鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第3章 一高時代

 明治36年5月、鶴見が岡山中学校を卒業して一高の受験準備をしている時に、衝撃的な事件が発生した。(当時一高は4月でなく9月に入学するのであった。)一高英文科1年の藤村操が哲学上の煩悶から日光の華厳の滝に身を投じて死んだのである。彼が投身する直前に巖頭の朴の巨樹を削って、巖頭の感と題する一文を遺した。その文に曰く、
「悠久なる哉天地、遼々たる哉古今。五尺の小躯をもって、その大を測らんとす。ホレーショーの哲学量に何のオーソリティに値するものぞ。万有の真相は只一言にして尽す。曰く、不可解。我れ此の怨みを抱いて煩悶遂に死を決するに到る。既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」
 鶴見はこの記事を新聞で読んだ感動を老年に至るまで忘れなかった。彼がいま入ろうと必死の努力をしている一高の生徒が、人生の煩悶も結果死を決したのである。
 まだ人生問題ということが、青年の間に熱心に議論されていなかった時代に、この一青年は時代に先行して、これを苦しみ、これを悩み、遂に死を以てこれに体当たりをしたのである。
 全日本の青年の心の湖に、藤村操が大きい石を投じたのである。それは日本の青年の、眠ったような安易な心持に対する出しぬけの挑戦であった。
 当時の日本には思想問題というものは殆んどなかった。青年たちはただ単純に忠と孝と愛国とを教えられ、現実的な立身出世主義を、競争試験という形式で課せられているに過ぎなかった。人生自身を疑い、社会自身を疑うということは、当時の青年たちの間には殆んどなかったのである。
 この事件で衝撃を受けたのは鶴見だけではない。一高生の間に煩悶病が流行し、岩波書店の創立者岩波茂雄と後年学習院長になった安倍能成も煩悶病に罹って1年落第したほどである。(余談ながら安倍能成の夫人恭子は、藤村操の妹である。藤村操の墓は青山墓地にある。)
 この事件はその後哲学を語り、自殺を論じる過程で必ず登場するケースとなった。

 明治36年、18歳の春、級長だった鶴見は岡山中学を首席で卒業した。彼の一番稼業はこの時に始まる。この年妹・静子も女学校へ入学した。
 同年9月、一高の英法科へ鶴見は次席で入学した。寄宿寮は南寮十番である。一高は原則として全寮制なのであった。
 主な同期生は、岩永裕吉、渡辺銕蔵、金井清、下村寿一、市河三喜、田島道治、霜山精一、富安謙次である。岩永裕吉は前年に入学していたが、落第して鶴見と同期となったのである。
 この年の秋、父の良憲は、富士ガス紡績を退職し、友人と共同の絲の取次を大々的にすべく上海に赴き、良輔を中心に、幼い弟3人と女中1人で小田原の留守宅を守っていた。

