鶴見祐輔伝 石塚義夫

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   第2節 明政会疑獄事件と鶴見の落選

 明政会(抱きこみ)事件とは
 この事件は昭和5年に発生し、その内容は昭和3年に田中内閣の不信任案が上程された時、当時議会のキヤスティング・ヴォートを握っていた明政会の中心的議員鶴見祐輔が、阪神電鉄社長長島徳蔵から10万円を収賄して内閣不信任案の審議未了に協力したという疑いがかけられた事件である。
 大阪地検の取り調べの結果、鶴見祐輔は不起訴、仲介をした弟の鶴見定雄ほか2名が第一審で有罪となった。
 昭和7年に大阪控訴院で鶴見定雄たちに無罪判決が下りたものの、この事件の悪影響で鶴見祐輔は昭和5年の衆院選に落選し、新自由主義連盟の運動も挫折した痛恨やるかたなき冤罪事件である。

 一.好事魔多し。得意の絶頂の鶴見を失意のどん底に突き落とす事件が発生した。
 明政会(抱きこみ)事件である。この事件の全容を知るべく筆者は平成5年に検察庁を訪れて検事の調書の閲覧を求めたが、不起訴になった事件(鶴見祐輔は不起訴、弟の鶴見定雄らが起訴された。)の調書はもはや保存されていないとの回答であった。現在では当時の新聞記事によるほかない。
 昭和5年1月24日の大阪毎日新聞は、「鶴見、島両氏告発の草稿 検事局に提出さる 執筆者は意外 去る九日死去した元明政会(後、政友会)代議士藤原米造氏 故人の遺志を継ぐ友人たち」という見出しの半ページ大の記事を載せている。
 その内容は、笹川良一が、1月22日の夜、大阪地裁の検事宿直室を訪れ、1月9日に死去した元明政会代議士藤原米造が執筆した鶴見祐輔と島徳蔵を相手どる告発状草稿を参考資料として提出したというのである。
 告発状には概略次のように記されている。
 1.昭和三年五月、特別議会開会中、阪神電鉄社長島徳蔵は、当時議会の最重要問題である内閣不信任案が衆議院を通過すると島自身の関係諸事業に重大な影響を来すことを憂慮し、かつ、田中内閣に恩を売って将来利を得ようとして、当時不信任案採否のキャスチングボートを握っていた明政会所属代議士を買収して、不信任案の否決または審議未了になることを企図した。
 2.当時明政会所属代議士は鶴見祐輔ほか六名であったが、不信任案に対する議論は三派に分かれ、椎尾弁匡、山崎延吉、藤原米造の三名は、すでに内相の弾劾引責辞職を以て満足し、これ以上内閣を追撃すべからずとなし、大内暢三、岩本康道、小山邦太郎の三名は、更に総括的内閣不信任案に賛成すべしとなし、いずれもその意見を内閣不信任案上程前に速やかにその態度を社会に公表しようと主張したが、独り鶴見祐輔は予め不信任案に対する賛否の意見を吐露せず極めて曖昧な態度であった。
 3.この時、かねて鶴見祐輔と面識のある後藤幸正は、島徳蔵の代理人安部義也を鶴見祐輔に紹介した。
 鶴見祐輔と安部義也は数回折衝を重ねた結果、鶴見祐輔は明政会を動かして不信任案に反対投票させるか、少なくとも審議未了に終わらせることを約諾し、安部義也はその代償として島徳蔵が鶴見祐輔に十万円を贈与することを約言した。
 4.この約束に基づいて昭和三年五月四日鶴見祐輔は東京市京橋区の岡本旅館で、島徳蔵と要談を遂げた後、安部義也から島徳蔵振出しの額面十万円の朝鮮銀行の小切手を収受した。
 5.鶴見祐輔は、五月五日に弟の鶴見定雄に安部義也を同行させて、朝鮮銀行東京支店において当該小切手を呈示して金銭の引き出しを行わせた。
 6.鶴見祐輔は明政会内部において、不信任案に対する自己の意見を最後まで表明せず、自分は明政会の意見を統一する指導的立場にあるかの如く振る舞って、不信任案に対する賛否いずれとするも明政会は一致して行動したいと常に主張した。
 世論ならびに新聞は、明政会がこの最重要なる議案に対し、賛否の態度を明白にしないことを猛烈に攻撃した。尾崎行雄氏のごときはわざわざ明政会の将来のために、もし議論が一致しない時は自由投票にすることに決したと発表せよと忠告するに至った。しかるに鶴見は依然として反対とも賛成とも言わず、ただ明政会の一致のためと称し、ついに五月五日の午後以降は、この上は会内の意見分立を蔽うため不信任案に対し審議未了の方法をとろうと主張し始めた。
 7.かくの如くして遂に不信任案は昭和三年五月六日の衆議院に上程され、いよいよ同夕刻より討論に入ることとなった。一方安部義也は、かねて鶴見との約束があるにも拘らず、なお、明政会の不信任案に対する態度が不明で憂慮に堪えなくなったので五月六日夕刻、衆議院の議事休憩の間に、鶴見祐輔を院内廊下に呼び出して、不信任案に対する態度を難詰した。鶴見は大丈夫、最後の五分間を見てくれと答え、顔面蒼然倉皇として立ち去った。
 8.かくて衆議院の議事は再開され、明政会は不信任案に対する態度を表明する機会を失い、今においてはただ審議未了に終わらせるほかないとの意見に余儀なく一致して、同案を審議未了に終わらせる態度を示し、その結果不信任案は同日午後十二時を以て審議未了のまま議会は閉会されるに至った。
 9.以上記すごとく鶴見祐輔が不信任案を審議未了に終わらせることを島徳蔵に約し、この代償として十万円を収受し、遂にその目的を遂げた事実は刑法第百七十八条涜(原文は旧字。以降同じ)職の罪に該当し、同じく島徳蔵が鶴見祐輔に十万円を贈与して不信任案を審議未了に終わらせるよう依頼してその目的を遂げた事実は、刑法第百七十九条涜職の罪に該当するものである。
 10.証拠方法は召喚取り調べをあっ提示する。
 右告発する。
 昭和四年十一月
 東京地方裁判所検事局 御中

 胡散臭い書面である。後に船舶振興会会長となった若き日の笹川良一が、夜陰にまぎれて検事宿直室へ忍んできて、故人の書いた告発状草稿を「参考資料」として提出したというのである。
 それが昭和5年1月22日のことであるというのに、1月24日の大阪毎日にはやくも告発状草稿の一節が写真入りで掲載されている。大阪毎日新聞はどうやってこれを入手したのであろう。毎日新聞の記者は1月22日の夜に東京の鶴見祐輔にインタビューしている。
 告発状草稿は検事局から洩れたのではなく、笹川良一が検事局へ提出する前に、大阪毎日へ持ち込んだのであろう。その時に撮影した告発状草稿の写真が1月24日の同紙に掲載されたものと思われる。正規の告発ではないのに、すぐ新聞に載るのも不思議である。
 この告発状草稿を読んでも疑問が多出する。まず、藤原米造は何でこのような事実を知っているのかという疑問である。まるで現場に立ち会っているかのごとくである。また、鶴見1人が10万円を受領したとして、他の明政会所属代議士に分け与えたとは言っていない。藤原も受け取ったと言っていない。鶴見1人を買収しても不信任案を左右する力にはならないではないか。鶴見が請託に応じ金を受領していたら、不信任案反対をもっと積極的に働きかけたのではないか。また、鶴見の理想に共鳴した明政会の代議士に買収は不向きだったであろう。
 そしてこの怪文書は何で昭和5年1月下旬という総選挙直前の時期に提出、公表されたのであろう。藤原が鶴見の買収された事実を知っているなら、なぜもっと早く告発しなかったのか。
 藤原は明政会を脱党して反対党である政友会へ移った。新入りの彼は政友会の走狗となって、政友王国である岡山第1区の強敵鶴見祐輔を倒すことに加担して点数を稼ごうとしたのではないか。
 このような陰謀があったとすれば、明政会の態度によって倒閣を免れた政友会は、余りにも忘恩であり非情である。鶴見の強力な後ろ盾であった後藤新平の死(昭和4年4月)ぬのを待っていたように事件が発生したのもミステリーである。

