鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第4章 東京帝大時代

 鶴見は明治39年7月に21歳で東大へ入学し、明治43年に25歳で卒業している。
 鶴見が母校として一番懐かしく思っているのは一高であって、東大には殆んど母校という感じを持っていない。それは1級400人、500人の大集団で、しかも大きい講堂で教授の講義を聴いて、すぐ散会してゆく。あたかも演説会の聴衆のごとき生活の連続であったからである。
 それは純然たる職業教育の場で、文官高等試験を受ける準備に通っていたようなものであった。
 昔の中国で行われた進士の科挙のための勉強が、純粋な真理の探求でなかったため、任官してしまうと勉強しなくなって、中国の文化の発展に貢献するところが無かったのと似ている。
 老年期に至った鶴見は、大学で受ける専門の知識などというものは実に高の知れたもので、その人の職業に多少役に立つ以外は、殆んど無用のものだと言っている。彼は東大で学んだことは何一つとして憶えていないという。
 だが大学時代の4年間に色々なことがあり、鶴見の生涯を決定するようになったこともあった。新渡戸博士の温かい指導を受けたこと、父と弟・良輔が病死したこと、雑誌『雄弁』の創刊に参画したこと、さらに徳富蘆花の『順礼紀行』『寄生木』と読んで強い影響を受けたこと、蘆花の「勝ちの哀しみ」という演説を聴いて大感激したこと、鶴見が「日本海々戦の回顧」「ポーツマス条約の記憶」と題する名演説をしたこと、胃拡張を病んで以後小食になったこと、国家学会雑誌や法学協会雑誌の編輯委員として、400字で1枚50銭(当時の旧制中学卒の日給に相当した)の原稿収入を得たことなどである。

 明治39年7月、21歳の鶴見は、一高英法科(45名)を首席で卒業した。そして直ちに東京帝国大学の法学部政治学科に入学した。信じられないようであるが、当時一高の卒業生は無試験で東大へ入れたのである。

 東大へ入学した年の秋、鶴見は、はじめて新渡戸稲造博士の講話を聴いた。
 鶴見が新渡戸博士を賛仰するようになったのは、中学3、4年の頃からであった。当時購読していたゼ・スチューデントという英文雑誌の巻頭に載る随想文を鶴見は愛読暗唱した。その筆者が新渡戸博士だったのである。新渡戸博士が英文『武士道』で世界を驚倒させた人だと知って、鶴見の畏敬の情はますます深くなっていた。
 鶴見が新渡戸博士を目のあたりに見たのは、明治39年の9月末で、一高の倫理講堂でであった。鶴見が2ヵ月前に卒業した後へ、入れ代りに新渡戸博士が一高の校長に着任したのである。新渡戸博士はこの年45歳で、以後8年間、大正2年まで在職することになる。
 新渡戸新校長は、正面の卓を離れて、演壇の隅から隅まで歩き廻って話した。謹厳な狩野前校長を見慣れていた生徒たちは驚きの眼を見刮った。そして眠いものと相場の定まった倫理講話が講談のように面白かった。さらに世界的な学者というのであるから、どんなに難しいことを言うのかと思って聞いていると、初めから終りまで全部生徒たちに解るのであった。新渡戸博士は着任早々従来の学風を破ってしまったのである。

 新渡戸博士は東大教授を兼任していたが、鶴見は法学部であったので、東大では新渡戸博士の経済史を聴講しただけであったが、鶴見は面会日い一高付近の借家へ行ったり、新渡戸邸を訪れたりして新渡戸博士に接近して行ったのである。そして米国人である新渡戸夫人マリーから英会話を学んだと思われる。
 東大を卒業した鶴見の就職、結婚も新渡戸博士の斡旋、紹介によるものであり、鶴見の最初の洋行も新渡戸博士に随行したものであった。そして後には新渡戸博士とともに太平洋の橋となるべく活躍するようになるのであるが、それは後に記述することとする。

 なお、鶴見が徳富蘆花の「勝ちの哀しみ」という演説を聴いたのも明治39年のことである。
 また、この年に牛込の夏目漱石宅を訪問した。田嶋道治、前田多門、石川鉄雄、黒木三次が同行した。漱石は朝日新聞社に入って、『坑夫』を書いていた。

