鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第2章 中学時代

 鶴見は岡山中学では、西洋史を阿部虎之助、英語をエール大学を卒業した青木要吉に教わった。この両教師に大きい感化を受けた。(『若き日』202頁213頁)
 尾崎行雄のヂスレリー伝を読んで感激したのもこの頃である。また、相撲の記事を新聞で読む癖がついたのもこの頃からであった。(『若き日』165頁)
 鶴見が中学1年生の時、病弱な長兄省一が19歳で病歿した。父が大会社の専務だったので会葬者が多かった。
 中学2年の時は、ジョン・ブライトの伝記を読んで感動し、ジョン・ブライトとグラッドストーンを崇拝した。
 中学3年の時に弁論大会で、「敵は本能寺にあり」という題で演説して、後年の大雄弁家は大いに野次られている。ガーフィルド伝を読んで感激したのもこの頃であった。(『成城』5巻27ページ)
 中学4年の時、一家は名古屋市舎人町26から小田原十字町4丁目へ転居した。

 岡山中学へ入学した当時の鶴見は、腕力は強くないが勉強ができたため毅然とした態度を維持していた。こういうタイプの者は運動部の者に憎まれやすい。ある日、鶴見が下校する時、4、5人の短艇部の選手が彼の前を歩いて行くのを見た。頻りに高声に話しているのをふと小耳に挟むと、何ぞ図らむ、自分に鉄拳制裁を加えようという相談であった。あいにく野原の真ん中で、どこへ身を匿すこともできない。鶴見は困惑した。彼は腕力にはまるで自信がなかったのだ。その時、ある侠客が自分を殺める相談をしている敵の群の中を悠然と突っ切って事なきを得たという話を何かで読んだことが彼の頭に閃いた。鶴見は躊躇せずに、歩武堂々と後から短艇部選手たちの真ん中を通り抜けた。果して乱暴な彼らも機先を制せられて鶴見に一指も加えることができなかった。
 だがこの小事件は鶴見に自己の短所を反省させる機会となった。男の子の世界では勉強ができるだけでは駄目だ。腕力も兼ね備えなければ人が心服しない。腕力を鍛えるには武道だ。鶴見は池田長康の勧めで撃剣(剣道)を始めることにした。少年の日には蒼白な顔をして「あれは肺病になるよ」と子供仲間から蔭口されていた鶴見が、体質を改善する道に入ったのである。

 鶴見はその半生を内外、特に外国の旅行に過ごしたが、この烟霞の癖は若き日より始まり、少年時代から短い旅を試み、旅の文学を好んだ。
 岡山の中学2年が終わった春休みに、名古屋の実家へ帰る時、関西本線の笠置駅で下車して、月ヶ瀬の梅を尋ねて、笠置山から桃香野へ1人で歩いたことがある。この月ヶ瀬の探梅行は、田山花袋の『南船北馬』を耽読して旅行欲を刺戟され、花袋の紀行文どおりの道を辿ってみたのであった。この時を想起した鶴見の紀行文が昭和5年に刊行された『自由人の旅日記』に収録されている。
 帰宅すると2、3日前から鶴見の母は病床に伏しており、その1ヵ月後、すなわち明治33年4月22日に病死した。享年43歳であった。この時は父は小さい事業に関係していたので会葬者は百数十人であった。この母の死は15歳の鶴見に絶大な影響を及ぼした。彼はこの大いなる悲しみを昇華して、後に名作『母』を書いた。
 鶴見はこの頃、岡山の東中山下の教会で江原素六の講話を聞いているが、鶴見の母は群馬県の新町でアメリカ宣教師夫妻の感化を受けて、キリスト教の影響を被っていた。
 その後鶴見は大学時代にクエーカーの信者新渡戸稲造を知り、内村鑑三を訪ね、最後はクエーカーの信者として死んでいる。
 中学に進んだ鶴見は、ベースボールに力を入れて、学校の成績はあまり良くなかった。中学3年の時、母が死に際して「おまえはもっと学問のできる子だと思ったのに」と嘆いた。それは一大痛棒となって鶴見を打った。少年鶴見は母の墓前に号泣しながら首席卒業を誓った。