 当日の新聞に載った鶴見の反論は次のとおりである。
「藤原氏は私に悪感を抱いていた。無関係は検事局が知る。断然否認する鶴見氏
 二十二日夜半、東京市外上大崎の自邸で鶴見祐輔氏は語る。
『島氏と私との関係につきやましいことは絶対にないことを天地神明に誓います。話しの内容についてはこの際私の口から何もいえないが、ただ藤原君がどうしたものか私に悪感を抱いていたという話しは聞いていた。島氏の事件には実弟が関係しているので、私としては苦しい立場にあるが、私自身としては何ら恥ずべきことはない。十万円を小切手で貰ったことも、弟の手を通して現金に替えたこともさらさらない。また不信任案反対について島氏は勿論阿倍という人を通じ話しを持ち込まれたこともない。
 私が関係のないということは東京大阪の両検事局でもよく知っているはずです。いずれ関係のないことが明瞭になる時期もありましょうが、今はこれ以上のことは話されぬ事情にあります。』」

 鶴見は「藤原君が私に悪感を抱いていた」というが、「新自由主義」の昭和3年7月号、8月号を見ると当時新自由主義協会の理事として藤原米造の名が載っている。鶴見以外の明政会所属代議士で当時新自由主義協会の理事に名を連ねたのは彼だけである。
 後に、昭和6年に椎尾弁匡が理事、山崎延吉が評議員になっているが……。
 一時は鶴見と蜜月であったが、昭和3年10月15日には藤原は早くも明政会を脱退している。その後藤原は憲政一新会を経て政友会に入党した。

 昭和5年1月に第56議会が解散になるまでに、民政党顧問床次竹二郎が脱党して、憲政一新会なる新党倶楽部を結成したりした。明政会に残ったのは鶴見のほかは椎尾弁匡、山崎延吉だけであった。大内暢三は昭和3年8月20日に憲政一新会へ移り、後、政友会へ転じた。小山邦太郎は民政党へ、岸本康通は昭和3年8月20日に憲政一新会へ移り、のち政友会か民政党のいずれかへ転じた。

 国会図書館分類番号138
 「秘」特別報告
 藤原代議士明政会脱会顛末

 明政会所属代議士藤原米造氏は、昭和3年10月13日、明政会を脱会して、憲政一新会に入会した。
 藤原氏は、突如なる今回の行動に関し、別段脱会声明書を発表せず、憲政一新会の本部において「藤原代議士入会」の趣を都下各新聞通信記者に対して報告したるに過ぎず、しかして、都下各新聞記者にして、直接藤原氏に会見して、同氏今回の偶発的所属替えの真相を質問せる者もなく、従って藤原氏は如何なる理由を提して、自己今回の挙動を釈明しつつあるやは分明ならざるも、今、同氏の行動に関連して当然に生起し来たれる情報即ち
(1)藤原氏の明政会に対する態度
(2)憲政一新会側の言い分と明政会の対策
(3)政界消息通の藤原氏脱会に関する観測を摘記すれば大要左のごときものがあり、以て藤原氏今回の挙動の真意。その奈辺に存在するやを覗うに十分であろう。

(1)藤原氏の明政会に対する態度
 藤原氏は明政会脱会の直後、明政会関係の最も親近者に対し、親書を送致して決別の意を表示したが、該書の内容を洩れ聞くに、「今回の挙動は、自由なる立場に立ってひたすら憲政の一新のため、奮闘致したきために揺りたる行動であって、別に明政会に対する敵対的動機よりあらわれたる行動に非ざる」旨を懇々釈明したる後、「爾後も明政会所属の諸氏とは兄弟として親密なる関係を保有致したく、また、新自由主義の政治的指導原理に対しても、毫も反対せざる旨を記載したすこぶる円滑なる外交的文書を送致したる由である。

(2)憲政一新会側の言い分と明政会の対策
 憲政一新会側では、藤原氏の同会入りについて別に正式の声明書も発表せず、ただ都下各新聞記者に対し、大要左のごとき雑談的報告をなしたと伝えられている。
「藤原氏の一新会入りは、同氏は兼ねてから、憲政の一新を図らむとするの宿志あり、これが素志を貫徹遂行せむがために、その指導精神を新自由主義に求め、議席獲得後は、専ら新自由主義運動の実践的提唱者たる鶴見祐輔氏とその政治行動を共にしたのではあるが、つらつら日本の憲政の一新を図らむがために熟慮したるに、新自由主義よりも憲政一新会に所属加入する方がより一層憲政の一新に貢献し得る可能性あるを確信し、敢然明政会を脱して一新会に入会したる次第である」と。

明政会の対策
 元来、同会は政党と称するよりも、過般の特別議会においてフリーなる立場にある人々が、政治的クラブの形式で集合し、しかも巧みに政治的契機の重心を把握し画期的役割を遂行した後である関係から、他の諸党派におけるごとき実勢力n消長についての焦慮は全然存在し得ない。ただ同会として過般の代議士会において鶴見氏の渡米不在中、主として会務は藤原氏が主掌することに異議なく決定していたのであるから鶴見代議士の帰朝を待って会務引継ぎを了してからならともかく、突然薮蛇式に脱会するのは藤原氏の政治人としての品格上甚だ遺憾千万である………殊に椎尾氏のごときいささか唖然たる気持ちで藤原氏の今回の行動を観察せるもののごとく進んで自今会務を鶴見氏帰朝まえ主掌することに決定したる模様である。しかして憲政一新会側では、明政会に対して逆宣伝乃至悪宣伝を放った形跡もあるが、これらについても明政会としては別に取り合わず、所信に向かって進展する段取りであると。

(3)政界消息通の観測
 藤原氏の今回の行動は、政界における札付き議員田崎信蔵氏と同時に一新会へ入会したる関係に着目すれば、藤原氏今回の行動は憲政一身に非ず、まことに憲政悪新である。更に翻って憲政一新会なるものの正体は何ぞやと究明すれば、既に今日甚だ芳しからぬ風説が憲政一新会を包囲している。しからば「芳しからぬ風説」とは何ぞや……即ち久原氏が逓相に親任されたる直後、自己所有の株式の騰貴による利得三千万円余を獲得し、右の金額のうち約五十万円?を床次氏の直参にして前代議士たる辻嘉六氏に手交、辻氏の手中の金額の若干は更に憲政一新会にも流入したるものらしく、ただ何人の手を介して一新会へ手交せられたるやは目下分明しない。とにかく都下の新聞記者はこの間の風説を信ずるにしろ、信ぜざるにしろ、一様に「一新会には金がある」と異口同音に囁き合うに徴しても大体叙上のごとき経緯は納得し得るであろう。従って今回、田崎、藤原の両氏が相共に一新会へ走りたるは
(1)には政友会内閣の政権維持策の術中に陥入したるものであり、
(2)には明らかに政治的節操を売れる行動である。殊に田崎氏はかようなる点については世既に固定的悪評を烙印せられたる人物なるが、藤原氏に至っては、全然白紙なるに拘らず、田崎氏のごとき人物と共同動作を採るは、明らかに政治的自殺を決行するに等しい。しかして伝えられるところによれば、田崎氏はその道の達人なるをもって五万、藤原氏は未だ政治的素人なるをもって三万くらいにて買収されたるに非ずやと称せられている。
 この文章は10月15日記(昭和3年と思われる)とし、筆者はイチロとあるだけである。

 因みに、憲政一新会というのは、民政党の田中膳立ら7名は、久原房之助(逓相)の買収に応じて、民政党を脱党して作った会である。
 時期的には、昭和3年2月11日の総選挙の日にはまだ存在せず、同年12月24日の第56議会の召集日には7名で構成して、実業同志会とともに与党に位置している。
 次の総選挙が行われた昭和5年2月11日にはもはや存在していない。
 床次竹二郎の新党倶楽部と同じような時期に発生し消滅している。

