的自尊心の回復
 第6 民主主義の強さ
 第7 歴史の書き換え
 第8 人間を王座に
 第9 努力の礼讃
 第10 新しき愛国心の誕生へ

 後篇 新日本の目標
 第1 人間は人類に向って歩む
 第2 時代と人物
 第3 愛の行者
     人間最高の事業
     釈迦
     基督
 第4 古今の大師表
     言葉と行動
     孔子
     ソクラテス
     新渡戸稲造
 第5 真理の探究者
     知性と情操
     ピタゴラス
     ビアトリス・ウエップ
 第6 秩序の建設者
     大社会への歩み
     ペリクリーズ
     シーザー
     アッカ王
     耶律楚材
     リシュリュー
     大久保甲東
 第7 個人自由の闘士
     東洋の欠陥
     ヴォルテール
     ルソー
 第8 美の発揚者
     人生は短く、芸術は長し
     レオナルド・ダヴヰンチ
 第9 世界的平和建設者
     若人よ、大志を抱け!
     ウイルソン


○本書は「日本週報」に、昭和25年12月から10回連載されたものである。
○2頁で「心あるある読者諸君は行間の文字を推読せられるであろう」と書いている。
 本書が書かれた昭和26年7月現在、鶴見は既に公職追放を解除されているが、まだ連合国軍の占領下にあった。
 鶴見は何を訴えたかったのか。
○鶴見は149頁で、「講和条約成立の日を、われわれは足を尖立てて待ち望むのである」と記しているが、庶民大衆の気持はそうだったろうか。占領軍の宣撫工作の結果もあろうが、当時一般大衆は進駐軍を軍国主義からの解放者として歓迎したのである。
 そして自由や独立などという腹の足しにならないものより、衣食住の充足が先であった。
○『英雄待望論』の表紙には、「新時代来たらんとす。第二の南洲、第二の龍馬奮起せよ!」とあるが、『新英雄待望論』のカバーには、「全人類の恩人日本より出でよ」となっている。
 そして序文で、「これより後の日本のアムビーションは世界文化の殿堂に、大きい灯明をかかげるような聖業を創造することだ」と叫び、「乞う往いて世界の文化史に就き、理想の人を求めよ」と言う。
 今日では死語となったが、終戦後数年間は「文化国家の建設」が国是であった。再び強大な軍事力を備えて他国を侵略しないようにという米国に押しつけられた国是であった。
○本書が書かれた当時は、まだ日本は再起しておらず、復興するかどうかもわからない時期であった。
 まさに予言の書であり、後世その当否が裁かれる書である。
○105頁ほかに、「その民族の中に、かかる偉大なるものをあくがれ求むる心がある場合にのみ、偉大なる天才児が生れてくるのだ」という『英雄待望論』と同じ趣旨の理論が述べられている。残念ながら戦後の日本には英雄を待ち望む心は無かった。
○183頁ほかに、「非凡な人々が、特に苦しい境遇に生れ落ちている場合に偉人になる」と述べているが、実際には石の上に落ちた種は枯死してしまう。条件の良い人々が成功しているのが現実だが、彼等は群小と呼び凡人と呼ぶべきか。
○序文にある「あの当時(昭和3年)の日本は、実に火の出るような国であった」というのはどうであろうか。
 昭和3年といえば野田醤油の大争議があり、初の普選で無産政党が進出し、日本共産党の大検挙が行われ(筆者石塚注 当時は有権者の好意を得ようとして政府与党は共産党退治をしたのである)、京都帝大の河上肇教授が追われ、満州某重大事件が発生し、治安維持法が改正された年である。
 鶴見個人にすれば、衆院議員に岡山一区から最高点で当選して、彼が主宰する明政会が二大政党間にキャスティングボートを握り、『英雄待望論』と小説『母』がベストセラーになるなど、彼の生涯のクライマックスであったから、そのような感じがするのではなかろうか。
 この「火の出るような国」という表現は、小説『七つの海』にも登場する、ヒットラー総統時代のドイツを指している。
