鶴見祐輔伝 石塚義夫

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   第2節 ウイルソン追悼演説

 12月28日が、ウッドロウ・ウイルソンの誕生日である。
 この偉人の生涯を偲ぶために、この宵には米国の名流がニューヨークに集まって、夜会を催し、海内海外の思想家政治家を招聘して演説を聴く。
 この夜宴に出席したいということが、鶴見の多年の希望であった。
 この会が創立されて3年目の昭和2年12月28日に、アスター・ホテルで開かれるウイルソン夜宴に、鶴見に演説者として出席せよという招待状が届いた。彼は11月に講演旅行のため渡米したのであった。
 欣然として応諾した鶴見は、それから約1週間、想を練り、詩を構えた。僅々15分間の講演であるから、短い文章で、簡潔明瞭に意を尽くさねばならない。鶴見はリンカンのゲティスバーブの演説を思い出した。あの調子でゆくことだ。そう思った。そうしてある朝、タイプライターに向かって、一気呵成に打字した。それは僅か5頁の原稿であった。
 それを彼は泊っていたチェース家の2人の姉妹に示した。2人は非常に悦んだ。ただ1字だけ前置詞が間違っていたのを注意されて直したほかは、全部自分の起稿のままの原稿によって演説することに定めて、その日を待った。
 その夜はメーンスピーカーは、ウイルソン内閣当時の国防長官ニュートン・ディー・ベーカーで、鶴見は前座である。
 鶴見はチェース家の2階で、一生懸命に自分の原稿を暗記した。それは短い演説であるのと、ラジオで放送して全米国で聴かれる話であるので、大事を取ったのである。殊に米国人は原稿を出して読む朗読演説を好まないから、全然原稿を離れるために暗記して見たのだ。今まで鶴見は演説は英語でも日本語でも、あまり原稿を作らない癖があるので、暗記演説はかなり五月蝿かったが、会の性質上大いに勉強して見たのであった。
 ニューヨークで一番大きい宴会ができるアスター・ホテルの大食堂は、1500人の聴衆で満席だった。
 司会者のノーマン・デーヴィスが立って鶴見を紹介した。
「日本の自由主義政治家にして、年久しきウイルソンの研究者たる、日本よりの友人鶴見君をご紹介いたします」
 それで鶴見は、立ち上って話し出した。
「司会者、ならびに淑女紳士諸君。ウッドロウ・ウイルソン誕辰夜宴の席上、その演説者の一人たることは、私が殆んど夢想だもせざりし光栄であります。私は故人の生涯を日本人に提示せんとの目的のために、過去十六年間故人の事蹟を研究し暮している人間であります。しかしながら、米国の聴衆を前にして、ウイルソン氏の生涯を論ずるの特権を享有すべしとは、従来一たびも私の脳裏に浮かんだことはないのであります。ただ一事の深く遺憾として私の考えますることは、私が米国流の演説をしなければならぬと申すことであります。それは日本なら三時間も演説できますのに、今宵は僅々十二分しか与えられないと申すことであります」
 笑声がどっと起こって、今までの緊張した空気がぐらりと変わった。
「日本人は、ウイルソン氏を、米国人とも欧州人とも違う観点から眺めて居りました。そこには距離の差というものがありました。数千哩の水と陸とが我等の間に横たわっていた。さらにそこには、異なる伝統と背影との因子がありました。
 日本民族のウイルソン評価には、三つの重要なる生面があります。
 第一に我々の考えたる米国観というものがありました。第二には、我々日本人は政治家というものに関して伝統的な一つの考え方を持っていました。而して第三に、先般の世界戦争が日本人の精神に与えたる心理的影響というものがありました。
 かかる遠距離より眺め、かかる異なる背景を以て観察する時に、一切の些末なる点は消え去り、ウッドロウ・ウイルソンなる人物は、鮮明なる浮彫となって、我々日本人の眼に堕ち来ったのであります。
