鶴見祐輔伝 石塚義夫

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 第1編 学歴

  序章


 16歳の河合栄治郎は紅頬を寒風になぶらせて本郷の街を歩いていた。彼は一高の嚶鳴堂で聴いた東大生鶴見祐輔の「日本海々戦の回顧」という演説に深い感動を覚えたのである。
「鶴見祐輔君をご紹介いたします」という司会者の声に応じて、新しい東大の制服を着た鶴見が演壇に立つとドッと潮のごとき拍手が起こった。拍手とともに一高生の間から喝采が湧いた。初めて大学の金釦服を着てきた先輩を半ば祝賀し半ば揶揄するのだ。「あれが去年一高を首席で卒業した鶴見さんだよ」という声が後の席から聞こえた。
「諸君、現今は誠に忙しい世の中であります。大戦争の後を受けたる全天下の財政経済界は、誠に凄まじい勢いで発展いたして参りました。到る所企業である。新事業である。海を越えたる北隣の地には、二億の新会社が新しく起って、天下の秀俊が雲の如く集まっております。内地外地山河僻○(※にんべんに“耳”)にも株式募集のない処は無い。噂は伝えられる。曰く、功名心に富んだ一壮年は、一夜にして百万金を積んで、一昨日の窮措大、一躍して新帝国の大紳士となりすまし、東都の経済界を馬の蹄にかけて散々に蹴散らしてすぎしと。更にまた言う。関西の或る会社の応募株一万二千倍に達した。正に東西を通じて、未聞の壮事であると。天下響きの物に応ずる如く立って、猫もひゃくしも一獲万金の夢を追う世の中となりました。すさまじい世の中である。金井博士の言を借りれば、水なき川に水力電気会社起り、石炭のなき山に鑿鉱会社(※原文では“鑿”の左上部分が“幣”の左上部分と同じ)起る世の中であります」
 明治38年9月、日露戦争が勝利に終ると、日本全国に大好況時代が出現して、株式は暴落し、新設会社が全国に氾濫し、にわか分限者が簇出した。世にこれを呼んで成金といった。
「而して、又一方に於ては、二年異邦遠域の地に戎衣を湿した幾多の武人は、今や論功行賞を終って、勲功を飾るきらびやかなる勲章を胸にして、右も大勲位、左も功一級、誠に燦然(※原文では“燦”の右上部分が“舛”)たる世の中になりました。満天下の人々は、足を空に、心を宙に、奔せまわって居る。
 朝から晩までザワザワソワソワ、お祭の前夜のような、賑やか気の落ちつかぬ世の中となりました。
 この時に当たり、頭を回らして、二年前の日本海々戦当時の様を憶いますと、杳として誠に隔世の感に堪えません」
 まさに「栄華の巷低く見て」の気概である。
「今、高等学校の三年級においでの諸君は、必ず記憶せらるることであると思う。明治三十八年五月二十八日の夜の光景であります。暗い夏の初めの夜でありました。八時頃私は五、六人の友人と東寮の自習室に居った。突然、何とも言えぬ鋭い歓声が闇を劈いて起ったのであります。けたたましい音をさして廊下を走せちがう音がする。ワーッ、ワーッ。そしてただ全寮忽ち上を下への大騒ぎであります。バタバタワーッ、ワーッと実に名状すべからざる叫喚である。私どもは室の中でただボンヤリして居ると、忽ちガタンと戸をあけはなして同室の新井君が転げ込むようにして這入って来た。真青になって、大勝利!敵艦七隻撃沈!と叫んだ。諸君、私は今もその当時の光景を忘れることが出来ません。全身の血が実に頭へ一度にサッと上るように感じた。万歳と室中の者は夢中になって叫んだのであります。ソレと言うので一目散に掲示場へ行って見ると、墨黒々と“朝鮮海峡に於いて二十七日より大海戦あり、敵艦ナワリシ、クンヤズスワロフ、七隻の敵艦を撃沈す。我に一艦の損失もなし。三隻の敵艦を捕獲せり。我艦隊はなお残艦を追迫しつつあり”と記してありました。掲示場の前に未だ真黒に人がたかっていて、ただワーッ、ワーッと雪崩をうって叫喚しているのであります。私は覚えず蒼然として涙が下った。Jnstinctirely“これ実に大和民族の自覚の声である”と思いました」
 この感激は2年間鶴見の心の中で醗酵していたのだ。
「翌日号外が出た。満天下の子女は、狂える如くにして、この三千年の歴史に於いて、最高潮なる一事件を慶賀したのでありました。
 諸君、五千万の同胞が、Baltic艦隊の向背について抱いたる杞憂、流したる汗、ひそめたる眉は、いかばかりでありましたか。最も花やかなる見送りと悲壮なるサールの告別の演説との裏に、かのBaltic艦隊がKlonstadt(クロンシタット)の港を出でて以来、鷲の旗北海の暴風になびかせて、南へ南へと進める折、ビスケー湾の波を蹴って更に南へ南へと進める折、半ばはアフリカの南岸を迂廻し、半ばは紅海の烈日をくぐってマダガスカルの峰蔭に入った折々、一日として日本国民の心臓の鼓動しなかった時がありますか」
 満堂寂として声なし。
「マダガスカルの滞在は実に永かった。それはちょうど今時分でありました。旅順の堅塞は遂に陥ったが、朔北の野になおクロバトキン将軍がなお新鋭の大軍五十万を擁して、一分の隙を覗っている。内に財政は決して豊富ではない。外は列国の形勢決して安心はできない。
 而してその時、ロシア海軍の精華を尽くしたBaltic艦隊に、スラヴ帝国の光栄と運命とをのせて、煙を収めてマダガスカルの峰蔭に静かに極東の風雲を窺っているではないか」
 鶴見の澄んだよく透る声が堂の隅々まで徹する。