 二.明政会事件の記事が新聞に登場するのは、藤原米造の告発状草稿なるものが掲載された昭和5年1月24日以前である。新聞の縮刷版綴りをめくっていくと、昭和4年12月17日の東京朝日に「明政会軟化のかぎ 十五万円の取調べ 島氏と共に策動者続々召喚 大事を取る検事局」という見出しの記事が登場する。
 その少し前、昭和4年11月1日の大阪朝日に「取調べ進んで島氏の喚問近し きのうも関係者数名召喚「天津取引所」にも波及」という見出しの記事の中に「……さらに某信託銀行の貸付係長中村が、十五万円貸出問題で取調べを受けた」と報ぜられているが、この15万円が明政会の買収資金に結びついて行ったのではなかろうか。
 そして5年3月15日の東日(夕刊)では、「本年一月二十二日、検事局へ提出された故藤原米造代議士の鶴見祐輔氏告発状草稿により有力なる創作の緒口を発見し………」という記述が見られる。
 以下捜査の経過、事件報道下の鶴見の選挙戦、事件の結末まで、新聞記事等で追って行くこととする。

 昭和4年10月5日   大阪朝日新聞
「突如帳簿押収さる
    島徳蔵氏関係のニ保全会社から

 大阪地方裁判所金子、三谷、生島三検事の手で取調中の事件につき、四日未明大阪府刑事課夏目警部補外一刑事は、検事局の命により、大阪東区高麗橋五丁目の三同株式会社、神戸市西灘区六甲八幡株式会社・株徳社より多数の帳簿を押収、検事局へ引揚げた。この山同株式会社、株徳社はともに島徳蔵氏の保全会社で、資本金は三百万円、前者は主として株券等有価証券類を、後者は土地その他不動産類を取扱い、島氏の自由には出来ぬようになっているが、島氏関係の会社銀行に対するその筋の検査の時には一時このニ保全会社の財産を借りて来て急場をしのいでいたと専ら伝えられていたものである」

 昭和4年11月1日  大阪朝日新聞
「取調べ進んで島氏の喚問近し
 きのふも関係者数名召喚
 「天津取引所」にも波及

 大阪地方裁判所検事局における島氏関係の事件に関し、三十一日は阪神電鉄今西専務の外同社重役で新阪神土地常務山口覚二氏も再び喚問され、また十五万円貸出問題につき某信託銀行貸付係長中村氏も調べられたが、取調はさらに大正九年三月島氏が設立し、その実権を握っている某会社、上海取引所と同様島氏の乱暴なやり方の好一対とされている天津取引所にも波及し、三十一日は元某信託銀行常務で目下共同信託の専務取締役をしている門脇正氏と天取の残務整理に当たった岸某氏らも喚問種々の事情を聴取された。
 門脇氏は島氏のやり方を熟知しており、また天取は上海取引所と相前後して島氏が得意の絶頂にあった再好況時代に島氏が設立したもので、上取と同様島氏の思惑のために散々利用しつくした末解散してしまった。天津取引所そのものには不正はないと伝えられるが、島氏が北浜の元取引員静藤治郎氏とこの株の買占をやり裏面で種々策動しついに静氏をして倒産の悲運に陥らしめたもので、検事局では岡、栗原氏らの証拠かためをやる一方本陣へと突き進み幾多の疑問の闌明につとめているが、昨今伝えられるところによると、既に島氏関係の取調べはよほど進捗し種々疑わしい事実は明るみへさらけ出され、今や島氏の喚問は時の問題であるとさえいわれている」

 昭和4年12月1日 大阪朝日新聞(朝刊)
「背任罪で起訴 島徳蔵氏収容さる
  宇田貫一郎氏も同時に

 三十日午前十一時大阪地方裁判所へ召喚された関西財界の大立物阪神電鉄社長島徳蔵(五十五)氏は、別館二階の一室において金子主任検事より厳重な取調をうけ、午後三時四十分ごろ一先づ終了、金子、三谷、生島の三検事は約半時間協議を遂げ、さらに取調べが進められ、午後六時半には大番頭荒井久兵衛氏と簡単な対質訊問をうけ、午後七時いよいよ背任罪で起訴、直ちに灘波予審判事の拘留訊問をうけ令状を執行、同三十五分夏目警部補、稲谷、藤丸両刑事に前後を厳重に護られ、りゆつとした和服姿で裁判所の北手の刑事被告人の通路からコッソリと北区支所へ収容された。
 また、宇田貫一郎(四十一)氏は、三谷、生島両検事より交々取調べられ、これも島氏と同じ罪名で起訴、灘波予審判事の訊問をうけ島氏とは反対に夏目外二警官に護られ裁判所の南門から一たん堂島河畔に出て天満署横手の街路を北に大廻りして同八時二十分洋服姿のまま悄然と北区支所の鉄門をくぐった。宇田は島氏事件の共犯として起訴されたものである」

 昭和4年12月17日 東京朝日
「明政会軟化のかぎ 十五万円の取調べ
 島氏と共に策動者続々召喚
 大事を取る検事局

〔大阪電話〕島徳蔵氏の事件に関し、同氏が昨年の特別議会において、田中内閣の危機を救わんため、議会のカスチングボートを握る明政会の軟化策をはかるため投出した十五万円問題は、大阪地方検事局で時節柄重大視し過日来これが徹底的取調を進めているが、十六日早朝右軟化策に元代議士大沢辰次郎、後藤幸正、安部義也氏等と奔走し、遂に成功を納めた大沢氏等の直系ともいうべき東京市外戸塚町六九一森下国雄氏を東京から喚問し、去る十三日来取調中の大沢氏および鉄道時論の住居房次氏と共に、取調を続行しなお収容中の島氏も検事局へ引だされ、金子検事より当時の事情につき聴取された。前記森下氏は警視庁で一度上京中の夏目警部補の取調を受けたことがあるが、この策動はかなりデリケートな関係にあるので、検事は慎重の態度で臨んでいるが、森下氏が喚問された以上安部氏より六万円を受けた東京市外大井町鶴見定雄氏も近日中に大阪検事局へ召喚される。しかし右六万円の授受は政治関係を離れ、安部氏が一札を取って貸したことになって居るそうだが、それは表面の形式で実質は代議士の操縦にあると見られ、検事局の今後の態度は注目されている」

 昭和4年12月18日
「明政会軟化事件 終に東京に波及す
 北条検事秘かに大阪へ出張
 東西呼応して取調

 島徳蔵氏をめぐる明政会軟化事件は、遂に東京に波及し、東京地方裁判所検事局でも大阪と相呼応して活動を開始することとなり、北条検事は去る十六日秘かに大阪に出張協力取調べを行いつつある。島氏が政党方面にバラまいた金は単に明政会軟化のためのものだけでなく、その他の政党へも色々の名義で種々なる形式をとってだされて居る模様で、既に今夏例の安部義也をめぐる床次問題を中島検事が取調中ある程度まで判明しているので、その材料と大阪検事局側の取調べとを照合し、いよいよ徹底的に摘発することに司法当局の意向が一決したといわれている。従って東京方面の展開は北条検事帰京後と見られ、同検事は多分二十日頃帰京の予定であると」

 昭和4年12月24日  東京朝日
「三氏とも禁足 十五万円事件

〔大阪電話〕島徳蔵氏の十五万円事件で二十三日朝東京より大阪地方裁判所検事局に喚問された鶴見定雄、武内直光、金井階造氏等は、金子、三谷、床次、生島の四検事より交々午後六時半まで取調べを受け、同夜は三氏とも市内某旅館に投じたが、禁足を命ぜられている。二十四日も召喚されるはず」

 昭和4年12月25日 東京朝日(朝刊)
「十五万円事件三氏取調
 島氏等年内に追起訴か

〔大阪電話〕島徳蔵氏の政党操縦費十五万円事件に関し、二十三日東京より大阪検事局へ喚問された鶴見定雄、明治生命社員金井階造、武内直光氏等は、二十四日早朝検事局に出頭、金子、三谷、生島各検事の取調を受け、いずれも聴取書を取られた。夜に入り帰宅を許された。なお島氏の事件は、前記のごとく十五万円問題が取調べ最中であるが、時あたかも年末になったのでこの問題は別としこれまで取調べ中だった諸疑点につき、島、宇田、岡、栗原氏等に対し、検事は年内に追起訴する模様である」