 明治時代の一高の寄宿寮生活を知るために、鶴見の『成城だより』第7巻の文章をそのまま引用する。
「六、一高の初夜
 この南寮十番に入ってきた同室者は、英法の野津高次郎君、霜山精一君、下村寿一君、岡田恒輔君、工科の大島重義君と理科の梅沢親光君と医科の某君(失念す)、それに病気で1年後れて残った工科の佐瀬蘭舟君とであった。
 その晩、初めて食堂で食事をして室に帰ると、東京の一中出の梅沢君はよく寮の生活に通じていた。
「コムパをやろうよ」
と言った。
 田舎者の私たちが、眼を白黒していると、梅沢君は、
「みんな、十銭ずつ出し給え」
 というから、私も絹か何かでかがった、頗る貧弱な銭袋から、十銭銀貨を一つつまみ出して、机の上に置いた。みんながバラバラと、十銭玉を机の上にほりだした。
 それを集めると、梅沢君が、廊下のほうへ顔を出して
「小使!」
 と、ど鳴った。
 十番室はこの南寮の入り口にある室で、小使部屋の隣りである。
 浅黄の色あせた木綿の制服をきて、素足に冷飯草履を穿いた四十恰好の小使が、駆け付けてくると、梅沢君は、
「おい、コムパをやるから、焼芋と煎餅を買って来い」
 と命令した。
 私は呆気に取られて見ていた。
 すると梅沢君は、われわれの方を向いて
「さ、机を並べたまえ、机を並べたまえ!」
 といった。
 そこでまた梅沢君の指揮命令の通りに、われわれは、机の上に置いてある低い本箱を床に降すと三つある机のうち二つを一緒にくっつけて、椅子をこの周囲に並べて坐った。
 しばらくすると小使が、薄穢い風呂敷に包んだ湯気の立つ焼芋と塩煎餅を持ってきた。それをお盆の上に積んで、土瓶と湯呑み茶碗を揃えると、それでいよいよコムパというものの支度が出来上がったのである。
「さァ、名乗りをやろう」
 そういって梅沢君が、先ず立ち上って、出身中学と姓名と組とを名乗った。それから次から次へと一と通り名乗りがすんで
「寮歌を歌おう!」
 ということになって、誰でも知っている「ああ三杯に花うけて―」をど鳴り出した。それは決して歌ったのではなかった。ど鳴ったのであった。若しあれを歌うというなら、それは音楽を侮辱するものである。殆んどすべての人の調子は外れていた。しかし声は腹一杯、大きかった。
 天井からぶら下っているむき出しの電球を二つ、麻ひもで引っ張って、その並べた机の上に集めた下で、若い十八九の青年八人が、芋と煎餅を噛りながら全然音楽の法則を無視して、ど鳴っている光景を、私は四十六年の歳月を隔てて懐しく心眼に描く。
 その楽しい、天下を呑んだような、意気軒昂たる光景は、ものの二十分とはつづかなかった。
 やがて廊下に、ガタガタという大きい足音がしたと思うと、ドヤ、ドヤと一群の荒武者が乱入してきた。
「おい、野球部に入り給え、野球部に!」
 そういって、二年、三年の先輩が、われわれを掴(原文はてへんに“國”)えて部員になれと勧誘した。
 それをやっと断ると、その次には、短艇部、それから弓術部、撃剣部、陸上運動部、柔道部といろいろの部の先輩が乱入して来て、入部を勧誘した。勧誘というよりはむしろ脅迫に近い見幕である。
 先ず新入生のど胆を抜く、ということが、この学校のしきたりで、それが殊に新しく二年になった連中には面白くてたまらないらしかった。
 寮歌が一としきりすむと、きまって、羅漢廻しと、雷りという遊びがはじまった。年が年中これだけなのである。単調なこと驚くの外ないが、それでいて当時の私たちは、これが無芸だとも単調だとも思っていなかった。かつ歌は、寮歌以外は厳禁であった。それでよくあんなに面白かったものだと、今日振り返って不思議な気がする。
 どの室も、どの室も、電灯を一杯つけて、笑声、歓声、蛮声、絶ゆるところなく響き渡っていた。
 初秋の空には、星が一杯輝いていた。夜は次第に更けていった。十時になって電灯が消えても青年の歓声は消えなかった。
 一高の新学年の初夜である。

 七、一高精神の由来
 寝室に上っても、電灯の消えた闇の中で、私たちは夜更けるまで話し込んだ。日本の隅々から集ってきた青年が、新しい希望に頬を赤めながら、尽くるところなき話に夢中になっていたのだ。
 そこで田舎者の私の驚いたのは、一高というところは、実に毎日お祭りのように賑やかなところだ、ということであった。毎日、毎晩、何かの催しのない日はなかった。今までは岡山の中学校で、年に二回の運動会と、年一回の修学旅行、その外に一学期一、二回の演説会と野球試合ぐらいの外は、何の行事もなかったのが、いよいよ多年待ち焦れた一高に入って見ると、飛んでもなく催しものの多いのに全くびっくりしたのである。
 これは日本の学校生活が、あまり単調で、乾燥無味であるため、こんな平凡な催しものでも、私たちにあれほど面白かったのである。
 それコムパだ、それ総代会だ、それ野球試合だ、それ道場開きだ、それ演説会だ、それボートの対級試合の応援だ。曰く何、曰く何、全く私は浮かれるような気分で日を過した。
 一高生活の心髓は、学校にあったのではない。寄宿寮の中にあったのである。だから三年間、一度も寮生活をせずに終った人は、本当の一高生活というものを味った人ではないのである。」

