鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第2章 講演者

   第1節 北米遊説


 大正13年(39歳)
 鶴見は1月4日に退官の意を上司に申し出た。
 2月8日に鶴見は鉄道監察官兼任の辞令を受けた。従五位勲六等。叙高等官二等。
 先輩の種田乕雄が同年鉄道省運輸局長となり、高等官二等に叙されているところを見ると、鶴見は短時日ながら局長級の処遇を受けたことになる。引退の花道であろう。
 なお、鉄道監察官はこの年で廃止になった。(因みに鶴見が高等官一等になったのは、昭和15年、内務政務次官に就任した時である)
 2月9日に鶴見は休職を仰せ付けられた。この直後依願免官となったものと思われる。
 この年、佐藤栄作が東大を出て鉄道省へ入省した。

 2月3日にウイルソンが死んだ。68歳であった。
 2月8日鶴見は東大で「ウイルソンの生涯を憶う」と題して講演をした。

 2月から3月にかけて、時事新報に「断想」27章を連載した。これはウイルソンとモーレー卿と英国労働党とを論じて、この英米両国の政界の基調を為せる自由主義の精神を述べたものである。その全文は、大正13年12月に大日本雄弁会から刊行された『思想・山水・人物』に収録されている。

 改造3月号に「ウイルソン逝く」を寄稿した。

 4月21日、十五新聞社が移民問題で反対声明を行った。

 5月10日、岡山県第七区(真庭郡・久米郡)から、新自由主義を標榜して、衆院議員に立候補して落選した。事務長は菱川忠義である。
   当選4816票 湛増庸一(中立新)
   次点3658票 鶴見祐輔(中立新)
 当選した湛増庸一は、その後検挙されたので、大正14年12月に補選が行われることになったが、鶴見は「当年の政敵は、奇禍を買って、囹圄の人となっている。この不幸につけ入って、選挙場裡に立つのは、甚だ男らしくない。自分は何と言われてもお断りいたします」と言って出馬しなかった。後の世で言われる「勝手連」が、本人の承諾もなしに選挙運動をしたのである。結果は216票の差で落選した。このことが深く鶴見を感激させた。
 因みに昭和34年の参院岩手地方区の選挙の時も、鶴見は次点で落選したが、当選した谷村貞治派の運動員が大量に検挙されている。
 なお、岡山県真庭郡は、後に鶴見が小説「死よりも強し」(戦後「師」と改題)でこの土地に哲人学園を登場させている。

 5月15日、アメリカ上下院を排日移民法通過。

 6月末。ウイリアムス・タウンの政治学協会から召電が届いた。

 ウイリアムス・タウンの政治学協会では、ウイリアムス大学総長ハリー・ガーフィールド博士(第20代米国大統領ジェームス・ガーフィールドの第二子)が、1921年以来大学の夏季休暇を利用して、毎年1ヵ月この地に国際政治学協会を開催して、学生の指導者たる大学教授、世論の作成者たる政治家、実業家、新聞記者を集めて外国の知名の政治家と学者に講演させるのである。
 第4年目の1924年は、5月に排日移民法が上下両院を通過したため、日本の国論が暴風雨のごとく奔騰した。ガーフィールド総長は、ウイリアムス・タウンで連年試みた国際協調の運動が、議会の盲動で払拭されようとすることを傷心した。総長は「日本からこの夏講演者を呼ばなければならない」と決心した。そして前駐日大使モリスに相談した。モリスは鶴見を呼べと言った。
 ウイリアムス・タウンの政治学協会から案内の電報を受け取った時、鶴見はまったく面喰った。生まれてから英語で演説らしい演説などしたことのない身空で、そんな舞台に出られた仕儀ではない。おまけにその時は、岡山県で衆院選を争って敗れ帰京した直後で、演説ぐらい無意味なものはないと痛感していた矢先なので、この上米国まで出かけて恥の上塗りでもあるまいと思った。日本の民衆の前ですら三文の価値もない自分の演説が、米国で何のためになるものかという自ら愍れむような皮肉な感じもあった。
 それやこれやで、返事をせずに置くと、矢のような催促の電報がくる。鶴見はウイリアムス・タウンの会合について調べ、思案の末に腰を上げたのであった。
 出国に当たって与謝野晶子より「勃初より造り営む殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」ほか二首を餞けに贈られた。

 8月1日、シャトルに上陸

 8月初旬。ビーアド博士一家に案内されて、コネチカット州のニュー・ミルフォードの町のウエスターン・ヴュー・ファームという農園風の宿屋で1週間を過ごした。そこで流行作家のウイリアム・ウッドウオードと出会った。(『中道』169頁以下)

 8月11日。ジョンソン博士の出迎えを受けて、ウイリアムス・タウンの宿舎D・K・U館へ入る。ここに1ヵ月滞在することになる。
 この日、ウイリアムス大学総長ガーフィールド邸で、午後のお茶と晩餐に招待された。
 この時鶴見は自分の少年時代を思い起こしてまったく不思議な気がした。彼は15歳の時、ガーフィールド総長の父の伝記を読んで、ガーフィールドという貧家の児が、刻苦精励して大統領になったということにひどく頭を刺戟された。人間は勉強しなければ駄目だと痛切に感じたのである。
 それから24年後に、自分の発奮の動機になった偉人の令息とこうして親しく交際する日が来ようとは、まったく夢にも思わなかったからである。(『成城』5巻27頁)

 夜、チエピン・ホールで、ドイツ経済学者ボン博士のドイツ社会主義運動の話を聴く。

 8月12日、朝、食堂で英国労働党の学者トーネーと3年ぶりに再会した。
 午後8時15分よりチエピン・ホールで、鶴見の第1回の講演が行われた。初めての英語演説である。チエピン・ホールは八部の入りであった。第1講は旧勢力と題して、太平洋上の船中で書いた原稿を朗読するのである。原稿を読むのだから、大して出来、不出来のありよう道理はない筈だとは思っても、控室に腰を下して待っている時はいやな気持であった。とにかくこれが英語演説の初陣である。しかも聴衆は全米国の選りぬきである。問題は日米間の論点たる移民法である。まずくゆくよりはうまくやりたい。いや考えまい。今になってそんなことを考えたって駄目だ。平気でこの原稿を読んで、降壇すればいいのだ。解ろうが解るまいが聴衆の勝手だ……。
 間の扉があいたと思うと、「どうぞ、こちらへ」というガーフィールド総長の声が聞えた。その次の瞬間には、「総長、淑女並びに紳士諸君」と鶴見は聴衆と原稿とを半々に眺めながら講演を始めた。
 鶴見の作戦は、どうせ外国人の英語であるから、解りにくいに定まっている。ただ声を大きく、ゆっくり言えば、解る人には解るに違いないと定めていた。
 いま一つ鶴見の決めていたことは、思い切った露骨な事を言うということであった。「日本人は本心を打ち開けない国民である」という従来の固定観念の逆を行って、思いきり露骨に本心をぶちまけていく。そのために、聴衆が憤ろうと、新聞が非難しようとかまわない。政府の代表者でもなく、銀行、会社、新聞社等に、何の関係もない自由人たる自分である。非難されても、自分だけのことで済む。すでに排日移民法で、全日本が憤激している今日、怒っているということを、あけすけ言わなくては嘘である。そう決心して鶴見は原稿を作った。そして劈頭に彼は喝破した。
「私はここに、真理表明の痛切なる責任を感ずるが故に、明白に、端的に諸君の前に断言する。本年五月米国上下両院を通過し、大統領の裁可によりて実施せられたる米国移民法は、日本否全世界にとって重大(グレーヴ)なる結果(コンセクエンセス)を齎らしたものである。否将来における影響は、更に重大であろう。この点私はわが埴原大使の言葉を繰りかえすのみならず、更に一層語を強うしてこれを断言する」
 この第1回の講演に、グレーヴ・コンセクエンセスという字を使ったことが、翌日の新聞の大問題になった。

 翌日のニューヨーク・タイムスが、長い社説を書いて、鶴見の所論を批評した。ボストンの新聞もシカゴの新聞も、カリフォルニアの新聞も、二欄ぬきの大きな記事を出した。
 これは「重大なる結果」という禁物をわざと使った“やま”が当たったのである。友人の米国人の注意で、千人の聴衆に聴かすのが目的ではない。全米国の新聞に載ることが目的である。故に新聞記事になるような“やま”がなくてはいけない。その“やま”は、戦争という字と重大なる結果という句である。とあったので、なるほどと思ったから、鶴見はこの2つの文字を講演の第1章の、しかも劈頭に織り込んだのである。そして思いきり強烈な表現法を取った。
「私の諒解するところによれば、本協会の精神は、平和と国際友情の精神であると申すことである。戦争はそれ自身において善事なりとのトライチケの説に同感せらるる方は殆どあるまいと思う。諸君の多数は、戦争をもって文明に対する脅威なりと観じ、もし欧州大戦のごとき戦役が、いま両三回勃発するにおいては、人類社会のあらゆる組織は挙げて一空に帰すべしと信ぜらるることと思う。故に吾人の前に横たわる最大問題の一は、戦争の防止なりと信ぜらるることと思う。しからば、吾人は果して如何にしてその目的を達せらんとするか。
 すでに戦争は文明に対する脅威なりとの原理を提示したるが故に、私はわが目に映ずる真理を真理として、声言する厳粛なる義務を痛感するにより、進んで次のごとき断言をなさんと欲する。即ち米国今次の移民法は、日本にとりて『重大なる結果』たるのみならず、全世界に対してもまた『重大なる結果』たらんとするということである。これ私一個の私見にあらずして、真理そのものである。これを聞いて憤るの愚は、暴風雨を憤り、地震を憤るの愚と選ばない。これ決して脅威を意味せず。またこれ日本における識者が、移民法の結果、米国との開戦を夢むというがごときことを意味するにあらず。余の『重大なる結果』というの意は、この米国移民法の成立は、日本の国策変遷上、日本の保守的勢力と自由的勢力との闘争上、日本国民心理の変化上、しかして、太平洋上および終局には全世界上の国際政治演劇の展開上に、一新紀元を画すとの謂である」
 それより進んで鶴見は、安政開国以来70年の日本外交史を論じて、日本が維新当初、五箇条の御誓文を発して、自由進取の内政を布かんとせるに、何故に漸次、保守反動の官僚政治に硬化して、強力的大陸政策に転向したるやと問い、これ欧米諸国の侵略政策がアジア大陸に向い来りたるため、日本が自衛的に、内国の自由政策を後にして、対外的強力政策に向わざるを得ざりしなりと答えた。そして日本に対外硬のアジア政策を教えたる者は2人の米国人であると言って、外務省顧問ル・ジャンドルの建言と、グランド将軍のお浜離宮の謁見とを引用した。
 日本に、朝鮮、台湾領有を献策し、初めて大陸政策の樹立を切言した者が、米国人ル・ジャンドルであったことは、出発前中村勝磨博士に聞いたのであるが、この材料は頗る米国人の興味をひいた。日本の対支対鮮政策を攻撃した米国人にとっては、頗る意外な初耳であったに違いない。