 さらに鶴見を感奮興起させたのは、徳富蘆花の『思出の記』である。鶴見が中学4年の時に刊行された本で、彼が岡山の東郊の操山の中にあった少林寺で、友人3人と自炊生活をしていた時に読んでいる。
 鶴見は前年の4月に母を失った。そして父の事業が不振で、家計は段々と逼迫して行った。きょうだい8人の総領であった彼は、衰えてゆく家運を興さなければならぬ責任をひしひしと感じていた。
 蘆花は主人公の菊池慎太郎の境遇を叙して「零落の坂を下る一歩一歩は実に血涙である」と書いた。それが涙に余る感激を鶴見に与えた。彼の家の状態がこの通りであった。弟たちは小学校をやめて、丁稚奉公にやれと、鶴見の遠い親戚のある大富豪が言ったということを彼が伝え聞いて、一夜眠れないほど興奮した。
「今に見てろ!」
 鶴見はそう叫んで泣いた。彼は弟たちはみんな最高学府を出してやらなければならぬとその時決心した。そしてそれまで捨てて顧みなかった学課の勉強に身を入れるようになった。早熟な鶴見は、中学3年までは教室では机の下で別の本を膝の上に置いて読んでいたのであった。
 だが鶴見は老年に到り往時を顧みて言う。
「それは今日から考えて見ると、私にとって仕合せであったかどうか疑わしい。学生としての成績は挙げたかも知れない。しかし自由奔放なるべき想像力は、この篤実な試験勉強によって枯渇してしまった」と。(『成城』1巻68頁)

 中学4年頃、岡山の東山の中腹にあった禅寺で、友人3人と一緒に自炊生活をしたのは、自ら求めて窮乏らしい生活をして見たわけであるが、これは少年の頃から青年の初期にかけて、維新の志士の伝記を多読した影響であった。鶴見の中学時代は、国運上昇期の常として伝記物がたくさん出版された。
 この自炊生活は2ヵ所で行われた。一は岡山の東山にある少林寺で、1年間池田長康・水野賢吉・小川重太郎と一緒であった。この時池田長康も鶴見に勧められて『思出の記』を読んで感激している。英語に達者な鶴見がコウナンドイルの探偵小説を飜訳して友人たちに聞かせた。自然の豊かな環境で生活し、此処から岡山中学へ通学したのだが、若様育ちの池田長康は「風邪と栄養不良」でしばしば臥床した。
 もう1ヵ所は大竜寺という町の中の小さい寺で、少林寺同様池田家ゆかりの寺である。鶴見が街へ出て買ってきたソースやカレー粉に喜悦したというから、その倹約ぶりは推して知るべしである。この寺では別室に居住していた某医博から、鶴見と水野賢吉(後に岡山合同貯蓄銀行頭取となり中年で逝去した。)は、ドイツ語を教わった。
 この2ヵ所の寺での自炊生活は、高校の入学準備という意味もあったが、所詮は金持の坊ちゃん(殿様の末裔)たちの貧乏ごっこであったのである。

 鶴見の父は3つの会社の重役をしていたので出張が多く家に帰らぬ夜が多かった。母は酒と芸者が人生の敵だと思い込んでいたらしい。父の帰らぬ夜、母は幼い祐輔に、お前は酒と女で身を誤ってはならないと言って泣いた。鶴見は生涯酒を飲まず、あのような才子で好男子でありながら、女性とのスキャンダルは一度もなかった。
 中学時代の鶴見の夢は、母をロンドンに連れて行って、思う存分買い物をさせてあげたいということであった。後年鶴見はロンドンに行って有名な買物街であるボンド・ストリートを歩くと、ああここへ母を連れて来たかったのだなと思って止め度もなく涙を流したという。貰い泣きをさせられるような話だが、銀座でなくボンド・ストリートというところが少年時代からの鶴見の国際性を表わしている。