「われら、忠勇なる海軍将卒に信頼せざるにあらず。われら東郷対象の神算に信頼する薄きにあらず。われら真にわが陛下の御稜威を仰ぎ奉ること決して篤からざるにあらず。しかしながら、なおわれらが手に汗して、このBaltic艦隊の向背を焦慮して居ったのは、何であるか。これ真に邦家存亡の懸る処であったからではないか。この一戦もし敗るるあうむか、五千万の同胞は異域に窮窘し、三千年の歴史の光彩は地に塗れるからではないか」
 銀鈴を振るがごときその音吐は、快き音楽のごとく広き会場に響き渡る。
「諸君、これは実に大なる事件でありました。日本の隅から隅まで固唾をのんで、結果如何と胸をとどろかして居ったのであります。
 元寇の事件は邦家存亡の大事変であったでありましょう。しかし、国民的神経は今日のように鋭敏ではなかった。憂慮したのは比較的少数でありました。しかしBaltic艦隊来航に際して上下五千万同じ心臓をとどろかしたのであります。而してその結果はどうであったか。
 空前の大勝利ではないか。
 Waterlooの戦場に於いて、かの天下を蹂躙したる大ナポレオンの振りかざす指揮力の下に、蹄をそろえて潮の如く寄せ来た時、二里の全線に亘って一人の英兵の色めく者がなかったのは、これ実に英国々民の誇りではないか」
 聴衆は魅せられたように固唾を嚥んで、傾聴する。
「或る人は旅順の包囲軍から帰り来て叫んだ。日本の勝利は科学の勝利である。愛国心の勝利ではない。小学校教育の勝利でも何でもない。ただ器械と火薬の勝利であると叫んだ。
 しかし、私はそうは思わない。如何なる文明の国に於いても、国家の光栄を齎らすものは、技術や科学ではない。民族のために身をなげうつ、献身犠牲の精神である。
 日本海々戦の尊貴はここにあると思う。これは国民の義憤の勝利である。愛国者の血涙の勝利である」
 拍手がどっと怒涛のように崩れた。
「而して、この上下ともに歓喜したこの一時の激情は果して如何の結果を齎らしたでありましょうか。私は思う。この大海戦の一期を画して、わが民族の発展は、一大飛躍をなしたのであります。
 弁士は更に一歩進んで、如何なる大戦争に於きましても前駆者たる愛国者あり、後継者たる愛国者あることを想起するを禁じ得ないのであります。
 私は思う。日本海々戦に於ても、これに前行した有名無名の愛国者がなければならぬ。また、これに後続する有名無名の愛国者が出なければならぬと。
 明治維新の時、如何に国士の血がわが民族の利福のために濺がれたか。吉田松陰は刑場の露と消えた。大久保甲東の血は凶刃のために濺がれた。南洲の悲憤は幾度か邦家のために危険を辞せしめなかったか。坂本龍馬然り。木戸孝允然り。また更に馬場辰猪然り。日本海々戦は決して先行者に乏しくないのであります」
 同感を表す拍手が急霰のように鳴り渡った。
「然らば即ち後継者はどうであるか。即ちこの日本海々戦の後をうけて、この使命を完成すべきrising generationたる我々は、果してこれに対して充分なる用意があるか。諸君、現今のrising generation中に流るる傾向は、果してこの目的にそうものであるか。現代の青年の思想は、果して愛国的であるか、国家的であるか。私はそうでないと思う。愛国とか国家的思想とか申すものは浅薄である、野心家である、経世的であるとして、却けられんとするの傾向があると思う。
 私は信ずる。これは断じて誤っている。愛国的思想、国家的思想は、最も真面目な最も高尚なる誇るべき思想であると思う」
 どーっ!と暴風雨のような拍手が起った。
「現今往々にして個人の修養、自家の造詣と国家的思想とが両立せざるものなるかの如く考えて、国家的な愛国的な思想を有することは、これ即ち個人の修養を怠り、自家の啓蒙を閑却することのためであると考えられているようである。
 私は信ずる。真正の愛国、真正の国家的思想は、実に最も真面目なる個人的修養から来なければならぬと思う。最も真面目に自個一身の徳を研き、最も正真に自家を啓蒙したる上に於いて、この自我をあげて尽く我より以外の大なる目的のために捧げんとする犠牲の精神が即ち愛国心である。
 而してこの愛国忠誠の精神が、日本民族の精華なのであります。三千年のわが歴史から愛国者と忠臣との記事を引き去ったならばあます処は何者であるか。忠君愛国精神三千年の歴史あるわが民族の特徴であって、われらは知らず知らずこれを遺伝しているのであります。今この遺伝にそむき真理にもとり、非国家的思想を包懐して独り自ら高しとして果して何になるか」
 この演説を鶴見は1年間頭の中で練っていたのである。
「ああ諸君、さきに愛国者の血は幾度となく濺れた。日本海の海戦はかくも花々しく戦われた。日本国民は狂踏乱舞して歓喜した。興国の気運は今や洋々として迫っている。歴史は既にJampした。Rubiconは既に渡られた。進んで立ってこの大なる民族の使命を果そうではありませんか。西周する文明は六千年を消して地球を一周し最東の土地なる日本に周って来た。日本は更に之をうけて西方の大国を啓蒙しなければならぬ。また、北方のロシヤを撃破したる日本は、更にこの文明を南に伝えるべきである。世界は広大である。日本の前途は遠い。来るべき日本の後継者なる諸君、進んでわが民族の使命のために五十年の生涯を捧げようではありませんか」
 満面に朱を注いだ鶴見が演説を了えて一礼すると、万雷の拍手と喝采が嚶鳴堂を揺るがした。ついで感激した聴衆は一斉に立ちあがり、両手をあげて万歳万歳と叫びつづけた。
 それは一代の雄弁家鶴見祐輔が、生涯の自信作として回顧する演説であった。
 少年河合栄治郎は決心した。一高に入学すればこんなすばらしい人の話が聞けるのか。どんなことをしても一高に入ろうと。後に自由主義者として勇敢にファッシズムと闘い、東大教授を追われた河合栄治郎の若き日の姿である。

