鶴見祐輔伝 石塚義夫

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    第2項 昭和3年5月の特別議会閉会から昭和5年2月の総選挙まで

 昭和3年5月6日で特別議会は閉会となった。
 6月4日、満州某重大事件発生。
 8月2日に民政党顧問床次竹二郎が脱党して、第三党の樹立を宣言した。
 床次竹二郎は、旧本党系50名から60名、旧憲政系20名、明政会7名、政友会からも50名から60名を引き寄せ、無所属も糾合して第一党を組織し得るもののごとく計算していたらしい。
 床次は、「明政会の方も予め意見の交換はないが、僕の思想とは非常に似ていると思っている」と談話を発表しているが、鶴見は次のように語っている。
「床次氏の今度の行動は全く寝耳に水であった。もちろん私の方へはまだ何等の話がない。従って床次氏および床次氏の組織せんとする新党に対する態度は、まだ何も考えていない。私個人としても、明政会としても、床次氏の方から正式に話があれば相談するつもりで居るが、ただいまのところでは全くの白紙である。最近私は床次氏と二度会っているが、その時は単に一般政情について話しただけで、今度のことに関しては一言半句も聞かなかった。要するに私達はこの問題ではいわゆるツンボ桟敷の観客だったのだから、今少し盛行を見なくては何とも言えぬ」
 8月8日には床次は後藤新平を訪問している。
 8月21日の朝日新聞は次のように報じている。
「明政会は暫く形勢傍観に決す。大内、岸本二氏は新党に参加
 明政会は二十日午後六時半から太平ビル内の新自由主義協会に代議士会を開き、床次氏の新党組織に関して隔意なき意見を交換した結果、大内、岸本両氏は明政会を脱して新党に参加することに決定し、他の四氏は床次氏の新党は我々の主義主張ともっとも近いものと考えるが、全然一致したるものとも思われぬ節がある。大内、岸本両氏が率先して新党に参加し、新党をして明政会の主張に合致せしむるよう努力するという事であるから、暫く形勢の推移を傍観し、新党が明政会の主張に合致する見極めがつけばいつでも合流する。それまでは明政会設立の趣旨に従って政治の公明に資する事にし、新党の健全なる発達を切望するというに意見一致して、現状を維持することに申合せた。次いで政府の経済審議会問題に対して次の声明を発表することとして午後九時半散会。
 声明書
 今回政府の組織せんとする経済審議会の人選を見るに、多く資本家の代表者を網羅し、社会政策に関係ある人々を加えざるは、特別議会に決議したる経済決議案が社会政策的見地より出発せる本来の趣旨を没却せるのきらいあり。吾人は政府の反省を促す」

 当夜欠席した山崎延吉は書面で留会を通知して来た。

 9月14日
「明政代議士会
 明政会は時局問題協議のため、十三日午後五時半から麹町区内幸町の新自由主義協会に代議士会を開き、支那問題、民政党の内紛、選挙法改正問題その他につき協議を遂げ、同七時散会した」

 9月21日
「鶴見祐輔氏 米国へ出発
 明政会代議士鶴見祐輔氏は、予定の如く二十日午後零時半東京駅発(電車)、午後三時横浜出帆のエンプレス・オブ・エシア号で出発した。同氏は語る。渡米後はスタンフォード大学、コロンビア大学、デンヴァ大学等各地の大学や協会で約八〇回にわたり講演する予定になっていますが、講演の題目は主として支那問題です。支那問題以外には日本の政情を少し述べて見ようと考えています。自分の渡米はもちろん個人としてであって、断じて政府と了解あるものではない。この点は誤解されたくない」

 9月23日
 見開き2面にわたって、『英雄待望論』の大広告が掲載された。横に3分の1の部分が『英雄待望論』の文字で占められている。眼のさめるような感じがする。1冊の本の広告では稀有なスケールある。鶴見が右拳を振り上げているガッツポーズの写真入りである。