 第1回の講演の翌日から、鶴見は食堂で自分の席で食事をすることのないような流行児になった。あちらこちらからの招待で忙しかった。色々の手紙やら訪客やらが来だした。しかし彼は油断しなかった。まだあと3回公演がある。第1回の出し物には「重大なる結果」という際物があった。しかし、第2講は「自由主義勢力の台頭」と題する内政論、第三講は「労働問題と農民問題」、第四講が「排民法論」である。ニ講と三講に聴衆が集まってくれるだろうか。外国から講演者の来るときは、第1回はいつも大入である。顔を見ようとの好奇心からである。しかし、2回3回と次第に減っておしまいには、14、5人になるという。それで世話係が苦心して、駆り出し、頼み出しをするのであるという。そこで第2講を見るまでは、うかと油断はできないと腹帯をしめていた。
 1週間後に第2講の8月19日が来た。鶴見が控え室で待っている時、第1回の折より気が張って胸騒ぎがした。足が抜けるように感じた。第1回がかなりに済んだので、もっとうまくやりたいという“あて”気が出だしたのである。こんなことではならないといくら思いかえしても、やはり足が重い。気が沈む。
 時間が来た、鶴見は闥を排して講壇に登った。そして場内を見て思わずあっというところであった。それは非常な人出であった。広いホールが上も下も満員であった。「重大なる結果」がこの人出を呼んだのだ。
 鶴見は原稿を読むのをやめていきなり冗談を言ってみた。それが講堂を揺り動かすような笑声と拍手とで酬いられた。彼は聴衆を捉えたということを意識した。今夜の講演は先回よりもひどい西洋文明罵倒論である。しかし、これなら大丈夫だと思った。そこで鶴見は真一文字に突貫した。
 王政維新以来の日本内政の変化を論じて、何故に明治初年の民権運動が蹉跌したかを説いて、現代日本の新しい民主主義運動の台頭に及んだ。それは明治初年の民権運動が、民衆の要求にもとづかないで、武士階級間の争闘に過ぎなかったことに比し、最近起った日本の民主主義運動は新興階級の自発的要求であったからであるとなし、この民主主義運動が偏狭な国家主義の思想と戦って、国際協調的平和運動を継続しつつあった時、突如として起った理不尽な排日移民法が、日本内地の国際協調主義者と自由主義者に一大打撃を与え、反動主義者に口実を与える結果となったため、日本国内の政治的潮流を逆転させようとする勢いを馴致したと説いた。そして進んで鶴見は、そのため日本人が白色人種の文化の根本義に疑いを抱き、四海同胞の大義は西洋文化中に存せずして、東洋文化中にあるのではないか。それならば従来の日本の欧化政策は誤りではなかったか。日本人の真に往くべき途は、東洋文化への復帰ではないのかとの強烈な情操が、日本国民の脳裡に醗酵しつつあることを論じた。そしてローマがタイバー河畔の一小村落に過ぎなかった時、支那は既に燦然たる文化を有し、ロンドンがテームス河岸の土屋の堆積に過ぎなかった日、奈良は既に咲く花の匂うがごとく盛りなりしことを叙して、東洋文化の神聖を謳った。その時である。鶴見が聴衆のうちにある激しい強い力を感じ出したのは。
 鶴見は東洋文明の偉大を論じているうちに、ある激しい感じの電気のごとく自分の全身を流れることを感じた。息のつまるような感激を覚えながら、奈良の旧都の雄大を未開地なりし当時のロンドンに比矜して誇矜した。そして言った。
「かかる古くして偉大なる文明を有する支那国民と日本国民とが蒸汽機械と代議員制度とに、新しき望みをかけたのがそもそも誤りであったのかもしれない。否彼等が機械と試験管とは、戦争、革命、破壊、国家倒壊、文明絶滅、それ等一切の災禍を防止するに足るべしと信じたのは明白に誤りであった。彼等はここに新しき探索の途に上らなければならない。そしてその止むところなき探求の途上において、再び彼等自身に立ち帰り、その心霊の本殿を探検し、以て過去の光栄によって生ぜる大道によって、真の勝利に味到する一路を発見しなければならぬ。いま潮はひしひしと寄せたり。深くして力ある潮は満ちぬ。東洋語を知らずして如何にしてか、かかる神秘の大潮の意(こころ)を索(たず)ぬることを得べき。いかでか、その潮の行手を測ることを得べき」
 終って鶴見は黙って一礼して、演壇の後の闥を排して控室に帰った。すると水を打ったような大きい堂の中に、思い出したような拍手がドッと嵐のように起った。30秒、1分、2分、いつまでも拍手が続いた。鶴見は黙って、眼をつむって、椅子に腰をかけていた。
「失礼します」
 はっと、開けた鶴見の眼に、白い絹の衣裳をつけたすらりとした女の姿が映った。つかつかと彼女が彼に近づいて、黙って鶴見の手を握って、
「木曜日の晩7時、私のホテルに晩餐に来てください。名前はミス・ハムフリー」
 返事をする間もなく、その姿は扉を越して、夕闇のうちに消えた。
 鶴見は暫くして、夕闇の中に出た。戸外には大勢の人が彼を待っていた。方々から握手の雨。すると今度は黒い衣を着た背の高い女性がつと進み寄って、
「私は遠いオクラハマの町から来た女でございます。今夜のあなたの演説を聞いて泣きました。ご無理はありません。日本の方々が、あの無知にして無礼な排日移民法の通過を見られて、西洋文明の本質を疑い、東洋文明独自の神聖を、今更のごとく追慕せられるのはご無理はありません」
 そう言ってこの女性が鶴見の手を握った。そしてつと顔をそむけて足早やに去った。
 夕闇のうちを、鶴見は無限の感慨を抱いて、一人とぼとぼと自分の広い寂しい宿舎に帰って来た。
 しあし、鶴見はどうしても眠れなかった。こういう時には必ず死んだ母のことが思い出されるのであった。それは15の折に別れた薄命な母である。鶴見の成人を楽しみに、1年彼のために塩を断って神に祈った母である。酒と女とに身を誤らぬような立派な人間になってくれと、父が家に帰らぬ夜々は、祐輔少年の枕頭に坐って泣いた母である。別れてから20幾年になる。まだ何一つしでかさない自分だが、今夜だけは母が生きていてくれたらばと思った。とにかく、排日移民法の憤りを、6千万の同胞に代って、自分は米国国民の頭上に叩きつけた、誰に知って貰わなくともよい。泉下の母だけには知らしたい。そう思って鶴見は、夜の白むまで枕に伏して泣いた。

 翌日鶴見は80キロ距てたビーアド博士の山荘のあるニュー・ミルフォードへ向かった。
 第2講の原稿は大陸横断の車中で書いたが、第3、4講の原稿がまだ出来ていない。ウイリアムス・タウンに居ては、来客で仕事ができない。
 電報を打っておいたので、博士夫妻が駅に迎えに来ていた。
「どうだった?」
 と車から下りてくると、すぐビーアド博士が訊く。
「欧州のどの国の講師の講演よりも多い聴衆で、ゆうべはホールは満員でした」
 と答えると、ビーアド博士は夫人の方を向いて
「なんだ、お前は泣いているじゃないか」
 と自分も涙声で言う。その位博士夫妻は、排日移民法の通過を憤った。それだけに、猛烈な鶴見の攻撃が、米国の聴衆に、虚心坦懐に聞かれたということが嬉しかったのである。
 運転手席に博士、その隣りに鶴見、後部座席に夫人を乗せて、10年前の旧式のビユイックは勢いよく走り出した。小さいながら、由緒のある町を通り抜けて、彼等は急坂を丘の上に走り上った。その中腹の右手の杜の中に博士の夏の別荘があるのだ。並木を走り抜けると、フーサトーニックの緩やかな流れが、あたかも湖水のように脚下に澄んでいる。その両岸は、60メートルから90メートル位の丘陵が近く遠く列って、有名なコネチカット谷合をつくっているのである。その丘陵の嶺から中腹にかけて、ニューヨークの人々の簡素な別荘が立ち列んでいる。それがニューヨーク郊外48キロから240キロの辺まで連なっている。
 博士の家は、南にこのフーサトーニックの流れを臨む景勝の地である。南にだらだら下りの山腹を庭とし、その麓のシカモアー樹の林を生籬として、樹の梢越しにこの清流を眺める風趣。それから流れの彼方の低い丘が、ちょうど日本の景色に似ているところから
「あの山の峰に五重の塔さえ一つあればね」
 と主人の博士が、常に語り語りするところである。
 鶴見が車を下りると、若い令嬢のミリアムと今年ボストンの工科大学に入学した令息のウイリアムが、玄関の両側に立って、地面につくほど恭しくお辞儀をした。それはかつて後藤新平邸へ招かれた時の敬礼が珍しかったので、2人でこうして鶴見をからかうのである。
 南縁のヴェランダで、5人でコーヒーを飲みながら、ウイリアムス・タウンの話をした。
「よかった、よかった。グワーンとぶん撲ってやるんだね。われわれ西洋人は野蛮人だから、グワーンとやらなくっては、解らないんだよ。いいかい。ただそこがちょっとの呼吸でね。この呼吸さえ飲み込めば、いくら撲ったっていいんだ。まわりくどい、丁寧な抽象的な理論はだめだよ。いいかい、アメリカ人に空論は禁物だよ。ただ露骨に、端的に、直接法に、グワーンとね。けれどもあの呼吸だけは忘れてはいけないよ。いいかい、敵に乗せられるような下手な議論をしてはいけないよ。露骨と無礼とは違うんだよ。丁重と回遊とが違うようにね」
 主人は朗らかな声で嬉しそうに語りつづけた。

 ウイリアムス・タウンの日課は、朝は9時から11時まで円卓会議。これは聴衆25人、講師が1人。その講師がある題目について話し、聴講者が討論するのである。この聴講者がみな前次官とか海軍将官とかいうような履歴つきの連中であるから、なかなか議論に花が咲く。11時から12時までが公開討論。これは各地から専門家が来て、34人で別々の立場から、同一問題を議論するのである。午後はゴルフやら、テニス、山登り、乃至は社交のため全然あけてある。そして夜の8時15分から講演である。この講演者は全部外国人である。日本は今までに藤沢利喜太郎博士と鶴見の2人が招聘されたわけである。

 第3講と第4講の原稿は、結局ウイリアムス・タウンへ戻って閑を偸んで書いた。
「米国移民法の日本国民に与えたる衝動」と題する第4講を語るべき8月29日の夜が来た。
 まず鶴見は、日米外交史から説き起こした。過去70年間に米国の政府と国民とが、いかに数多き善事を日本のためにしたかを説いて、日本が米国に対する精神的負債を数え立てて行った。第1に教育制度、第2に日本のために阿片輸入厳禁の原則を立ててくれたこと、第3に監獄制度改正を助けたこと、第4に米国宣教師の文化的貢献、そして第5に米国の極東外交が、いかに日本の独立を援助したかを詳説した。欧州の列国が悉く東洋において侵略政策を取った時、米国の伝統的援助政策がいかに開国日浅き日本の発達を助けたか。このために日本上下が米国を目して他意なき友人として信頼する念がいかに厚かったか。日露戦役中の米国の好意は、日本国民が永久に忘れることができないと述べ、
 然るに、と鶴見は一転して
「私は不幸にして、これより進んで、最もデリケートな一つの問題に触れなければならない。それは最近発生した移民問題が、日本内地における社会現象にいかなる影響を及ぼしたかということである」
 と冒頭して渡米日本移民の歴史を回顧し、
「日米修好条約成立当時は、米国は世界の移民に対して門戸を開放していた時代である。一八六四年、米国政治家は誇って、米国国土は、圧迫せられたる世界各国民の避難所であうと声明した。言辞何ぞ壮麗にして、気魂何ぞ雄大なるや。かくて日本移民は、支那移民に続いて、キャルホォルニヤ州に渡来し、至る処慇懃な待遇を受けたのである」
「然るに日露戦争後より形勢次第に変じ、日本移民と米国人との関係円満を欠くや、明治四十年、日米両国政府は紳士協約を締結し、日本政府の自制的行為によって、渡米移民を制限する原則を確立し、かつこれを実行した。世上この紳士協約の法律的効力について疑いを挟み、議論をなすものがある。しかしながら日本国民はこれを目して信義を重んずる文明国家の厳粛なる諒解なりと信じた。そして明治四十四年の日米条約改訂によって、日本国民のこの信念は更に強力となったのである。
 しかるに世上往々にして、日本政府は紳士協約を励行しないという者がある。何の証拠によってそう言うのか。もしそうならば、これを正式に調査すべきではないか。それなのに何等調査をしないで、漫然、日本政府の行動を難ずるのは、日本政府の誠意を疑うものではないか」
「故に米国移民法の通過は、米国上下両院が、日本政府の誠実を疑ったとの感を、日本一般に与えた。米国両院はこのような疑念を抱いたのではないであろう。それなのに日本上下がこのような印象を受けたのである」
「故に言う。移民問題は区々たる法律問題ではない。米国議会でこのような国内問題に関して立法しようとする場合に、日本人中何人といえども、米国議会の権能を云々する者はないのである。ただわれらの解せないのは、何故に米国議会がこのような行為に出たのかという精神の問題である」
 と論じて、鶴見は米国人が移民問題をもって、米国の経済問題だとする論調を攻撃し、
「責任ある日本人中には、米国の欲しないのに多数の移民を米国に送り込もうとするような念慮を抱く者は一人も居ない」
 と断言し、移民法の問題は、米国に移民を送って、日本の人口問題を解決しようとするような時代後れの経済論ではない。即ち法律問題でも経済問題でもなく、もっと深刻な主義の問題だとして
「移民法問題が日本において問題となったのは、日本が果して西洋諸国と同一待遇を受けるか、あるいは西洋各国との国交より疎外せられて、純アジア主義の牙城によらなければならないかの破目に陥るかの点にあったのである」と断じた。
 これより鶴見は50年前に起こった支那移民排斥法成立の際、米国当局がいかに支那政府の体面を尊重し、慇懃を極めたかを指摘し、何故に日本に対してのみ今回のごとく非道無礼だったのかと反問した。
「しかも悲しむべきは、移民法通過が日本大震災直後に来たことである。このような国家的災害のために深創いまだ癒えざる日本に対し、七十年の友邦たる米国が、この一挙に出たのは日本国民がその意を了解するのに苦しんだところである」
「即ち日本国民を憤らしめたるものは、移民法作成の手段と時期とである」
「既に紳士協約によって目的を達していたのに、何故に法律の条文に明記して日本国民の憤りを買う拳に出たのか」
「これがために日本国民が、米国に対して戦端を開かんとすと言うのではない。ただこれがために、日本国民の胸底に一個の爆弾を装置したり、と言うのである。これ実に世界平和のため、はたまた日本内地における進歩的民主主義の発達のため、千秋の恨事であると言わなければならぬ」
 それより鶴見は、太平洋時代における日本の地位を論じ、工業を有し、海軍を有し、陸軍を有する日本国民の胸底に、かかる不快の印象を残したことは、太平洋上の平和を愛好する者にとって、一代の痛恨事であるとした。
 聴衆は水を打ったように静かであった。咳払い1つ聞こえなかった。鶴見は論じながら、自分の説に次第に昂奮してゆくことを覚えた。そしてとうとう結論に到達した。
「安政の開国以来、日本の進歩主義者の念頭に燃えた一大理想は、東西文明の調和と統一ということであった」
「そのために日本は、西洋科学をとり入れ、代議制度を設け、鉄道、電信、電話を布いた。近代日本の発達は、全世界の驚嘆と尊敬とを博し、日本は世界一等国の班に列した。しかるに一九二四年の米国移民法は憾みなるかな、今や、日本民族の胸中に、東西両人種融合の可能を疑うの念を萌さしめた。明日の支配者たる若き日本は、西洋文明の本質を疑おうとしている」
 結論して鶴見は言った。
「われらは、美国の真の偉大性をもって、その富にあらず、その力にあらずとする。力ある国、富める国のごときは、古往今来その数に乏しくない。しかもかの強くして富める国々を見よ。既に悉く廃墟と化し去ったではないか。彼等の富強のごときは彼等の墳墓の上を飛ぶ白雲のごとく空しからずや。悠久にして朽ちざる偉大は、ただこれを心霊の崇高と、美と力との不朽の作品中にのみ求むることができる。日本国民の志は、常に心霊的尊貴の最高水準に味到せんとの一事に存した。日本は今日もなお米国を目して、西洋文明の先達なりとする。即ち人類の解放と四海同胞の大義とが米国国民の理想なりとして想望する。かかる日本の希望は空しきか。待望の心をもって全日本は、米国政界の将来を凝視している。われらは未だ望みを失わない。われたは固唾をのんで米国魂――即ち公正の精神と正義の真情との発揮せらるる月の何時なるやと待ち眺めている」
 鶴見は一礼して演壇を去った。拍手がどっと怒涛のように崩れた。それがいつまでも続いた。控室の扉があいて、ガーフィールド総長の顔が現れた。
「もう一度演壇へ出てお礼をなさい。でないと聴衆が拍手をやめませんから」
 鶴見は芝居のアンコールのように、もう一度演壇に出て、恭しく一礼した。鶴見はこの露骨な自分の演説を、かばかり寛容にうけ容れてくれた聴衆の好意に対して、非常な感激を覚えたので、思わず日本風に恭しく敬礼した。後で、日本に居たことのある米国人から、「日本のお辞儀をしましたね」と笑われた程であった。
 日本にあまり好感を持っていない海軍提督フィスクが、鶴見の講演が終った時、傍人を顧みて
「堂々と、大胆にやってのけたのう」
 と言った。
 翌日のニューヨーク・タイムスが、また長い社説を書いて同感を示した。
 鶴見の第4講を最後に、この年のウイリアムス・タウン政治学協会も閉会となった。
 鶴見の第4講を聴いた蘆野弘は、当時を回顧して次のような文章を書いている。
「自分もニューヨークから馳せ参じて講筵に列した。鶴見さんは英語の発音は得意らしく自慢話を聞かされたこともあったが、いざ晴の舞台となると急に気になり出して前の晩になって草稿を読み直しながら、辞書を持出してしきりに一語々々の発音を確めたりして居た。鶴見さんの講演の内容は立派であり、英語は無論教育のあるアメリカ人に解らせるには十分である。多数の人相手に物言うことは国よりお手のものである。この時の講演も老若男女の聴衆に相当の感銘を与えたようだった」