 鶴見が入学した明治36年頃の一高は、当時の日本青年の憧憬の対象であった。
 それは全国の秀才を集めたというようなこともあったろう。従って入学するということで、秀才という折紙を付けられるという虚栄心からでもあったろう。
 しかし鶴見を一高に牽きつけたもっと卑近な理由は、そのほかに2つあった。その1つには寮歌というものがあって、それが全国に流布していて、青年の感傷的な興味を唆っていたことと、いま1つは一高の野球部が天下の覇権を握りつづけていて、未だ1回も敗れていなかったということであった。
 鶴見は中学1年の頃、一高野球部の捕手中馬庚の書いた『野球』という本を愛読していた。そしてその本の中で当時の一高選手が、野球の仕方を細々と説明しているのを半神的崇拝をもって遥か岡山の田舎から仰ぎ見ていた。
 明治36年9月、いよいよ一高の制服制帽で上京したときは、鶴見は凱旋将軍のように得意であった。
 だが、鶴見の入学した翌年、第1学年の3学期に一高野球部が初めて敗れた。これでは一高入学の大きい誇りの1つが失われてしまうと思って、鶴見は級友たちと口惜し泣きに泣いた。
 3年制の一高と7年も在学する他校とでは運動で競争できるわけがない。これからは演説で勝つほかはない。そう決心した鶴見は猛烈な試験勉強の余暇に、熱心に演説の稽古をはじめた。

 明治37年2月、1年生の鶴見は、全寮茶話会で演説して、上級生たちに野次り倒された。後で聞くと1年生の分際で、全寮茶話会の壇上に立って演説したのは鶴見が初めてであったそうで、生意気な奴だというわけで、酒気を帯びた運動部の上級生たちに、散々野次られて鶴見は屡々声に詰まった。
 その晩彼は口惜しくてまんじりともしなかった。どうしてもこの復讐戦をしなければならぬと決心した。そして1年間毎日毎日演説の練習をして、翌年の全寮茶話会で見事に復讐を遂げた。運動部の連中に一言も野次らせなかったのだ。この復讐戦の勝利は、鶴見の生涯に大きい影響を及ぼしたのである。
 明治37年5月15日の一高の弁論大会において、鶴見は「筒井順慶論」と題して、個人主義にも国家主義にもあらず、無主張にして愛寮の精神を欠ける冷淡なる人の増加を憂うると演説した。(『向陵誌』105頁)

 当時の一高は9月に2年生になるのであるが、鶴見は2年生の時、ふとした動機から思想をまとめる習練を、ただ頭の中で考えるだけでなく、口に出してまとめる練習をはじめて数年続けてみたことがある。教室から寄宿舎への往復の途の上、散歩の時、自修室から2階の寝室へ行く短い時間でも、1人の時は間断なく小声で、ぶつぶつぶつぶつ饒舌りながら歩いていた。(『雄弁』277頁)

 明治38年の1月に鶴見は番町の姉の家に泊っているから、長姉の敏子が広田理太郎と結婚したのはそれ以前ということになる。
 平成9年にネスコ・文芸春秋から刊行されたヘレン・M・ホッパー著『加藤シヅエ百年を生きる』の25頁に、番町の広田邸の写真が載っている。写真の説明文に、「ドイツの建築家デラランダ氏による麹町の純西欧風の家。6階建てで、地下にはボーリング場、ビリヤードができる部屋があった。シヅエ(鶴見の長姉の子)は十代はじめから結婚前までをここで過ごした。のちに外国大使館に貸したり、政府の公邸になったりしていたが、空襲でなくなった。」とある。
 その環境は、「隣近所はどの家も広い敷地に建っていた。門から家の玄関までは並木に囲まれた私道がつづき、家の背後には広々とした裏庭があった。家々はそれぞれ2メートルに及ぶ漆喰壁か板塀に囲まれ、通りからは屋根しかみることができなかった」(加藤シヅエの自叙伝より)
 また、深田祐介は次のように回想している。
「私の家は麹町一番町二〇番地にあった、三、四百坪の中流家庭であった。右隣りはフォード自動車会社の支店長宅で、戦前の日本では珍しい鉄筋五階建ての住宅で、左隣りは百五銀行の川喜田さんのお宅で、一千坪の邸を長い柵で囲ってあり、中を番犬のセントバーナードが二匹徘徊していた。」(文芸春秋平成17年4月号「半ドン土曜の午後は父とともに」)