 鶴見が東大3年生であった明治42年3月1日、一高嚶鳴堂における記念祭茶話会の席上、主に運動部の者で、彼等から見れば、新渡戸博士のいわゆるソシヤリティーは、光栄ある一高の伝統精神を破壊するものであると信ずる若者の鬱屈した思いが爆発した。前年一高を卒業した東大1年生の末広厳太郎(後に法学博士。民法の権威。)は、猛然と新渡戸校長を弾劾した。「諸君、新渡戸校長を信じすぎるな。校長は文部省と一高の間で世間体を取り繕う八方美人主義者であり、我が国の醇風美俗を破壊する女尊男卑を一高に導入する欧化主義者だ。何で立ち上がり抵抗しないのだ」と。
 続いて石本恵吉(加藤シヅエの前夫)が立って叫んだ。「………私は末広君に同感である。校長は自分は教育者の資格がないといいながら、校長の椅子に坐り続ける偽善者だ。校長が一高の伝統に逆らい、来年も記念祭の運動会に婦人席を設けるなら、同志とともにそれを壊してみせる」と。
 この時、東大生の鶴見祐輔、前田多門、金井清、青木得三らは、かわるがわる立って、校長支持の演説をした。
 最後に新渡戸校長が登壇して、1時間にわたって所信を述べると、石井満(後に日本出版協会会長)の『新渡戸稲造伝』によれば、
「……満場闃(ゲキ)として声なく、歔欷感激、先生に対して慊焉たらざるもののあった人までも、心より鑚仰するようになった。石本恵吉の如き、現に熱心なる先生の讃美者となった」
 ということである。

 明治39年10月9日に、父・良憲は小田原の借家で病死した。享年57歳であった。長女敏子と二女千代子は既に他家に嫁いでいたが、父と同居していた弟3人は、離れ離れになって親戚の家に預けられることになった。次弟の良輔は、東大病院に入院していた。妹の静子は、神戸の女学校の寄宿舎に居たのであろうか。一高を卒業して寄宿寮を出た祐輔は、長姉敏子の嫁ぎ先の広田家に寄寓していた。この時のきょうだいの年齢は次のとおりである。
   (二男)祐輔 21歳
  妹(三女)静子 15歳
  弟(四男)良輔 17歳
  弟(五男)定雄 13歳
  弟(六男)良三 12歳
  弟(七男)憲   10歳