 ウイリアムス・タウンの記事は、全米国の新聞に洩れなく掲載されたのみならず、ニューヨーク、ボストン、ワシントン等の大都市の大新聞は、悉く二欄乃至三欄ぐらいの広い紙面を割いて詳細に報道した。1924年は、排日移民法の影響で、何といっても日本が最も米国の視聴を聳やかした。従って鶴見の発言も一再ならず大新聞の社説で論評され、米国第一の新聞といわれるニューヨーク・タイムスは、鶴見の滞米中前後4回にわたって社説で鶴見の講演を論評した。
 しかし、鶴見の活動と講演について、日本の新聞は一言半句も論評しなかった。僅かに杉村楚人冠が、「新聞紙の内外」で次のように触れただけである。
「それにしても、今の新聞紙はあまりに知恵がなさ過ぎる。私のような者が見てさえ、まだ拓くべき新領土は沢山あるように思われる。試みにその一二を挙げてみよう。
 例えば、海外における日本人の動静を報ずることは、今全く欠けている。海外に住んでいる人でも、又海外へ旅行しただけの人でも、行った先々で一かどの仕事をしている者が非常に多い。近くは鶴見祐輔君の米国に於ける目ざましい活動の如きは、新聞の種として絶好のものであったが、どの新聞も顧みなかった。顧みられなかったのは鶴見君一個の損失でなくして、日本の損失であった」
 鶴見の米国公演を飜訳した沢田謙は悲憤慷慨して叫ぶ。
「鶴見には国家の背景はなかった。資本家の講演もなかった。天日をも焼き尽くすべき至情と三寸不爛の舌とを有する一個の漢子だったのだ。
 彼はまず、勇者のごとくに排日法の不法をなじった。日本の光栄ある歴史と光輝ある文明とを熱情をもって説いた。そして太平洋問題解決の鍵をそのところに説き明かした。
 最も驚くべき奇蹟を、僕は地上において目視したのである。宗教的なるがごときリヴァイヴァルが米国の全土に起こった。そは昨非を悔いて今是に就くというごとき生温いものではない。情熱的に米国の国論は回倒したのである。見よ、彼は見事に、赤手をもって波涛を拒いだのである!
 孤身飄然、北米の地に渡りたる憐れなる漢子は、凱旋将軍のごとくに、日本に帰り来ったのである。
 さりながら、これほどの大成業を、日本の同胞諸君は、対岸の火災よりもなお冷やかに見送ったのである」

 ウイリアムス・タウンの国際政治学協会での鶴見の講演は、沢田謙に訳されて、『現代日本論』と題して、昭和2年に大日本雄弁会講談社から刊行された。英文現代日本論は、ジャパン・タイムス社より出版された。
 また大正13年8月から14年11月までの米国講演旅行のすべては、『北米遊説記兼米国山荘記』と題して、昭和2年に大日本雄弁会から刊行された。同書のうちウイリアムス・タウンの記事は、大正15年7月に大阪朝日新聞に20回連載し、米国山荘記は同年7月から秋にかけて、東京時事新報に52回連載した。

 ウイリアムス・タウン滞在の最後の日、米国社会党のジョン・スパルゴーの案内で、彼の住むヴァーモント州のベニントンの家を訪れた。その途上詩人のロバート・フロストに出会った。

 9月1日に鶴見は、思い出多きウイリアムス・タウンを発って、ニュー・ミルフォードのビーアド博士の山荘へ向かった。
『北米遊説記』では1人で訪問したと書いてあるが、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた蘆野弘の「私の鶴見祐輔観」によると、この時蘆野も同行してビーアド邸に1泊したと記されている。蘆野は外交官で当時米国に勤務していた。

 ビーアド博士の山荘に落ち着いて、鶴見はコロムビア大学の講義案の作成にかかった。題目は「現代日本論」である。この講義は6回つづきで、ウイリアムス・タウンより2回多いから、4回分は旧稿を使って、あと2回だけ新稿を起こすことにした。
  第1講 旧勢力
  第2講 自由主義勢力の台頭
  第3講 都市及び農村における労働運動
  第4講 思想的潮流及び新聞
  第5講 現代日本文学概観
  第6講 米国移民法が日本国民に与えたる聳動
 という内容である。
 第1回の講演者である英国の碩儒ブライス卿の足跡をもって聖化された講壇に上ることの名誉が、鶴見の心を明るくした。同時に重い責任感が、その講演を終るまで鉛のように彼の胸にこびり付いていた。
 第4と第5の講義録を作り上げようとして、行李から参考資料を取り出して準備にかかってみると、思ったより遥かに難しいのに驚いた。日本の最近の思想界の変遷というものはどういうものかと、眼をつぶって考えてみると、考えれば考えるだけ解らなくなっていった。それまでは鶴見は、多少は自国の思想的変遷を知っているつもりで居たところが、思いのほか研究が粗漏であることを悟った。また携えてきた参考資料を点検してみても、さして役にたつものも見当たらなかった。鶴見は一時呆然とした。飛んでもない題目を選んでしまったと思って、毎晩重苦しい心持で寝床に入った。
 広いビーアド邸の庭のうちを、ぐるぐる歩き廻りながら考えた。帽子とステッキとを取って、後の丘の上に登って、半ば壊れた石垣の上で、初秋の日射しを受けながら苦慮し、瞑想した。そうしてやっと10日かかって腹案ができ上った。それを今度は克明に、鉛筆をもって、紙の上に記しつけた。日本語の抽象的文字を、英語に移す困難が屡々鶴見を苦しめた。そうしてやっとでき上った時分には、9月は既に半ば以上過ぎていた。まだあともう1つ、現代文学概論を書かなければならないのだ。9月下旬にはヴァンダーリップ邸へ転居する予定になっている。間に合うように講義案ができるだろうか。そういう不安な心持が日夜鶴見を苦しめた。米国大学の講演なんて、飛んでもないことを始めてしまった。彼はそう思って後悔した。

 9月22日、鶴見はニューヨークの総領事斎藤博の自動車に荷物を積み込んで、ヴァンダーリップ邸へ向かった。
 ヴァンダーリップは、第一次世界大戦中、米国で1、2を争う大銀行ナショナル・シティ・バンクの頭取であった。
 彼は終戦後欧州から帰国して、ニューヨークの経済倶楽部の講演で、欧州の窮境を暴露したために、翌日の株式と公債が一斉に下落した。その翌日ヴァンダーリップは辞職した。引退後彼はエール大学で講義をする傍ら、私邸の隣村を全部買上げて、質素で風雅な家を建てて、ニューヨークの美術家や音楽家に安く賃貸したり、私立の中学校を建てて、自分の理想の教育を試みたりしている。
 大正9年の春に実業団を率いて日本に来て以来彼は日本に同情を持つようになった。
 ウイリアムス・タウンの講演が新聞に出ると、大勢の人から夏の別荘へ泊りに来てくれという招待状が来たが、鶴見はみな辞退して、数年前にも滞在したことのあるヴァンダーリップ邸を選んだのである。

 朝のうちは、鶴見はいつもイタリー庭園に出て仕事をした。コロムビア大学の講義の日本現代文学論を作っているのである。彼は明治から大正にかけての日本文学発達のあとを研究してみて、明治時代というものは、偉い時代であったということを沁々感じた。これほどの水準まで登った現代日本文学が、少しも外国に知られていないことは、実に遺憾なことである。明治大正の日本の金字塔は、3度の戦争と、工場の煙突の数だけだと思われているとは、何という悲惨なことだ。そう思って鶴見は、随分丹念に色々の作品を英語になおしてみた。ことに薄命な一葉や、若くして逝った天才独歩のことを外国に紹介したいと思った。それから何と言っても、夏目漱石である。これを英語に訳出するときに、興味の一層痛切なることを感じた。
 鶴見は長い間考えていたことがある。それは日本の世界に了解されない重大な原因の一は、日本語が外国人に習得されず、従って日本の文学が外国人の手の届かない距離にあるためである、ということである。
 例えばロシア文学の世界に及ぼした影響が、どれだけロシア人の全世界における地位を高め、かつ、親しみ易くしたかしれない。
 その同じ意味で、日本文学の世界に知られないことが、どの位日本人の真実の姿を外国に誤解させたか知れない。日本人の外国に知られているのは、陸海軍軍人として、外交官として、商人として、留学生としてである。
 この日本人のありのままの姿が、即ち叩けば響き、泣きも笑いもする日本人の人間としての実相が知られわたるまでは、日本人は世界という家族団欒のうちの、気の置けない一員にはなり切れないのである。
 その具体的な方法として、鶴見は永い間、日本現代文学の英訳ということを考えていた。その端緒とすべく、彼はコロムビア大学の講演のうちに、現代文学の1講を入れてみたのである。彼はポーランド人でありながら、英文で不朽の小説を書いたコンラッドのように、日本人が英語で小説等を書く日が来ることを待望しながら、イタリー庭園のベンチで漱石論や藤村論を記したのであった。

 10日程をこの家に暮して、コロムビア大学の講義の原稿が一切でき上がった時分に、鶴見は暇を告げてこの家を立ち去った。またニューヨークから廻してもらった斎藤総領事の自動車に乗って、領事館へ向かった。
 しかし、ニューヨークが好きな鶴見も、コロムビア大学の講義が胸につかえて、市中の散歩どころではなかった。斎藤総領事の公邸にとじこもって3日が程を暮らし、10月4日の夜行列車でワシントンに向けて発った。同市の陸軍大学で講演するためである。ここへ日本人の話しにゆくのは初めてとのことで、一層気が重かった。
 10月6日の午前10時から、「日本の目的と政策」と題して、近代日本における自由主義勢力の台頭と日本のアジア政策の大様を語った。
 その冒頭に多少のいたずら気も交って、そもそも日本の米国に学ぶべき点は多々あるが、軍人を政治家にすることは、その随一である。貴国のごとく軍人上りの人を多数大統領に選出した国は世界にその類例が乏しい、日本のごときは軍人出身者を今少しく首相とすべきであろう言った。すると後で1人の新聞記者が来て、なるほど君の言うとおりだ。日本を軍国主義の国とばかり思っていたが、米国の方が軍人を多く大統領にしているなァと真面目に言っていた。

 ニューヨークへ帰ってきて、久しぶりでプラーザ・ホテルに泊った。大正10年3月末日に2年半の欧米留学を了えて帰国するため、ニューヨークを発ってから3年半ぶりである。
 コロムビア大学の講義は、初め3回が10月の7、8、9と3日つづいて、その残り3回が14、16、22の3日であった。その間々にニューヨークの街のうちや近郊へ出掛けて講演した。従ってウイリアムス・タウンのときのような学究的な悠然たる空気とはまったく異なって、かなりあわただしい生活が始まった。

 10月7日の夕刻、鶴見はコロムビア大学の階段講堂へ、バトラー総長に案内されて入場した。
 鶴見はこの講堂には懐しい思い出がある。13年前のやはり秋の末であった。新渡戸博士がカーネギー平和財団の招聘に応じて、第1回の日米交換教授として渡米した時、やはりこの講堂で講演したのだ。随行した鶴見は、毎回この大きい講堂の高い座席の後の方に坐って、先生と聴衆とを半々に眺めながら、講演を聴いていたのである。
 その時は鶴見は胸の底の底にも、自分が英語で米国の大学を講演して歩く日が来ようとは思っていなかった。当時は桂太郎首相の官僚政治の全盛期で特に東京帝大の法学部という濃厚な官僚的空気のうちに育った鶴見としては、正直に言って、外国の大学を講演して歩くという仕事の深い意味を、それほど理解していなかった。ただ新渡戸博士の講演という点にだけ興味を抱いていたに過ぎない。従ってその仕事の小さき一部分を、自分が13年後に演じようとは想像もせず、別に希望もしていなかった。当時の東大法学部の空気は、よき官吏になりたいということであった。(『北米』139、140頁。『中道』251頁)

 バトラー総長が立って、朗々とした音吐で、紹介の辞を述べ出した。聴衆は約300人ほどである。日本人が大層多かった。
 日本人が日本人の前で英語の演説をするのは実に気詰まりな“いや”なものであるということをよく聞く。しかし妙に鶴見にはそういう気持がない。彼は英語を上手に話そうという気が無いのである。一度も外国で学生生活を送ったこともなく、外交官生活もしたことのない自分のことだから、英語がうまかろう訳がない。従って拙くても恥でもなんでもない。そういう気が頭に深く秘んでいるために、鶴見は英語演説というものを少しも気にしない。
 ただ鶴見の始終気をつけていることは、決して場後(おく)れをしないようとの一事である。舞台敗けをして堅くなるくらい見ていて、みっともないものはない。英語はどうせ外国人の言葉であるから、いくら間違えてもかまわないが、場後れは自分の精神の問題であるから申し訳がない。鶴見はいつもそう思っている。