○14〜15、66〜67頁には、終戦直後の悲惨な光景が叙述されている。戦後に書かれた本では他にこのような記述は見当たらない。私は昭和23年から書き始めた『成城だより』に、何故戦中戦後の叙述が無いのか不審に思っている。当時庶民大衆の最大の話題は、戦中戦後の苦しい生活をいかにして生き延びたかということであった筈。
「楽天的な、壮健な、明るい、可笑味に富んだ、強い、正しい人々の社会を描きたいのだ。社会の諸相をあるがままに、冷たきは冷たく、酷なるは酷に、凶悪なるは凶悪なるままに、陰鬱なるは陰鬱なるままに、正直に描出する立場に立たない」(小説『母』の「この小説を書いたわけ」より)という原則をここでも貫いたのであろうか。
○鶴見は公職追放が解除された翌年(昭和26年)、国土防衛民主主義連盟を結成した。このことが再軍備のお先棒を担いだと受け取られた。彼の主張は、外敵が上陸して国内にゲリラを行ったり、村々で暴動を起こすような場合に、村の人々が自ら守ることのできるような防衛態勢を作ろうとうる程度のものであった。そして国際戦争は国連の安全保障に依存しようというのである。
 だが将来日本の経済が安定し、民主主義の基盤が強化されて、軍人が政治に関与しなくなれば再び軍隊を持つことも否定しないようである。
○98頁に民主主義時代に進み入った日本民族は、納得のゆくまで相手に説明する文章と雄弁を尊重しなければいけないと説いているが、戦後「雄弁」はまったく尊重されなくなった。
○「土地は日麗らかに、四面の海は緑絵の如し。」(142頁)などと言っているから鶴見は空論だと非難されるのである。
○大正7年にホワイトハウスに、ウイルソン大統領を訪問した時刻は、『新英雄待望論』では11月14日午後4時となっているが、『壇上紙上街上の人』では5時半になっている。
○全巻名文美文である。その名文のために論旨が明らかにならない。英雄になれと言っているのか、英雄を待望する人間になれと言っているのか、はっきりしないという批評があった。
 昭和3年(43歳)に書いた『英雄待望論』より、昭和26年(66歳)に出版した『新英雄待望論』の方が、ずっと老成した名文である。明快で格調の高い文章で、グイグイと読ませる。巻末の文章などは朗々唱するに足る名文である。筆者石塚は16歳で覚えた巻末の文章を70を過ぎた今でも暗唱できる。
 鶴見の文章は、『後藤新平』を書いた50歳頃がピークと思われる。
○29頁に大学時代について、「……それから高等学校での息詰まるような感動の生活があった。それは中学から連続した西洋の言葉の注入であったとともに、新しい日本と東洋の言葉でもあった。……それは大学に到って、更に数層倍の加速度をもって、入ってきた。吹き倒すような風速をもった思想の大暴風として、私の全身全霊の中に乱入してきた」と書いているが、『成城だより』第7巻161頁では、「私などが帝国大学に懐しい思出を持たないのは、それが一級四百人五百人の大集団で、しかも大きい講堂で教授の講義を聴いて、すぐ散会してゆく、恰も演説会の聴衆のごとき生活の連続であったからである。
 そこには学生と学生とが魂の結び付きをする何等の機会もなかったのである。共に泣き、共に悦ぶ、人間的交渉は、少くとも当時の法科大学(法学部のこと。石塚注)の雰囲気の中にはなかった。またわれわれの霊を昂揚してくれるような偉大な学者も、当時の法科大学には居なかった。それは文官高等試験その他の国家試験を受けるための準備場に過ぎなかったのである」と記している。
○「行間の文字」は本書の序文のほか、『成城だより』第5巻188頁にも出てくる。
「私は若い世代に呼び掛けているのだ。この幾十巻(石塚注 鶴見は『成城だより』を30巻くらい書きたいと言っていたが、8巻で終ってしまった)の『成城だより』は、新しい形の『英雄待望論』であるのだ。あの『英雄待望論』を書いた昭和3年のような自由な時代でないから、私は遠廻しにこの書を記している。しかし心ある人は行間の文字を、読み取られるであろう」
『成城だより』第5巻が出版された昭和24年は、日本はまだ被占領時代であり、鶴見は公職追放期であった。