 9月25日
 鶴見の文章による『英雄待望論』の半ページ大の広告が掲載された。
「『英雄待望論』を世に送るに際して
 私はかかる光を求めて、過去十八年間、大きい世界の隅々を遍歴した。アジアの大陸に、南洋の孤島に、南北中米の山と町に、ヨーロッパの川と都とに、私は真理を尋ねて行脚した。
 人あれば訪れ、書あれば購い、寺あれば入り、会あれば参し、名山大川の間、平野滄溟の上、私は倦むところなく五大洲を彷徨い歩いた。
 そうして私はある朗らかなる晨に、豁然として開眼した。日本を救うの光は、広い五大洲のうちにあるのではない。狭い六十余州のうちにあるのだ。名だたる世界の巨人の頭の中にあるのではなく、名もなき日本の男と女の胸の中にあるのだ」

 9月26日
 講談社の1ページ大の広告が掲載され、御大典記念の7大計画の1として、『英雄待望論』が挙げられている。
 7大計画とは、
 1.鶴見祐輔著『英雄待望論』
 2.貴族院議員永田秀次郎著『御大典に際し全国民に訴う』
 3.大日本史
 4.修養全集 12冊
 5.講談全集 12冊
 6.8大雑誌御大典記念号(講談倶楽部・富士・雄弁・現代・幼年倶楽部・少年倶楽部・少女倶楽部・婦人倶楽部)
 7.キング臨時増刊
 である。

 9月27日、1ページの3分の2のスケールで、『英雄待望論』の広告が掲載された。(推せん者に宇垣一成大将ほか8人の名士が名をつらねているが、田中義一首相がその1人であることは、内閣不信任案を審議未了に導いた鶴見率いる明政会への感謝の念あってのことと思われる。石塚注)

 9月28日
 1ページの4分の1のスケールで、講談社の7大計画の広告が掲載された。
 その後、東京朝日新聞の10月1日(1ページ大)、10月2日(2ページ大)、10月3日(2ページ大)、10月5日(3分の2ページ大)、10月7日(1ページ大)、10月8日(2分の1ページ大)、10月9日、10日(1ページ大)、10月11日、18日(1ページ大)、10月19日(2ページ大)、10月20日(1ページ大)、10月24日(1ページ大)、10月25日(2ページ大)、10月26日、27日、28日と講談社の修養全集・講談全集を含む御大典記念7大計画の大広告ラッシュが続くのである。勿論鶴見の『英雄待望論』もその恩恵に浴したのである。
 10月1日の広告文に鶴見も協力して叫ぶ。
「このニ大全集の出版を一転機として、日本の社会は非常に変るだろう。日本は必ず良くなるに違いない云々」また曰く、「講談全集の出版は日本のみに特有な発達をなした大衆的文化の提供であって、そのうちに通俗卑近の文字をもって表現せられたる思想感情は、日本大衆の血たり肉たる働きを為しつつある国民生活の貴重なる断面である。普通選挙の時代に於て、講談の洗煉を純化を企し、ことに非常なる廉価を以て提供さるることは喜ばしい。日本の津々浦々に行き渡らんことを切望する」
(よく言うよ。鶴見は講談や浪花節には生涯縁の無い人ではなかったか。戦後、『成城だより』で、講談や浪花節を貫く思想はファッショだと非難しているではないか。石塚注)

 10月3日と10月17日の東京朝日に『英雄待望論』の4分の1ページ大の広告が掲載された。

 10月4日の東京朝日に、「天ぷら勅任官のはけ口を探して 鉄道監察官復活に一はだ脱いだ鉄相の底意」という見出しで、「大正13年に廃止された鉄道監察官――も一つ厳密にいうと大正五年鉄道院時代に三年間ばかり設置された巡察官の遺物――」という記事が見られる。
 大正13年といえば、鶴見が退官した年である。彼の最終ポストが鉄道監察官だった。鶴見は大正13年2月上旬に運輸局総務課長で辞職するに当たり、引退の花道として1日だけ鉄道省監察官という局長級の肩書を与えられたものと思われる。現在、陸上自衛隊の一佐を退官する者が、1日だけ陸将補の階級を与えられ、栄誉礼のラッパに送られて営門を出て行くという噂がある。この年、1年先輩で運輸局旅客課長だった種田乕雄が運輸局長に任ぜられている。東大出の高文組は40前後で局長級になったのであった。

