鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第3章 政治家

   第1節 明政会の結成と活動

    第1項 昭和3年の明政会の活動の要約


 鶴見の政治活動は、大正13年(39歳)の鉄道省退官、衆院選立候補から、昭和34年(74歳)の参院選落選、脳軟化症発病まで36年の長きにわたるが、議員歴は衆議院が、昭和3年2月から5年2月まで、昭和11年4月から21年1月(公職追放)までの11年9ヵ月、参議院は昭和28年4月から34年6月までの6年、両院合計して17年9ヵ月である。野党在籍が長く、日が当たったのは昭和15年(55歳)の米内内閣の内務政務次官に6ヵ月、昭和29年(69歳)から30年(70歳)にかけて鳩山内閣の厚生大臣に3ヵ月在任しただけである。
 脚光を浴びたのは、昭和3年の明政会の結成と活動、昭和5年の疑獄事件、昭和29年の参議院における自衛隊の海外派遣禁止決議の提案である。

 大正13年、14年の落選の後、昭和3年に3度目の正直で鶴見は衆院議員に当選した。それも岡山1区から断凸のトップ当選である。昭和3年1月には鶴見は米国を講演旅行していたが、政界の風雲急を告げる電報を受けて、米国大陸を郵便飛行機に便乗して横断し、1月17日にサンフランシスコ発のサイベリア丸の出航2分前に駆け込むという離れ技を演じたのであった。飛行機の乗客としては鶴見が日本人では最初の人であるかも知れない。そのことも選挙民を沸かせ大量の得票につながったようである。
 1月22日に第54議会が解散され、2月20日に総選挙が行われた。(第1回普選である。)
 投票の結果は、与党の政友会が219名、野党の民政党が217名という僅差であった。ほかに無産各派8名、中立15名、実業同志会4名、革新党3名、合計466名である。
 4月20日に第55議会が開会されるのであるが、4月7日の東京朝日には「『純中立団組織』 鶴見、椎尾氏等五氏、きょう帝国ホテルに会合」という見出しの記事が登場している。衆院議員に当選した鶴見が、議会開会前に早くも中立議員を誘って、第3党の樹立を画策しているのである。その後同志は7名に増加し、明政会と称するに至る。
 4月15日に鈴木内相、鳩山書記官長らは参集協議して、中立議員の説得に乗り出すことを決めている。
 しかし4月18日の明政会所属代議士会では、明政会から鈴木内相弾劾案を提出することになり、民政党がこれに賛成する模様なので、急迫した事態に政府の憂色は深くなった。
 当初政府は内閣不信任案については、否決できる確信を得たが、鈴木内相弾劾案に対しては、その理由が議会中心政治の否認、選挙干渉、前後2回の怪文書等にあるため、中立派方面にも相当賛成者があると見込まれ、これも否決できる確信は無い。政府はかねてより再解散の風を吹かせて野党議員、中立議員を委縮させようとしたが、意の如くならない。既に3月15日には歴史に残る共産党の一斉検挙を行って鈴木内相の人気を回復して形勢を政府に有利に転回しようと図ったがこれも成功しなかった。
 4月20日の正副議長選挙は、内相弾劾案の前衛戦と見られており、政友会は元田肇を、民政党は藤沢幾之輔を議長候補に立てたが、両党とも絶対過半数を有しないため、最後の鍵は無産党、明政会、中立い握られている。副議長は政友会は広岡宇一郎、民政党は明政会の賛成を得て、革新党の清瀬一郎を候補に立てた。
 この時の明政会の提案は、後世に記憶せらるべきものであった。明政会では欧米先進国の例に倣って、議長副議長を少数党から選出すべく、当初議長には社会民衆党の安部磯雄、副議長には革新党の清瀬一郎を推すこととなり、社会民衆党がマルキシズムを信奉する政党かどうかを確認することになった。
 だが安部磯雄から現下の情勢では党籍を離脱することが不可能であるとの回答を得たので、明政会は議長に明政会の山崎延吉、副議長に革新党の清瀬一郎を選ぶことに決定した。
 議長選挙の結果は、最初は無産党、明政会、革新党の議員が自派の推せんした議長に投票したので過半数を得る者がなく、決戦投票に際しては、無産党の一部その他が棄権したために、
  230票 元田肇(政)
  228票 藤沢幾之輔(民)
    3票 棄権
    5票 欠席
  466票 合計
 で政府与党側の辛勝となったものの、棄権した無産党の一部その他が藤沢幾之輔に投票していたら、野党から議長が選出されるところであった。
 副議長は
  233票 清瀬一郎(革新)
  226票 広岡宇一郎(政友)
    2票 棄権
    5票 欠席
  466票 合計
 で政府与党側の候補者は落選している。