第1講は「旧勢力」と題して、明治維新後の日本を支配せる封建的旧勢力が、内には中央集権の官僚政府を作り、外に向かっては民族自衛の必要上、アジア大陸政策を樹立し、着々として朝鮮、台湾、満州、樺太に発展したる経過を述べ、このような発達途上の日本が、太平洋上の強国として出現したことが、太平洋上の列強の勢力均衡を変革し、ひいて太平洋に最重要なる関係を有する米国との関係を一変したことを叙した。
 その冒頭において鶴見は、コロムビア大学の名誉ある講壇より講説する光栄を感謝した後、次のように述べた。
「私の了解するところによれば、本大学の精神は、大胆な率直と科学的検討とである。ゆえに私は冒頭において、今後6回の講演の内容を、最も率直に開示すべき義務を感ずる。それは即ち過去4、5年間において東洋に画期的重要性を有する変化――即ち過去の学校において教材として用いられた歴史論を廃物と為したる変化――また更には世界局面における東洋の位置を増大した変化――更には特に太平洋上の強国としての米国と日本とに関係するところ最も大なる変化が起こったということである。不変と観られた東洋の長堤一時に潰裂し、橋下を流れる洪水奔馬のごとく、旧来の観察者を驚心駭魄させるものがある。ゆえに昨日の事局に基づいて判断を作った人々は、今日その意見を変革しなければならぬ必要がある。今や、新東洋が諸君の面前に横たわって居るのである。
 数年前までは列強各国は、支那を目して、北京に中央政府を有する統一ある政治単位と為した。その仮定は常に薄弱であって、必ずしも常に正確に実行できなかった。今日においてはこのような仮定もまた抛棄せられ、全人類は支那における社会的各勢力の衝突を期待する――その衝突たるやローマ没後の封建的欧州のごとく今後千年の久しきに及ぶべきか、乃至は人智の測るべからざる運命の一転によって一気に決定せらるべきかをわれらは知らない。英国の統治今後数世紀は動くまじと見えたインドにおいてすら、新精神と広汎なる社会不安とが旧勢力に挑戦せんとしている――その奈辺に至って底止すべきやは、人間凡慮をもって測り知ることはできない、そしてかの或る時はボルティツの海門に荒れ狂い、或る時はコンスタンチノーブル海峡に奔逸し、そして或る時は極東太平洋上に殺到したる。モスコウ大帝国今いずくにありや。十ヵ国の首府を困惑せしめたシベリヤ平原における列強の競争は、今やこの大地域に対するソヴィエットロシアの勢力伸長によって解決された。モスコウと北京とはいまその外交的糸縄を互いに手繰りつつある。北京公使館区域における露国大使館の寂寛は、革命を職業と為し慧敏を性質と為す辣腕家の狂気のごとき活動によってのみ破られつつある。そして最後に、日本自身は如何。日本もまた一八六八年の王政維新に劣らざる、徹底的変革を通過しつつある。勿論日本においては今なお旧時の目印の消失せざるため、皮相なる観察者は、今なお昨のごとし、明日もまた永久に然らんと想像する。しかしながら、日本もまた変化と称する普遍的法則に叩頭する。変転する経済的勢力、印刷機械の累積する音響、普通教育の間断なき進歩、諸外国における変化の反響、太平洋上における各利害関係の増大する圧力――かかる一切の事象は、日本において今や新たなる社会的模様を織り出しつつある。
 明日の水平線上を越えて未来を望見するは、地上の人間の力の及ぶところではない。しかしながら満ち来たり退き去る東洋の潮が、西洋の岸辺を洗うことなかるべしと誰人が想像することができるか。故大統領ローズヴェルト氏は好んで、古代文明はローマを中心として地中海に栄え、近代文明は大西洋上に発達したように、未来は太平洋上にありと称した。その言辞の根底には、確乎たる事実の存することをわれらは感得する。地中海に七十倍し大西洋に二倍する茫々たる太平洋の大海原はあらゆる気候の下に打ち拡がり、あらゆる文化を有する人類の住居する幾多の大陸の岸辺を洗っている。尨大なる資源と無限の商業的勢力を蔵する新旧両個の文明がこの大洋の岸にある。快速力の蒸気船が横浜シヤトル間を航海するの日子は、その昔ローマの船長がジブラルタルよりフェニシアに赴く日数に及ばず、ワシントン大統領の時代において快足帆船が大西洋横断の四分の一時日にも過ぎず、アラスカ沿岸に連らなる米国所属諸島のごときは、日本の領土と相距たる僅かに七百マイルに過ぎない。その距離はニューヨークとシカゴとの距離に及ばず、最近飛行家の経験によれば、飛行機によって僅々数時間をもって飛翔することができる。更に一歩を進めて論ずれば、晴れたる日、望遠鏡を手にして米領ヒリッピンの島端に立って望めば、日本帝国の尖端なる台湾島の一角を指顧することができるのである。米国貿易は東洋に発展すべき運命を持っている。米国学会の興味は日ごとにアジアに向かって進出すべく、米国科学、商業、外交一切の成果は太平洋上のバランスにおいてその重量を示すに相違ない。ゆえに米国の政策、理想、方針の一切は、他の全世界の各国の総和よりも偉大なる意味を、日本の上に及ぼそうとするのである。
 では日本についてわれらは何を言うべきか。日本は太平洋西海岸において軍略的形勝を占めるということを指南することは不遜であるか。ヒューズ氏は石井ランシング協約の終焉を声明することができるであろう。しかもその協約の根底を為せる地理的ならびに経済的事実は寸毫も変えることはない。事いやしくも東洋問題に関する限り、日本は常に会議の席に坐さなくてはならぬ。故に日本の政策、理想、方針の一切は、また、米国に対して徹底的影響を与えるの理を否むことができない。事実はかくのごとくである。しかしながら、日本側においては責任ある政治家中唯一人といえども、日米両国の問題にして協調と互譲の方策によって解決できないものがあるとは聞いていない。日米間の戦争のごときは、驚愕以外の感情をもって眺める者は一人もいない。否、日本の政治家たちはペリー提督開港以来、米国が日本に与えた無数の助力に対して感謝の衷情を有して居る。そして彼等は米国国民の根本的目的が平和に存することを信じている。しかしながら、日本の政治家たちは、米国高官中に往々にして日米両国の関係を目して急迫したと為し、かつ開戦切迫を覚悟しなければならないと暗示する各種の声明を為すものがあるのを見て、率直に不可解の感に搏たれている。例えば本年(一九二四年)六月、海軍少尉ブラッドレー・エー・フィスク氏が、海軍卿に与えた公開状において、米国は日本との平和関係についてあまりに多くの信頼を置くなかれと警告している。彼は言った。『私は戦争が可能だというのではない。しかしながら、ただ日米両国は不可調和的態度を取っているということと、また、日本はその大使に『休暇』を与えることによって事実上外交関係を断絶したものだということを指摘することができると思うのである。このような態度とこのような行為とは、必ずしも常に戦争を伴わないが、戦争の前には常に起ったのである。しかしながら、戦争はよしや発生せずとも、米国国民たるものは、万一開戦の暁にはわれわれは無防備だとのことを自覚しなければならない』と。また更に他の例を挙げれば、僅々三週間以前、現海軍卿ウィルバー氏は、太平洋岸に立って、痛ましいまで明瞭な隠語を用いて言った。曰く、『血の上り易い者どもに対しては、冷たい一片の鋼鉄ほど、これを冷やすによいものはない』と。
 私はこれらの高官らに対して、彼等の発表した意見を非難しようとの趣旨は寸毫もない。この講壇に立って、このようなことをするのはまったく不適当の挙である。そうだとしても、這般の言論を読むに際し、このような高官と人格とを有する米国人にして、わが日本を目して米国の安全を常に脅やかすものだとされるのを知って、私は深く痛心の情なきを得ない。またこのような意見は米国国民の厳粛な判断を代表するものかと怪しまざるを得ない。もしそうだとしたら、われわれ日本人においても、新たに考えなおすところがなければならない。
 日米両国は、かつてローマとカーセージの両国が、地中海を挟んで相睥睨せるごとく、太平洋を隔てて相睥睨しなければならないか。私は率直に言う。その必要なしと。公明にかつ無条件に、私は私の所信をここに声明する。曰く、日米両国の戦争のごときは、愚昧、無益であってその災害たるや無限である――その結果の如何にかかわらず、如何なる計算を想像するも両国はこのような惨禍よりして、その人命、財産、並びに精神的痛苦を償うに足るべき何等の効果を挙げることもできない。われらの要するものは理解と協調と交渉であって、喧嘩と討論と侮辱ではない。故に私が本講を試みる理由とも言うべき論点は、米国の学者、評論家並びに新聞記者は日本における、現代生活の風潮に一層の注意を払うべしとのことである」
 この冒頭の助言につづき、鶴見は進んで日本の王政維新の実況を説き、明治初年において、欧州列強の侵略政策に刺戟されて、日本の維新が自由主義の内政をとることができないで、対外硬の大陸政策に転向した一般の情勢を叙し、ウイリアムス・タウンにおけると同じく、米国人ル・ジャンドルが、時の日本政府に朝鮮と台湾経略策を進言した事実に論及した。
 講演が終り、バトラー総長の挨拶がすむと、鶴見は壇を下って、大勢の日本人に取りまかれた。その後も屡々他の大学で感じたことであるが、日本の留学生の人たちは、日本からゆく講演者を、ある懐しさを以って迎えてくれる。異郷幾年、万里外の故郷を思って眠られぬ夜もあろう。かかる折自国の講演を聴くことは、その内容は耳新しくなくても、ある興趣をよび覚ますのかとも鶴見は思った。

 コロムビア大学の講演は、初講から6講まで、別に何の奇もなく過ぎた。300人ほどの聴衆が減らなかったことが鶴見には嬉しかった。
 鶴見が出発前に確定的に受け取っていた招待は、ウイリアムス・タウンの国際政治学協会とニューヨークのコロムビア大学の2つだけであった。従ってこの2箇所の講演を終ったなら、2、3ヵ月で帰ってくる積りで出駆けたのであった。それが偶然にも2、3百ヵ所からの招待となって1年半も在米することになったが、問題は報酬である。色々検討した末、上品なカーネギー財団の国際教育協会に委嘱することになった。

 コロムビア大学での講演のためニューヨーク滞在中に、鶴見は色々のところに出歩いたようであるが、10月12日にフィラデルフィア市の倫理協会で「若き日本の理想」と題して講演した以外は日時が不明である。

 コロムビアの講演のすんだ翌日、10月23日には、エジソンの住んでいる隣町のサウス・オレンジの町で講演した。

 10月24日には、フィラデルフィア郊外のビリーとマリオン夫妻の家を訪れた。
 その夜は、フィラデルフィアの政治社会学会主催の「日米問題検討会」である。鶴見のほかに、駐日前大使モリス、カリフォルニア州の排日議員マクフェー、親日宗教家のギエーリック、ニューヨークの美術家で排日家某。そして司会者が前駐日大使ウッヅである。
 聴衆は2千人ほどであったが、フィラデルフィアはボストンとともに日本びいきの多い町で、鶴見は演壇に立った刹那に非常に温かい空気を感じた。日本移民について賛否両論の後、鶴見は演壇の下に進み寄ってくる大勢の人に一々握手して、夜遅くマリオンとビリーの車に乗って、郊外の彼等の家へ帰った。

 10月25日は有名なゼ・サタデー・イヴニング・ポーストの主筆ロリマーを訪問した。
 このロリマー会見は、ウイリアムス・タウンの仕事と並んで、鶴見の今度の北米遊説中の一番大きい仕事であった。その模様は鶴見の著書『壇上・紙上・街上の人』のうちに「ロリマー会見記」という1章となって載っている。
 この雑誌社はやはりフィラデルフィアに在る。
 ロリマーは対面してすぐに、「日本の近情をすこし話してください」と鶴見に切り出す隙も与えないで、彼の方から鶴見を試験し出した。
 鶴見は各地で講演している現代日本論の内容を手短に話して、最近に起こった米国の移民法が日本人に与えた烈しい憤慨の情について縷述した。
 だまって、はあはあと聞いていたロリマーは突如として、「そして、アメリカの聴衆は、どういう態度であなたの講演をうけいれましたか」と言った。なるほどと鶴見は感心した。米国の人気、世論、好尚を早く測定して、いつも時流に棹して、後れないように、あの大雑誌を経営しているロリマーは、各所で講演して歩いている鶴見を通して、米国の対日感情を測定してみようとしているのである。
 鶴見はロリマーの問に答えて、自分の忌憚なき言論が、いたるところ米国の聴衆の傾聴を買った模様を述べ、かつ、数百ヵ所から講演の招待状が来たことを話した。
 ロリマーは黙って聞いていた。
 鶴見はだんだん時間の移ってゆくことを感じた。早く切り出さないと駄目だと思った。
 しかし、今、切り出して断られてしまえば、それでもうおしまいだと思った。自分が失敗してしまえば、ほかの日本人がまた後を続けることができまいと怖れた。ちょっと鶴見が言葉を切った。
 敏感なロリマーは、鶴見が今、何を言い出そうとしているのかを見抜いていた。また見抜いていることを鶴見は知っていた。何だか重苦しい気が部屋に満ちて来るように感じた。
「実は、私は、はじめて米国の土を踏んだ1911年以来1つの希望を抱いていました。それはたった1度、サタデー・イヴニング・ポーストに、自分の記事を載せたいということでありました。そのために私は過去13年間、あなたの雑誌を研究していた。私に1つアーティクルを書かせてください」
 これは生まれてはじめて、鶴見が米国人と仕事の談判をする経験であった。
「お書きなさい。喜んで掲載しましょう。5千字、あなたの思うことを何なりと」
 何の造作もなく、彼がピタリと言った。あんまり事があっけなく運んだので、鶴見はちょっと戸迷いした。
 その後鶴見は4度ロリマーを訪問して、合計5つの論文を3千万人の読者を有すると言われるゼ・サタデー・イヴニング・ポーストに、日本人としてはじめて掲載することに成功した。
 それは150回の講演よりも、この雑誌に一度書いた記事の方が有効であったと、多くの米国人が鶴見に告げた。
 このマンモス週刊誌は、昭和38年に廃刊になっている。