 10月8日に東京朝日に掲載されたサラリーマン社の雑誌「サラリーマン」10月号の広告を見ると、「新自由主義と其の戦士達」という題で、沢田謙が寄稿している。

 11月10日、昭和天皇即位礼。京都紫宸殿で挙行。
 同日、即位御大典恩賞で、後藤新平が子爵から伯爵に陞されている。功労ではないのだ。因みに鶴見は爵位には無縁の人生であった。

 12月3日の東京朝日に、「勅語の玉音朗々と全国に放送さる」「きのうの大観兵式において」という見出しの記事が載っている。してみると玉音放送は、20年8月15日が最初ではなかったのだ。

 12月11日の東京朝日に、鶴見祐輔の小説「二つの世界」(戦後「友」と改題)が連載されている。『雄弁』新年特大号の広告が載っている。『雄弁』は明治43年に創刊したときは3000部であったが、この号のときは423万部を発行していた。信じられない数である。

 12月27日、第56議会開院式

 4年1月27日の東京朝日に次の記事あり。
「東三省に領土的野心なし 芳沢公使支那記者に対し弁ず
 歴代の日本政府は東三省問題を経済的問題として見て来た。鉄道を中心として産業の開発を目的とするものであって、天然資源の開発に目的があり、領土的に何等の野心を持たなかった事はいうまでもない」

 昭和4年1月29日   大阪朝日?
「問題視された小会派連盟の提唱
 鶴見氏、床次氏を訪問懇談

 対支問題を中心として衆議院における小会派連盟を組織すべしとの議が起こり、過般来鶴見祐輔、小山邦太郎(明政)大竹貫一(革新)、太田信治郎(無)諸氏の間にしばしば往復を重ねて協議の結果、いよいよ小会派連盟を提唱することとなり、鶴見祐輔氏は28日午前10時20分麻布三河台に新党の床次竹二郎氏を訪問して小会派連盟問題につき11時20分まで約1時間にわたってその経緯を述べて種々懇談するところがあり、これに対し床次氏は、自分一個としては同感であるが倶楽部内の機関に諮ってお答えすると答え来る31日午前10時から再会を約して会見を終った。右会見後鶴見氏は左のごとく語った。

 床次さんを訪問した第一の要件は、私が昨年アメリカを訪問した顛末を述べたのである。それから時局問題に触れたのだが、私どもは純理論の立場において今議会を反政府で行きたいと思っている。それかといって民政党と共同戦線に立つのではない。これについて従来も民政党と交渉しなかったが、将来も交渉する予定はない。われわれは田中内閣に反対したいことが沢山ある。その第一は現内閣は成立以来二年間何一つしていない。財政を緊縮して社会政策を実行することを標榜しながらこれまた実行せぬ。また対支外交は世界の大勢を考察して自主的協調外交でなければならぬ。これらについて自分の意見を述べたところ床次氏は考慮の上返事をされるということであった」

 昭和4年1月31日  東京朝日?
「哀れを止むる小会派の幻滅
 前議会のようにはいかず
 局面転換をはかる

 今度の議会では対支問題や両税委譲問題などで政府与党は大分悩まされているが、在野第一党たる民政党も責め道具は揃っていても最後のものをいう頭数がウンと減っているので、とかく犬の遠吠えになりそうな模様とある。しかしこの両党は何といっても朝野の二大政党として押しも押されもされぬ貫録を持っているが、ここに哀れを止めているのは床次君の新党倶楽部を初めとして明政会、憲政一新会、革新党、未組織大隈党の小寺謙吉君の一派等の小会派である。

 床次君は民政党を脱するとき乃公一度手に唾して起たば天下の風雲以て動かし得べし矣と自惚れたらしいが、世間ではそう高く買ってくれず、ニ旬に足らぬ支那漫遊で新生面を打開しようと企てたがこれも政府が思うようになってくれず、今や幻滅の悲哀をもられた苦杯をなめさせられている。

 また明政会としてみれば特別議会では僅々七名でありながら、相伯仲せる勢力をもって対峙している二大政党の鼻づらをとって思う存分掻き廻し、殊に鶴見祐輔君などは、新進気鋭の意気で政界を恰も無人の境をゆくがごとく○(原文ではさんずいに“闊”)歩し、既成政治家も案外与し易しと有頂天になったが、今度はお株を悉皆新党にとられ、明政会など捨てて顧みられないような惨めな立場になった。そこへ持って来て中野正剛君や鈴木富士弥君らが華やかなる活動をしているのを見ては世界的?雄弁家たる鶴見君豈脾肉の嘆に堪えざらんやである。