 正副議長選挙の結果を以って卜すに、4月22日現在の勢力分野では、内相弾劾案は4名の差で通過するものと政府与党側は見た。
 民政党は倒閣の目的を達するためには妥協譲歩も止むなしという態度で、尾崎行雄の指導による明政会が提出する政治国難決議案、経済国難決議案に協調する態度を示している。
 4月23日の野党各派の協議会では、鶴見祐輔(明政)から、政府が再解散論を流布していることに鑑み、内閣不信任案の協議に先達って、速かに野党連合懇親会を開催して種々協議したいという提議があり、頼母木柱吉(民政)は、今回の総選挙に際して、田中内閣の干渉に対し、全国民は極度に憤慨しているので、議会の冒頭においてこれに関する意思表示をなすべきだとして、内閣不信任案の早期提出を主張し、尾崎行雄(中立)は、御大礼を控えているので、政争を行うことは避けるべきだとして思想国難決議案を提出したいと述べ、小山邦太郎(明政)は内相弾劾案を主張するという有様であった。
 4月23日の夜、明政会所属代議士6名は、中立連盟と連合懇親会を開催し、現内閣追討のため、院内外の連絡提携を一層綿密ならしめ、強力一致所信に向かって進むことを申し合わせた。
 4月24日の夜、野党各派大懇親会を開催した。これは政府が万一解散を断行する場合に、野党が共同戦線を張って政友会の追討を試みんとする主旨である。
 4月24日深更、民政党は明政会案に大譲歩して、政治国難決議案の名の下に、内相弾劾を強調することとなった。
 4月25日、民政党と明政会とによって、協議修正し、無産各派と革新党の諒解を得て、野党連合決議案が成立した。
 4月26日、明政会が発案し、民政、革新、無所属の3派が賛成して、4派共同提案となった政治国難決議案、経済国難決議案が衆議院に提出された。
 この政治国難決議案の中で、激しい選挙干渉をした内相を弾劾し、その処決を促している。
 また、変わったものでは、警察権をもって選挙干渉することを途絶させるため、司法警察権を地方長官から取り去って、検事に専属させるという提案をしている。
 経済国難決議案の中で、生産能率と分配を国権で統制すべしという提案は異色であり、明政会の特異な性格を表現したものと言えよう。
 今回の総選挙において、鈴木内相は選挙に干渉し、言論を圧迫し、暴力横行を看過したほか2度にわたって怪文書を流布したと非難されたが、4月26日の衆議院本会議において、民政党の横山勝太郎が読み上げたうちの1枚の○○○○は、鶴見祐輔と推測される。
 岡山県〔岸本知事発電〕
 第一区○○○○の人気に押され形勢急迫し来りたるも、軍資金乏しきに付、十五日を待たず壱万円位援助ありたし。手配の都合あり。至急返こう。
 4月27日、野党4派連合の内相弾劾案および経済決議案、ならびに民政党の内閣弾劾案が提出された。
 4月28日、内相弾劾案が上程され、鶴見祐輔が譲ったため、尾崎行雄が提案理由の説明に起った。政府側は依然として否決できる確信がないので、尾崎の説明が終ると討論に入らず、直ちに4月30日まで3日間の停会とした。
 政府は3日間の停会中に野党の議員を切り崩そうとしているが、民政党は所属議員を旅館に館詰めにしたり、旅行を厳禁したりして脱落を防いでいる。
 4月29日、政府は明政会に、鈴木内相を特別議会後に引退させるから弾劾案は撤回されたいとの妥協案を示したが、明政会は取り合わなかった。
 5月1日、3日間の停会期間が経過したが、政府は内相弾劾案を否決する確信がないので、5月3日まで3日間再度の停会を行った。
 5月3日、鈴木内相辞職。後任は田中首相が兼摂。
 明政会は、民政党の内閣不信任案に賛成しないことに決定した。
 この日の夕刻、政友会代表の秦豊助・熊谷直太が、民政党代表の小山松寿・一宮房二郎と鶴見邸で鉢合わせをしている。
 5月4日、鈴木内相の処決を促した政治国難決議案は、5票の差で通過し、同案に対する政友会の修正案は1票の差で否決された。
 5月6日、民政党の内閣不信任案上程さる。経済国難決議案可決さる。
 浜口民政党総裁が内閣不信任案の提案理由を説明した。山本農相が反対演説を行う。次に民政党の松田源治が、山本農相の反対演説を反駁した。
 午後11時47分に至って、民政党の井本常作の討論終結の動議にほぼ全員が起立賛成。
 ついで内閣不信任案の記名投票に入る順序だが、元田議長は午後12時まで13分しか無いので、記名投票を終了することはできないから、これで散会すると宣告した。内閣不信任案は審議未了で葬り去られ、特別議会は閉幕となった。
 議会散会後、明政会は、同会が提案した思想、政治、経済の三決議案が通過したことを欣幸とする声明書を発表した。

