鶴見祐輔伝 石塚義夫

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   第3節 雨中の大演説

 雄弁家鶴見は、その生涯に、日本語で約1万回、英語で約1千回の演説をした。その中、彼の会心作は、東京帝大1年生の時の「日本海海戦の回顧」と42歳の時の「ウイルソン追悼演説」であるが、本章ではその他に第1節のウイリアムス・タウンでの講演と本節の鶴見66歳の時の演説を取り上げた。

 昭和26年9月23日の長崎日日新聞に、「鶴見祐輔氏を迎えて」と題する桑原会長の筆になる社説が掲載された。
「我が社は9月24日、新日本に新しき根本理念を与えんとする鶴見祐輔氏を長崎市に迎えて『かくして日本を再建する』と題する氏の講演を県市民皆さまと共に聴かんとするものである。
 先般の桑港会議において講和条約と日米安保条約とが調印され愈よ日本は国際社会の一員として独立独歩することとなった。顧るに終戦後六年間、日本は米国の好意ある指導と保護の下に国政が運営された。
 無条件降伏の直後日本国民は心の支柱を失い屈辱と貧困と混乱の極に陥った。米国の援助が無かったならば多くの餓死者を出しまた各地に暴動を起したであろう。その後歳月の流れとともに国民生活も漸次恢復し、落着きを取りもどした。政治、経済、教育、労働その他万般にわたり民主主義の組織が整えられまた主権在民の憲法も制定された。六年前の敗戦疲弊のあの様相と稍安定を見た現在の有様とを比較対照する時誰れしも隔世の感無きを得ないであろう。しかし今後日本国民が平坦な道を無事平穏に歩み得ると速断するならばこれほど安易な甘い観察は無い。
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 要するに日本は今や物心両面に互り又国の内外を通じて多事多難である。此の間に処して国民は識者の意見に耳を傾け新しい情熱を燃え立たせると共に自ら正しいと信ずる道を発見しなければならない。我が社が特に鶴見氏を招いてその識見を聴かんとする所以もここにある。
 鶴見氏は修学後、当時の鉄道省に就職し約十四年間官界にあったが氏の特色は寧ろ退官後の自由人、国際人としての活動にあった。氏は青年時代故新渡戸稲造博士の下に自由主義の薫育を受けその影響を強く受けた。また故ウイルソン大統領の理想主義の政治理念を研究搾取し、今日まで四十年間一貫して自由主義の戦士であった。氏は文筆にも従事し、小説、随筆、旅行記、伝記等約八十種類の創作を著した。その発行部数は二百五十万部に上り青年及び婦人の血を湧かせた。氏は渡米二十回、渡欧十回に及び米国の隅々まで旅行し講演を行った。その回数も千回に達し氏独特の流暢な英語を駆使し強い感激を大衆に与えた。
 世界的に権威のある太平洋調査会の会議に日本側代表として六回出席した。現代の強大な米国の基礎を築いた故ウイルソン及びルーズヴェルト両大統領とも膝を交えて懇談した間柄にあったが現在も多数の名士を知人として持っている。氏は真の親米家で無批判の拝米家ではない。
 米国の長所と欠点を共に知悉する米国通の第一人者である、と言っても敢てこれを否定するものはなく氏の米国に関する意見は日本における活動としては昭和三年以来、四回代議士に当選し、議政壇上にその雄弁を揮った。終戦後暫く沈黙を守っていたが昨年十月追放解除せらるるや国土防衛民主主義連盟を組織し不偏不党の立場に立ち国民運動を活発に展開し、多数の支持者を得ている。また太平洋協会を組織し各方面の知識を集め国際問題の研究に従事している。また日華文化協会の会長として両国の文化提携に尽瘁している。以上氏の略歴を述べ講演来聴者の御参考に資するものである。
 勿論、我が社は厳正中立の立場にあり、氏の思想政策をそのまま肯定せんとするものではない。しかし氏の如き国際問題の権威者の意見は暗夜の灯火ともなるべきを信じ、敢て県民諸士多数の御来聴を勧誘する次第である」