 ビリーとマリオンの新家庭に4日を過ごしてから、鶴見はフィラデルフィアにあるモリス前大使の家に移った。ある夜、近所の最高裁長官の家に一緒に行って、当地の名流10数人と食事をした。その折鶴見の隣りに坐っていた痩せた半白の背の高い紳士が、マダム・バタフライの原作者であった。

 11月1日にはヴァッサール大学で、女子大生150人を前に、「日本の目的及び政策」と題して現代日本論の講演を30分行った。

 11月中旬にはスミス大学で女子大生250人に日本の話をした。
 ヴァッサールの講演を済ませてから、鶴見はニューヨークを去って、ロング・アイランドのヒューストン氏の別荘で4日を暮した。

 11月4日の大統領選挙の夜景をニューヨークで見て、11月6日の夜行でバッファローに行き、ガレット倶楽部という婦人倶楽部で講演して、すぐニューヨークに引き返し、11月9日にはプロヴィデンスの町に行って、チェース家の客となった。
 鶴見がはじめてチェース家を訪れたのは、明治44年10月中旬、新渡戸博士に随行して、前上院議員ジョナサン・チェースに面会するためであった。当年82歳の老政治家は、晩餐の後で、彼が16歳の折にはじめて会ったダニエル・ウエブスターの話を始めた。少年時代には誰でも、心の底に生ける偶像を抱いているものである。ジョナサン・チェースが抱いていた偶像は、当時米国の政界に独歩していた雄弁家ダニエル・ウエブスターであった。そのウエブスターが弁護事務用で、この町に来たのを駅で見た話である。
 82歳の老人が、16歳の頃のままの純情を抱いて、逝ける史上の人傑の話をするということが珍らしいうえに、彼自身が非常な雄弁家であった。すっくと矢のように真直に立って、彼は細々とウエブスターの描写を始めた。そして興に乗じて、ウエブスターの不朽の演説中の章句を音吐朗々と誦して聞かせた。その一座の光景が名優会心の枝のような場面であった。それまで本当の英語の雄弁というものを聞いたことのなかった鶴見は、英語というものは話し手次第では、こんなにまで耳に快い旋律を現わすものかと思って驚いた。
 その後ジョナサン・チェースは逝去したが、鶴見は長女のアンナと二女のエリザベスに気に入られて、鶴見は米国旅行中、屡々この家に転がり込んで、苦しい講演旅行の疲れを癒やしていたのだ。
 何しろ広い国を、隅から隅まで走り歩いての講演であるから、講演よりも、旅行と宴会との気疲れで、心身ともに困憊してしまう。例えばニューヨークから夜汽車に乗って634キロメートルさきのロチェスターに朝の11時頃着いて、ホテルで荷物を下ろして、すぐ演説会場へ行って、12時半から午餐会、それが済んで演説、そのあとで質問応答、すむとすぐ4時ごろの汽車で368キロメートルさきのクリーヴランド市に夜遅く着いて、あくる朝早く教会で講演して、すぐ午餐会から午後の講演に廻って、その足で800キロメートルさきのデケーターへ、しかも早朝6時シカゴ乗換えの汽車で行って、昼着いて、午後と夜と2度講演して、その夜の汽車で320キロメートル離れたシカゴへ引き返す。そういった乱暴な旅行が1年半続いた。初めは若い元気でやっていたけれど、7、8ヵ月経つとまったく体力が弱ってしまった。殊に一人旅の場合は、手紙の返事で忙殺される。講演の打合せや、礼状や、それやこれやで、1日に20本くらいの手紙や電報は書かなければならない。
 このような苦しい旅行の折に、鶴見がもしこのチェース家に疲れを癒やすことがなかったら、彼はきっと中途で倒れていたであろう。事実欧州から来た講演者の中には、往々にして不治の大病に罹る者がある。

 長い講演旅行の間に1週間くらいのすきができると、鶴見はきっとチェース家に帰ってきた。ザ・サタデー・イヴニング・ポーストへの論文4つはこの家で書いた。

 11月11日にエール大学で鶴見の講演があるというポスターを留学生の松本重治(後の同盟通信社常務理事、国際文化会館理事長)が目にした。松本は8月以来総領事斎藤博が避暑のため不在のアパートに、鶴見と同居したことがあるので、定刻の午後4時に会場へ行ってみた。聴衆は学生、教授、学外の人々百数十人であった。鶴見は悠然として演壇に立った。演題は排日移民法論であり、彼の英語はほとんど完璧に近く、20枚くらいのカードを手に持って、そのカードにときどき眼をやりながら、実際は原稿なしの即席の講演のような態度であった。鶴見は流暢であり、雄弁であった。聴衆の中には、講演者たる鶴見の風貌、態度に接し、ここに自由主義の一英雄が出現したのではないかとまで感じた者が少なからずあったと松本に感じられた。名講演の後で5、6件の質問があったが、鶴見はユーモアたっぷりにこれを捌いた。
 閉会後松本は鶴見に近づき、8月以来の久○(原文はさんずいに“闊”)を叙し、11月29日のエール対ハーヴァードのフット・ボールの仕合の観戦に誘って承諾を得た。

 スミス大学で講演を済ませた翌日、鶴見は松本重治の案内で生まれてはじめてフット・ボールの見物に出かけた。
 折悪しくエール大学の競技場は篠つく雨でひたり切っている。満庭の見物人は傘をさすわけにいかないので、外套の襟を立てて、濡れるに任せている。
 両校の選手が広庭に現れて、所定の位置について身構えたその男性的な殆んど英雄的な空気に、鶴見は頭の中を稲妻のごとき感想が走り過ぎた。自分の男の子に運動をさせるならフット・ボールだ。彼はそう思った。
 学生時代に撃剣ばかりして暮らした鶴見は、今まで外国の運動にはある物足りなさ感じていた。それは剣を取って立ち上った瞬間の、あの粛然とした気合が、野球や庭球や漕艇には見られなかったからだ。いまフット・ボールを見て、鶴見ははじめて満足した。

 その後日譚がある。ゲームが済んでから、鶴見と松本は、松本の学生寮へ戻り、ストーヴで手を暖めながら紅茶とビスケットを喫した。同室のスミスを加えて約1時間雑談をして鶴見は帰って行ったが、松本が便所へ行っている間に、鶴見は松本のことを非常に褒めたと後でスミスはますます仲が良くなり相互に敬愛を深めて行った。スミスはペルシヤの建築史について世界一流の学者となり、アメリカとイランの文化交流に多大な功績を挙げてイラン国王から外人のための最高勲章を授与された。
 スミスは死の直前松本に、「僕の生涯をかけてのペルシヤ研究は、エールで、アジヤ人である君を知ったことが、その発端である。このことを君に言いたいと思い続けて40年になる。死ぬまでに君にこの一とことを言って置きたかったのだ」と語った。
 鶴見が松本を激賞したことが、松本とスミスの半世紀にわたる交友と、スミスがペルシヤ建築美術史の世界的権威となったことに少なからぬ影響があると松本は言う。
 大正13年のクリスマス直前に、鶴見は松本をビーアド博士に紹介している。その時ビーアド博士から、何とかして鶴見の講演を成功させたいと一心に考えて、いろいろ注意を与えたこと。ビーアド博士が提案して、博士の長男ウイリアムを稽古台にして、博士のアパートの裏庭で、講演原稿を鶴見が読み、当時ハーバード大学在学中のウイリアムが、その発音をいちいち直すといったことを入念にやった。その数日間のリハーサルのお蔭で、鶴見の英語には発音上のミスが全然なくなったことを聞いたのであった。

 11月13日には、ブラウン大学で排日移民法論の講演をした。
 11月15日には、ボストンのニ十世紀倶楽部で、「日本における自由主義勢力の台頭」と題して講演を行った。
 11月20日には、ボストンの日本協会で「日本人の心理」と題する講演をした。
 この頃、外交雑誌フォーレン・アフェアーズに「日本の希望と困難」と題する論文を投稿して採用されている。

 12月7日にはバッファロー市の教会で講演をした。
 その翌日ダートマス大学へ行き、大学経営のホテルに7泊して、8回講義をした。
 その後ヨンカース市の市民倶楽部やペンシルヴェニア大学の講演を終って、チェース家のあるプロヴィデンスに帰ってクリスマスを送り、除夜の鐘はニューヨークで聞いた。

 12月15日に大日本雄弁会より『思想・山水・人物』が出版された。
 この年、第5版が出版された『三都物語』の巻末の広告を見ると、この頃岩波書店から『文明政治家ウイルソン』、大日本雄弁会から『世界人たるの意識』を出版する予定であったが、いずれも未発に終っている。
 その他この年に寄稿したものは、
 掲載紙不明 1月号「曽遊山河」
 女性 2月18日号「労働省次官ボンドフィールド女史」
 婦人世界 3号「時事解説」
 報知写真新聞 6月12日号「伝説の島から島へ――南国の旅」
 サンデー毎日 6月15日号「南の思い出―パーム・ビーチの夏」
 サンデー毎日 7月27日号「文学と政治との岐路」
 時事新報 2月〜3月「断想」