 戦後鶴見は『新英雄待望論』の中で、「……私は当時最初の普選に当選して、初めて代議士として議席を占め、偶然にも二大政党間にキャスティング・ヴォートを握り、臨時議会を思う存分に振り廻すことができた」と彼には珍らしく、誇らしげに書いている。それは事実であり、当時明政会と鶴見の名が新聞に載らない日はなかったが、少数の第三党が「思う存分に振り廻」したことは、決して識者の好評を得られなかった。
 5月7日の東京朝日は、最終日5月6日の衆議院の議場を次のように記している。
「明政会最後に至って寝返り審議未了に終る」という見出しで、「……明政会は馬脚をあらわしてその態度をかえること“ねこ”の眼の如く。民政党は勝算なきに意気消沈して闘志を欠き、政友会はただ明政会の一ぴん一笑に一喜一憂して周章ろうあいして策の施すところを知らず、いずれも如何にして議事の進行を遅らせて時間を空費するかをまつのみであった。従って議会は休憩に次ぐ休憩をもって……」
「特筆すべき普選第一次の議会は、僅に無産党七名の議員が多少の活躍を示したのみで、醜態を暴露して最終の幕を下した」
 さらに別の欄に、「ぬえの明政会に引ずられた議会 遺憾なく醜状をさらした 今議会の二大政党」という見出しで、「政友会は不信任案否決の運命が明となった以上討論打切りに賛成し採決をなし、不信任案を否決し去るのが当然であるにかかわらず、世間体をつくろうに汲々たる明政会が不信任に反対投票をなし、馬脚を現すのを肯ぜないのに引きずられて、遂に討論打ちきりに反対した事は拙の拙なるものである」「要するにこの不信任案は政民両派の無意気が徒らに“ぬえ”的の明政会を引きずらんとして、却てその提灯持ちを務め……」と明政会を酷評している。