 昭和4年12月25日 東京朝日(夕刊)
「十五万円問題で続々取調べ
 待合主人や銀行員召喚 数日中に決定か

 島徳蔵氏にからまる明政会軟化に関する疑獄事件捜査のため、大阪府警察部から上京中の夏目警部補、船森刑事は鶴見定雄、金井階造等を大阪へ送った以後内偵を進めていたが、二十四日早朝より警視庁に出頭等一捜査課地方係の応援の下に、日本橋区久松町三七待合二葉屋主人鷲見十握、昼夜銀行本店員等数名を参考人として召喚、秘密裡に取調べているが、いずれも問題の十五万円授受関係の証拠がためであった。
 大阪で取調べ中の鶴見、金井氏等の陳述をたどって関係者はいずれも東京で取調べることになっており、大体は数日中に決まりがつくものと見られている」

 昭和4年12月29日  東京朝日
「十五万円問題で島氏ついに追起訴
 同時に東京の某氏も起訴され
 事件いよいよ拡大

〔大阪電話〕島徳蔵氏の明政会軟化運動費十五万円問題につき大阪地方裁判所検事局の金子主任検事は、二十八日午後五時頃成亥次席検事と密議をこらした結果、十五万円問題につき確証を握ったので、いよいよ御用納め当日島氏に対し涜職罪の追起訴の手続きを取り、同時に東京の某々(特に名を秘す)も起訴された。島氏は収容中であるが、新たなる起訴者は東京より大阪へ護送され、北支所へ収容のはずである。この十五万円問題は、昨年特別議会の時の政府の窮状を救わんと、島氏が某氏の意中をそん度し、当時議会のキャスチングボートを握る明政会に白羽の矢を立て、安部義也氏を介して十五万円を投出したところ、中途で五万円は某々取巻連がつかい込み、結局六万円が鶴見定雄氏に渡されたが、それも表面で、鶴見定雄氏が安部氏より、公正証書と手形とを借りたことになっている。然も関係者一同この金は明政会の軟化運動費でなく、第三党の組織費だと否認していたと伝えられていたが、検事局のしゅん烈な取調べにより種々のからくりがわかり、遂に島氏等の追訴を見たわけで、大阪検事局はこの機に乗じ政界浄化に猛進する意向で、明春早々大活動に入るべく政界の大立物など大阪へ召喚され、あるいは前某大官にも波及しはせぬかといわれている」

 昭和5年1月1日 大阪朝日新聞
「島氏とともに二名起訴さる
          議員軟化運動に奔走

 議員軟化十五万円問題につき、旧臘二十八日涜職罪で追起訴された島徳蔵氏の共犯として東京市外戸塚町森下国雄(三十四)東京麹町区内幸町大阪ビル内、安部義也(三十四)の両氏も同罪で起訴され、森下氏は上京中の夏目警部補につれられて三十一日朝大阪に護送、難波予審判事の拘留訊問をうけ午後一時半涜職罪で北区支所へ収容、安部氏は元旦大阪へ護送されるはずである」

 昭和5年1月17日 東京朝日新聞
「総選挙を中心とする地方政界の大観
 我が社通信網に依る調査
 岡山 「負けられぬ政友」

〔岡山電話〕定員一〇名のうち政友七名、民政二名、中立一名の現状であるが、いよいよ総選挙となれば民政派は与党の背景と浜口内閣成立後に行われた県議補選の好成績から見て
 第一区(定員五人)においては前回惜敗した清水長郷、中島琢之(新)の両氏を推して必勝を期し、第二区では小川郷太郎(現)、西村丹治郎(現)両氏の外に古屋野橘衛氏(新)を擁立しあわよくば両区を通じて三名を獲得せんとし、政友派では犬養翁が総裁である以上敗けてはならぬと第一区では岡田忠彦、玉野知義、横山泰造、久山知之の各現代議士が再起するのをはじめ難波清人氏(前)が雪辱戦を試むべくこのほか戸川専治氏(新)も立候補の望みあり。
 第二区(定員五人)では犬養総裁はおちろん星島二郎(現)、小谷節夫(現)両氏のほかに前回敗れた高草美代蔵(前)も必ず立つべく又中立の鶴見祐輔氏(現)が第一区より再起するは間違いない。要するに興味は民政派が果して何名を獲得し政友派がどこまで侵略を防ぎ得るかにある」

 昭和5年2月3日 東京朝日
「岡山第一区(定員五名)民政二、政友五、中立二、計九名の立候補で、中立のうち鶴見祐輔氏は相当有力と見られ………」

 昭和5年2月7日 岡山某紙
「固定せる票、浮動せる票
 岡田氏は人に依りて取り、鶴見氏は弁に依りて取る
 岡山二万三千余票がどんなに動くか!

 今度の総選挙で一番激烈であり一番興味の深いのは、何と言っても岡山市である。岡山市の二万三千余票が、岡田、鶴見両氏の対戦に依りて、どんな風に分配されて行くかと言うことである。もっとも岡山市で得票を争うものは、単に岡田、鶴見の両氏ばかりではない。玉野、横山、難波、清水の諸氏も居るが、その大部分は岡田、鶴見両氏に支配されるものと言って差支あるまい。

 鶴見氏が前期破天荒の成績を収めたものは、氏が二回落選に対する同情と、官憲の弾圧に対する反発と、新人鶴見の名に対する憧憬とが、遂にこの結果をもたらしたものと言ってよい。明政会の行動とその後に起こった島徳事件によって、鶴見氏もとかくの批評を受けたようであるが、しかしまた一面から考えると僅か数名を算する明政会が、満天下の視聴を集めてアレだけの大芝居を打ったところに鶴見氏が並ならぬ政治的手腕を認めることが出来ぬこともない。かくのごときは到底ぼんくらの企及し能わざるところで、政治家として未知数だった氏は、とにかくこの試練を経て、一躍衆議院における存在を鮮明にした事実は否めない。ちょうど幼稚園から一足飛びに大学へ入ったようなもので、確かに張胆明目の価値はある。

 鶴見氏に前期ほどの人気がないのは事実で、これに対しては氏も相当頭を悩まして居るもようであるが、しかし氏に対する不評なるものは、無論明政会の行動に対する結果に基づくこと言うまでもないが、前期余り高人気に過ぎた反動と、政党者流の宣伝が、大分輪をかけて居るようで、一般ではそれほどでもなさそうである。殊にせんだって政界の大先輩尾崎咢堂を拉し来って、明政会の弁を試みたので、幾らかこれらの不評を薄らげた観あるのみならず、元来鶴見氏の勢力なるものが、他のそれのごとくいわゆる政党の地盤に頼らず、別に超政党的の鶴見宗を有して居ることは、何と言っても大なる強みと申さなければならぬ。
 鶴見氏に対する興味は、その不評なるものが、どの程度の影響を与えるかと言うことである。無論前期のごとき戦績は望むことは出来まいが、それでも依然として岡田氏と最高点を争うものと見られて居るところは、やっぱり豪いものと言わねばなるまい。
 鶴見氏のめざす敵が岡田氏にあるごとく、岡田氏の恐るるところも、また鶴見氏でなければならぬ。たとえ鶴見氏の名声信望が、一時ほどでないにしても、岡田氏としては他の何人よりも、最も恐ろしい、しかして最も強い敵でなければならぬ。
 申すまでもなく岡山市は岡田氏の勢力範囲、平素県会議員、市会議員といういわゆる政治の先端に立つ有象無象を養って、他の一指を染むる能わざる金城湯池なのである。しかるにこの縄張りを鶴見氏に荒らさるることは、木堂第二世の尊厳を冒涜(原文は旧字体)すること甚だしいもので、岡田氏としては大いに癪に触らざるを得まい。無論両氏とも当選することは確実であるが、もし総得点を争うことになると、鶴見氏が全区を地盤とし、かつ自分だけ当選すればよいという好都合な立場にあるに反し、岡田氏は岡山御津に地盤を限定したと限定せざるも、政党的の約束を脱すること出来ず、同志とともに多数当選せねばならぬと言う責任ある立場にあるだけ、鶴見氏のごとく自由に、積極的の行動がとれない弱みがあるので、総点数の上では岡田氏に歩の悪いようであるが、せめて岡山市だけでは、それが勢力範囲であり、金城湯池であるだけ、鶴見氏以上の票を取らねば、男の一分相立たぬとあるのが岡田氏の胆でなければならぬ。