 大正14年(40歳)
 年は改まったが、鶴見の北米遊説はつづく。

 1月3日は、鶴見の誕生日である。その夜はニューヨークのタウン・ホールで、排日移民法論をすることになっていた。鶴見は6年前にタゴールの講演を聴いたこの会場で、自分の誕生日に演壇に上るのだと意気込んでいると、その日の午後から突然の大雪となった。60センチを越える積雪で、鶴見の乗ったタクシーがなかなか目的地に着かない。気は揉める。時は移る。大狼狽の末やっと定刻すれすれに着いた。こんな雪の日に来る人があるかしらと見ると、千2、3百人入るホールに、それでも3、4百人の人が来ていた。こういう天候の日に来てくれる聴衆ほど、講演者にとって頼もしいものはない。かつて大正11年秋であったか、東京の基督教青年会館で、ウイルソンとウエルズの話をしたことがあった。その夜は珍らしい大暴風雨であった。その折来会の3百人あまりの聴衆を、鶴見は今もなお感謝をもって記憶している。その意味において飛雪を衝いて集まったこの夜の聴衆を永く忘れないであろう。
 その夜の講演を終えると、鶴見は午後11時発夜行でロチェスターに向かった。
 翌日の午前11時頃ロチェスターに着くと、シティ・クラブの午餐会の時刻が迫っている。鶴見が会場に出ると、今まで腰を下ろしていた人々が、一斉に立って拍手して迎えてくれた。
「温かい空気だな」
 と鶴見は心のうちで思った。はじめからこういう好感を持った聴衆に対しては、勢い話が“はず”んで来る。
 鶴見の右隣に坐っているのが、有名なフルベッキ先生の令息で、日本で少年時代を過ごしたので、日本語もでき、鶴見などのまるで知らない昔の日本を知っていた。
 一体に明治初年に日本に来た人たちは、日本の武士の風格の濃厚であり、農民や商人の純情の健全であった時代の風俗を見知っているので、妙な懐しい“あくがれ”のようなものを抱いているようだ。そういう人たちが、古い日本とアメリカとの鞏い連鎖であったのだ。いま日本が新しくなり、アメリカが新しくなった際に、その変わった工業的日本と工業的米国とを結びつける新しい鎖ができきらずに居るところなのだ。そしてそこへ、日米移民問題と対支問題という厄介な問題が起ってきているのだ。
 鶴見は座長の紹介を受けて日米問題の過去と、現代日本の実相と、そして排日移民法の日本国民に与えた印象とを講述した。鶴見の冗談に対して賑やかな笑い声が屡々起こった。今度の北米遊説中は、米国人の寛大な拍手に驚かされた。どこの講演会でも、1分2分と長く拍手するので、必ず2度立ってお辞儀をしなければ納まらなかった。
 そして質問が始まった。
「排日移民法案について、日本の方々のお憤りはよく解りました。それでは今後の方策としては、米国側においてどうしたら日本は得心なさるのですか」
 この質問は殆んど到るところで出た。これに対しては鶴見は少しも躊躇するところなく、すぐ答えた。
「そのご返事はあなたの方から伺いたい。一体日本の今回の憤慨を評して米国の方々は、それは移民法の精神の穿き違えだ。米国の移民法はまったく米国の経済的理由に基づくもので、米国の国内問題である。それを勝手に日本の侮辱と解釈して怒るというのは日本の間違いだ。米国の内政に対する干渉だ。こうおっしゃる方がある。これに対して私はこうご返事する。米国側のお考えはそうでしょう。しかしわれわれは米国の移民政策をかれこれ申しているのではない。紳士協約という、国際取り定めの破棄を論じているのだ。国際取り定めを相手方の意思を無視して破棄された態度を論じているのだ。これは明白に米国だけの内政問題ではない。また米国の移民法について日本人が如何なる解釈をして怒ろうと、それは日本人の勝手だ。それを怒るなと言われるのは、明白に日本に対する内政干渉だ。
 それでは米国はどうしたらよいか、とのお尋ねであるが、それはわれわれの知ったことではない。私としては、日本人はこのように憤慨していますと申し上げるだけで足りると思う。そこで米国は一体どうしてくださるのか、ということは実は私の方からお伺いいたしたいのだ」
 そういうと、気のいい米国の聴衆はきっと、ドッと笑って拍手した。
 鶴見の観察する米国国民性の1つは、他人の指図を嫌うという強い独立自尊心である。従って外国人たる自分としては、踏み越えてはならぬ埒がある、と彼は常に考えていた。
 その日の午後の汽車で、鶴見はオハイオ州のクリーヴランドに向かった。
 クリーヴランドの町では、フォールクス博士が自分の教会の日曜日の朝の時間を鶴見に与えたので、非常によい聴衆にしんみり話をすることができた。鶴見は生まれてはじめて、牧師の着る妙な黒い上っ張りのようなものを洋服の上にかぶって、高い祭壇のパイプ・オルガンの下で、日米平和論を語った。
 1月5日は宗教家団体に講演し、1月7日の夜は、クリーヴランド市の婦人クラブで話をした。このクラブの聴衆は、講演中にボツボツ退席する人が居た。
 午後10時の夜行で鶴見はイリノイ州のデケーターにあるジェームス・ミリケン大学に向かった。
 鶴見は朝着いて、午後と晩と2回講演した。演題は他の流行の倶楽部や大きい大学のように、お定りの「移民法と日米関係」ではなく、「日本における自由主義勢力の台頭」と「日本の労働運動」を希望された。
 この町で鶴見は失策をした。鶴見は夜の服を他の手荷物と一緒にシカゴ駅に預けてきた。大都会では誰も衣服のことなど問題にしないが、こういう田舎に来ると、無名の日本人でも一廉の名士扱いとされる。従ってその名士が夜の講演会に、昼の服装で出るのは失礼に当たるのであった。
 その晩の汽車で鶴見はデケーターを発って、翌朝シカゴに着いたら雪であった。
 シカゴの町に6日留って10回ほど講演した。そして毎昼毎夜の宴会である。
 一番盛大であったのは、この町の外交問題研究会で、土地の名流が多く出席し、色々の質問などが出て、なかなか賑やかであった。在郷軍人会であるアメリカン・リージョンでは、例の河馬の話をして笑わせた。
 郊外の富豪の邸で夜会で話をした。
 モリソン・ホテルで開催された米国各大学総長学長の連合大会では、「日本における高等教育の傾向」という題で講演した。
 鶴見は毎日毎夜の講演で疲れ切っていたので、講演をするにも準備をする時間がなかった。たいていは演壇へ立ってから、聴衆の具合を見て話した。実際米国で演説生活をはじめるとそうするより仕方なくなってくる。寝る時間と食事の時間だけしかないほど毎日引きずり廻されるからである。この大学総長の会合に出た時も、鶴見は心身まったく困憊しきっていた。彼は殆んど立っているのも面倒なほど疲れていた。鶴見は演壇の横の椅子にぐったり坐って今1人の弁士の話を聴いた。
 弁士は南方の或る大学の学長で、米仏交換学生の結果を報告していた。それを聴いているうちに、鶴見はある昂奮を感じた。アメリカとフランスとの間では、鶴見が多年希望していたことを今現に実行しているのだ。鶴見がこの頃痛切に感じていることは、自分のように社会へ出た者が米国へ行って、下手な英語で米国人に日本の話をするよりも、米国の青年を日本で教育して、米国へ帰って米国の大学で日本講座でも開かせた方が遥かに有効だということである。そのためには、英国と米国との間に行われているようなローズ留学生制度でも、日米の間に作ることだ。
 鶴見はその学長の演説を聴きながら、自分の腹案ができた。これは日本の文化の本質といったようなものを話すに限ると思った。
 前弁士が拍手で送られると、鶴見が立ち上って話し出した。
「座長、淑女ならびに紳士諸君。
 私は今宵、かくのごとき米国学界の耆宿を前にして、一席の講演を試み得る幸運を感謝するのであります。私は昨年ウイリアムス・タウンの政治学協会において講演をはじめて以来、米国各地を旅行しながら、わが日本の実情を米国の市民諸君の前に説明しているのであります。一九二四年の憾むべき移民法案の結果、日本国民は深く米国の上下両院の行動を遺憾とした。しかしながら、日本国民は未だ望みを捨てていない。純正なる米国国民の真精神は、あの移民法案に表明せられていない、と日本国民は信じているのである」
 ドッと非常に熱心な拍手が起こって、鶴見は暫らく演壇で立往生した。実際、宗教家と教育家との間には、移民法中の排日条項に対する遺憾の念が熾烈であったのである。鶴見はこの同情ある拍手を聞いたときに、これで今日の演説はしやすくなったと思った。しかし今一本釘を打っておく必要がある。
「私は渡米以来、ただ一つのことを念頭に置いていた。それは率直に私の考えを申し述べるということである。よしやそれがために、米国の一部の方々の憤りを買おうとも、私としては真実に国際協調を○(原文は“北”の下に“異”)願する一人として、国際平和の障害となることは率直に申し上げなければならないと思っている。しかるに、私のこの露骨にして――或る意味においてはむしろ憤懣を挑発するような――言論に対して、米国の聴衆諸君は実に寛大であった。否、寛大以上に同情的であった。ここにおいて私は、米国国民の真の“こころ”は、日本に対して温かいということを諒解した。この諒解と知識とを日本に携え帰って、私の同胞の前に真の米国の同情と友情とを紹介することは、私の愉快なる使命である」
 熱心な聴衆が、立ち上ってドッと拍手した。それは実に熱心な拍手であった。衝動的な米国人は、物に感じたときは、それを惜しげもなく表現する。その一面を鶴見は今度の旅行中に屡々経験した。
「私は只今、前弁士の最も興味ある講演を聴いていた。そして深き興味を感ずるとともに、ある一味の悲哀を覚えた。それは大西洋を隔てるフランスとアメリカとが、かくのごとき密接なる関係と理解とを有するに関らず、太平洋を隔てる日本と米国とが、その十分の一の諒解と関係とをも有せざることである。私の言にして誤りなければ、今やわれわれ人類は、大西洋時代を永遠に後にして、太平洋時代に向かおうとしているのである。その偉大なる太平洋時代に、立役者として登場しようとするのは、米国と日本とである。この二つの国民は、単純なる二大政治勢力というほかに、東西両洋の二大文明の潮流を代表する選手である。ゆえに米国と日本との接近と理解とは、とりもなおさず西洋文明と東洋文明の接近と理解ということである。
 われわれ日本は、一八五四年の開国以来、欧米の文化を血眼になって研究した。しかしながら、西洋諸国の方々は、未だ東洋文明研究の熱情を、われわれ東洋人の西洋文明に対するごとく有して、居られないのである。いまフランス文明と米国文化との接触のお話を承りながら、私が一味の悲哀を感じたというのは即ちそれである」
 聴衆がまた熱心に拍手した。鶴見は完全に聴衆を捕えたということを意識した。そこで思い切って本論に入った。
「私はいま、この壇上において、東洋文明全体を代表してお話する資格はない。インドや支那の偉大なる文化の一切を私ごとき者が知悉するとは申せない。しかし私は、私の生まれ育まれた日本の文化については、一言するの資格があると思う。故に私は、日本の高等教育の基礎をなす日本文化の本質について一言いたしたいと思う。
 私は日本の教育と米国の教育とを比較して、二つの大きい相違を発見するのである。その一つは、日本教育の弱点である。それは何であるかと申すと、日本の教育は記憶力の上に建設せられているということである。私はよく外国人に賞められることがある。例えば、私はよく人のために英語の通訳をすることがあるが、一方が日本語が十分でもニ十分でも一息に話すのを、私は一字一句残らず通訳する。すると聞いている外国人が、よく、お前は記憶力がよいと言って賞める。しかしこれは、長所というよりは、われわれ日本人の共通の弱点であると、私は近頃になって気がついた。それはわれわれ日本の教育が記憶力の養成に走っている結果である。われわれは困難なる支那文字を五千も一万も記憶してからでなくては本が読めない。支那の古典の文章とその解説とを記憶することが、昔の日本の教育の根本であった。今日においても、日本の教育は教室において教師の説くところを全部暗誦した者が良い成績を得るのである。そのために、不知不識の間にわれわれは記憶力を磨き上げて居るから、人の話を記憶するなどということは非常に容易なことになるのである。即ち無批判に人の言ったことを憶える癖があるのである。
 これが日本人の教育上の弱点であると思う。これを米国の教育に較べて見ればすぐ解かる。あなた方の教育の根本は、物を憶えるということでなくして、物に対する判断力を養うということである。個人的判断力の材料として、他人の知識を習得するという態度である。ゆえに米国人は判断力において、他国人に優れたところを持って居る。その代り、かなりつまらぬ事を知って居ないことがある。(ここで笑声が起こった)この点はわれわれ日本人の方が勝っている。場合によると米国のことも、あなた方よりよく記憶しているかも知れない。(再び笑声が起こる)この点は、私は日本の一切の教育の欠点であって、改正せねばならぬ根本の点と考えている。
 ところが、何故にかくのごとき風習が、日本の知識界に発生したかと言うと、その根本の原因は、われわれの研究に値する点である。その一つの理由は、従来の日本の封建政治が専制政治であったために、個人が一人一人独立の意見を持つことを統治者好まなかったということである。独自一己の意見を持った人間が大勢居ると、政治がやりにくくなるから、統治階級の教えたままの社会思想や道徳思想を、丸呑みにして暗記させておくに限る。そうすれば国が治め易い。そういうところから来ていると私は思う。
 しかし、それよりも更に根本的な原因があると私は考えている。それは何であるかと言えば、日本人の人生観の根本であるとも言える。
 私は例をもってお話したいと思う。欧州大戦争の後に欧州各国の政治家や軍人が、沢山自叙伝のようなものを書いた。それは多くは、自分のした仕事の説明、乃至は自分の戦争中の政策の弁護である。ところが、日本の政治家というものは、ついぞ自叙伝を書かない。それは何故であるかと言うと、日本人の本質的観念から出発している。日本の本当の正しい政治家たちは、何を考えたかと言うと、自分のした仕事のよしあしの判断は、後世の歴史がしてくれる。何も自分でしなくてもよい。また歴史が裁判してくれなくてもかまわない。国のためになったのなら、それでよいので、別に自分の事業を説明し弁護する必要はない。かように日本の正しい政治家たちは考えていた、と私は思う。
 それは何を物語るかと言うと、何もそれだから日本の政治家の方が偉いとか善いとかいうことではない。考え方の相違である。西洋の方の考え方は、個人ということから出発する。われわれ日本人の物の考え方は、全部ということから出発する。これは殆んど日本人には第二の天性のようになっている。われわれは常に、自分個人ということを考える前に、周囲ということを考える。例えば、何かするとすると、周囲にどういう影響を与えるであろう。周囲の人は何と言うであろう。そういう風に考える。即ち、自分と社会という感じが強い。一部と全部との関係という感じが強い。従って、この周囲というのは、小にして家族、中にして国家、大にして宇宙であるが、われわれ日本人はいつでも、この大なる国家宇宙と自分との関係ということを、殆んど本能的にまたは無意識に考える習慣がついている。従ってこの国家悠久の生命と宇宙の広大無辺とに対比すれば、われわれ個人というものが如何にも小さい無限小のものであるという感じがする。従って個人たる政治家が、自分自身の政策を自叙伝の形で弁護するのは子供らしいことだという気がして来る。それが日本人の物の考え方の根底にある。
 この考え方には勿論欠点がある。それは個性の滅却ということである。個人よりは全部が貴いために、日本では本当の意味における個人心霊の権威とか、個人人格の尊貴とかいうものを認める点において欠けていた。
 しからば、この精神はどこから来るかというと、私の考えでは、日本人の調和癖から来ると思う。
 私は近頃考える。日本精神の根本は、調和愛ということだと思う。日本人は調和ということを感ずる鋭い本能を持っている。
 例えば日本の美術をご覧なさい。いつも一つの絵画のうちに調和を求める。日本人の家庭生活をご覧なさい。一家の人々の調和を熱望する。日本人が日本室に入ってきて坐るのをご覧なさい。彼は無意識にきっと、この室のうちで一番よく調和するような位置に坐る。日本室の装飾をご覧なさい。掛軸も、活花も、座蒲団も、机も、火鉢も、みんな室としてのある調和を保つように並べてある。つまり日本人というものは、行住坐臥の一切において、周囲と自分との芸術的調和を求める本性を持っていると私は思う。この調和の例として、私は二つのお話をしたいと思う。(ここで鶴見は、狩野探幽の話と徳川時代のある舞踊の師匠の話をした)
 この調和癖または調和愛ということが、日本文化の根底であると私は思う。ゆえにある個人が、自分の主張をあまりに強く言い張ることが、全体の調和を破ると思うと、日本人は主張しない。一切を全部の調和に捧げるから、家族とか国家とかの幸福と調和とのためには、小さい自己を捨ててしまう。自殺すらする。
 こういう調和癖のために、日本文化は全日本人の調和という上に建設せられた。従って個人的差別を強調しない。個人的欲求を主張しない。そこに善悪ともに、日本文化乃至は日本教育の本質があると私は思う」
 1時間ほどの演説を済ませて座に復すると、満堂の学者たちが破れるような拍手を送ってくれた。いつまでたっても止めないので、鶴見は2度立ってお辞儀をした。
 すると1人の老教授がつかつかと鶴見のところへ進み寄って、温かく手を握りながら、
「あなたの話を聴いて、私は暗涙を催した。あなたはわれわれ米国の弱点を衝いた。あなたの言って居られたことが、それが本当のキリスト教精神だ」
 と言った。
 鶴見はこの演説の内容を布衍して1つの論文として、ゼ・サタデー・イヴニング・ポーストに発表した。

 シカゴから夜行列車に投じて、翌朝ミネアポリスに着いたら大雪であった。その夜はミネソタ州立大学の教授たちの会で、日本文学の話をした。
 翌日は朝食抜きで、午前8時から郊外の大学2ヵ所で講演し、午前11時半にミネソタ州立大学の大講堂で1万人の学生の前に立った。聴衆も1万人も居ると張り合いのあるもので、空腹そっちのけで大いにメートルをあげて、諸君の社会に出る時は太平洋時代で、米国はヨーロッパに向けなければならぬ秋だ。そうすればニューヨークやワシントン中心の今日の米国は、変じてシカゴ以西の諸州中心の国となるであろう。しからば本州のごときは大いに力を世界の舞台に伸ばさなければならぬことになる。して見れば、諸君としても、今日のごとくフランスや、イギリスや、ドイツのことばかり勉強しないで、少しく日本支那の研究に精力を傾けてもいい筈だ。一体本大学のごとき新興の学府においては、日本語のできる教授の4人や5人居てもいい筈だ。諸君のうちから、日本語を研究しようという篤志家は出ないか。日本語は何もそんなに難しいものでも何でもない。私の子供は当年僅かに2年であるが、既に日本語ができる。もし米国の有為の青年にして日本語のできる人が居たならば、彼は必ずや嶄然として頭角を儕輩の間に抜くであろう。何となれば将来の米国にとって最も重要なる外国は日本であるに違いないから、と空き腹を鼓して気炎を吐いてみた。
 1万の学生がやんやと喝采するので、鶴見はだいぶいい気持になって降壇すると、2、3人の学生がやってきて、「われわれはぜひ日本語をやりたいが、何年くらいかかるであろう」と真面目になって質問した。
 その晩、夜行列車でシカゴへ引きかえしつつ、このミネアポリスの町に、13年前新渡戸博士に随行して1ヵ月滞在したが、その折は初夏で新緑の美しかったことを思い出し、こんな大雪の日に来たことが残念であった。