 5月7日の大阪朝日は、「与党、明政会の作戦通り審議未了のまま葬らる」という見出しで、審議の経過を報告している。社説は「普選最初の議会を汚すもの」と題して酷評している。曰く、
「第一次普選による総選挙を汚辱して特別議会に臨むの資格は初めからない田中内閣を、連合野党の力をもってして潰滅せしめることも出来ず、二週間の会期中に無理由の停会を二度も行いて、その会期の大半を空費し、僅かに一鈴木内相の辞職だけで、在野党も与党も、万事決済できたかのごとく満足して……」
「……最終日の夜に入りて民政党は総括的内閣不信任案を上程することだけはしたが、審議未了のまま議会閉会となりて葬り去られた。これがかねて暴なる解散の鬼面をもってせる政府の威嚇が利いていたものと思われ、或は通過不可能が確実となったから、上程したとも邪推され……」
「内閣総辞職か、議会再解散か、この勝敗をフェア・プレイをもって堂々と決せんことを国民は望んだのであった。もしや無理が通って道理を引込ましめる解散が行われるようだったら、天下の世論は承知しない。この国民的後援を背景として、野党は驀進すべきであった」
「民政党としては、大衆民望を唯一無二の背景として、第一次的に総括的内閣弾劾案をもって、議会に臨むべきであった。しかるに少数な灰色中立議員に自由自在に引廻され、官々しき教訓文句入りの三決議案に混成合流して、小溝が大河の方向を転換せしめた姿となり……」
「第五十五特別議会は、詐術と詐術とをもって終始した」
「たとえ鈴木内相が辞職したからとて、官僚全体が連帯行為で行った過去一年有半のあいだに、憲法の大精神を蹂躙せる罪悪の累積が決済帳消になる道理はない」
「一度び政治決議案に賛成したる中立無所属の一派中に、本案は内相一人の辞職で目的達成せるものと称し、閣臣の連帯責任なることを否認し、閣臣が閣議にて決したことでないから、選挙干渉のごときは内務大臣だけで好しというごとき政治の実際を超越せる仙人論をもって誤魔化しの肩すかしを食わせた」
 天声人語爛は次のように言う。
「議会中を通じて、問題になったのは明政会の態度だ。彼は明暗両面を持して、たくみに野党と与党との間を縫うて行った。ただ明政会の着けたる灰色のガウンは、新自由主義とかに色づけられたるハイカラなものに過ぎなかった」

 5月8日の大阪朝日は、「少数党に引ずられた変態現象。解散回避策と政権噛りつき策。ドタン場まで作用した恐怖病」という見出しで次のように記している。「不信任案の審議未了という前代未聞の醜態を暴露した」
「キヤスチング・ヴオートを握る中立議員、無所属の尾崎行雄氏の主張に引ずられ、思想国難の決議案を可決したのちだから、御大典を前にして激しい政戦は避けねばならぬと称し、内相弾劾案までは野党連盟をつないで来たが、ドタン場の内閣不信任案に直面して、「再解散でもされては大変だ」と持前の恐怖病が起り、世間の面目も野党間の協定も、支那南軍のようにこれを捨て去り、日ごろの無定見無方針を遠慮なくさらけ出した。いわゆる新自由主義の正体――人これを両股主義と称するであろう。その集合分子が左顧右眄しながら政局を混乱せしむるだけの役目しかつとめ得なかったのも無理はない。実に第五十五議会を通じての最ものろわしき記録は、たとえ予定の行動とは見られながらも、明政会の忌わしき行動を中心として、これに意の如く操られた民政党の解散回避策と政友会の政権噛りつき策とのあまりに見え透いた策動であった」
 5月9日の大阪朝日には次のような記事が紙面に登場する。
「明政会の七名と尾崎、長島、田渊、田崎の四名は、今期議会に暗影を投じた唾棄すべき態度を取った」
「しかもこれらの少数が政局を左右するのであるから、かつてなき不快な空気を政界に瀰蔓せしめた。殊にこれらの議員の行動の裏面には、全部とは言わぬが忌わしき何ものかと暗示するものがあり、往年政友本党が政界を沈滞せしめた以上の政治的不純分子があって、これを無産派の端的に潔白なりしと対比し、旧式政治家掃蕩の必要を特に痛感させられた」
 火の無い所に煙は立たないというが、発火しない前に既に煙が立っている。後日の明政会抱込み事件が虚構であったにせよ、議員買収の噂が受け容れられ易い下地が既にあったのだ。
 5月9日の某紙は次のように評した。
「結果から見て明政は得る所皆無で世間の信頼を薄くした……新自由主義も結構だが、も少し選挙地盤に対する面目と国民の共鳴を胸算用に入れて置く必要があろう」
 3月15日の共産党の一斉検挙は、鈴木内相の人気回復策と見られているが、5月9日の日日紙には、次のような記事が見られる。
「政府は解散の口実にはちょっと弱ったが、あたかもよし、例の共産党事件――少々無理でもそれにからませて元労農党議員の自決案を与党から出させて、もし野党側が反対すれば、野党は共産党の同類だという悪名を着せて解散しようとの妙案に想到した」
「だが解散を恐れたのは野党ではなく味方の陣営であり、解散よけに鈴木内相を退かせる内閣改造を策した。その策動は明政会にまで到ったのだから、野党の切り崩しなど成功するはずが無かった」
 5月10日の日日紙はさらに言う。
「思想・政治・経済国難案は、畢竟腹の減った者に読んで聞かせる修身の書物でしかあり得ない」
「無産党と革新党とは早くから態度をきめ、キャスチング・ヴォートの威力を放棄したが、かの明政会は徹頭徹尾、カメレオン的保護色をつけて二大政党を悩ませた。その態度をひどくけなす人もあるけれども、巧に条理と情誼の二刀を操って無解散に導いた振舞い方は、敵にも味方にも願ったり叶ったりであったとすれば、明政会をあまり悪くいうには当らない」
 6月27日の某紙に載った政友議会報告書には、「……いやしくも党争のための少数専制の弊に陥らしむるがごときは、絶対にこれを回避せざるべからずととなし……」の文字が見える。