 もっとも『成城だより』第2巻14頁には、「自由という文字が、この頃やっと天下晴れて使えるようになった。こんなうれしいことはない」とも記している。
○32頁には「私は一九二二年初夏、広東市外の一小屋に、中国革命運動の父孫逸仙を訪ねた。その烈々たる言葉とその精悍な風貌が、いまも私の胸の中に生きている」と書かれているが、大正12年に会った時の感想は、「……もとより、自分はカヴールに会おうと思って来なかった。しかしマヂニーには会えるかも知れないと思って来た。そうではない。自分の会ったのはコツスート(ハンガリーの愛国者。ハンガリーの革命、成るに重んとして、露国の武力交渉のため敗れ、英国に奔鼠し、義をロンドンにとなうるや、全英の山河為めに震撼したが、句日にして英国民の激情は退潮のごとく退いてしまったという)であった」と『壇上紙上街上の人』には記している。
 なお、孫逸仙と会見した日は、『新英雄待望論』では、1922年になっているが、『壇上紙上街上の人』の「27 広東大本営の孫文」を記した日は、1923年5月8日となっており、文中に「昨日自分は、北支那と長江沿岸の人々に会った。……そして一年振りでやっと広東まで尋ねて来た」とある。してみれば、鶴見が孫逸仏と会談したのは、1923年であるらしい。
○38頁、39頁に、「日本は独創的文化を作った文明社会として世界に独立の地歩を占めていない。日本文化の本質が、漢民族とインド民族と西洋民族との文化の摂取であって、未だ独創的一文明社会を形成していない。われわれは、エジプトやインカ帝国やインドや中国やギリシヤや西ヨーロッパやソヴィエトロシヤの如き一文明社会を創造していない」と書いているが、鶴見はアメリカ講演で日本文化を主張してきた。大正6年、32歳の頃には、日本に来たフィリッピン人が、フィリッピンには人力車夫が居ない、婦人の待遇が日本より良い、社会状態が日本よりも進んでいると述べて、暗に日本よりも優れた国であると誇ったことに対して、鶴見は東京朝日新聞に投稿して、ではフィリッピン固有の文明として誇るべき何物があるか、スペインの文明、アメリカの文明を鵜呑にしていただけでは真の大国の要素がないではないかと反論した元気があった。(『南洋遊記』98頁)
○102頁に、「少数者の強権が、少しでも衰えると、大衆がこれに反逆する。ゆえに独裁国は、最後に戦争に負けるのである」とあるが、日本もドイツもそんなことはなかった。
○2頁に「昭和二十二年一月、一切の公的活動から追放され……」とあるのは、昭和21年の誤りである。
○85〜86頁に、「日本の大衆は浪花節や講談の影響を、深刻に受けて生長している。これ等の民衆娯楽の思想的根底は、民主主義ではない。ファッショである」とあり、156頁にも「日本の大衆の頭を作る演劇や浪花節や講談は、殆んどファッショ的思想を基調とする」と書いているが、昭和3年に出版した『英雄待望論』の序文で、「……講談社社長野間清治氏が『偉人出でよ!大人格者出でよ!皇国に光栄あれと祈りつつ』という壮烈な心持で『修養全集』と『講談全集』を出版することになった。それは期せずして、私の志と同じである。……私は氏のこの快挙が必ずや、日本全国に一大センセーションを喚起し……一大貢献を為すであろうことを確信する。本書を一読せられたる諸君子諸婦人が必ず更に右二大全集に就いて、本書の説いて足らざるところを補われんことを切望する」と記している。
○本書と『成城だより』では、第三次世界大戦の危機を屡々警告している。
○本書329頁以下で、大久保利通が、京都の朝廷と、江戸の幕府との妥協を排し、断乎として武力倒幕を主張して、統一日本を作った。そして明治新政府の出現後は西郷隆盛の征韓論を排し、平和政策と経済振興策を敢然と主張した。そのために西南戦争が勃発したが、彼は鋼鉄の意志力をもって、西郷の反乱を鎮圧して日本に新しい指導精神を与えたとして、内乱の道を選んだ大久保利通を評価している。
 そして鶴見は『成城だより』第7巻において、岡田啓介が内乱を心配して、当時の軍の無謀な態度に反対しなかったことを批判している。