 鶴見君らの明政会にして既に然り、田中外交を謳歌して民政党を脱党し一時久原逓相との間に大分こみ入ったいきさつまで作った田中善立君や樋口秀雄君らの一新会も、話が思うようにはかどらず、最近ではどうも油がきれかかって機械が最初のように運転せず、解体だの分裂だの噂を立てられているという始末、これまた何とか自ら運命の打開に迫られている。

 小寺謙吉君らにしても徒らにとらぬ狸の皮算用に日を暮らして大隈党の組織が不能となってみれば、自主独往の力はなく、革新党は大竹貫一翁唯一人で世帯を張っている鰥ぐらし、田中首相に三下り半を叩きつけた小泉策太郎君にしろ、せめて一五や二〇とまとまった頭数を揃えておればものもいえるが、一人や二人の腰巾着だけでは手足が出ない。こんな風で小会派の諸豪何れも政治的に行き詰まって合徒連衡の機運は期せずしてこれらの人々の間に動き始めたのである。

 その第一が鶴見祐輔ここにありといわぬ許りに鶴見君の床次君訪問である。しかも鶴見君らの抱負が政府に対しては「反政府」の旗幟をおぼろげながら掲げ、また民政党に対しては「超民政」を縹渺しているところが妙味の存するところ、ここで旗幟を鮮明にしては相場がきまる。曖昧模糊、幽玄漂渺たるところに無限の味わいを持たせている。出方一つで鬼ともなれば蛇ともなるという手である。しかし何れを見ても一国一城の主を以て自任している連中ばかりである。まず以てこの連盟が実現するかどうかが問題であり、実現するとしてもどこまで一致した勢力を作り得るかが更に問題である。「超」といい「反」というも或はそれ「丁」が出るか「半」が出るか政局のサイの目はなかなか思うようには出ないだろう」

 昭和4年2月1日   東京朝日?
「小会派連盟を床次氏暗に拒絶す
 「何れ局面展開の後回答する」と
 きょう更に鶴見氏が訪問

 明政会の鶴見祐輔氏は三十一日午前十時半三河台に新党の床次竹二郎氏を訪問し過般の反政府超民政連盟の提議に対する床次氏の正式回答を求めたが、床次氏は「お申出の件にはすこぶる同感の点が多い。いずれ局面展開の時機が到来すると思うから、その時更に相談して明白に回答する」旨を答え新党倶楽部としては今直ちにその意思なきことをほのめかした。なおこれについて鶴見氏より小会派連盟の経過ならびに見込みを述べ時局につき種々意見を交換し、同十一時半会見を終った。

 今直ちに参加できぬ 床次氏語る
 新党倶楽部としては目下是々非々主義をもって議会に臨んでいるのだから、まだ反政府とか反民政とかはっきりとしてはいない。こういう立場だから新党倶楽部として今直に鶴見君などの連盟に参加しようとは思っていない。しかし新興勢力を代表して何かやろうという鶴見君の意思はよく判ったからこれについてはなお十分の考慮を払うつもりである。

 鉄は熱した時に打て 鶴見氏語る
 床次竹二郎氏との会見後、鶴見祐輔氏は次の如く語る。
 きょうの会見では床次氏の回答をきくことが趣意であったが、自分はその際院内の頭数を揃えるということよりも院外の国民全体に呼びかける方が目下の急務なることを力説し、特に床次氏の決起を勧めた。鉄は熱したうちに叩かねばならぬから時期の到来を待つより今決起して欲しいことを希望した次第である」

 昭和4年2月8日
「小会派と不信任案 国難決議実行を
 民政に確める

 小会派連盟準備会では民政党の現内閣不信任案に対する態度協議のため、七日午後六時京橋末広にて山崎、小山、椎尾、鶴見(明政)、小寺、河野、太田(小寺一派)、久野、守屋(無所)、大竹(革新)、の一〇氏会合意見を交換したる結果、民政党に対し前議会において決議したる思想、政治、経済三決議案を為政の局に当たった場合誠実に実行の意思ありや否やを質したる後態度を決定することになった。よって小山、太田両氏が準備会を代表して八日午前九時半浜口民政党総裁を小石川久世山の総裁邸に訪問し右決議案を将来実行するかどうか総裁の意見を確めるはずである」