 明政会が解散を恐れて、民政党の内閣不信任案に同調しなかったと言われているが、明政会は大内暢三以外は1年生議員であるので、尾崎行雄の指導を受けることにしたのである。事実、民政党の大幹部安達謙蔵らは、明政会は民政党より尾崎行雄の説得に傾いて、如何ともし難しと嘆いて、明政会の抱込運動を中止したという。
 尾崎は「鈴木内相を打ち取ったら鉾を収めよ。腐り切った田中内閣は放っておけば倒れる」と教えたが、結果的にはこれが誤指導となった。田中内閣打倒を熱望する選挙民を失望させ、さらに後日明政会抱込み事件の素地を作ったからである。

 だが、鶴見への賛辞が無いわけではない。昭和3年9月20日大日本精神団出版部発行、阿藤俊夫著『昭和巨人録』に、「政界の花形 鶴見祐輔氏」と題して次のような文章(要約)が載っている。
「第五十五特別議会は名実ともに鶴見祐輔氏の一人舞台と言っても過褒で無い。明政会は僅か七人の少数党であり、世話人たる彼が眉目清秀の優男であり、しかも国民注視の的となった普選議会において、わが国議会史上かつて見ざる朝野二大政党伯仲対立の間に介在し、完全にキャスチングヴォートを握って内務大臣を弾劾し、思想、経済国難決議案等を議決し、自由自在の手腕をふるい、殆んど完膚なきまでに朝野両党を引摺り廻したのであるから、その得意実に想うべきである。政府党からはあらゆる弾圧、漫罵、怨嗟の声を聞き、野党からはあらゆる追従ご機嫌買い、煽揚、叩頭を受けながら、七分三分の兼合を以て、まず鈴木内相を爼上の魚と為し、政府の面目を木っ端微塵に砕くとともに、政府及び全議員の最も怖るる再解散の運命を不信任案審議未了の妙案によって避くるなど、全く手を飜せば風となり掌を覆せば雨となるの手際は、鮮かにもまた壮麗で………。このコンクエラーを婿に持つ新平子爵は、年甲斐も無く政界安定の為に飛出し、手厳しく婿殿にズドンを喰った……。天下の青年男女の渇仰礼讃の血を沸かせた。然り氏は実に普選議会の生んだ新人であり、寵児であり、また善戦の勇士であった。氏にして立身栄達を冀うならば、舅父を通じて政府党の御用を勤めたなら如何なる希望も満たされたであろうが、この実力あり、自身あるホープフルな新人は、不義の快楽を貧るべく余りに純であった。また野党の懇願を容れて飽くまで政府に突撃したならあるいは他日民政内閣の重要なる椅子を占むることも容易であったろうが、大学を出て以来鉄道省監察官を最後として野に下り、一種の経世家、理想家として立てる氏は、筆に舌に氏一流の新理想を鼓吹している新人だから、如何なる誘惑も氏のプライドを動かすことができない。
第2項 昭和3年5月の特別議会閉会から昭和5年2月の総選挙までへ
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