『明日への出発』

『明日への出発』は、『心のともし灯』の姉妹編として、昭和31年に実業之日本社から出版された。新書版で255頁である。雑誌「実業之日本」に連載された文章を単行本にしたのである。随筆集ではなく、初めから一定の目的をもって記された文章だという。鶴見が著書の序文に力を入れるわけが、序文に書いてある。

 序文から拾ったことば
「私は本を出すときにいつも序文をずい分力を入れて書いている。私の書いた小説にまで私は長い序文を付けている。……私自身は自分が小説家だとは思っていないので、ただ小説という形で自分の政治思想を述べているのだから、自然序文が書きたくなるわけである」
「日本は明治という一大飛躍をする前に、二千年以上もかかって、一定の文化を作り上げていたのである。だから西欧文明があのように短期間に日本の中にはいれたのである」
「インドの大統領プラサド博士の言った声が、今もなお私の耳にある。曰く『インドは長き歴史の過程において、未だかつて武力をもって他国を侵略したことはない。しかしわれわれは、しばしば文化をもって他国を征服した』それはインドで生れた仏教が世界の幾十億の人々の魂を捉えたことを指したのであって、私はインドの誇りを強く感じた」
「そして明治は一つの国民目標をしっかりと握っていた。それは欧米先進国と同列の地位に上りたいということであった。そしてそのためには政治的に一貫した一つの国策を持っていた。即ち対外平和と国民の生活向上ということであった。その代表的政治家が大久保利通であった」
「どこの国の歴史を見ても、一番むつかしい政治問題は、どうして軍人の力を抑えるかということである。殊に武人が統制を失って、てんでんばらばらに我侭をはじめる時に、その国は大混乱に陥り、おしまいには亡びてしまう。古代ローマがそれである。われわれ日本人もまた最近にその実例をまざまざと見、かつ体験したのである。明治維新のはじめにあった大問題は、いかにして四十万人に及ぶ武士の力を抑えるかということであった。彼等から刀を奪ったのは山縣有朋と西郷隆盛の力であった」
「大久保利通は新日本の行くべき道は、戦争にあらずして平和にあると信じた。そして明治政府の仕事は、産業を起こしてこの国を富ますことだと思った」
「当時はいわゆる白色人種の世界侵略時代で、殊に問うようと南洋は彼等の切取り勝手の舞台であった。ただ武力だけが彼等のアジア侵略を正当化していたほど、帝国主義の全盛期であった。この欧米各国の侵略に対しては自分の国を守り得たのは日本だけであった。だから日露戦争で日本がロシアの飽くなき掠奪を粉砕したとき、アフリカからアジア全土に亘って、暴風雨のような有色人種の歓喜感激が捲き起こったのであった。この一戦が欧米諸国のアジア侵略に終止符を打ったのである」
「もし日本がこれ等の民族とともに、これ等両大陸の一員としての道を歩んでいたならば、その後の日本の進路は全然違ったものであったろう。憾むべきかな日本は、日露戦争の勝利に心驕って、アジアとアフリカの友人を無視し、ないしは軽蔑して、自ら西洋諸国の一員であるかのような態度をとり、これ等の民族の同情を失ってしまったのである」
「十九世紀末の世界的風潮であった欧米各国のアジア侵略に対して自ら守ることに急であった。……ゆえに国内においては、民主主義者、自由主義者は、政治的に敗退して、国家主義者、官僚主義者が政権の中心を占拠した。その結果明治日本は欧米の物質文明を輸入することに専念して、精神文明を摂取することを閑却した」
「殊に第一次世界大戦ごろから、英米のデモクラシーの波が日本に押し寄せてくると、今まで抑えられていた個人自由の思想は、堤防を切った洪水のごとく全国に氾濫し出した」
「即ち個人自由の思想をもって、従来の国家至上主義に置き換え、民主主義に基づく福祉国家への道を歩むべきか、又はもっと極端な国家主義に突進して、個人の弾圧に基づく専制政治に移行すべきか、ということであった」
「日本は後の道を選んだ。満州事変を契機として少壮軍人と右翼思想家が主導権を握り、ファッショの政治が日本に実現した」
「即ち、民主主義国家の成立のためには、二つの基本的条件が必要である。一つは教育の普及、いま一つは工業の発展とこれに伴う生活の安定ということである。これのない場合は、その民族はあせって近道をゆこうとする。近道とは全体主義思想に基づく強力国家の実現である。それには二つの形がある。一つはファッショであり、いま一つは共産主義である」
「日本のラジオで最も多くの聴取者を持っているものの一つは、浪花節ではないか。その浪花節の教える人生観は「情にはもろいが、義理には強い」ということではないか。……このように卑近な、親分のためには善悪の別なく自分の命を投げ出すという考え、封建大名のために無批判で生命と財産とを捧げるという考え、どのような不当なことでも服従するという考え、それは全体主義制度を作る上に最も好都合な思想的温床ではないか。
 であるから明治政府が、この考えを純化して国家至上主義の政治思想を国民の頭の中に植え付けるのは、まことに容易であったわけである。明治初年にはまだ比較的寛大であったのが、明治政府の成功とともに批判の自由も許さないほど厳重なものとなってしまった」
「しかしそれはフランス革命のような自発的なものでなくて、戦勝者によって与えられたものであった。明治憲法が欽定憲法として天皇より与えられた形式を取ったことが日本を本当の立憲政治国となしきれなかったように、外国の圧力で実現したということは、日本の民主主義と自由主義に、国民的信念の基盤を与えていないのである。われわれが日本の新思想や偶像破壊が、果して永続性を持つか否かについて、大きい懸念を抱く理由もまた此処にあるのである」
「弱き民族は国難の前に屈伏して自暴自棄となり、徒らに官能の満足に溺惑して亡び、強気民族は“がば”と飛び上がって、百倍の勇気と決心を持って立ち上る」