 シカゴの講演を一切終った鶴見は、夜行列車でセントルイに向かった。翌日の午前11時に、教会で倫理協会主催の下に、「現代日本の思想的傾向」と題する講演を行った。
 講演がすむと、労働者風の五十恰好の男が、つかつかと演壇に上ってきて、ぐっと鶴見の手を握って、「あなたのような方が、早く日本の首相となる日を待ち望む」と言った時は、未来の首相は面喰って、ただ「サンキュー」というほかなかった。
 その晩は、男女の青年会の催で、日本の青年運動の話をした。
 その翌日は、シティ・クラブで、移民法論をやった。そしてその夜の汽車でイリノイ州立大学のあるアーバーナの町へ向かった。
 イリノイ州立大学に着いて、2晩泊って3度講演した。その翌々日の夜行列車でニューヨークへ向いつつ、「これで苦しい中西部諸州の講演旅行が無事に済んだ」とホッと大きい息をついた。

 中西部の旅行から帰って、ニューヨークで約10日間休養した。
 毎日眼が覚めると、「今日も演説がないな」と思って嬉しかった。こうして働いた後は、休息をする権利があるような気がして愉快だった。
 そして、昼と夜とは、あちこちの友人たちと食事をしたり、好きな映画を観たりしていた。ロックフェラー氏の邸に招かれて、はじめて世界一の金持の家というものを見た。その飾らない家風が気持よかった。
 鶴見は大学卒業後に折々米国に旅行しただけであるから、学生時代を米国に暮らし、または米国において職業を持って長く生活した人々に比して、この国を研究する上において有する不利益を補って、真の米国を理解するためには色々の友人を持つことが必要と考えて、色々の人と交際した。
 その1人が劇作家のジョージ・ミドルトンであり、その妻のフォーラである。フォーラについては鶴見は『壇上・紙上・街上の人』で、「貴い話」という1章を設けている。
 この夫妻と交際したのもこの時期であり、ジョージが忙しい時は、妻のフォーラと鶴見がダンスに出掛けたりした。

 2月3日の夜は、ニューヨークで1、2を争うシェリー料理店の広間の晩餐会で、「支那の未来」というテーマで、駐支米国公使マクマレーと鶴見とケレンスキー内閣の時の駐米露国大使バクメチェフが、米・日・露の立場から演説した。
 鶴見が口を開いて
「世界の列国は、久しい間支那というテーブルの上でポーカーをやっていた。ところが近頃になって段々気のつき出したことは、このテーブル自身が、列国に対してやはりポーカーをやっていた。ということである」と言ったら、列座の人々がどっと笑って拍手した。それはこの会に出ていた人々は、多くはニューヨークの実業家銀行家たちで、近年支那に貸した金が取れなくて弱りぬいていた際であったからである。
 この日の午後、鶴見は大切な会であると思って、丁寧に演説の原稿を作って、社会改良運動にたずさわっているメーヨーと農場を経営しているニューウエルという2人の女性に相談したところ、メーヨーが、
「このお話に私どもは依存ありませんけれど、原稿を作ってお読みになることは、どんなものでしょうか。アメリカ人は準備された話を好みません。その場で率直に胸から流れ出る話を好みます。ですから、今夜の会でこの原稿を出して読まれることは、あなたのご損だと思います」
 と言った。鶴見はなるほどと思ったので、手ぶらで行って、両手をポケットに突っ込んで、わざと平気な風に座談的に話してみたのであった。
 鶴見はこの講演旅行中、ただ1つのことを忘れないようにしていた。それは自分が米国人でない、ということである。従って鶴見の米国に関する知識は非常に浅はかなものであるということである。故に鶴見は演説をする時も、文章を雑誌に出すときも、その他重要と考えることは、悉く米国の友人に相談して、その批評を求めた。それは彼のごとく外国生活の短い者は、得てして小さいことで外国人に不快な感を与えたり、自分のまったく気のつかぬ失策をしやすいものである。それが自分1人の恥ですめば結構であるが、日本人と銘打って演説する以上は、自分の国の不名誉になる。
 殊に鶴見は、演説中になるべく多く冗談を入れた。それは米国人が冗談を好むからである。冗談を言う前には、果してこれが、米国人に愉快な冗談として受け取られるかどうかを、必ず米国の友人に聞きただして置いた。それは冗談ほど国と地方とで、間違いの起こり易いものはないからである。

 2月4日はニューヨークを発って、プロヴィデンスに2晩をすごし、ボストンのアジア協会で日米問題を論じて、すぐ夜行列車でカナダへ向かった。

 2月8日の朝、モントリオール駅に着くとハンキンが出迎えていた。鶴見はウイリアムス・タウンでのハンキンとの約束を果たすためにカナダを訪れたのである。
 ハンキンの案内で牧師のスノウ博士の家に旅装を解き、スキー場へ行って、鶴見は生まれてはじめてスキー見物をした。大正14年のことである。因みに鶴見は運動家であったが、生涯スキーをしたことがなかった。
 この時鶴見は、雪の道を踏みはずして1メートル50センチほどの深い雪のうちに。ズルズルと滑り込んで困憊した。大雪の上を歩きつけない彼は、この日は1日困りぬいた。鶴見は歩きながら、非常に疲労した。それが流感の前兆であったとは、その時は少しも気が付かなかった。
 その夜は、ユニテリアン教会で、日本の話をして、スノウ家に帰って眠ると、夜半から発熱した。39度ほどの熱に苦しめられて、碌に眠れなかった。
 2月9日は、有名なカナダ倶楽部で、午餐会の席上で「米国移民法の日本国民に与えた衝撃」という講演をした。出席者には政治家が多かった。鶴見は300人ほどの聴衆を相手に、うんと排日移民法の否を鳴らした。すむと馬鹿に喝采してくれた。
 その夜は、40度の熱で、夜中に持っていた薬を飲み飲み、冷水をガブガブ飲んで、熱と闘った。41度まで上る熱で弱らされた。
 2月10日は、昼はカナダ婦人倶楽部で、また移民法論をやって、その晩の8時の汽車に乗って、ボストンに向おうと思って、駅まで行って、ぐったり駅でベンチの上に倒れてしまった。熱は42度くらいあった。2晩の不眠でまったく疲れて、どうしても体が動かない。これから寝台車に乗って、ボストンまで1人で行けるかと危ぶまれて来た。そこへ折よく、ハンキンが見送りに来て、真青な鶴見の顔を見て、
「そんな顔色をして、1人旅は危険だ。私の家へいらっしゃい。今夜は養生して、明日お発ちなさい」
 と勧められたので、とうとうその気になって、切符を明日のに買いかえて、そこからハンキン家に行きつくと、寝台の上にバッタリ倒れてしまった。
 翌日眼が覚めると、熱は大分下っている。ハンキンは会社に行って留守だ。婦人が折々部屋に来て介抱してくれた。
 その晩の汽車で鶴見は、モントリオールを去ってボストンに向かった。依然たる熱のため、発汗して少しも寝られない。
 大正8年1月にもこの通りの大熱で、ワシントンで殆んど死にかけた経験があるので、今度はもしかすると生命に危険があるかも知れないと思った。その晩は汽車の中で、真剣に遺言を書こうかと思った。
(大正7年にスペイン風邪が大流行し、世界の人口の半数が感染し、4千万人が死んだといわれている。)

 2月12日朝、ボストンに着いた鶴見は、ムアーズの家へ転がり込み、そのまま床についてしまった。午後7時頃やっと起きて、足を引きずるようにして講演会場に到着した。午後8時から有名なラウンド・テーブルという会で、日本の自由主義について講演したが、講演中立っているのが苦しいほど疲れていた。
 その講演が終ると、すぐまた夜行列車でニューヨークへ向かった。車中では依然として眠れなかったが、朝早くニューヨークへ着き、プラーザ・ホテルの寝床の上に倒れて、2時間ほど熟睡することができた。午前11時頃目が覚めた時ほど、鶴見は健康を与えてくれた両親に感謝したことはない。これならば、大丈夫だという気が沁々された。午前12時半からアスター・ホテルで日本協会の講演をした。
 その講演を終えてホテルへ帰り、翌日までそのまま寝てしまった。
 翌2月14日は、鶴見がアスター・ホテルの大広間で、日米開戦論者の巨魁アドミウル・フィスクと立会討論をする日である。
 会場はニューヨークで1番大きい宴会場だが、3千人の来会者で満員であった。ウイリアムスタウン以来の晴れの舞台だ。
 1段高く作った正面の壇上に食卓を設けて、約20人の来賓が聴衆に向かって坐る。中央に会長のジェイムズ・マクドナルド、右にフィスク提督、左に鶴見、鶴見の隣りにエールの大学生松本重治が坐った。11月にエールとハーヴァードのフット・ボールの仕合に、エールの学生である松本が、1人のゲストを招待する権利を行使して鶴見を招待した返礼に、ゲスト・スピーカーの客として鶴見が松本を招待したのである。
 だが松本は驚いた。聴衆の1人として傍聴席に坐るのだとばかり思っていたら、ゲスト・スピーカーの招待客は、1段高いメイン・テーブルに就くのだという。鶴見は松本に「今日だけは、君も名士になるんだよ。チェアマンをやるマクドナルド君がゲスト・スピーカーの紹介にさきだち、きっとメイン・テーブルに着席している人々を、1人1人、聴衆に紹介するだろう。そのとき君は、立つなり、会釈して応えればよいのだ」と教えた。
 松本は少し安心したが、この時鶴見のいたずら心が起こった。鶴見は続けて言った。「メイン・テーブルに就いている人々に対しては、聴衆から名指しで質問をするかも知れないね。名指されたら、君も答えなければならないのだよ」と。松本は驚き慌てて「それは参ったな。ぼくは困ります」と言うと、鶴見は「君も将来はこうゆう場数を踏んで行かなければならないのだよ。だが、聴衆から名指しの質疑は、滅多には無いのだから、あまり心配はせんでもいいよ」と言ってニコニコしている。
 するとどこからか鶴見に小さい紙片が廻って来た。見ると「ご心配なさるな。聴衆は日本に同情している」と書いてある。壇の下に坐っている会の幹事の女性からであった。
 何しろまだ熱は去らず、5日間碌に食事していないので、鶴見の顔色が蒼く元気が無いのを、この女性は立会討論が心配で蒼くなっているのだと思ったらしい。
 鶴見がまず口を切る番であった。そこで現代日本の実相について30分ほど話した。自分の声が堂の隅々へ徹してゆくのが快かった。病苦も疲労も忘れるようだった。聴衆が熱心に聴いた。鶴見の演説の要旨は、
「日本の過去六十年の外交が、好戦的であり、侵略的であるという誹難をわれわれは屡々受ける。しかし、世界の強国にして戦争によらずして、領土を拡めた国があるか、侵略なしに大きくなった国があるか。一切の弱小民族の侵略はいけないとならば解かる。しかし日本のみの国家的膨脹がいけないと誹難する理由がどこにあるか。安政元年開国するまで、日本は二百十六年間鎖国して平和に暮らしていた。しかるに欧米の列強が来て無理に日本の国を開いたのではないか。日本はこの開国を感謝する。しかしながら、開国させた国々が、開国の当然の結果たる日本の膨脹を何故に攻撃するのか」
 ここで拍手が起こった。
「私はこの壇上より、全世界の歴史家に挑戦する。世界歴史において、一つの民族が二百年以上も、内乱も国際戦争もせずに、絶対的平和を維持した史実がどこにあるか。この日本国民の有する平和のレコードを破るべき史実あらば、何民族といえども提示せられたい」
 再び拍手起こる。
「故に平和ということの真の幸福を知悉せる民族ありとせば、失礼ながらそれは日本民族である。その日本民族を目して好戦的とは、誰が言うのであるか。
 そして今や、欧州戦争の結果、戦争というもの自身の意味が一変した。昔の戦争は勝った国には有利なものであった。然るに今や、戦争は勝っても負けても、その一切の国の文化と生活とを破壊する。単に物質的に考えても、戦争は引き合わない商法である。
 日本は非常なる人口増加に苦しんでいる。日本の頼むべきものは海外貿易である。その大切なお客は米国である。日本の最重要な輸出品である生絲の行き先は米国である。日本がどんなに商法が下手でも、一番よいお得意様に、店さきで鉄砲を向けては、商法にならぬということくらいは知っている」
 ここで大爆笑が起こった。
 それから鶴見は、最近日本の社会思想の変遷の大様を話した。聴衆が長く熱心に拍手した。鶴見は二度立ってお辞儀をした。
 それからフィスク提督が演説した。丁寧に紙に書いてきたものを克明に読み上げた。
「私は日本を尊敬する。しかし、太平洋上の二大海軍国は衝突すべき論理的必然性をもっているゆえに、米国はこれに対して、準備をしなくてはいけない」
 それが提督の論旨の全部であった。そして鶴見の演説に対しては、別に論駁も何もしなかった。この会に出るような人ははじめから戦争反対の人々であるから、提督の戦争論はうけなかったのである。また今一つには、当時は排日移民法の反動として、親日気分の甚しく濃厚な時であったから、排日の演説はうけなかったのである。
 それから色々の質問が、提督と鶴見とに向かって蝟集した。鶴見は見事にそれを捌いたが、宣教師らしい老人が、
「あなたは、日本は好戦的でないという理由として、戦争は馬鹿げたことで、引合わない商売だと言われましたが、その他にもっと高尚な、平和思想は無いのですか。キリスト教的平和思想はないのですか」
 と問うた時に、鶴見は思わず、グッと癪に触った。
「お答えいたします。日本には慈悲忍辱を教える偉大なる仏教が数千年来あります。人間のうちの神性を高調する神道が、ずっと以前からあります」
 鶴見の顔は興奮のため青くなっていた。すると聴衆が一度に、ドッと破れるように喝采した。後刻列席していたミス・ベッシーが言った。
「ユースケ、お前があの無礼な質問を受けて、怒ったということを聴衆が直感した。そうしてお前が今まで出さなかったような大きな声をして反噬した。そこの精神を聴衆が買ったのだ。アメリカ人は率直な大胆なことを喜ぶ国民だから」と。
 結局この討論は、鶴見の判定勝ちと松本に感じられた。
 会が終ると鶴見は、「風邪をひいているので、僕はすぐホテル・プラザに行って寝たい。君は僕の代りに、ビーアド先生に今日の会議の報告をしてくれ給え。先生ご夫妻が非常に心配されていたので、安心されるよう君から話をしてくれ」と言ったので、松本はそのとおりビーアド博士のアパートに行き、会場の空気など詳細に報告した。博士夫妻と礼譲のミイリアムも座に居て、皆が松本の報告で鶴見の出来栄えを喜んだ。
 鶴見は大勢の人のお世辞をいい加減に聞いて、タクシーをホテルに走らせた。これでニューヨークの晴れの舞台も済んだ。米国へ来ての仕事も段々片づいた。そう思うと急に疲れが出て、翌朝まで何も知らずに寝込んでしまった。
 2月16日は、ボストン近くのクラーク大学で、2回講演した。
 その講演中、米国人が日本でした色々のよい仕事の話をして、日本の監獄改良は御当地出身者のベリー博士のお蔭であると言ったところ、講演が済むとすぐ壇の前の老人が立って来て、「私が日本にいたベリーであります」と言われたのにはまったく驚いた。
 それから、ロードアイランド州の婦人会、ジョンス・ホブキンス大学、ブルックリンの倫理協会、ボストンの婦人倶楽部などを廻って
 3月7日にカネチカット州の首府ハートフォード市で、外交協会主催の立会討論をやった。この時は日本の神戸高商に2年ほど教師をしていたグリーンビーという人が相手であった。
 鶴見が先に話して、次にグリーンビーが立った。グリーンビーは、新聞の切抜きなどを沢山持ち出して、しきりに日本は反動思想全盛の国であると為して鶴見の諸説を駁し、殊に日本は皇室の勢力が戦前のドイツ以上に旺んであるから、陛下の一令の下には如何なる無謀な戦争でもする国であるとして、色々の例を引いて演説した。
 グリーンビーの演説の後で、再び鶴見が起って、
「私は、前弁士の興味深いお話に対し三つの質問が胸に浮かんだ。
 その一は、日本人は天皇陛下を尊崇するから、いけないというようなお話であった。外国の皇太子を崇拝するのはかまわないで(米国人が英国皇太子に夢中になったのを揶揄したのである)自分の国の天皇陛下や皇太子殿下を崇拝するのはいけないのでしょうか?
(ここで聴衆が爆笑した)
 その二は、日本は陛下のお写真にお辞儀をするから非常識だと言われたが、それでは国旗という布巾に敬礼する(米国人の国旗好きを暗示して)のは、あれは非常識ではないのでしょうか?
(再び笑声が起こった)
 その三は、日本は支那をいじめたからいけないということでしたが、それでは支那以外の国々(メキシコやサント・ドミンゴを暗に指して)をいじめるのならいいのでしょうか?
(大爆笑起こる)
 と言ってどっかり腰を下した。
 グリーンビーが真赤になって怒って、色々鶴見の攻撃をはじめた。
 すると鶴見の隣りに坐っていた上院議員の女性が、
「もうあなたは、何も言わない方がよろしい。今あの人は怒って、あなたの攻撃をはじめた。怒った方が政治論はまけですよ。聴取の同情を失いますからね」
 と言った。鶴見はそれきり相手にならずに討論の幕を閉じた。