 犬養内閣が出来れば、さしづめ政務次官は動かぬ岡田氏、一方は新自由主義の本家本元、その閲歴なり行き方なりを異にして居るが、いずれにしても堂々たる三役相撲、恐らく一、二区を通じてこれほどの対戦はあるまい。岡山市の二万三千余票これを岡田氏がリードするか依然鶴見氏が優勢を示すかは最も興味の深い問題にしてしかしてこれは一に玉野、横山、難波、清水の諸氏が岡山市へ侵略する程度の如何によって解決さるる問題である。

 岡田氏の票は固定的であり、鶴見氏の票は浮動的である。岡田氏の固定的なるは、人によって票を取るがためにして、鶴見氏の浮動的なるは言論によって取るためである。固定せるがゆえに岡田氏の票には確実があり、浮動せるがために、鶴見氏は時に突拍子もない票を取ることも、多少の不安を感ぜざるを得ない。壇上の岡田氏は語熱するや、満面朱をそそいで、率直真摯に人に迫り、鶴見氏は意気たかまるや手を振り足を踏んで、動作で聴衆を魅する。鶴見氏の弁、好く票を取るも、岡田氏また弁の勇者たるを失わない。両者の対立は、まことに今次選挙中の壮観にしていずれは火の出るがごとき接戦を演ずるは言うまでもない。この歯も爪も立たぬ両者接戦の中を潜りて、玉野、横山、難波、清水の諸氏が、果たしてどの程度の票を獲得するか?

 岡田氏の票が固定的なるだけ玉野、横山、難波、清水の諸氏の侵略するところは、岡田氏に何等の影響を与えずして、鶴見氏に打撃を与うること言うまでもない。前期においては鶴見氏の勢力に押されて、諸氏いずれも不振を極めたが、この中にありて岡田氏が依然たる強みを見せて居たのは、票が固定的なりしためである。無論鶴見氏に比して、遥かに票は少なかったが、これは決して岡田氏の力足らざりしためでなく、以上の諸氏が鶴見氏に圧倒された結果である。要するに市における得票は、玉野、横山、難波、清水氏らの力強ければ、岡田氏最高点となり得るも、これに反してもし諸氏の力足らずとせば、依然前期の結果を繰り返して、鶴見氏が最高点となろう」

 昭和5年2月15日 東京朝日
「当選圏にある候補者
 岡山県第一区(定員五人) 横山泰造、岡田忠彦、難波清人、清水長郷、鶴見祐輔
 岡山県第二区(定員五人) 犬養 毅、西村丹治郎、小川郷太郎」

 昭和5年2月17日 東京朝日
「岡山県「中立候補苦戦」
 第一区では定員五名に対し九名の候補が乱立している。今のところ民政一名の獲得は予想に難くないが、前回最高点であった中立の鶴見派がやや苦戦に陥り、政友派もし民政に一名を許すとせば、鶴見派を圧迫して前有四名(横山、久山、玉野、岡田)を獲得せんとの作戦らしい」

 昭和5年2月19日 東京朝日
「岡山一区 当選確実
 岡田忠彦、難波清人、清水長郷、鶴見祐輔」

 日付不明、紙名不明
「岡山一区 総裁の威信を傷つけまいと懸命の政友 散票集めの鶴見氏
 金を食う地盤として有名な作州五郡を包含する岡山県第一区は政友五、民政二、中立二という複雑な戦線を布いて戦雲漠々たるものがある。
 前回の総選挙で政友派の元締め岡田忠彦が散票主義の鶴見祐輔氏に岡山市でうっちゃりを食って以来両氏の対立は代表的な取組となっている。岡田氏の既成政党型………青年団、壮年会、在郷軍人会など組織団体を主体として計画的に張られる獲得網は堅実そのものの観がある。これと極端な対照をなして鶴見氏はまた講談社的宣伝………散票主義に終始している。県下における岡田会と鶴見会ほど普選時代の推移を物語っているものはない。その他の横山、難波、久山の諸氏は岡田氏とともに直属の木堂系と目され一蓮托生である。それとは正反対な鶴見氏は全区にわたって転戦し一人一党の気概をもって牢固たる政友派の地盤に肉薄するフリーな立場に立っている。民政派は津山市から有力な中島琢之氏を推して北部の浸食を企てるとともに南部では宇垣陸相の後援ある清水長郷氏が雪辱戦を試みている。わしが国さの総裁犬養翁の威信を傷つけまいとするところに政友派の深き悩みがある。(岡山発)」

 昭和5年2月20日  投票日

 昭和5年2月23日 大阪朝日
「岡山番狂わせか 鶴見氏形勢危し
 大体において第一区は大番狂わせで、まず当選確実と伝えられていた新人鶴見祐輔氏は形勢すこぶる危く、民政清水長郷氏が最高点であろう」
 開票の結果は大方の予想を大きく外れて次のとおりであった。
    清水長郷(民政) 19,605
    難波清人(政友) 18,533
    岡田忠彦(政友) 16,782
    久山知之(政友) 12,741
    中島琢之(民政) 12,315
 政友会は中立の鶴見を追ったものの自党の議席を増やせず、逆に1名減ってしまい、民政党に2議席奪われてしまった。
 鶴見は11,315票で次点にもなれなかったが、岡田もトップ当選ではなかったのである。この岡田忠彦は、後に衆議院議長となり(昭和12年以降)、終戦時の鈴木貫太郎内閣の厚生大臣であった。
 因みに前回(昭和3年)の選挙結果は次のとおりである。
    鶴見祐輔(中立) 24,648
    玉野知義(政友) 14,499
    岡田忠彦(政友) 14,118
    横山泰造(政友) 14,109
    久山知之(政友) 11,970
 まさに政友王国であった。

 昭和5年2月23日 大阪朝日
「代議士の新旧星は乱れ飛ぶ

 前選挙に米大陸を飛行機で横断、戦線にかけ帰った鶴見祐輔君(中立)が、岡山で篩い落とされたのは、『母』以来の鶴見ファンを失望の渊におとしこんだ。

 社説抄
 今回の総選挙で吾人の最も喜ばしく思う成績の第一は、都鄙を通じて棄権率の少なかったこと、第二は党籍を勝手に変更せる無節操なる職業議員候補が多く落選したこと、第三はいわゆる灰色の曖昧中立候補が極端に排斥されたことである」

 昭和5年2月23日 東京朝日
「小党を排した政治判断の進歩  関口 泰

 中立および中立的小会派の消滅的傾向の原因は外にありとするも、この二大政党主義が現下の日本にはもっとも適当である。第三党の存在あるいは小党分立はむしろ有害であるという政治的判断が国民の間に育っていたことを表現したと見るべきである。

 中立候補者および中立的小会派の滅亡は、今度の総選挙結果における著しき特徴である。
 中立議員あるいは寝返り議員が、過去二年間の政界をいかに暗くし汚したかということをみずから眼にした大衆は、言論機関の言説を待たずしてなおこれを排斥するに後れなかったろうと思う。名のみ明政会というぬえ的存在は、二年の短い生命の果敢ない終末を告げてしまった。
 それはその構成者の人格識見が他の政党者流の上にあるか下にあるかの問題ではないのである。その動機はたとえ何であるとしても、第五五議会に鈴木内相の「自発的」解任を唯一の収穫として、内相弾劾案を修正し、野党四派連盟を裏切り、内閣不信任案を審議未了にさらして、普選第一議会を盲鬼の遊び事にしてしまった結果が、田中内閣に二年の悪政の端を開くの発足点を与えたのである。
 大衆の審判遂に明政会を滅ぼすも当然と言わなければならぬのである」