 母の早逝は鶴見生涯の痛恨事であるが、中学時代を含む岡山での7年間は楽しいことも少なくなかった。住んでいた岡山市の東郊の門田屋敷という土地には操山という山があって秋には茸狩りを楽しんだ。旭川が注いでいる児島湾で遊んだ。初めて海で泳いだ。そしてそれ以上に熱中したのはベースボールであった。だが打撃が下手で中学では選手になれなかった。その後一高に進んで剣道をやってからは打撃も上手になった。
 無銭旅行を試みたのも中学3年の夏休みであった。それも総勢6人でである。無銭旅行と言っても金銭は一銭も持たないが、食物は携帯して、山野を跋渉して数日を過ごそうというのである。旅程は岡山から豪渓を経て、岡山に帰るというのであった。
 そこで4日分の米2斗と味噌醤油を買い込んで大きい釜と一緒にハンモックに積んで竹の棹で6人が2人ずつ担ぐのである。犬を見たら交代するとりきめである。中学の制服に脚絆草鞋といういで立ちであった。
 7月末の早朝岡山を出発して、まず秀吉の水攻めで有名な高松に着き、此処に一行に加わっている池田長康の叔父が居るので、6人は昼食のご馳走になった。それから山にかかって夕刻に豪渓に到着した。有名な勝景である。だが若い6人は景色より空腹が先行した。渓谷に臨んだ寺に無理矢理頼み込んで一夜の宿を確保する。そして谷に下りて澄んだ水で米を研いで夕食の用意をした。その飯が炊けるのを待つ間に、器械体操が好きで、逆立ちが自慢の鶴見は、水の中の大きい岩の上で逆立ちをした。そして本堂の畳の上で寝具なしでごろ寝した。若い血潮を狙って蚊の群が襲った。
 翌日は大雨を衝いて山越えで高梁に向った。山路なので犬は居ないから、担いだら最後いつまでも交代してもらえない。山中の松林で、よく濡れた枝が燃えたものだと思われるが、びしょぬれの少年6人が焚火を囲んで何とか昼食を摂った。やっと夕方、高い山角を廻って、脚下に高梁の町の灯を望んだ。6人は豆だらけの足を引き摺って高梁の町を通り抜け、成羽町の小学校の寄宿舎に泊めてもらった。
 第3日は道を南に取って、富家村の黒どりへ向かった。その村に鶴見の先祖の墳墓があり、鶴見の先祖が水谷(みずのや)家の邸の留守職をしていた陣家(原文のまま)があるのだ。だが途中で道を間違えて、とうとう富家村の黒どりは通らずに、いつの間にか一行は笠岡へ向かって歩いていた。それから先は道は平坦であり、天気にも恵まれ、米は減って荷も軽くなったので、一同は元気がよくなったが反面思い出に残るものが無い。
 一行は笠岡の町に着くと、持っていないはずの金銭を出し合って汽車に乗って岡山へ帰って行った。

 この笠岡の町は、鶴見が大学時代に弟の良輔が転地療養し、ついに病死した痛恨の思い出を残す土地となった。
 また、鶴見が訪問しようとして果せなかった富家村の黒どり(現・高梁市備中町)の代官屋敷の鶴見松太郎と清建寺の墓地は、昭和48年8月に、鶴見の本の愛読者と言うより鶴見宗の信者と言うべき山本梅治氏が、昭和54年には鶴見俊輔氏が訪れている。(『鶴見祐輔先生百年史』4頁。『期待と回想』上巻260頁)

 中学5年から高校2年までは学校の課目の勉強に集中し、余暇に剣道と演説の稽古をする程度で、課外読書はしなかった。それでも博文館発行の『中学世界』の和文英訳欄「短文」に、斎藤博(のちの駐米大使)や勝沼精蔵(のちの名古屋大学総長)らとともに投稿して入賞している。特に明治35年10月号の懸賞文では一等に当選している。
第3章 一高時代へ
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