 東大1年生の鶴見が、一高の嚶鳴堂で「日本海々戦の回顧」という演説をして大好評を博した明治40年の夏、次弟の良輔が岡山県の笠岡へ転地療養することになった。笠岡には親戚があった。そこは旧家で、鯛の浜焼きを名物としていた。それを季節になるとよく岡山の鶴見の家へ送ってくれた。良輔は親戚の近所の農家の2階の一間を借り、老婆を1人雇って喘息の身の介抱を受けながら、鶴見が東大を卒業して、一戸を構えて迎えに来る日を待つことになったのである。
 鶴見は前田多門(鶴見へ宛てた書簡が433通、国会図書館に保存されている。それが最高であり、次に多いのは池田長康からの書簡290通である。)と一緒に、新橋から汽車に乗って藤沢駅まで20歳の良輔と同行した。良輔の次の弟である17歳の定雄が笠岡まで送って行く。
 汽車が駅頭を離れるとき、良輔は寂しそうに汽車の窓から顔を出して別れを惜しんだ。その時鶴見は、「お金はよく気を付けて使うんだよ」と言った。義兄広田理太郎に扶養されている自分たちとしては、一銭でも倹約しなければ申し訳ないという気持からだった。
 汽車は見る見るうちに遠ざかり、良輔の蒼白い顔は、忽ち見えなくなった。
 それから鶴見は前田多門とともに藤沢駅の改札口を出て、江の島方面に向かって歩いて行った。試験勉強のために鎌倉市星之井にある広田理太郎の別荘に行くのであるが、その時鶴見は涙が止め度なく流れ出て江ノ島電鉄に乗ることができなかったのである。
 まだ人家の少なかった松林つづきの砂道を前田多門と肩を並べて歩いているうち、鶴見はぐっと嗚咽が喉を突き破って迸り出た。鶴見はわっと声をあげて泣いた。涙は止め度なく、彼の頬を伝わって流れた。彼はわんわん泣きながら、松林の間を江の島に向って歩いて行った。人に出会ったかも知れない。しかしそんなことは一切夢中であった。泣き声がどうしても止まらなかったのだ。
 東大の制帽をかぶって、6月末の日射しを満身に浴びながら、大声に泣きつつ、涙にひじて鶴見は歩いて行った。
 それが世間で言う虫の知らせであった。藤沢駅での別れが、愛弟良輔との最後の別れとなったのだった。
 東大病院でかなり回復していた良輔の喘息は、笠岡の暑さで再び悪化した。まったく息の止まるようなひどい喘息であった。そして身辺には誰一人家族は居らず、医療のことを少しも知らない雇い人の老婆が付いているだけであった。
 良輔は病苦に耐え、貧苦に耐え、寂寥孤独の情に耐えつつ、神を讃え、世を祝福し、兄弟友人に感謝しつつ、ひたすら鶴見の卒業の日を待っていた。良輔は東大病院に入院中、前田多門からキリスト教の話を聴いて、段々と信仰の生活に入って行ったのであった。
 そして2年半の後、明治43年1月3日、鶴見が卒業試験の準備で滞在していた鎌倉の義兄の別荘に、池田長康から良輔危篤の電報が届いた。
 1月4日の夜、笠岡に着いた鶴見に、親戚の青年坂本栄一が良輔がその日の暁方に死んだことを告げた。午前4時に神戸の学校から駈けつけた妹の静子は、辛うじて臨終に間に合った。享年22歳(数え年)である。
 1月5日の夜、鶴見は親戚の青年と2人だけで良輔の遺骸を近所の火葬場へ運んだ。遺骸を安置して、鶴見が薪に点火した。良輔は最愛の兄の手で、荼毘に付されることに満足しているだろうと思いながら火をつけた。
 鶴見の頭の中を、ある感情が、暴風雨のごとく、急湍のごとく、野火のごとく、疾病のごとく、雷電のごとく荒れ狂った。
 鶴見が13歳の時、兄が早逝したときは、父が大会社の専務だったので大勢の会葬者が来た。次に母が死んだ時は、父は小さい事業に関係していたので、その会葬者は遥かに少なかった。しかし百何十人かの人が来た。その次に父が零落の底で死んだ時は、兄弟と東京の姉と、そして近所の人数人で見送った。しかるに今、愛弟良輔の地上を去らんとするや、ただ兄1人が、彼の遺骸を、寂しい山の中の火葬場に送って来たのだ。
 痛憤、骨に徹した。この4つの葬式の中に、鶴見は人間の心の底を窺き見た。
「何故、神さまは、もう半年、この信仰篤い弟を地上に止めて、せめて私が家を持って迎え取るまで生かしておいて下さらなかったのか。弟に何の罪があります。このように純潔に、このように犠牲的に、そしてこのように人生を感謝しつつ、私の卒業を待っていた弟を、なぜもう半年、生かしておいて下さらなかったのです!」
 鶴見は激しい憤りの奔騰するのを、如何ともすることができなかった。燃えさかる火焔を見ながら、憤り心魂に徹した。
 鶴見が愛弟の遺骨を抱いて東京に帰った時、後に著名な宗教家となった藤井武の
「鶴見君、惜しいことをしましたね。良輔さんは、あなたより偉い人であった。良輔さんこそは、あなたを宗教的に導く人であったのにねえ」という言葉が傷心の鶴見を深く慰めたのであった。

 後年鶴見は『弟』と題する小説を書いた。その小説の筋は良輔の生涯とは何の関係もないが、この一巻の物語は、夙く世を去った敬虔なる弟に対する手向け草である。鶴見はその序文に記して曰く、「人間地上の生、永しと雖、百歳を越ゆるなし。正にこれ、はじめ無き過去と、終りなき未来との間の一瞬時である。果して然らば、その百歳たると、二十二歳たると、長短何ぞ甚しく異るといわんや。要は如何にして、美しくこの再来の期なき一瞬時を送るやにありて存する。斯くのごとく観じ来れば、神を頌えて地を去りし良輔の一生は、敢て徒爾なりということを得ない。これが兄としての私の、大いなる慰藉である」