 石塚注
 田中首相の在任期間は、昭和2年4月20日から昭和4年7月2日までであるから、昭和3年5月6日の内閣不信任案の審議未了の日を以て「二年の悪政の端を開くの発足点」とするのは不正確である。
 また、明政会が民政党の内閣不信任案に賛成しなかったことばかり責めるけれど、民政党も解散を恐れて及び腰であったのである。
 既述のごとく、昭和5年3月18日前明政会代議士椎尾弁匡は、「総括的不信任案不賛成の態度を世間に発表しなかったのは、民政党と発表せぬと約束した義理にからんだのと『同案は一部のものを納得さすために形式的に上程するに過ぎぬ』というのであるから、私のほうでも何も力こぶをいれて態度声明の要もなかろうということだった」と証言している。

 昭和5年2月24日 大阪朝日
「社説抄
 ……中立や小会派など、いやしくも政局不安招来のおそれある中間分子絶滅のため、並々ならぬ国民的努力が払われつつあることを示しているのである。……小会派や政党外の勢力によって政界革新を志している人々は、断然その従来の主張を撤回して、これより明敏公正なる国民総意の向かうところに服従すべきであろう」

 日付、紙名不明
「大宰相の夢も空し鶴見氏 新人にも急速度の転変

 前回に二万五千余票を獲得して岡山から最高点当選の栄を担い僅か数名の中立代議士で明政会を組織し、運よく政友民政の間にキャスチング・ボートを握って一時は非常なる勢力を張った鶴見祐輔氏は将来の大宰相との夢空しく、今回はからずも次点にも及ばぬ大惨敗を招き、余りに急テンポな転変にこれも大物の落選として世間をアッと言わせたが、昨年は氏の後光であった義父後藤新平伯を喪い今またこの敗戦とは恵まれぬ氏である。昨夜上大崎の長者丸の同邸を訪れると、高い竹垣の中に邸は森閑として物音一つ立たず言い知れぬ寂しさに覆われていた。当落を心配した親戚筋の人が昼間からポツポツと訪れた他は訪客もなく、留守をまもる愛子夫人は左のごとく語った。
「今日京都にいる夫と電話で話しましたら、駄目だとの事でした。当落は選挙戦の常ですから、東京を立つ前からこのたびはわからないよと言っていました。私もそう落選しても気に掛かりません。それよりも十三歳になる和子が埼玉でやっぱり落選された遠藤柳作さんのお嬢さんと仲良しで二人で心配して気を揉んでばかりいましたが、それでも子供ですね。もう忘れたように寝てしまいました」と寂しく微笑していた」

 日付不明 中国民報
「落選した鶴見祐輔氏 何が彼をそうさせたか

 元田肇老が落ちた。山本悌二郎氏(農相)が敗れた。片岡前蔵相が倒れた。安部磯雄先生が滑った。こうした例を見せつけられても鶴見祐輔を落とした岡山県第一区の大小男女の鶴見ファンにはなおあきらめ兼ねる綿々たる憾みはつきない。
 何が彼をそうさせたのか……これは談甚だ容易ならぬものがある。けれども静かに冷やかに考えるとそこにはおぼろげながらも種因、遠因、近因といったようなものが浮かび出る。それを語ろうと思うのである。
 諸君!と演説を始めるのではないが、昭和三年の総選挙に彼れ鶴見祐輔を圧倒的多票を以て日比谷(石塚注 当時国会は日比谷にあった)へ送り出したものは、鶴見そのものに対する無条件的心服者も多くはあったろうが、更に多くのアンチ政友派の投票のあつまった事実は疑えなかったと思う。しかるにかれ鶴見祐輔は、第五五議会において内務大臣鈴木喜三郎一人のみの首切りに同意しただけで、田中内閣そのものの横暴不正なる存在を看過するの態度をとったのである。従って当時「田中内閣打倒」の感情に燃え立った非政友ファンをして鶴見頼むに足らずとの憤激を与えたことは大きかった。ここに彼を今日あらしめる一種因を見いだすではないか、諸君!
 ほとぼりはさめた。田中内閣は消滅したが、解散の近づいた時に現れたのは、鶴見祐輔を中心とする明政会事件である。島徳事件、藤原米造の遺書等々が、いかに選挙民に好ましからぬ影響を与えたかは多くいうまでもあるまい。しかも不幸なことには鶴見には気の毒なぬれぎぬであったとしても、彼の実弟定雄が島徳から六万円を貰ったという事実だけは明白に否定されないことである。彼にとってはまことに思いもかけぬ暗礁に乗り上げられた感があったろう。これも遠因の一つであるまいか。
 しかし、鶴見の潔白は先輩尾崎、新渡戸諸氏によって証明せられたが信ぜざるものの前には、千万言の叫びも無効である。信ずるものの数と信ぜざるものの数とを科学的に判別すべからざる以上、なお多くの疑惑をもつ民衆の存在は無視できない。そこへ総選挙のテストが現内閣の信任か、不信任かの問題であって、中立党の「高遠なる理想」は耳に入りやすくなかった。朝野両党の挟撃は激しかった。鶴見の応援弁士は、岡山が政友全盛の土地なるを知ってか、ことさらに民政党をコキ卸した。民政びいきは勢い鶴見を去るを余儀なくされた。政友派は前回の恨みを晴らす絶好機会の到来として暗中飛躍した。こりのない有権者は、鶴見不人気といえども、当選は確実であり、前回の半分をとっても当選はできる、とあって清水に同情した。これが近因の一つ二つになろう。
 鶴見の運動員、後援者は、依然演説会の人気あるを見て心中「やっぱり鶴見はエライ」と堅く信じた。必ずしも楽観はしなかったろうが、前回のごとき血の出る戦いはようしなかった。かくてやっぱり最高点を争うものは鶴見、岡田なりとの観念が一般に徹底した。何が彼をそうさせたかのアウトラインはまさにかくの通りでないか、諸君!
 第五五議会における明政会の進退に既に不満をもつ選挙民はこの総選挙の結果もまた政友、民政の対立となり、無産党かあるいは少数の第三党が議会のキャスチングボートを握るであろうことを予感して進んで鶴見祐輔への投票を決心したか、ここにすこぶる微妙なる大衆心理の動きがある。全選挙区を通じて殆んど平均して得票の少なかったことは恐らく不可避的なる今回の運命であったことを暗示してはいないであろうか。
 さあれ鶴見祐輔は大きなる存在に違いない。彼をとりまく疑雲の晴れたりと晴れざるとを問わずまた彼が当選したとせざるとを論ぜず鶴見祐輔は立派に日本的の存在であり、世界的の存在でもある。選挙運拙かりしといえども、彼の人生は前途に輝く光明があろう。捲土重来、更に岡山県第一区選挙民の期待に副うの機会あるを祈りつつ彼をいたわり彼の敗戦を惜しむ一選挙人としてこの感想を鶴見ファンの前に捧げる。(?生)」

 昭和5年2月28日 大阪朝日新聞
「議員買収事件の取調べ再び開始
 鶴見、福井両前代議士 近く大阪検事局に召喚

 島徳蔵氏にからまる明政会議員ならびに鞍替議員買収等の諸疑獄事件は取調の真最中に総選挙となったので、大阪地方検事局では諸種の事情を考慮し取調べを一時中止していたが、二十七日からまたもや島事件の取調を開始し、その第一着手として既に八十九日未決生活の島氏を金子検事が取調べたが、既に明政会議員買収及び別口の鞍替議員に対する涜職嫌疑事実は諸証人の取調べ終了し、今度は当の本人を召喚すれば事件の真相が明らかになるところまで漕ぎつけているから、いよいよ近日中に前者については前代議士鶴見祐輔氏、後者については前代議士福井甚三の両氏を大阪検事局に召喚すべく両氏に対する検事局の態度は政界浄化の高唱されている折柄であるから各方面の深甚の注意が払われている。召喚は福井氏より鶴見氏の方が先らしいと伝えられている」