 梗概に代えて――目次――
 序文
 歴史が個人の魂に投げる光
 課外読書の貴さ
 民族を救う冒険精神
 八方塞がりから立ち直る魂
 英雄精神と勤勉生活
 少年は大人の父である
 人生の設計は健康中心に
 青年の日に人生は定まる
 これからの日本人に欲しい国際心
 世界語を身につける悦び
 アメリカはなぜ繁栄するか
 世界文化の殿堂に黄金の釘を打て
 日本人はユーモアのない国民か
 新しき日本への出発
 自由は勇気より生れる
 「この人無かりせば」ということ
 美しきものは永遠の歓びなり
 学窓を巣立ってからの五年間
 人生百年

 読後感と覚書
○序文に書かれている考えは、『北米遊説記』や『現代日本論』に書かれているものと同じ。
○162頁の岡倉天心の「茶の本」の話は、『欧米名士の印象』の「貴い話」の章に書かれてる。だが『欧米名士の印象』では「茶の本」ではなく、「新日本の覚醒」にアメリカの婦人が感動したと書いてある。
○「日本の米国輸出品として、日本家具をなぜ出さないかと私は三十年前からいいつづけて来た」とは、はじめて聞く話。
○182頁で鶴見は、「……その良心の命ずる思想のままに、勇敢に生活しなければならない」と言っているが、こういう言葉が意地の悪い批評者に攻撃されるのだ。「鶴見は口だけは言う」「他人には言う」と。
○現在とこの本が書かれた時代の違いを感じる。昭和31年頃の日本は、まだ「暗い日本」だったのである。(195頁)「爛れた社会」だったのである。(209頁)
○鶴見の学校生活は19年間だったという。(42頁)その内訳は、大学4年、高校3年、中学5年、小学校7年(尋常科4年、高等科4年の時代で、鶴見は高等科3年から飛び級して中学へ入ったのか?鶴見は満6歳で小学校に入学しているが、東大で1年先輩の種田虎雄は満5歳で小学校に入学し(数え年では6歳)、7年間在学して中学校に入学している。)
○138頁の「……したがって外国語のできる人間を軽薄な人間としてさげすむようになった」とあるのは、鶴見の直接体験か?誰かの本に、「鶴見は英語がペラペラだから軽薄才子だ」と評されていると書いてあった。
○63頁に鶴見は「連合国の軍隊が日本へ乗り込んできて、その総司令官が傲慢ちきな顔をして、「日本は三等国だ。日本人は十二歳の少年だ」などといったことが、いかに無礼なことであるかを、われわれは当時痛憤していた」と書いているが、昭和33年に鶴見はマッカーサー元帥と会見している。
○214頁に「二千年の大昔、戦に敗けたギリシヤ人が、勝ったローマ人を文化的に征服したことは、あまりにも有名なことである。漢民族は、何度となく、西域の民族や、蒙古人や、満州人に敗けて征服されながら、結局この征服者達を文化的に再征服している」と記し、同じような戦後の時期に出版した『新英雄待望論』では、「これより後の日本のアムビーションは世界文化の殿堂に、大きい燈明をかかげるような聖業を創造することだ」と叫んでいる。
 再び武力で白人を撃退することはできないから、文化で白人を征服せよということか。


『種田(オイタ)虎雄伝』

1.本書は近畿日本鉄道の依頼によって書いた社長の伝記である。鶴見には珍しいというより唯一の請負仕事である。鶴見は幾人もの人の伝記を著したが、実業家の伝記は本書だけである。そして日本人の伝記はこの他には無い。
 もっとも主人公は著者の全然知らない人ではなく、一高、東大では鶴見の一年先輩であり、さらに種田は明治42年に鉄道院へ就職し、鶴見も明治44年に内閣拓殖局から鉄道院へ転勤している。そして種田は昭和2年に運輸局長で鉄道院を退官し、鶴見は大正13年に鉄道省監察官で同省を退官している。在官中は、種田は大正7年10月に運輸局旅客課長に、鶴見は同年7月に運輸局総務課長になっている。
 大正11年に運輸局総務課長の鶴見が、支那及び沿海州に出張して不在の時、種田が総務課長代理を務めている。大正12年に再度鶴見が支那に出張した時も同様であった。
 だが鶴見は種田の伝記中、自分との交際関係は一切触れていない。
 筆者石塚は思う。種田は二期後輩の鶴見が、逓信大臣兼鉄道院総裁の女婿となった時、大きな衝撃を受けたことであろう。
 種田は駅の助役もやったが、鶴見はずっと本省詰めで、海外出張が多く、先輩の種田より早く出世しても、種田は、鶴見は自分と違って抜群の成績で東大を出ており、英語にも堪能だからと自分で自分を納得させようとしたのではなかろうか。
 本書は鶴見が公職追放中の昭和25年に企画されているが、同年10月に追放が解除されて政治活動を再開したため、完成したのは昭和31年になってしまった。