 日本民族の脳裏には、二つの異なる米国観がある。その一つは、リンカン以前の旧米国でいま一つはニ十世紀の新米国である。
 旧米国観は日本人の脳中には、ワシントン・アーヴィング、ベンジャミン・フランクリン、ジョーヂ・ワシントン、ロングフェロー、エマーソン、ホーソーン、エブラハム・リンカン等の名とともに連想される。二十年以前日本の学生等がワシントン・アーヴィングのスケッチ・ブックを愛読したるのみならず、愛誦したる程度の如何に広範なりしやは、諸君は想像せられることも困難でありましょう。日本の殆んど総ての学生は、ベンジャミン・フランクリンの自叙伝を知っている。ことにエマーソンの論文は、われわれ日本人には特有なる感興を牽き起こす。米国の公人中、エブラハム・リンカンは日本国民の情操中に最も偉大なる位置を占拠する。かくしてわれわれは、ワシントン・アーヴィングと、エブラハム・リンカンのアメリカを愛しかつ敬したのでありました。
 然るに此処に、映画と自動車と隆々たる海外貿易との新米国が出現した。
 私は○(原文は“玄”を並べる)に率直に申し上げたい。この新米国は日本人の精神中においては、旧米国のごとき高き位置を保有していないということであります。
 然るにウイルソン氏の堂々として米国政界に出現せらるるや、日本国民は氏のうちにフランクリンとエマーソンとリンカンとのありし日を偲ばしむる或物の存することを直感した。かくてわれわれは、氏をわれわれの有したる旧米国の姿と連結して思索するに至った。
 何故にわれわれが、ウイルソン氏を旧米国の文化と連鎖したりしやの理由は、一にして足らない。しかしながら、その原因の多くはわれわれが政治家――ステーツマン――と申すものに関して依然として中世期的観念を有すとの真実に基くと思うのであります。即ちわれわれ日本人は、学識というものに対して特殊なる崇敬の念慮を有し、かつ、かかる学識深遠なる政治家を有することを悦ぶの風があるからであります。ゆえにウイルソン氏が世界的声明ある学者であったというの一事が、日本人の念頭にウイルソン氏を思慕するの情操を生ぜしむるに与って大いに力あったのであります。われわれは今日も尚お「王公はすべて哲人たり、哲人はすべて王公たる」の日の到来せんことを祈るものであるからであります。
 かかる折に、世界大戦が勃発いたしたのであります。日本人は当初これをもって、日本と千里隔絶したる欧州の事件とのみ思惟したのであります。われらが青島攻囲の陸戦に加わり、南洋近海の海戦に従うに及んでも尚お、世界大戦の重大なる意義は、われわれ日本人には痛切に感じられていなかったのであります。日本人の大多数は、わが日本海軍が地中海に出動して、ドイツ潜航艇と交戦しつつありし事を知らなかったのであります。
 しかしながら、一九一八年の頃おいには、日本はこの大戦に深刻に参加していた――それは軍事的よりも更に経済的かつ思想的に。
 われわれ日本は、この大戦中に大変化の時期を通過したのであります。賃銀高騰の結果隆起したる労働者の勢力とともに、日本の経済的組織は急激なる変化を被ったのであります。要するに、新しき民衆が、日本の国の中に誕生したのである。
 これとともに国民間に思想的大変化が起こった一九一六年と一九一七年とは近代日本国民史上の一大廻転機である。経済的地位の向上に力を得て、日本の中産階級と労働階級とは、古き保守的統制者に対して、その牙城に肉薄した。時しもあれ、新理想を呼ばわう声が、凛々として太平洋の彼岸より轟き渡ってきたのである。
 米国大統領の大音声が、日本民族の精神を聳動した。然しながら、ウイルソン氏のさばかりの大音声といえども、時あたかも日本全土に起こりつつありし思想的変遷と相呼応せざりしならんには、かばかりの印象を日本民心に与えなかったであろう。日本国民はウイルソン氏を目して、泰西民衆政治運動と理想主義との代表者と看做したのである。