 昭和5年3月6日 東京朝日
「鶴見定雄氏強制収容さる 明政会問題発展せん

〔大阪電話〕島徳蔵をめぐる明政会疑獄事件に関係ある鶴見定雄氏は、大阪検事局の召喚に接し五日朝来阪、直ちに大阪地方裁判所検事局に出頭、末次検事より厳重な取り調べを受けたが、遂に涜職罪として起訴前の強制処分により北区刑務支所に収容された。氏は第五五議会における明政会懐柔問題について島氏が投げ出した十五万円のうち十万円を東京の安部商事株式会社社長安部義也、東京市外戸塚町森下国太郎両氏より実兄祐輔氏の代理として収受し、後日これを返済したが、この金の中より六万円を借受け安部氏に一札をいれて居るからであると」

 昭和5年3月14日
「鶴見祐輔氏対質訊問を受く 大阪で実弟定雄氏と

〔大阪電話〕十四日午前大阪検事局に召喚取調べられた前代議士鶴見祐輔氏は、例の第五十五特別議会に明政会抱き込みに際し、島徳蔵氏から実弟定雄氏が収受した十万円は祐輔氏の諒解の下に収受せしものか否かに就いて訊問を受け、同氏は兄として全然周知する所にあらずと極力否認し遂に定雄氏との対質訊問となり、午後六時二十分に至り漸く帰宅を許され、陪審法廷口から帽子を目深に被り何処ともなく消え去った。十六日も引続き定雄氏との対質訊問が行われる筈である」

 昭和5年3月15日 東朝夕刊
「鶴見祐輔氏けふ召喚取調べ 明政会軟化十五万円事件で 大阪地方検事局に

〔大阪電話〕島徳蔵氏をめぐる明政会議員買収事件はさいに鶴見定雄氏の収容となったので、定雄氏の実兄前代議士鶴見祐輔氏の召喚も近くにありと想像せられたが、果せるかな鶴見氏は大阪地方裁判所検事局よりの喚問により、同郷同学の友人なる大阪の弁護士大橋鉄吉氏に伴われ、十四日午前九時秘かに大阪地方検事局に出頭、三階の検事廷にて末次検事の取調べを受けている。いわゆる明政会事件は一昨年五月特別議会の末期に、田中内閣不信任案が提出され、政友会内閣が一大危機に直面した際、島氏が某々有力者からの依頼、自己の打算の二道から、当時議会のキャスチングヴォートを握ってその向背を環視されていた中立議員一派即ち明政会を軟化して、政府側になびかせるため十五万円を投げだした事件であって、そのうち十万円は安部義也、森下国雄氏を通じて鶴見定雄に手交された金は二ヶ月後に安部氏等に返されたが、改めてうち六万円を安部氏より定雄氏の経営に係る東京京橋区宗十郎町、大和鉱油商会の基金に貸与した。しかして島、安部氏等は右十万円を定雄氏を介して実兄祐輔氏に贈ったものであるが、定雄氏は兄には関係ないと極力否認しておる模様である。しかも定雄氏は祐輔氏の代理としてその金を受取り、また小切手は台湾銀行東京支店で現金にかえた事実がある。その他祐輔氏の代理として金品の授受をしたと見るべき幾多の事情があるので、これ等の事情を明かにするため遂に祐輔氏の召喚をなったものと思われ、事件の成行には各方面の注意を喚起している」

 明政会抱き込み事件に関する声明書

 先般来、私に関し色々の噂が、世間にありましたので、私はもし参考人としてお取り調べの必要があるなら、進んで出頭して司直の方々に真相をお話ししたいと思って友人の弁護士大橋鉄吉君を通して当局と幾度交渉して頂いた結果今日来阪したのであります。私はこの事件の真相が一日も早く世間に公表せられる事を希望しています。事件の内容はただ今申し上げる訳にはゆきません。
             鶴 見 祐 輔

(石塚注 B5版 ガリ版印刷 縦書き 昭和5年3月14日に、大阪検事局の召喚に応じて来阪した時、殺到した新聞記者に配ったものと思われる。)

 昭和5年3月15日 時事
「鶴見祐輔氏帰宅許さる 大阪検事局で八時間取調べ

 島徳蔵氏の明政会軟化事件に関し、遂に十四日午前八時十分頃、大阪地方裁判所検事局に召喚された前代議士鶴見祐輔氏は、二階検事調室に於て末次検事から峻烈に訊問され、昼食後も取調続行、午後三時三十分頃より、目下大阪刑務所北区支所に収容中の祐輔氏実弟定雄氏と対質訊問が開かれた模様で、取調約八時間の後、午後六時一旦帰宅を許され秘かに退出した。なお今一応の取調べは免れない模様である。
 訊問の要点は既報のごとく、島氏が第五十五議会当時、田中内閣の危機を救うため投げ出した議員買収費十五万円中、安部、森下両氏を介して鶴見定雄氏に手交された金六万円にからむもので定雄氏は極力実兄の与り知らぬ所で、該金と明政会軟化との間に何等の因果関係なしと否認し続けているので、第五十五議会に上程された田中内閣不信任案が、明政会軟化のため審議未了のまま葬り去られた事実があるので、かく祐輔氏の喚問となったものである。
 鶴見氏は梅田駅で語る
 「此際検事さんからのご注意で、一切お話することができません。明政会軟化問題とか、議員買収とか一切私の関知せざる処である。六万円の十万円のと言うことも一切知りません。直ぐ東京へ帰ります」と後は語らず。午後六時四十五分発三等急行列車に飛び乗った〔大阪電話〕」

 昭和5年3月16日 中民
「鶴見定雄氏遂に起訴予審へ 祐輔氏取調べで事情が判明 明政会買収事件

 明政会買収事件に関しさきに涜職の嫌疑で強制処分により大阪市北区刑務所支所に収容された前代議士鶴見祐輔氏実弟定雄氏は十四日の祐輔氏取調の結果事情ほぼ判明したので、十五日大阪地方裁判所末次検事は、定雄氏を涜職罪として起訴、予審に附した〔大阪電話〕」

 年月日、紙名不詳
「鶴見定雄氏起訴さる 実兄をかばって涜職の罪に

〔大阪電話〕島氏をめぐる明政会買収事件に関し、北区刑務支所へ収容された前代議士鶴見祐輔氏の実弟鶴見定雄氏は、例の島氏が安部、森下を通じて贈った十万円の性質につき、実兄祐輔氏に全然無関係と極力否認して居たが、十四日祐輔氏の取調によりこの間の事情略明となったので、十五日大阪地方裁判所末次検事は、定雄氏を涜職罪で起訴、直ちに予審に付した」

 昭和5年3月16日 東日
「遂に鶴見定雄氏涜職で起訴 実兄祐輔氏と安部氏の間に十万円の橋渡しをす

〔大阪発〕島徳蔵氏の明政会抱き込み事件で去る五日夜強制処分により大阪北区刑務支所に収容された鶴見定雄氏は、涜職の事実明白となり十五日正午起訴、灘波予審判事の予審に廻された。
 同氏が起訴されるようになったのは、昭和三年五月六日第五十五議会に提出された田中内閣不信任案に関して、島氏が明政会抱き込みのため投げ出した問題の十万円を実兄祐輔氏と抱き込み運動者安部義也との間に介在し橋渡しして不信任案を審議未了に終らせる同一態度を執らせた点が涜職罪を構成したものと見られている。
 なお、その十万円は、その後祐輔氏から安部氏に一たん返したといわれているが、前記橋渡しの行為は明かに贈賄を既遂しているので、かく処断されたものである」

 昭和5年3月19日 東京朝日
「椎尾弁匡氏退任 きのう帰名

〔大阪電話〕明政会軟化事件で十八日大阪地方検事局末次検事より前後八時間にわたり参考人として取調べを受けて退任した前代議士椎尾弁匡氏は同七時廿分の急行で名古屋に帰ったが、京都まで車中に訪えば左の如く語った。
「明政会軟化事件などど世間に伝えられているが明政会は断じて軟化したことなく一貫して公明であった。ただ総括的不信任案不賛成の態度を世間に発表しなかったのは民政党と発表せぬと約束した義理にからんだのと「同案は党内一部のものを納得さすために形式的に上程するに過ぎぬ」というのであるから私の方でも何も力こぶをいれて態度声明の要もなかろうということだったのです。だから鶴見氏に問題ありとせば別の理由によるものではなかろうかと思ふ」」

