鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第1章 幼少時代

 鶴見祐輔は、明治18年1月3日、群馬県の南端・新町に、父良憲と母古都の二男として生まれた。
 命名の由来は、「天に助けられ、人を助ける者になるように」とのことであるが(『友情の人』安井静子の言・38頁)鶴見の親の命名のしかたはだいぶいい加減である。
 長男の省一はわかるが、二男は祐輔、三男は五郎、四男は良輔、五男は定雄、六男は良三、七男は憲である。
 何で三男が五郎なのか。輔が付くのは二男と四男だけ。良三、憲は父・良憲の名から採ったものであろう。
 もっとも鶴見は未来の宰相を暗示する祐輔という名が気に入っていると見えて、昭和初期の著書の序文にはペンネームとしても“祐輔”と著名している。
 鶴見は10人きょうだいであったが、第3子と第5子は幼くして世を去っている。祐輔は二男であるが、13歳の年に長男の省一が早逝したため総領となった。祐輔の上に姉が2人あり、長姉敏子が後の広田理太郎夫人である。下に弟が4人、妹が1人である。弟の1人良輔は、21歳で病死している。
 前年の明治17年には、東條英機と山本五十六が誕生している。

 鶴見の父は、官営の新町紡績所の三代目の工場長を務めており、日本の絹絲紡績業の創設者であった。(『成城』2巻197頁)新町紡績所は明治20年に民間に払下げとなり、三井紡績となった後、鐘淵紡績と合併した。
 父は町会議員に当選したこともある。武士の出であったが、18歳の時に備中の山奥の家を出てしまって、実業に従事していたから、事業家的趣味と性格とを備えた人であった。
 母は大阪の承認の娘であったけれど、非常にアムビーシアスな性格で、昔風に言えば、祐輔に槍一本立てた生活をさせたいと祈願していた。(『成城』7巻209頁)

 群馬県多野郡新町は、烏川と袖流川の合流地の三角州の上に立つ小邑で、桑圃連なる平野の彼方に、赤城、榛名、妙義の三山が遠望される平野であった。近くには山はないので、幼少時代に大人に連れられて、一里ほど西にある藤岡町にある小山へ登った時の驚きと感激を生涯忘れなかった。
 鶴見の生家のまわりも幾筋かの小川が流れていた。鶴見たちは烏川へ鮎を釣りに行った。唇が紫色になるまで水に漬かった揚句、小さい竹籠に鮎を入れて帰った。数尾しか釣れない日もあり、時には100尾以上の収穫がある日もあった。鶴見の母は彼の魚取りのために、毎日着物の洗濯に追われていた。それから鶴見は竹の笊で近所の小川の魚を掬って歩いた。少年の鶴見は魚取りが上手で、時々大きい鯰をつかまえて来ることがあった。鰻を捕えたこともあった。
 当時は映画も野球もラジオもなく、村芝居が年に一度くらいで、見世物といえばお祭りの時に、一里も歩いて隣村に行くほかなかったのである。
 冷蔵庫の無い時代なので、冬季に塩鮭が食べられるほかは、秋刀魚が1年に一度口に入るだけであった。
 高崎線の新町は高崎の二つ手前で、現在では上野から1時間半で到着でき、此処から東京へ通勤する人も少なくないが、鶴見が小学生であった明治20年代では、親に連れられて東京へ行くということは、他の友達が羨しがる大事件であった。
 鶴見は幼い時はひどい虫歯で苦しんだ。また、子供の頃から寝つきが悪かった。

 明治25年、鶴見は群馬県新町の小学校に入学した。4年生の春、国民が日清戦争の勝利に陶酔している時に突如として襲った三国の干渉は、祐輔少年に大打撃を及ぼした。早熟な彼は桑畑にひれ伏して遥かに皇居を拝み、心中ある誓を立てたのである。(『成城』7巻196頁)
 そして4年生の秋に一家は東京・赤坂へ転居した。東京では一高生を見て憧れたという。鶴見に限らず一高は明治中葉の日本の青少年の憧れの対象であったのだ。
 さらに翌年1月に一家は岡山に転居し、鶴見は岡山市石山の小学校へ転校した。
 岡山は鶴見の父祖の地である。祐輔の末弟鶴見憲は『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた「兄の思い出」の中で次のように記している。
「鶴見家は武士の古い家柄だった。
 岡山県備中松山城主水谷(みずのや)出羽守勝美五万石とその養子勝清と勝時の急逝によって、松山城は安藤対馬守重博に与えられることになって開城を迫られた。
 松山城の武士等は城を枕に討死する覚悟を固めていた。大石内蔵助が城受取の先発隊を命ぜられ小兵を率いて松山城に向った。松山藩を背負って立っていたのが家禄二千石の鶴見内蔵助であった。大石内蔵助は武装もせず、3名の部下をつれて鶴見内蔵助と対決し、胸襟を開いた話合いで滞りなく開城が流血を見ずに収まった。この鶴見内蔵助が鶴見家の先祖であった」
 その子孫が富家村黒鳥に住んで代官を務め、現在は鶴見松太郎氏が旧代官屋敷を守っている。
 この岡山で鶴見は岡山藩家老であった池田家の子・長康と知り合い生涯の親友となるのである。国会図書館には池田長康からの書簡が290通保存されている。中学2年の夏、一家は名古屋へ転居するが、祐輔は池田家へ寄寓して岡山中学校を卒業するに至るのである。
 岡山へ移った後、東山の麓の地頭川で投網を打って成功したのも、群馬の川での小魚取りの修練の下地があってのことであろう。