 鶴見は東大在学中の4年間に、父と弟を喪ったが、その大きな不幸によく耐えて猛勉強を続けた。大学生になってから剣道はやらなくなったようであるが、勉学の余暇に演説の稽古に励んで、東都学生界の雄弁家として知られるようになった。中でも有名な演説は、大学1年の時に、一高の嚶鳴堂で行った「日本海々戦の回顧」と大学4年の時に東大法学部33番教室で行った「ポーツマス条約の記憶」である。後者は大日本雄弁会の『青年雄弁集』に収録されて、昭和の代まで刊行された。
 大学4年の時に一高の嚶鳴堂で、「有名無名の死」と題する演説も行っているが、その翌年に刊行された雑誌『雄弁』の創刊号の「談論界消息」に次のような記事が見られる。
「……学生雄弁界の重填鶴見君亦東西古今政治家宗教家等の死を叙して伊公(伊藤博文)に及び政治家の本領を論じ、多大の感動を聴衆に与えぬ……」
 鶴見が「ポーツマス条約の記憶」という演説をした時、当時法学部の事務員だった野間清治は、弁士たちの演説を集めて、演説に関する雑誌を出版することを思いついた。
 その翌43年2月に野間が創立した大日本雄弁会によって編輯された『雄弁』の創刊号が、大日本図書株式会社から発行された。
 だが当時は桂内閣の官僚政治の全盛時代で、ジャーナリズムの社会的価値は低かった。そういう社会的雰囲気の中で雑誌を出したということは、かなり向う見ずであった。
 ところが創刊号は大成功であった。3版まで刷るという勢いで、鶴見が用事があって事務室へ行くと、野間は、
「鶴見さん、3版が出ました。まるで夢のようです。まるで夢のようです」
 と眼をうるませて、飛び上らんばかりに喜んでいた。
 3月に出た第3号もやはり3版まで行った。その当時の野間の喜びようと言ったらなかった。なんでも一人芸であるから、うれしさと忙しさとで、あまり眠れなかったろうと思われる。
 ところが野間は原稿の不足に弱り抜いていた。鶴見も大分依頼を受けた。当時鶴見は週刊ロンドンタイムスを購読していたので、それを種にして原稿を作った。鶴見が野間に拝み倒されて、放課後大学の食堂で、鶴見がロンドンタイムスから英国の野党党主バルフォアーの演説を訳出すると、野間がそれを筆記して原稿を作るという具合であった。
 野間は『雄弁』発刊の翌年東大の事務員を辞めて出版業に専念するようになったが、創刊時代より創刊後の3、4年目が大日本雄弁会の一番苦しい時であった。だが鶴見の「『雄弁』創刊当時の思い出」を載せた『中道を歩む心』が出版された昭和2年には野間清治は雑誌界の「キング」になっていた。
 これが現在の講談社の草創物語である。明治42年に大日本雄弁会として発足し、大正14年に大日本雄弁会講談社と合称し、昭和33年に講談社と削名した。

 なお、鶴見は勉強と演説の練習以外にも、多少の余裕があった。
 大学2年の時に、神田の古本屋で、絵入りのウォーズウォースの詩集を買った。
 大学3年の夏、一高校長の新渡戸夫妻に従い、はじめて軽井沢に赴いて休暇を過ごした。鶴見は以後外国旅行の年を除いて、毎年夏を軽井沢で送るようになる。この夏、セーヤーのリンカン伝にひどく感激した。そしてユーゴ―の『レ・ミゼラブル』を英語で読んで、眠れないほど感動した。
 また、毎週友人と柏木にある内村鑑三の家へ通って、キリスト教の話を聴聞している。
 大学3年の秋、胃拡張に罹ってしばらく苦しんだ。青少年期の鶴見は大食であったが、それ以後食事の分量を一定して胃拡張を癒した。そしてこれを機会に食事は少食とし、決して間食をしないことにした。ただし、時々大食をするという例外を設けておいた。それは宴会とか親しい友人との会合などの場合には、自由に腹一杯食べるということである。
 大学4年の秋は、4年生の試験、卒業試験、文官高等試験(文官任用令、高等試験令では、普通試験、高等試験と称しているので、文官高等試験と呼ぶのが正しいようであるが、世間では高等文官試験とも呼び、「高文」という略称が一般化されている。)を控えて鶴見は猛勉強しており、鎌倉の広田家の別荘を使わせてもらっている。
(なお、当時の東京帝大は、7月が入学と卒業の月であった。従って7月から翌年6月までが1学年となる。)
第2編 職歴 第1章 鉄道官僚時代へ
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