 今宵私に与えられたる短時間内において、私はウイルソン氏の人格中日本人の特に敬慕したる諸点を列挙することを得ない。要するに氏の日本人を動かしたのは、氏の思想よりも更に、氏の典雅なる品性と、氏の高貴なる精神とであった。氏の自己思想に対する確乎不抜の信念は、われら日本人の宗教的感情を刺戟した。
 日本人が敬愛したるウイルソン氏の人格の品隲を試むる代りに、私は故人と私との間に起こった一挿話をお話したい。これはちょうど、休戦条約締結後三日目、即ち一九一八年十一月十四日でありました。私は白堊館においてウイルソン氏にご面会するの特典を得たのであります。私はその折、ウイルソン夫人からお茶のご招待を受けましたところ、その席に大統領が出て見えたのであります。ただ私達三人だけでありました。私は一時間ほどお邪魔をして、色々のことを伺った。大統領は非常にご親切に私に色々のお話をして下さった。
 その会話中私がふと申した。大統領、私は今まで大統領のご著書とご演説は殆んど残さず眼を通して居ります。しかし、そのうちで深く私の心を動かした貴下の一つのご演説中の一句があるのであります。それは一八一六年、ケンタッキー州のホッジェンヴィルにおいて、リンカン誕生の丸木小屋の除幕式の折になされた貴下のご演説であります。そのうちに貴下はか様のことを仰せられました。リンカンは淋しい人であったと。この一句が深く私を動かしたのであります。
 この折までウイルソン氏は冗談を仰有って、非常に上機嫌に笑って居られたのであります。ところが、私がこう申しますと、ウイルソン氏は急に、粛然とされたのであります。椅子の上に、こう真直に坐り直されました。しばらくの間、黙って居られました。何かお考えになって居るようでありました。
 と、静かに私の方に向き直って、そうして話し出されました。
 私があの演説を致しましたときに、私はリンカンの旧友から一通の手紙を貰いました。その人は従来リンカン伝にはどれも満足しなかった。リンカンの一番大切な点が描出されていない為めである。であるから、とうとう貴下によって、この最も大切な点が指摘せられたることを悦ぶ、と彼は書いた。そうして彼はこの手紙を結んで言った。私の知っていたリンカンは淋しい人であった。彼は人生を新しき眼をもって眺めた。そうして彼は彼の単純なる心のうちに驚き訝(あやぶ)んだ。何故に他の人々は自分と同じように考えないのであろう、そうしてこのように自分を誤解するのであろう、と。彼は大統領の高位に坐し、幾百の崇拝者に取巻かれてくらしていた。しかし、心の底に於て、彼は弧点であった。そうして寂寥であった。
 それからウイルソン氏は、やおら右手を挙げて額のところまで持ってゆかれると、それを今度は徐々にご自分の顔を被うように下げながら言われました。彼の生涯の終まで、リンカンは覆面の人物であった、と。
 その折のウイルソン氏の面上の表情は、私は忘れることは出来ません。その題目、その説話者、而してその場面!今ここに私の前に彼自身寂寥の人が居るのである。
 当時ウイルソン氏は、人気の絶頂に立って居られた。成功と光栄との台座の上に居して氏は全世界を通じて、人類良心の指導者、新時代の闡明者として歓呼されて居られたのである。しかしながら、かかる皮相なる賞讃は、彼の精神の奥底を動かさなかったのである。心の底に於て、彼は自己が孤独であることを知っていたのだ。そうして、彼は淋しかったのである。
 私はかく思いかつかく信ずる。曰く、粛然たる孤独と寂寥の深き井の底よりぞ、恒久なる美と不朽なる力とのもろもろのものは湧き出でたのである――宗教、哲学、美術、文学、然し而して経綸の大業。「物のあわれを知る」ということが、古代日本の武士の最大資格であった。淋しき孤独の人なりせばこそ、ウイルソン氏は、人類の悲惨に○(原文はさんずいに“参”)透することが出来たのである。而して、本能と直観との力によりて、千里外の貧しくして悩める各国民衆は、氏の心底の動機を洞見し、人類史上空前の荘厳さをもってこれに共鳴したのである。