2.本書の概要は次のとおりである。
 1 学歴
 種田(オイタ)虎雄は、明治17年に東京で生まれた。父はもと大垣藩士であった。生まれて間もなく種田は父の兄の養子となり、岐阜県大垣市へ移った。種田は大学を卒業するまで、養父母を実父母と思い込んでいた。
 養父は岐阜県庁に勤務していたが、種田が2歳の時、中央法学院の会計理事に就任して上京した。種田は麹町の富士見小学校、開成中学を卒業後、2浪して一高へ入学した。同期生は、十河信二、青木徳三、岩永裕吉、安倍能成、下条康麿、笠間杲雄、丸山鶴吉、有田八郎、前田多門、藤村操、岩波茂雄、野上豊一郎と多士済々である。その後東大法学部へ進学し、明治42年に卒業した。
 2 職歴
 (1)鉄道省時代
 東大卒業の年に鉄道院に就職した。同期に十河信二、笠間杲雄が居る。配属先は静岡駅の助役である。
 大正5年、32歳の時、十河信二とともに米国へ留学した。2年後帰国して運輸局旅客課長となった。以後5年間旅客課長を務めた。大正13年、40歳の時に運輸局長となり3年間在任した。昭和2年、政争に巻き込まれ、43歳で退官。
 (2)私鉄時代
 退官した年に大阪電気軌道株式会社の専務取締役に迎えられた。その後取締役社長となり、参宮急行を合併して関西急行と改称し、ついで大阪鉄道を合併し、さらに南海鉄道を合併して近畿日本鉄道を創立した。
 昭和22年、63歳の時、公職追放令に該当して社長を辞任した。
 3 家庭面
 種田は養父母に育てられ、実のきょうだいは7人居るが、養家での子は彼一人であった。
 養父は種田が23歳の時死去し、養母は彼の41歳の時に死んでいる。種田の妻は彼の小学校以来の親友白根竹介の妹で、結婚数年後の大正12年に精神病に罹かり、昭和20年に死亡するまで18年間病院生活を送った。2人の間に子は生まれなかった。種田は41歳まで養母と同居し、昭和23年に64歳で死ぬまで女中等は置いていたが、同居親族は居なかったのである。

3.一般に経済活動を描いた実業家の伝記は興味の乏しいものであるが、名文家鶴見の書いたものといえどもその例外ではない。所詮は一企業、一会社の金儲けの話であり、社会や国家にあまり関係の無い話である。地域の発展にも貢献したとは言っても、合併の歴史などは鉄道関係者間の身内の思い出話の域を出ない。それがこの種の著書の宿命であり、非売品とした理由であろう。青少年向でないことは事実である。


『ウインストン・チャーチル』

 昭和33年10月25日発行の第1刷は、チャーチルの生前の伝記である。昭和40年5月16日発行の講談社現代新書版は、著者が病床にあったため、鶴見俊輔がチャーチルの死までの分を補記した。
 本書は鶴見が73歳の時に書いたものであり、最後の著作となった。参議院議員在位中である。翌年の参院選で鶴見は落選し、その年不治の病に倒れた。
 第1冊は、講談社なのに誤植が少なくない。小さい字でぎっしり印刷されている。
 第一次世界大戦の模様が描いてある希有な本である。第一次世界大戦から第二次世界大戦への歴史が書かれている。文章がうまいし、説明が明快である。だが、チャーチルが現存の人であるためか、鶴見が老齢になったせいか、『ナポレオン』や『ビスマーク』を書いた時のような名文美文がない。
 年号と年齢の不一致の箇所がある。
 和子、俊輔の協力を得たとのことであるが、唐突の文章があると山本梅治(『鶴見祐輔先生百年史』の編者)が指摘している。
 出版当時、この本は真の意味の伝記ではない。『英雄待望論』の延長である。巻末に年表が欲しかったという何かの雑誌の書評があった。新書版には年表を付した。