 明治38年4月から39年3月まで、鶴見は石橋茂、石川鉄雄(石川鉄雄から鶴見に宛てた書簡127通が国会図書館に保存されている。)とともに弁論部の委員を務め、一高弁論部の黄金時代を築いた。
 委員に選出された鶴見たちは、明治38年4月13日に早稲田に大隈重信伯を訪問して講演を依頼し、5月22日に実現している。
 また、4月29日には擬国会を開催し、鶴見も代議士に扮して演説した。それは「鶴見代議士は弁もよければ身振も極めてしなやか也。たとえば翩々として菜の花に舞う胡蝶の如し」と評されている。(『向陵誌』107頁)
 議題は、1.兵役2年案、2.剣道、柔道を高等小学校及び中学校の正課になすの件、3.貿易保護法律案であった。

 一高生活の大きい特色は、運動家を尊重する校風にあった。所謂秀才型の青年を模範学生とした世間一般の風潮に反し、一高では試験の点だけ取る学生をあまり高く評価しなかった。一高の生徒は大てい学力が同程度であったのだ。
 また、一高では伝統的に、対外試合には必ず勝つという意気込みが旺盛であった。だから学校を代表する運動家を大切にした。
 鶴見も仙台の二高との撃剣の試合に2度出場したが、野球とランニングの試合は、全校の名誉を賭けての大事件であった。その前夜には全寮茶話会を開いて激励するので、選手たちは決死の覚悟で出場しなければならなかった。そういう激しい精神が一高の校風であった。
 鶴見は一高時代に、学習院で行われた試合で、後に高師の主将となった中島正勝と戦って勝った。中島はその時の敗戦に奮起して東都学生界第一の剣豪になったのであった。
 一高3年の頃の鶴見は、たいてい午前5時に起きている。彼は撃剣の稽古掛だったので朝早く道場に出て、下級生に稽古をつける必要があったからだ。毎日30数本、多い日には48本という猛練習をしている。寒稽古の後で水風呂に入っている。それから学校に出て、夜は学校の図書館へ行って勉強している。この剣道は鶴見の体質をすっかり変えてしまうのに役立った。それから後、世に出てから随分無理な生活をしたが、とうとう体力で行き詰ったことは一度もなかった。

 鶴見は運動が好きで、少年時代は魚すくい・投網・水泳・中学時代は器械体操・野球・サンドウの鉄亜鈴、そして一高では剣道をやった。
 一高時代の鶴見の身長は、5尺3寸5分(1メートル62センチ)、体重は14貫50匁(53キロ弱)であった。
 (それから大学を卒業するまで、彼は大体同じ程度の体重であったが、卒業後運動をやめたため大正6年、32歳頃から急に肥り出して、大正8年に米国に滞在したときは19貫(71キロ強)を超えた。戦時中の食糧不足時代は13貫(49キロ弱)近くにまで減少したが、昭和24年には16、7貫(62キロ前後)に回復した。)

 当時一高の入学試験というものは、日本中で一番難しいものとされていた。従って全国の中学でも、余程成績の良い者でなくては一高に志願しなかった。だから入ってしまうと鬼の首を取ったように喜んで、つい高慢な顔もした。それが鼻持ちならぬ一高生気質として天下の誹難を蒙った理由であったのだ。
 けれど入ってしまうと、一高という学校ぐらい気楽な学校はなかった。全く課目は易しいものであった。外国語以外は、別にこれといって新しいものを教えられたのでもなかった。従って遊んで暮らそうと思えば、3年間勝手放題に遊んで暮らせたところである。何しろ信じられないようだが、鶴見の時代は一高の卒業生は無試験で東京帝国大学に入学できたのである。
 だから寄宿寮で、年中お祭りのようにいろいろの行事をして暮らせたのである。一高精神などというものをやかましく先輩が唱えて、後輩を訓練したのも、結局は学校がひまだったからである。

 だが没落しつつあった鶴見の家運を挽回するために、鶴見は撃剣と演説の稽古以外の全時間を勉強に充てていた。学校の15分の休みにも英字新聞を字引を引いて読んでいた。そして食事には時計を横に置いて、15分以上の時間はかけないようにしていた。1日に正味13時間から15時間勉強をしていた。