 明治40年2月23日、一高の嚶鳴堂における第2回都下各学校連合演説大会で、東大を代表して行った演説「日本海々戦の回顧」は、昭和2年にニューヨークで行ったウイルソン誕生記念会の英語演説とともに鶴見の演説の中で最も聴衆を感動させた演説であった。
 この演説の後で彼は記している。
「この演説は大分準備した。この原稿よりよほど進んだ内容をしゃべった積りだ。
 結果は!実に意外だった。全く予想外であった。一句一句悉く喝采を以て迎えられた。実にやりながら、やり甲斐があると心勇んだ。
 後できくと誠に演壇で思ったよりなお意外で、聞いて泣いた人が大分あったそうだ。学外の人はどうでもいいが、自分の心友は心から泣いて喜んでくれた。
 口で文で諸方から賞賛の言葉を贈られた。大分得意だ。けれど満心(※原文のまま)すると大変だ。
 然しともかくもこれで多少自分の演説に対し自信を生じた。友人の眼に於いてもその技術を前より認められた。これはこの演説の収穫の一つである。
 けれどモットそれより大きい収穫はこの演説は在来のアートや熱情だけの成功とちがって、多少自分のIndidualityの成功であったことの一事、即ち自分がこれでも多少修養が出来そうな見込みがあると言うことが明かになったと言う一事だ。これは実にうれしい」
 興奮していたとみえて、慢心「慢」を「満」と誤記している。
 ここに紹介した演説の一部は、国会図書館所蔵の演説原稿に依った。
 山本梅治編『鶴見祐輔先生百年史』には、速記全文が大正時代に大日本雄弁会から発行された『青年雄弁集』に収録されていると書いてあるが、同書に収録されているのは、「ポーツマス条約の記憶」である。

 この演説について、一高自治寮の歴史を記録した『向陵誌』に次のごとき記述が見られる。
「第二回連合大会は二月二十三日高師、高商、高工、外語、慶応、早稲田の六校に本校の藤井武氏(亡びざる国民)、大井静雄氏(尊徳翁を懐う)、大学の川越丈雄氏(桑港事件と国民の膨張)、鶴見祐輔氏(日本海々戦の回顧)を加えて十名、就中鶴見氏は如何なる大戦にも之に先って斃れし愛国者あり、之に続いて立ちし愛国者あり、我国に於ても日本海々戦に先って松陰あり甲東あり、又馬場辰猪あり、此戦の後継者は吾人現代の青年にあらずや、愛国心とは政治家のひろぐる大風呂敷にあらず、自己の修養向上を励みてこの修養せられたる自己を更に大なる目的に捧げんとする献身の至情なり云々と論じ部報子をして“君の論を聞いて立たざる者は大和民族にあらざるなり、君の弁を聞いて動かざる者は神州男児にあらざる也”を三嘆せしめる。(駒場編115頁)」
第1章 幼少時代へ
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