   梗概に代えて――目次――

 序
第1章 若き日
1.誕生
2.ダブリンの日
3.小学校時代
4.ハロー校生活
5.父と子
6.陸軍士官学校前後
第2章 ヨーロッパで一番若い男
1.陸軍騎兵少尉
2.光明来る
3.ナイル河畔戦記
4.退官と立候補
5.一躍国民的英雄
第3章 急進政治家
1.処女演説
2.決断の日
3.急進政治家の誕生
4.入閣と結婚
5.水魚の交
6.内相時代
第4章 第一次世界大戦
1.戦雲突如として湧く
2.海軍卿
3.三面六臂の活躍
4.一落千文
5.少佐の出陣
6.賢夫人
7.再入閣
8.再度の失脚
第5章 ダマスカスへの道
1.落選また落選
2.大蔵大臣
3.四面楚歌のうち
4.マールボロー伝
第6章 最良の時
1.暴風雨来
2.血と汗と涙と
3.亡国一歩前
4.生死相契る
5.スターリンとの会見
6.ヤルタ協定
7.最良の日に次ぐ最悪の日
第7章 国民的愛情に包まれて
1.堂々たる退陣
2.家庭生活
3.荘厳なる落日

○主人公が著者と同時代の人であることからか、珍しく著者自身の過去に触れている。そして著者が6箇所も登場する。
○203頁の「……実はそのうちに荒れ狂う水素原子結合作用によって起る原子核エネルギーの解放であるごとく……」と272頁の「……夜となく昼となく百馬力、二百馬力のすさまじい勢でブーン、ブーンと廻転していたのである」という文章は、従来の鶴見の文章には無い表現である。
○チャーチルが成功してからの豪奢な生活は、日本では考えられない貧富の懸隔が英国に存することを知らしめる。
○鶴見はロイド・ジョージを評して、『新英雄待望論』では、「群小の実際政治家」とし(420頁)、本書では、「八十二年の偉大なる生涯を終った」と記している。(252頁)


『若き日のともし灯』

『明日への出発』の続編。両書とも「実業之日本」に連載した文章が単行本になったのである。
 本書が出版されたのは昭和35年であるが、鶴見は前年脳軟化症に倒れている。鶴見の本にしては珍らしく序文が無いのはそのためであろう。
『明日への出発』より面白い。話材が豊富で、お説教より事実の紹介が多い。
○113〜114頁にモット博士の記事があるが、同博士の記事は『後藤新平』第2巻810頁以下、第3巻357頁以下にもある。
○138頁に「朝は新聞を六つ丁寧に読む」と書いてある。
○167頁に、『母』の巻頭の「母としての日本婦人」の第1行に記された日本の女性を激賞したドイツの哲学者カイゼルリンク(『母』が出版された昭和4年には49歳だった)は、昭和21年まで生きていたと記されている。
○196頁に出てくる「感服屋」は、後藤新平が、鶴見につけた綽名である。
○203頁に鉄道省の役人を辞めて、民衆運動に入ったわけを記してある。
○214頁に新渡戸稲造伝を書く予定だったと記されている。新渡戸は後藤新平とともに、鶴見が若い頃から身近に接してきた偉人だけに、未発に終ったことは何とも残念である。
○215頁に一冊ものの後藤新平伝を書く予定だったと書かれている。『後藤新平』全4巻は後世に残る名著であるが、研究者向の正伝であって、庶民大衆の手にする本ではない。
○218頁に「一九一一年以来四十七年間、ウイルソン及びその時代という題の著書を著すつもりで研究をつづけている」と記されているが、『成城だより』第6巻128頁以下に、「……ウイルソン伝執筆の準備をはじめてから足掛け四十年、私は十九世紀末から二十世紀のウイルソン引退までの二十四年間の米国政治史を、随分材料を集めて丹念に読んでみた。しかし今日となっては大部忘れているから、もう一度読み直しをしなければならない。しかしもうこれを二度繰り返す時間も精力も興味もない。それに疎開騒ぎで材料は大分無くなっている。矢張りこういうことは、その熱情の燃えているときに仕遂げておくべきものだと思う」と述べている。
 ウイルソン伝は鶴見のライフワークである。その筆をとらずに重病に倒れ再起することなく他界したことは、鶴見本人は勿論愛読者にとっても痛恨の極みである。
○本書もそうであるが、鶴見の戦後の著書では、原水爆による人類の滅亡を屡々憂えている。