 昭和4年2月9日  東京朝日?
「小会派 結局自由問題
 小寺氏、守屋氏ら棄権し
 明政会は合流を宣言

 小会派連盟準備会では八日午後院内に代議士会を開き民政党の内閣不信任案に対する態度を協議した結果、小山、太田両氏に対する浜口民政党総裁の回答は不満足であるとの議が起こったため自由問題となり、小寺氏一派、守屋氏等は棄権、尾崎氏等は賛成するはずで、明政会は同日院内にて左の声明書を発表して政府不信任の態度を明にした。
 吾人は昨春特別議会において決議せられたる三決議案の趣旨に対し政府が果して如何なる態度をとるやを監視し来りたるが爾来九ヶ月を経過せるにかかわらず何等実行の誠意を示さざるを見、国歩困難の秋に際し国政を託すには足らざることを痛感したり。故に吾人は民政党提出の不信任案に対しては上記独立の一個の立場よりこれに合流することを声明す」

 遅い。なぜそれを昭和3年5月上旬にしなかったか。そうすれば内閣不信任案の通過は必至であった。
 この気の抜けたビールのような不信任案は次のような結果で否決されてしまった。
 明政会も当初は7人であったが、この時には4人に減っている。昭和3年10月13日に藤原米造が憲政一新会(その後さらに政友会)へ移るなど。

 昭和4年2月11日
 内閣不信任に
  賛成 民政 170(欠席2)
     無産   7(欠席1)
     明政   3(欠席1(山崎延吉))
     革新   1
     無所属  4
     計  185
  反対 政友 217(欠席5)
     新党  21(欠席8)
     一新会  6(欠席1)
     実同   3
     無所属  2
     計  249

 2月23日、4年越しの怪盗「説教強盗」逮捕さる。

 3月19日の大阪朝日に、大阪朝日新聞社主催の「小選挙区制案通過阻止 普選擁護演説会」の広告が掲載された。
 3月22日に大阪中央公会堂で、ほかの4弁士とともに、鶴見は「民衆政治への挑戦」と題して演説した。(詳細は第2章講演者に記述した。)
 3月23日の大阪朝日は、衆議院に臨む正装で飛行機に乗ろうとする鶴見の写真入りで、「飛行機で議場へ急ぐ鶴見祐輔氏」と題する次の記事を載せている。
「大阪中央公会堂における本社主催の普選擁護演説会で熱弁を揮った代議士鶴見祐輔氏は、二十二日の衆議院本会議列席のため、演説の後直に自動車で城東練兵場にかけつけ、午後二時五六分本社旅客機第四義勇号(熊野飛行士操縦、工藤機関士同乗)出発、同五時一分立川飛行場に到着、自動車で直に衆議院に向った」(この時の鶴見の空中の手記が、『自由人の旅日記』6頁〜7頁に掲載されている)

 3月5日、旧労農党員京都選出代議士山本宣治刺殺さる。

 3月23日 大阪朝日
「雄弁の光栄 鶴見代議士がきょう皇族御親睦会で講演

 二三日午後四時から李王家御主催にて、鳥居坂の御屋敷で、皇族御親睦会を行わせられるが、当日はアメリカ通の鶴見祐輔氏を御招きになって、「アメリカの事情について」の講演を聴かせられるが、秩父宮同妃両陛下を始め、十二万の皇族方がお集まりに相成る由に承る。
 身に余る光栄 鶴見氏謹話
 アメリカは日本に対し、社会的にも政治的にも多大の影響をおよぼしています。私は一平民としてアメリカの民衆の間を講演して回り、その間観察したアメリカの事情について一平民の立場から謹話申上げるのでありまして身に余る光栄と存じます」