 中学1年のとき、鶴見の一生を決定するような書物に遭逅した。同級生の池田長康から借りて読んだスタンレーのアフリカ探検記全5巻である。熱帯地、黒人、バナナそんなものを一つも見たことのなかった鶴見は、この物語に非常な興奮を感じた。リヴィングストーンを訪ねてスタンレーが、先人未踏の暗黒世界の奥深く、猛獣毒蛇と蛮人の危険を犯して、道無き道を進んでゆく。それだけで少年の空想を刺戟するに充分であった。
 その興奮に身振いしながら、岡山の川東のある町角を廻りつつ
「この小さい日本から抜け出して、大きい世界に出てゆかなければだめだ!」
と少年鶴見は握り拳を振りながら歩いていた。
 その世界に出るためには何が必要かと自問自答した。
「英語だ!英語の勉強をしなくちゃだめだ!」
 鶴見はそう思った。それから彼は夢中になって英語を勉強し出した。毎日懐の中に小さい英和字典を入れて歩いて、道を歩きながら単語を暗誦し、宇野先生という山陽女学校の英語の先生の許に通って英語を稽古した。熱心は恐ろしい。鶴見は中学1年の時に5年生までの英語の教科書をみんな読んでしまった。中学2年の時に英文小公子を字引を引きながら独りで読んだ。
 それは大きくなったら世界旅行に上ろうという熱望のためであった。(『成城』1巻64頁以下)

 岡山へ転居した小学校高学年の頃のことである。岡山には有名な孤児院があった。もとより孤児と侮って冷遇し、白眼視する社会にその罪はあるのだが、とにかく院児らにはひねくれた、意地の悪い少年が多かった。そして両親の揃った幸福な市中の少年を屡々苛めた。つまり意識せざる一種の復讐を試みるわけであるが、その犠牲となる無邪気な子供らこそいい迷惑であった。
 ある日の夕暮、少年祐輔はその弟たちと町角で遊んでいた。そこに近づいて来たのが、10人余りの院児の一隊であった。いずれも僻んだ眼付をした、子供の眼にさえ陰惨な感じを与えずには置かないような16、7の少年ばかりであった。祐輔の弟たちは道の端に寄って、無事に彼等が通り過ぎてくれるようにと祈っていた。ところがなかでも年嵩に見える1人の院児が、つかつかと祐輔の弟たちの方へ歩み寄って、幼い弟の1人をぴしゃりとひっぱたいた。殴られた弟は、痛さよりも怖ろしさのためにわっと泣き出した。すると殴った院児は唇に冷たい笑いを浮かべてそのまま立ち去ろうとした。その時まで拳を握りしめ、歯を喰いしばってその院児を睨みつけていた祐輔は、全身の力をこめて叫んだ。
「待て!」
「何だ」
「なぜ僕の弟を殴ったのだ」
 祐輔は自分よりも遥かに大きいその院児の前へ詰め寄って行った。事起これりと見ると10人の院児は2人を中に包むようにして一塊りになった。だが、祐輔の情熱はその負けじ魂と結びついて凛々たる勇気となってその小さい身体に満ち溢れた。彼は頬に血をのぼらせて叫んだ。
「君は一体憲法のどの条文によって弟を殴ったのだ」
 憲法発布後10年を過ぎない時のこととて小学生の祐輔の頭にも憲法という言葉が強く印象に残っていたのであろう。院児はその意外な詰問に返答すべき術を知らなかった。のみならず祐輔少年の激しい意気込みに呑まれた形だった。
「さあ言え。憲法のどの条文で殴ったのだ」
「…………」
「僕達の身体は憲法によって天皇様に守られているのだぞ」
 祐輔は勝ちに乗じて言い放った。多数を恃む院児らも、祐輔の意気込みによって醸し出されたその場の空気に圧倒されて手出しができなかった。
「生意気言うな」
 辛うじて捨台詞を吐くと院児たちは逃げるように立ち去った。この事があって以来、院児たちは祐輔の弟たちには決して悪戯をしなくなった。(『雄弁』昭和2年9月号吉田甲子太郎「鶴見祐輔伝」)
 明治31年、13歳の鶴見は、岡山市立岡山高等小学校を卒業して、岡山県立岡山中学校へ入学した。
(7年間かかって小学校を卒業したわけであるが、当時の小学校は修業年限4年の尋常小学校と修業年限3年の高等小学校で構成されていた。明治40年に小学校は6年制となった。)
第2章 中学時代へ
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