『読書三昧』
 本書は昭和11年6月に講談社から発行された。鶴見は『成城だより』で、「『読書三昧』は私の相当苦心して書いた本で、あの当時のファッショ全盛の空気の中で、ドイツのナチスのイタリーのファッシズムを蟻と蜜蜂の集団生活に較べて揶揄しておいたのだが、検閲の役人も、民間の私設検問官先生方もお気が付かなかったと見えて、発売禁止にもならずに済んだ本である」と書いている。

 序より
「必ずしも読書に関する小文を採録したものではない。宇宙観あり、政治論あり、人物評伝あり、処世寓言あり、蓋し著者最近数年間の心の足跡である。
 著者が一巻の随筆集を公にしたるは、大正十三年末の『思想・山水・人物』をもって初めとする。そしてこの度の新著は、昭和三年『中道を歩む心』を著して以来、久しく随筆集を世に送らざりし著者の二度目の巣立ちであるとも言える。
 蓋し随筆集を公にし得ることは著述家に取っては一の特権である。外国に於いてはそれは非常な難事であるが、我が国に於いては必ずしも至難事ではない。
 しかし『思想・山水・人物』を著した時分と今日とでは、日本の姿は非常に違っている。当時の日本は政界には議会政治確立し、思想界には左翼隆昌し、国際間には国際連盟主義が堅固であった。しかるに今日の日本は、満州事件を一大導固として、根本的に変化し乃至は変化せんとしている。
 議会主義は深刻なる懐疑の霧につつまれ、左翼思想は想壇の王座より〇(「眞」に「頁」)落し、国際連盟は日本とは無関係なる存在となった。更には経済的には資本主義制度は別個の方面より尖鋭なる批判と攻撃を被り、言論の自由は到るところに於いて甚しく困難となりつつある。
 明治維新より数えて六十九年、我が国が斯くのごとき危局に立ったことは、未だ嘗つて無いといってよい。
 この書はかかる時代に世に出るのである。ゆえに著者はその想を練り、稿を変うること幾度なりしやを知らない。旧稿を加筆改刪し、新稿を数多く執筆した。その廃棄削除したるものはこの書の二倍を越える。殊に巻頭の数篇は最も心を罩めたるところである。行間言外の文字、幸いに識者の心読を得ば幸甚である」
      目  次
 一、読書三昧
 二、世界史的角度から
   1.暗夜の後に白日来る
   2.文化とは価値判断
   3.国内変革の国際性
   4.スパルタの社会――秩序
   5.蟻の社会
   6.アテネの社会――自由
   7.亡びざる人類
   8.人類の永遠性
 三、枕頭の書
 四、典型的立憲政治家
   1.正銘の自由主義者
   2.生粋の英国人
   3.冷頭
   4.精確と徹底
   5.論理と本能
   6.寛宏
   7.失脚
   8.風格
   9.政治家と著述家
  10.読書癖
  11.荘厳なる落日
  12.時代の代表者
 五、小説家と情熱
 六、読書人閑語
   1.読書の恩寵
   2.少年の日の読書
   3.中学生時代
   4.一高時代
   5.精読法
   6.速読法
   7.推読法
   8.亡びざる普通人
 七、近代人の読書
 八、モーレーの回顧録
   1.その人間性
   2.操守
   3.民族への貢献
 九、日本民族の世界的使命
 十、随感随想
   1.朝の祈り
   2.プレートーの懐わるる宵
   3.古今六千年
   4.紙の礼讃
   5.文と弁
   6.若き日本
   7.操山のほとり
   8.旅
   9.手紙の今昔
  10.人生の決断
  11.一筋の道を歩む心
  12.釘を作る大統領
 十一、人生瑣談
   1.部屋を持つ女
   2.どうぞよろしく
   3.牛乳売の娘の話
   4.心配の追放
   5.思いすぎ
   6.サルゴン大王の話
   7.ウィルソン夫人の招宴
 十二、人物評伝
 十三、絵巻物のような史伝
   1.モーロアのヂスレリー伝
   2.飛ぶような売行き
   3.私はこれを耽読した
   4.小説の筆致で書いた伝記
   5.豪華な服装
   6.山荘の瞑想
   7.永久の青春
 十四、人としての後藤新平
   1.混乱のうちに秩序を創造
   2.捨て身の冒険
   3.悪戯百出
   4.落雷頻々
   5.水も漏らさぬ細心
   6.直観と情熱
   7.超凡なる肉体
 十五、ウエルズの自叙伝
 十六、未完成の英雄セシル・ローズ
 十七、新太平洋主義

〈以下入力作業中です。しばらくお待ちください〉
第3編 家庭へ
トップページへ
目次へ