 3月24日 大阪朝日
「鶴見祐輔君の外交緊急質問
 二十三日の衆議院本会議は、青木精一君の動議により、対米対支外交に関する鶴見祐輔君の質問を緊急上程す。
 鶴見祐輔君(明政)
「フーヴァー氏大統領に就任して、その新国務長官が今帰途についているから、その着任と同時に極東政策が決定されることと思う。ゆえに今日は日本側で日米両国の懸案について政府ならびに国民の意思を米国に向って発表すべき絶好の機会と思う。また日支間に済南事件解決の曙光現れ、更に進んで根本的商議成立の端緒を見んとしているから、対支外交についても多年の懸案を解決すべきであると思う。(とて、氏の自由主義の立場を一言したのち、国際関係における領土不可侵、移民の自由、食料品および原料の自由交換、製造工業品の移出入の自由の四原則を説き)(一)去る大正十三年に成立したアメリカ移民法は、日本民族の自尊心を傷け、かつ移民の原則を否定するものである。同問題に対して政府の所見如何。(二)支那満蒙におけるわが権益は、いわゆる二十一ヶ条によって得たものであるが、両国間の行違いのため、いまだに十分の融和解決を見ていない。しかも世界各国はわが国が満蒙に対して、領土的野心ありとしている。政府はこの際領土不可侵の原則を中外に明示しかかる疑惑を一掃する必要なきや」と叫び、これに対して
 植原外部参与官
「(一)アメリカ移民問題は一朝一夕に解決するものではない。政府は機会あるごとに、アメリカ人の諒解と感情の融和につとめている。(二)満蒙問題については、政府はしばしば声明した通りである。鶴見君の心配するが如き領土的野心などという疑惑はあるはずはないと思う」
 と答え、鶴見君再び登壇、右の答弁は甚だしく不親切かつ不満なる旨を述べて質問を打ち切った。

 3月25日、第56議会終了。

 3月27日 大阪朝日
「小会派割込を策す 一新会の策動
 一新会は近く現内閣は改造するものと見て、すでに田中善立氏のごとき、改造内閣に割込まんと目論んでいる。
 明政会、革新党では、現内閣は出来得るだけの範囲で改造して、局面を××して行けるだけ行く方針であって、まだまだ容易に投げ出すことはあるまいから、この際攻撃の手を緩めず突撃しようということになっている」

 4月5日 大阪朝日
「後藤新平伯 列車中で卒倒す
 京都の府立病院に入院する。軽度の脳溢血で」

 4月6日 大阪朝日
「一時快方に向った後藤伯まだ重体 憂色ふかき附添の人々 険悪な兆候 嘔吐と呼吸不整
 後藤伯の容態は一時快方に向ったので、附添の鶴見祐輔氏は、五日夜帰京するはずであったが、佐野博士より『今晩は危険である』と注意したので、俄に帰京を見合わすことになった」

 4月9日 大阪朝日
「皇太后陛下より後藤伯に御見舞品 伯病床に恐懼感激す やや良好 昨夜の容態」

 4月12日 大阪朝日
「後藤伯遂に絶望 葡萄酒御下賜 天皇より
 親戚知友慌しく病床へ スープを摂取する力もない……東京にある鶴見代議士夫人……は急報により十二日京都に来るはず」

 4月14日 大阪朝日 夕刊
「旧都の花に背いて 後藤新平伯逝く
 今朝五時三〇分眠るが如く 遺骸は今夜東京へ(第一面の半分を占める記事)
 略歴
 特旨叙位
 故伯の遺した功績
 政界の大先輩 誠に痛惜に堪えぬ――田中首相談
 天才肌の政治家――浜口民政総裁談
 日露親善に尽した功績――ロシヤ大使トロヤノフスキー氏談
 少年団の総長として偉大なる貢献 団服と着て常に全国を行脚――三島章道子談
 伯と訪欧飛行 率先して後援会を 本社の常に感謝するところ
 実際政治への影響は無い 晩年は昔日の勢力なし
 葬儀委員長 斎藤子に決定
……嗣子一蔵氏をはじめ令弟彦七氏、鶴見祐輔氏夫妻その他の近親知己にまもられて……
 後藤邸 約四〇人の家職
 桂公の逝去とともに立憲同志会を脱党以来、政党という背景を持たなかった。
 後藤新平伯は、我が政界における長老の一人であって、首相級の人物、政界の惑星としてその一挙手一投足も世間の注意を惹くほど重きをなしていた時代もあったが、今日伯の死が政界に及ぼす影響は案外少なかろうと見られている。
 山本地震内閣の内務大臣として、帝都復興に力を傾倒したのを最後として、以来実際の政治舞台から遠のいた。もとよりその間東京市長となり、ヨッフェを相手に日露国交の回復につとめたり、政治の倫理化を提唱した。政治道楽が忘れられず、表に出たり裏にかくれたり、田中、床次握手に奔走するなどいささか政界の世話役か」