 この頃、鶴見は英国のキャメル、バンナマン内閣の出現を非常な感慨をもって眺めた。その時分取っていた『評論の評論(レヴューオブレヴュー)』という雑誌に出ていたウイリアム・ステッドの新内閣人物月旦を、胸を躍らせて読んだ。(『思想』50頁)

 一高3年の時の先生は夏目漱石で、ちょうど『我輩は猫である』を発表して、文名天下に籍甚した時で、若い鶴見たちは崇拝のような気持で先生を仰いでいた。やはり当時発表した『坊ちゃん』は、鶴見たちの級で漱石が講義したロバート・ルイ・スティヴンソンの『ゼ・アイランド・ナイト・エンターテーンメント』から示唆を受けたのだと漱石から聞いて、鶴見は『坊ちゃん』をある誇りをもって耽読した。
 漱石の英語の時間に聞いた話で、鶴見が老年に至るまで忘れられない話がある。
 カントは自分の書斎の窓から、隣りの林檎の樹を眺めて、物を考えていた。ある日隣りの家の主人がその林檎の樹を切ってしまった。するとカントはその日から、大層物が考えにくくなってしまった。というのである。

 一高時代、学校の近所に住んでいたハリールというドイツ人のところへファウストの講義を聴きに通った。全部ドイツ語の話でまるで解らなかったが、どうかしてドイツ語を物にしたいと熱心に通っていた。

 一高の寄宿寮は全部自治制が敷かれていて、寮内のことは全部寮生が相談して決めることになっていた。
 まず各室から室総代1名を選出し、各寮から寮委員2名乃至3名を選出し、総代会を議会とすれば、寮委員を閣員として、万事この総代会で決めて、それを寮委員が実行するのである。そして寮委員の中から総代会で議長を選出し、これが事実上の委員長として、一切の寮務を主宰するのである。
 一高の寮は当時5つあって、部屋の数は70足らずであった。たいてい1室に8人か10人居住した。

 明治38年9月、鶴見が3年生で、寮委員でかつ総代会の議長をしていた時のことである。
 当時の一高は原則として寮に入らなければならなかった。特別の理由がある者だけが、寮委員会の許可を得て通学できた。寄宿寮では全部自治制が敷かれていて、学校は介入しないのである。
 或る日、一中出身の某が鶴見に頼み事に来た。その趣意は「今度1年に入った谷崎潤一郎は同じ一中の後輩だが、母校の先生から、谷崎という児は、自分が永く教師として育てた子供の中で、たった1人の天才だ。ああいう天才というものは、一高の寮などに入れて、規則づくめにすると、せっかくの才能がだめになってしまうから、通学生にするように話してくれと言われたので、谷崎に通学を許可してやってくれ給え」ということであった。
 鶴見はそれまで、本で天才という字を見たことはあったが、天才の実物を見たことはなかったので、天才谷崎の現れる日を待ち侘びた。
 いよいよその日が来た。委員会室に18人の委員は、すこぶるインポータントな顔をして、長方形の机に並んで坐っていた。鶴見はその奥の中央の議長席に得意気に坐っていた。みーんな18、9の青年である。夏のことで紺絣の単衣に袴をつけ、冷飯草履をはいていた。どうひいき眼に見たって、あまりえらそうな風体ではない。しかし彼等は主観的にはすこぶる重大な事務を取扱っていると思って真剣であった。
 1人、1人呼び出して、通学したい理由を訊問するのであるが、たいていは病気だと答えた。
 谷崎という青年は、紺絣の単衣に袴をつけた小柄な、ごく平凡な青年であった。骨ばった顔をして、頬がちょっと赤みを帯びていた。少しも他の青年と違ったところがない。ただ他の青年に較べると壮健な生き生きとしたところが乏しかった。天才というのだから、眼光がキリッとしていて、人の肺腑でも刳ぐるようなところがあるのだろうと思っていた鶴見の子供らしい期待は全く裏切られてしまった。
 議長の鶴見が何を質問し、谷崎が何と答えたかは鶴見は覚えていない。だが谷崎は通学を許されている。