 9月24日午後6時から、長崎の勝山小学校の校庭で行われた演説には、天草の青年たちまで来場して、万余の人々で校庭が埋め尽くされた。
 演説の途中から小雨がぱらつき、雨は次第に本降りとなった。随行の青木千代子が傘をさしかけたが、それでも不十分で鶴見の肩が濡れた。聴衆の多くは雨に濡れたが、誰一人立ち去る者もなく、延々3時間半雨中の大演説がつづいた。
 上半身ずぶ濡れになった青木は、改めて鶴見の雄弁の卓越さ、その威力をまざまざと識り、それを裏付ける識見のあまりの豊富さに驚嘆、敬服した。
 昭和4年1月15日の東京日日新聞は、「万余の大衆に鶴見氏の大雄弁」「青山会館始まっての盛況」「本社主催の講演会」という見出しで次の記事を載せている。
「一月十四日午後六時から青山会館に本社主催で開かれた鶴見祐輔氏の「現代米国を論ず」る大講演会は、同会館開設以来の聴衆殺到し、定刻午後六時というに聴衆は早くも三時頃から押し寄せ、すでに開会一時間前には内外通路といわず窓といわず、ついに演壇まで座列する……」

 雑誌現代(大正9年創刊)によると、青山会館の独演説のとき、会場に入れぬ群衆が街頭に流れて、青山警察を泣かせた。演説を聞き飽きた東京人を、あの会場に一杯にするだけでも容易な業ではない。それを1人で一杯にするばかりか、入りきれなくて2回やる約束でやっと鎮まったという。

 名人三遊亭円朝は、口演半ばでのお客の拍手や掛声は有難いようだが、それは芸の未熟を示すものだ。本当の名人上手であればお客をうっとりさせて、拍手などのすきを与えないであろう。一席終ったところではじめて我れに返った拍手を頂戴する。芸の至極はこれでなくてはならないと言ったが、鶴見の演説はまさにそれであった。
 田辺定義は語る。「大正末期か昭和初期に、京大法経学部大講堂で、満員の聴衆を前にしてかなり長い時間講演をした。先生の堂々たる演述態度と豊かな内容、そして華麗ともいえる表現技術、それらが群衆を魅了した光景は、いまでもそのままそっくり想い起すことができるのであるが、こんな場合普通には、それが拍手に次ぐ拍手を呼ぶはずなのに、反応がうすいかのように、それは非常にまばらであった。ところが演説の終った途端、一瞬をおかず文字どおり万雷の大拍手が場内を揺がしてしばらくおとろえない。音楽会であればアンコールのくり返しになるあの雰囲気で拍手が続いた。私と同行した数氏は、あれが本当の雄弁というべきものだろうと語り合った」