 5月17日 大阪朝日
「故後藤伯爵夫人の思い出」という新渡戸博士の文章が載っている婦人世界6月号の広告あり。

 6月20日 大阪朝日
 平凡社の沢田謙著『後藤新平一代記』の広告が載っている。
 沢田謙は、昭和18年にも講談社から『後藤新平伝』を出版している。326頁と紙数も限られてるが、エピソードで綴った一代記という感じがある。昭和63年に『後藤新平』を書いた北岡伸一も、本書は参考文献に挙げていない。

 6月26日 大阪朝日
 小説『母』の全面広告を講談社が載せている。「一字一涙」とある。

 7月2日 田中内閣総辞職 浜口内閣成立
 3年5月の第55特別議会を辛うじて生きのびた田中首相は、満州某重大事件で天皇に虚偽の報告をして信任を失ったのであった。そして9月29日、67歳で急逝する。

 10月24日 暗黒の木曜日 ウオール街大暴落。

昭和5年
 1月21日 衆院解散

 昭和3年5月の鈴木内相辞職。内閣不信任案上程の頃は、連日のようにその名が報道された「明政会」は、昭和5年2月の総選挙前には全然その名が新聞に現れない。

 1月25日の東京朝日に次のような記事が見られる。
「中立議員は何処へ消えて無くなったか 立憲政治を毒するその進退 一昨年末の足跡調べ
 中立議員十七名のうち、次の七名以外は政友、民政に入党
 檀野礼助、山崎延吉、尾崎行雄、田渊豊吉、鶴見祐輔、椎尾弁匡、堤清六」

 明政会に残ったのは、山崎延吉、鶴見祐輔、椎尾弁匡だけである。
 大内暢三、岩本康道、藤原米造は当初憲政一新会に参加したが、のち大内暢三、藤原米造は政友会へ移り、岩本康道は政、民いずれかに入党した。小山邦太郎は民政党へ移籍した。

 1月30日の東京朝日に、報知新聞社通信部編、平凡社刊の『新人国記 名士の少年時代』の広告が載っているが、その関東篇群馬の巻に鶴見祐輔が紹介されている。

 2月3日の東京朝日に、日本評論社刊、鶴見祐輔著『自由人の旅日記』30版の広告が、3分の1ページ大で掲載された。昭和3年に北米大陸を横断した時の飛行服姿の写真入りである。講談社は、小説『最後の舞踏』の4分の1大の広告を載せ、また2分の1ページ大の下段の上部に、「見よ!鶴見祐輔先生の九大名著」というフレーズで、『鶴見祐輔氏大講演集』『中道を歩む心』『英雄待望論』『思想山水人物』『壇上紙上街上の人』『北米遊説記』『南洋遊記』『母』『最後の舞踏』の広告を掲載した。
 『講談社の歩んだ五十年 昭和編』94頁に、次の記述が見える。「鶴見にたいして、直接の政治資金は全く与えていない。その代わり彼に『母』という小説をかく舞台を提供し、ちょうど選挙にさしかかったので、それをことさらに大々的に新聞広告をして、彼の選挙に間接の声援を与えた」
 昭和3年2月の総選挙の時も、小説「最後の舞踏」が連載されている講談倶楽部、「鶴見祐輔氏大講演集』」、小説「死よりも強し」が連載されているキング、小説「母」が連載されている婦人倶楽部等の鶴見の立候補にタイミングを合わせた講談社の広告が、選挙ポスターの代りになったのであった。
 衆院議員に当選し、明政会を組織して活躍して一朝にして政界にその名を売り、小説『母』と『英雄待望論』というベストセラーを世に出して名を知られた鶴見祐輔の著書を、この機会に大量に売って講談社が利益を得たことはいうまでもない。
第2節 明政会疑獄事件と鶴見の落選へ
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