 それからフィラデルフィアでフェアチャイルド教授との立会討論、オルバニーでまたグリーンビーとの顔合せという風に、3月は到るところで立会討論をして過ごした。
 そして4月4日のシンシナティ市の演説が終って、ニューヨークへ帰ってきて、講演旅行の予定はすべて終った。
 それは米国の講演の季節は、10月末から3月末までで、4月となって花が咲き出すと、運動の季節、旅行の季節になるから、誰も肩の凝る講演など聞きに来ないからである。
 鶴見は4日ほど、ニューヨークから4時間ほどの海岸遊覧町のアトランティック。シティに保養に出かけた。ここで半年にわたる疲労を癒やした後、ゼ・サタデー。イヴニング・ポーストへの原稿を書くため、プロヴィデンス市のチェース家へ帰って行った。

 6月24日に鶴見は、米船マウィイ号でサンフランシスコを出港し、ハワイへ向かった。
 7月1日から25日まで、ホノルルにおける第1回太平洋会議に出席した。
 ハワイの会議が終ってニューヨークへ帰る途中、カリフォルニアのミルス女子大学で、約千人の聴衆に1時間講演をした。
 その前にプリン・モア女子大学で、150人の聴衆に、日本文学の講話を行っているが、月日が不明である。
 書き洩らしたが、3月初旬に、ウェルズレー女子大学で、「現代日本文学」という題で講演をしている。
 この大学は明治44年の秋に、新渡戸博士に随行して訪れた思い出のあるところである。
 その時大学側は新渡戸夫妻のみと思っていたところへ、いま1人若い男がついて来たので当惑の末、鶴見を女子大の寄宿舎に泊めることにした。
 案内された食堂は20歳前後の女子大生ばかりで、男は鶴見だけである。鶴見は大学を出た翌年で、結婚前であった。少々硬くなっていた。右側に坐っていた女子大生に、「今晩ご演説なさるのはあなたですか?」と訊かれた時は、まったくギョッとした。26歳の鶴見は、英語演説は新渡戸博士でなくてはできないものと考えていたのだ。
 それでも食事中は多少得意になって、日本の俳句の雄なるものは、
「アン・オールド・ウェル・エ・ジャムピング・フロッグ・ゼ・スプラッシ・オヴ・ウォーター」
 というのだと説明したら、一同腹を抱えて笑った。
 その晩新渡戸博士の演説がすんで、鶴見が1人でトボトボと階段を2階の自分の部屋の方へのぼって行った。1番上から2、3段というところまで来てふと気がつくと、上の廊下で朗らかな歌声が聞こえる。つと鶴見が上を向くと、薄暗い廊下の中を、向こうからこちらに向けて、8、9人の若い娘たちが、色々の色のパジャマ姿で、これから風呂に行こうとするところだ。こちらが見上げたのと、向こうが見下したのが同時であった。
「キャッ!アッハッハハ、ホホホホホッホ!」
 という高い笑声とハタハタという足音とを薄闇に残して、娘たちの姿は消えて行った。鶴見は危うく尻餅をつくところであった。
 その翌朝、鶴見が食堂に下りてゆくと、5、6百人入る大食堂で、鶴見は1段高い生徒監席へ据えられた。男は彼だけである。あちこちでクスクスという笑い声がした。どこへ食べたかまったく判らなかった。

 ハワイから帰米した鶴見は、9月初旬ペンシルヴェニア州の山の中のリチャード・ウオッシボーン・チャイルド家を訪れた。チャイルドは、故ハーディング大統領の片腕と言われた政治家で、最近まで駐伊大使をしていた。今は米国で一流の政論家で、兼ねて小説家である。
 駐伊大使時代2人の女児に、鶴見が日本の着物を送ったことがあった。
 チャイルド家に滞在していた或る日、「おい。この頃短編小説はどうした?」とチャイルドが訊いた。鶴見は自暴(やけ)気味に「小説なんかつまらないから止めた。歴史だ、歴史だ」と答えた。
 大正8年のことである。鶴見は考えた。日本が全世界に誤解されるのは、本当の日本人の生活が、小説となって全世界の人に読まれていないからだ。日本人のうちから天才が現れて、世界語で日本人の霊を小説に記して、全世界の人に読ます時代が来なくては駄目だ。ポーランド人のコンラッドが、英文であれだけの大作を出したではないか。コンラッドのごとき傑作は誰にでもできるわけはないが、チャイルドくらいの短編小説なら、自分にでも書けそうなものだと考えて、鶴見が2つの短編小説を英文で書き上げた。
 それをチャイルド夫妻(夫人も小説家である)を見せると、「これは小説じゃない。論文だよ」と言ってチャイルドは腹を抱えて笑った。
 以来鶴見は、英文和文を問わず短編小説を書いていない。
 この時、大正14年に鶴見が小説は止めて歴史を志すと言ったのは、チャイルドの多芸多能に叶わない負け惜しみに歴史だと言って逃げてみたのであるが、後に鶴見は真剣に日本史を書きたいと志し、随筆も小説も史伝も日本史を書く準備だったと言っている。結局日本史は書かずに終ったのであるが……。

 9月4日からコネチカット州のビーアド博士の山荘に滞在した。
 今度の米国旅行中、鶴見は講壇から屡々「私は日本で知名の軽業師である」と言って聴衆を笑わせたのであった。それは「触れ出しは日本に関する学術講演といういかめしいものであるが、実は自分にとっては、英語文法の綱渡りに過ぎない。折々落ちるが、ついぞまだ怪我はしない。それは落ちても自分は不名誉と思わない。こんな不規則な文法を作った諸君の先祖が悪いのだ。その証拠には日本でしゃべらしてみろ。文法の間違いなどは、一つもしないぞ」と言うと、人の好い米国の聴衆がやんやと喝采した。

 ところが、ほかの意味で鶴見は軽業をして歩いていた。それは米国の友達の家から家へと綱渡りをして歩いていたのである。外国旅行の苦痛は、ホテル生活の単調である。ところが、人の家に泊って歩くと、行く先々で品が変わるので頗る旅情を慰める。冬の間は米国人は大都会にいる。都会では大きいアパートメントの幾室かを借りて窮屈に暮らしているから、とても人を泊める余裕はないが、夏になるとみな田舎に出ているから、きっと招んでくれる。それは初代植民時代の客好みの癖の名残りである。
 大正11年に鶴見は来日したビーアド一家を案内して、京都奈良の秋色を賞でたことがあった。その山容水色がこの一家の人々の魂を魅了してしまった。ことに修学院の御園のあでやかな紅葉と、法隆寺の“さび”た境内とが彼等を驚かせた。

 冬が近づいてビーアド一家もニューヨークのアパートメントへ移ることになり、鶴見はニューヨークから64キロ北のベッド・フォード・ヒルスにある農場経営者のニューウェル女史の山荘へ向かった。
 そして11月中旬に、1年3ヵ月余の米国生活に別れを告げてサンフランシスコを出港して帰途に就いた。横浜に入港したのは12月上旬である。
 麻布永坂町の更級そば屋の手前の家に、後藤新平に追放された長男一蔵が住んでいたが、許されて後藤新平邸に戻り、邸内の南荘へ入居した。南荘に住んでいた鶴見の留守家族は、一蔵と入れ違いに永坂町の家へ移った。鶴見が不在時の出来事である。(『日米』95頁)
 杉村楚人冠をして、日本の新聞に顧みられなかったことは、鶴見一個の損失でなく、日本の損失であったと嗟嘆せしめ、松本烝治博士をして、官命を帯びて是れだけの仕事をすれば最上の勲章は当然だと激賞(沢田謙 訳『現代日本論』の巻末に付された『北米遊説記』の推薦文より)せしめた鶴見の北米遊説は、昭和54年に外務省外交史料館編の『日本外交史辞典』を繰ると、排日移民法の記事が769頁から770頁まで、排日移民法改正問題の記事は770頁から771頁まであるが、鶴見の活動については1行も触れていない。

 大正13年8月から14年11月まで、鶴見が米国滞在中に起こったことは、
 大正13年9月、『鶴見祐輔氏大講演集』が、同年12月に『思想山水人物』が、いずれも大日本雄弁会から出版された。
 前者は鶴見が、大正7年9月から10年4月まで、鉄道官僚の身分で欧米に出張観察した見聞の講演録である。
 大正14年1月、講談社の雑誌「キング」が創刊され、鶴見も賛助員となる。肩書は法学士である。(因みに現在ではどこの大学の法学部を出ても法学士であるが、当時「帝大」といえば事実上東京帝国大学を指し、「法学士」といえば東京帝国大学の法学部の卒業生を意味した。)
 大正14年3月には、後藤新平の姉・初勢が80歳で逝去した。
 大正14年12月号キングに、「出でよ!世界的英雄児!」を寄稿。

 大正13年10月、社団法人東京放送局が設立され、後藤新平が初代総裁に就任した。
 大正13年には、麻布桜田町の後藤新平邸内に西洋館が完成した。

 大正14年に鶴見は、新渡戸博士から国際連盟の事務次長の後任として推薦されたが、結局辞退した。
 新渡戸博士は昭和2年2月、事務次長を辞任して帰国し、貴族院議員となった。新渡戸博士を勅選議員にすることは、大正8年に新渡戸博士を事務次長に就任させる時に、後藤新平の提出した条件であった。
 新渡戸博士の後任には前田多門が就任し(『環』366頁)、その後杉村陽太郎となり、杉村は昭和8年、日本が国際連盟を脱退するまで在任した。
 鶴見が国際連盟の事務次長に就任しなかった理由の1に、和子・俊輔の教育を日本でという父祐輔の願いがあったと和子が書いている。(『環』366頁)
 祐輔は次のように述懐している。
「私も24年前を回顧して、私が米国の著述生活か、欧州での国際人生活に入らずして、日本の政戦に多くの時間を空費したことを、果して正しかったかどうかと、よく反省して見ることがある。……しかし私はこの自分の決定を今日は悔いていない。……何となれば、日本と別れて米国に永住するということは、到底私に取って不可能であったからである。それは私は趣味として、どうしても日本生活を別れることはできなかったし、また感情として永い外国生活は年1年と深みゆく郷愁として、私を激しく苦しめ苛なんだに違いないと思うからである」(『成城』4巻49頁)
第2節 ウイルソン追悼演説へ
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