 一高には鶴見の入学以前に南北寮事件があったが、鶴見が在学した明治36年9月から明治39年7月までの間に2つの事件が発生している。当時一高は9月に入学し、7月に卒業したのである。東京帝大の入学は7月で卒業も7月であった。
 第1の事件は、明治37年3月に寄宿寮内でチブス患者が10数名出て、そのうち4名が死亡したことである。
 第2の事件は、校風問題である。それは、魚住景雄が明治38年秋の校友会雑誌142号で個人主義を高唱したときに、校風論と相容れないというので、校風擁護派の急先鋒たる運動各部が総立ちになって、魚住に鉄拳制裁を加えようという大騒動になった。
 寮委員で総代会の議長である鶴見は、責任者として直接その事件の衝に当たった。鶴見は同時に弁論部の委員でもあったから、学校の講堂で弁論部主催の討論会を開いて、その可否を論ずることにした。すると議論では武断派がかなわないので、気の荒い連中が怒って、今度は鶴見を撲るということになった。その時鶴見は南寮4番室に居た。毎晩名物のストームが西寮辺で低気圧を生じて、東寮、乃木寮、中寮、北寮と大きい声で騒ぎながら南下してきた。鶴見の友達は今夜は鶴見が撲られるか、明日は撲られるかと心配していた。岡山中学校以来の親友・池田長康は、北寮4番に寝ていたので鶴見の寝室がよく見えた。池田は事が起こったら駈けつけようと木刀を抱いて寝ていた。彼は剣道の猛者である。鶴見もまた撲り込み部隊の襲来を覚悟して竹刀を傍らに置いて寝た。幸い事なくして終わったのは、鶴見が撃剣部の稽古掛であったので、相手が恐れをなしたのである。弁論部だけの鶴見であったらこぶだらけになっていたであろう。

 因みに『向陵誌』によって当日の討論会の様子を探ると次のとおりである。
 この年の秋、魚住景雄が校友会雑誌第142号で個人主義を高唱し、皆寄宿制度を廃止して自由寄宿制度を主張した。それは自由の信仰樹立を唱えたルーテルが、法王に反抗するに至ったようであった。法王庁の僧官が憤慨かつ狼狽したように所謂校風論者が湧き立った。
 同号の論説欄に鶴見は、「余の校風感」と題し、偽個人論者、偽校風論者を排して真摯にして人格ある運動家を以て校風の中心となし雅量に始まって誠実に終るべきを論じ、福井利吉郎は魚住を評して愛校心なき者とし、忠君愛国を校風の宗本と述べ、宮本和吉は更に福井の論を評して個人主義を宣揚した。
 校内の世論いよいよ喧然となり、委員たちは協議して11月10日に全寮茶話会を開催した。
 席上鶴見は「魚住君の主張は感情的分子が多く、結論の前提として引用した材料は、多くその選択を誤まっており、実際に応用する上からは幾つもの欠点がある」と批判した。金井清、大井静雄もまた個人主義を攻撃したので、遂に魚住はその蒲柳の質を以て、35分間火のごとき熱弁を振った。
 客観的見地より両社の主張を観れば、甚しい差異はなく、互いにその真意を了解すれば綽然とするであろうが、今は誤解の途上にあると判断した弁論部委員は、11月25日に校風問題演説会を開催することにした。
 当日倫理講堂を埋めた一高生を前に、劈頭鶴見委員は、開催の趣旨を明かにし、静粛に論じ合って健児の体面を保たれることを希望した。
 山下清、江木定男、水野武太郎、翠川潔、加福均三、大井静雄、左海猪平、阿部次郎、宮崎一、石橋茂、吉村謙一郎、内田孝蔵、丸山鶴吉、安部能成、青木得三、前田多門が登壇したが、要するに個人主義と団体主義の論争であった。
 もとより半日の論議では説の是非を断ずることはできないが、両者の誠意を通じて誤解を融和できたことは確かであった。
 演説会は静粛にして堂々互に信ずるところを述べて大勢の赴くところを示した。
 当時校友会雑誌にあらわれた文芸委員の評に曰く、
「わが一高健児は校の思潮問題に関して演説会を開き以てこの問題の解決を大人君子の態度を以て討議したり。吾人はわが一高健児の真摯を見たり。至誠を見たり。これをわが校の青史に録して永えに誇るべし」
第4章 東京帝大時代へ
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