 昭和4年3月23日の大阪朝日新聞は、「本社主催普選擁護大演説会の活況」「普選を護るこの大聴衆」「公憤迸って『暴案を葬れ』の叫び」「中央公会堂を埋めつくした」「戦いを挑むものよ これ立憲政治への反逆」「鶴見氏の熱弁に満場酔う」の見出しの下に次の記事を載せている。
「三月二十二日午後一時から大阪中央公会堂にて七千人の聴衆が集まり、本社編輯局長高原操の冒頭演説についで、代議士鶴見祐輔氏はこの日議会に緊急質問をするため、飛行機で東京へ帰る前の多忙な身をもって登壇、『民衆政治への挑戦』なる題下に一流の快弁をもって次のように語った。
『今日ただ今、この同じ時間に議会ではわれらの同志が少数なりと雖もこの逆行案を阻止せんと努力しています。私はこの講演がすみ次第朝日新聞の飛行機で戦場へ帰ります。私が『ネオ民衆運動』の激流に投じて五年、私は『何か良いことをせよ』といって死んで行った生ッ粋の大阪人だった私の母の葬い合戦を行うのである。大阪の諸君を前にして私のこの感慨を察して戴きたい。私の小選挙区制案反対理由は二十二点あるがそのうち主なるものを挙げれば、まず本質的の理由は、かくの如き小区案は日本の政局を根本的に不安ならしむるものである。大正十四年三月通過した普選法が何故に起ってきたかの根本について考えれば、大正七年ころから日本内地に起っていた社会的不安に対して、合法的なる運動によって日本の立憲政治を泰山の安きに置くためであったのである。
 この根本に向って戦いを挑むものは立憲政治に対する反逆でなくて何だ。
 小区制では国民の総意が現わせない。その好例はアメリカだ。米議会を英議会に比較すればいかにアメリカの方が見劣りして常に地方の小問題に囚われているか、アメリカの排日案が一瀉千里で可決した実情をみるがよい。カリフォルニア州の議員十一名のためにアメリカは七十年の友邦日本を怒らしたじゃないか。これによっても小区制がいかに代議士に悪い影響を与えるものなるかがわかる。(アメリカにおける山椒魚や馬の鞍や、靴の紐のような形の小選挙区の実例を述べ)小選挙区の目的は全国の党員は少くとも議会に出てくる代議士の数を多くしようというのに存する。真に民意を遮る理不尽な話で、今度の政友会と新党倶楽部の提案はアメリカの一番悪い区制案を日本に実現せんとするものである。殊にこの案は政界を浄化するためと揚言しているが、その厚顔無恥驚くのほかなく、これまさしく日本の政界を腐敗せしむるものだ。選挙の時に反対の位置に立つと、夫妻親子友人皆仲違いする如きは、源平藤橘の私の争いと履き違えるような日本の現状では、小区制はその争いを更に深刻ならしめ骨肉相喰むの悲惨事を呈する。殊にこの案が無産者の進出を妨げるものでないという論旨に至っては、私はその人の頭脳を疑わずにいられない。僅か八名の今日の無産代議士によっていかに全国の無産者が慰められ鼓舞されているかを思ってみよ。その無産者の進出を妨げるのは何たることか。しかも堂々たる案と信ずるならば何んぞ政府自らこの案を出さない。そして政府がかかる重大問題に民意を問わんとするなら何故に議会を解散して天下の総意を問わないのか。私はこれまで三回立候補して二回敗れた。故に選挙の苦しみを知る点において何者にも劣らない。だから私は選挙は嫌いだ。しかしそれでも小区制案を天下に問うための解散なら私は甘んじて解散を受けよう』

「鶴見氏飛行機で議場へ急ぐ」
 言々句々火を吐く如き熱弁に聴衆歓呼して鶴見氏を送り満場総起立して帽子を振って万歳を絶叫すれば、鶴見氏また壇上より手を挙げてこれにこたえ、直に飛行機に搭乗すべく練兵場に向った。
(だが、時代逆行、政友会の党利党略と言われた小選挙区制還元案は、3月22日に、投票総数370票、賛成212、反対158で与党案が通過した。)

 世界的記録の大熱弁
 昭和3年2月、米国より帰った鶴見氏の活躍は、火花の出るように烈しかった。多きは1日に10数回、少きも7、8回にわたって壇上の人となった。いつの演説会も、聴衆は雪崩のように押かけて、警官の静止も聞かず、新人鶴見氏の謦咳に接しようと、ひしめき立った。氏は、やむを得ずこれらの熱烈なる聴衆に対して、午後1時から午後10時迄、立てつづけに快弁をふるった。こんなに長時間にわたる演説は、未だ曽って世界のいかなる雄弁家も為し得ざるところで、全く新しい世界的記録である。(昭和3年のキングより)
第3章 政治家 第1節 明政会の結成と活動 第1項 昭和3年の明政会の活動の要約へ
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