 ウイルソンの名は、国際平和の維持と人間同胞の大義と称する。人類最高の努力と永久に結び付けられて残るであろう。ここに到って国境なし。ここに到って人種の別なし。ここに到って、東西両洋相接す。而して、ここにウッドロウ・ウイルソンの名は、米国国民のみの財産たるの境地を脱し、人類共有の遺産と為る。
(ここで抑えていたような拍手が爆発した。)
 かのドイツの詩聖シラーの言いたる世界の歴史が世界の法廷なり、との言葉にして真なりせば、私は衷心敬愛の心におののきつつ念じる。冀くば二十世紀及びその以後の史家、この漢子の上に、この事業の上に、而して地上最後の息を引く日まで、さばかり勇敢に、さばかり荘厳に戦いつづくることを得しめたる彼の精魂の上に、最後の審判を下さんことを」
 鶴見は黙って一礼して席に着いた。
 その瞬間、鶴見の前方の円卓に坐っていた前民主党大統領候補者ジョン・デーヴィスが、すっくと立ち上って喝采した。すると千五百の会衆がどっと一斉に立ち上って、長く喝采した。
 鶴見はもう一度立って一礼した。
 この短い演説をしながら、彼は激しい昂奮の全身を電流のごとく流れることを感じた。それは生れて2度目である。
 明治40年の2月、鶴見は同じような昂奮を壇上で意識した。それは一校の嚶鳴堂で「日本海海戦の回顧」という演説をしたときで鶴見はその時、若い東京帝大1年生であった。その時の聴衆の感激と彼自身の感激とを、鶴見は一生の貴き思い出として秘蔵している。
 今宵のウイルソン夜宴が、ちょうど20年ぶりで同じような感激を与えた。抑えきれないような感激が、鶴見の胸の中に荒れていた。
 閉会後、ウイルソン夫人が、物静かに鶴見の手を握って、
「今夜のお話は本当に有り難うございました」
 と言った。
 また、ウイルソンの長女のマーガレットがつかつかと歩み寄って、
「今まで、父に関する演説は度々聴きました。しかし、泣かされたのは今晩が初めてです」
 と深い感じをもって告げた。
 当時ワシントン大使館に在勤していた末弟の鶴見憲も出席していたが、閉宴後兄弟は或る食堂へ移って暫く話し合った。憲は祐輔が原稿無しの英語演説であれ程に聴衆を引きつけることは、普通には出来ない芸であると思った。
 祐輔はその時、将来世界平和の為めには日米両国の協調が必要である。然し両国民の間には誤解と認識の不足がある。自分は新渡戸先生の驥尾に付して、太平洋の懸橋となる積もりであるとの心境をしみじみと弟に語った。
 その晩鶴見は、ニューヨーク中央公園を脚下に見るプラーザ・ホテルの15階の窓から、いつまでもいつまでもマンハッタンの大きい都を見下していた。18年間思いつづけたウイルソン氏のために鶴見は心ばかりの花束を、その淋しい墓前に捧げたような満足感がその胸を満たしていた。
「この地尚お美し、人たることも亦一の悦びなり」
 シラーの言葉が唇頭に浮かんだ。
 翌日のブルークリン・イーグルが、
「昨日のウイルソン夜宴は、日本人の鶴見氏の演説が最も深い感動を聴衆に与えた」
 と書いた。
 当夜、大勢の米国人が、鶴見の演説を聴いて泣いたことを後日鶴見は耳にした。

 演説中の「その題目、その説話者、而してその場面!」は、ヂスレリーがピール首相を倒した名演説の句を踏んだものであろう。英文で比較するとヂスレリーの演説は。
 The theme,the poet,the speaker
 であり、鶴見の演説は
 The theme,the speaker,the occasion!
 となっている。
 なお、鶴見の英語演説の原稿は、昭和5年に日本評論社から出版した『自由人の旅日記』および昭和26年に太平洋出版社から出版した『米国山荘記』の北米横断飛行の章の末尾に収録されている。
第3節 雨中の大演説へ
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