 昭和5年3月21日 東京朝日
「明政会事件で検事上京す 東京側の取調開始 近日中に召喚者続出せん

 島徳蔵氏をめぐる明政会軟化事件に関し東京側の取調べをなすため大阪検事局末次検事は書記を伴い東上し廿日午前八時五十分東京駅着直に東京地方裁判所検事局を訪れた。同所で二列車程早く着京した夏目警部補と落ち合い東京側の松坂次席検事を交え種々競技を重ねた上新館調室にいり書類の点検を始めた。一両日中には同事件関係者両三名召喚を見る模様で末次検事は右の取調べ終了次第帰阪すべく目下の滞京予定は約四日間とのことである」

 昭和5年3月22日 紙名不詳
「鶴見祐輔氏らも続々召喚し取調べか 明政会の抱込み事件

 島徳蔵氏にからまる明政会抱込み事件のため突如二十日上京した東京地方検事局末次検事、神谷書記、夏目警部補の一行は旅装をとくいとまもなく東京地方検事局に捜査本部を置き同局の応援を求め午後からはさきに大阪において取調べられた東京市外大井町六二八五鶴見定雄氏留守宅市外駒込町洗足町二三八安部義也氏留守宅ならびに東京府下戸塚町上戸塚六九一森下国雄留守宅ならびに銀座西八丁目七番地鉱業会館三階鶴見定雄氏経営の三善商会の家宅捜査を行って何れも関係書類も押収して引上げたが二十一日は東京から末次検事一行は東京地方検事局別館一号調室に頑ばり前日押収した書類の検討に入ったが午前十時島氏を中心に画策した某新橋料亭の女中同じく十一時半に京橋の某宿屋の番頭の両名を参考人として召喚し取調べをしている。同事件の関係者数名にはすでに召喚状が発せられているので二十二日から鶴見祐輔氏を始め続々召喚を見る模様である」
 (石塚注 記事中、東京地方検事局末次検事とあるのは、大阪の誤りである。)

 昭和5年3月25日 東京朝日
「きょう数氏を召喚取調 明政会事件

 明政会軟化事件に関し廿四日午前十時頃安部義也氏の弟為幸、後藤幸也外数氏が東京検事局に召喚上京中の大阪の末次検事の取調べを受けている」

 昭和5年3月28日 紙名不詳
「末次検事から事情を聴取 人権無視の問題で 当局調査を開始す」

 昭和5年3月29日 紙名不詳
「広田博士夫人きょう召喚さる 鶴見祐輔氏の実姉 明政会事件の参考人」

(石塚注 これは鶴見祐輔が来客の多い自宅を避けて、実姉敏子の嫁ぎ先であり、東大時代の寄留先であった東大教授工学博士広田理太郎邸で、著述の筆をとることを知っている実弟定雄が、安部義也らを鶴見祐輔に面会させるために広田邸へ案内したことの有無と案内した場合はその日の状況を聴取するため広田夫人が喚問されたのである。)

 昭和5年3月28日 東京朝日
「明政会事件取調に人権問題起る 過酷に過ぎるとて 参考証人達の悲憤」
「昼食も与えずに深夜まで女を留置 罪人にも等しい取あつかいと非難の声のかずかず」

 昭和5年5月6日 東京朝日
「渡米を前にして鶴見氏召喚さる 五日大阪の予審廷で 注目される調べの結果

 〔大阪電話〕大阪地方裁判所灘波上席判事は五日午前九時からかねて召喚状を発していた前代議士鶴見祐輔氏を予審第一号廷に喚問、明政会軟化事件で涜職罪の起訴を受けておる島および安部義也等四名の証人として取調を開始し午後も続行した。
 鶴見氏召喚の事情は検事の取調べは既に完了しておるが純然なる政治的事件であるため予審審理の進行を待って最後の方針を決することになっていたところ鶴見氏は来る十七日頃渡米するはずで旅券の交付さえ受け、鶴見氏自身からも早く調べてもらいたいとの申出でがあったので遂に召喚を見るに至ったものであるいは島、安部、鶴見定雄氏等の対質訊問が行われるらしく鶴見氏の起訴不起訴問題はこの予審尋問後に決せられるので時節柄注目されている」

 昭和5年5月6日 東京朝日 朝刊?
「鶴見氏の取調 十時間に及ぶ きょう更に出頭取調べ

 〔大阪電話〕既報五日午前九時明政会軟化事件の証人として大阪地方裁判所い召喚された前代議士鶴見祐輔氏は灘波予審判事より前後十時間余の訊問を受け午後七時二十分やっと退出、直に同郷同学の友人なる大阪東区伏見町一丁目の弁護士大橋鉄吉氏に迎えられ自動車で京阪国道を突破し京都着某旅館に一泊したが今六日も再び裁判所に出頭するはず」

 昭和5年5月7日 東京朝日
「鶴見氏の取調べ終了

 〔大阪電話〕六日午前八時大阪地方裁判所に出頭灘波予審判事から明政会軟化事件に関し十時間の取調べを受け午後六時二十分退出した鶴見祐輔氏は同夜帰京した。氏の取調べはこれで完了したものと見られている」

 昭和5年6月号「新自由主義」
「もとより鶴見の潔白を信じて疑わない人は少なくない。
 尾崎行雄、新渡戸稲造は、昭和五年二月の総選挙の際、鶴見の選挙区である岡山を訪れて、選挙民に鶴見の潔白を訴えた。
 昭和五年五月十五日に東京会館で開催された鶴見先生を海の彼方へ送る会には一五九名が出席したが、そのうち著名人は次のとおりである。司会者は阪谷芳郎男爵。
 芦田均 岩永裕吉 池田長康 伊東深水 植原正直(前駐米大使) 緒方竹虎 河合栄治郎 川合玉堂 菊池寛 後藤一蔵(新平の長男) 沢田謙 正力松太郎 嶋中雄作 鈴木文史朗 十河信二 団琢磨 高柳賢三 鶴見憲 永田秀次郎 長尾半平 新渡戸稲造 早川雪舟 広田理太郎(祐輔の長姉の夫) 星一 丸山鶴吉 前田多門 望月圭介(前内相) 米倉清一郎(新自由主義誌の主幹)」
 昭和5年6月号の新自由主義誌で、石井満と沢田謙が次のように語っている。
「「米国に出発前の鶴見さんの境遇は、むしろ悲壮なものであった。島徳事件の余沫、いわゆる明政会事件なるものをこさえあげ、その「証人」または「参考人」として、二三度検事局によばれた。すると新聞は、鬼の頭でも取ったように、「鶴見氏云々……」と書きたて、世間はまるで鶴見さんが、その中心人物であるかのごとき印象を受けた」
「名士には成りたくないもんだなァ。あれじゃあ、まるで、鶴見さんが巨魁のようじゃないか」
「うん。しかし、ああ書かなくちゃあ、新聞種にならんからなァ」
 と僕たちは苦笑した。
 しかし当人の鶴見さんにとっては、そんなノンキな問題ではなかったに違いない。まるで横合いから不意に飛び出した自動車のために、ベチャベチャの泥を、顔一面に浴びせられたようなもんだ。社会的人格を惨殺するような目に遭ったのだ。
 その上、総選挙では無残にも破れた。……彼はこの巨きな痛手を抱いて、米国に渡ることになったのだ」

 昭和5年6月号「新自由主義」
 編集後記に「先頃来××政党の手によって執拗に加えられた我々の政治的台頭への鉄槌は実に言語に絶するものがあった」とある。

 昭和5年9月号「新自由主義」
 編集後記にいう。「昭和三年六月我らが日比谷原頭に三色旗を翻し自由日本の実現を企図してより早くも満二年を経過した。その間我らはあらゆる圧迫、あらゆる迫害、あらゆる窮乏と戦いつつ、実に言語に絶する艱難を嘗めて来た。
 しかも昨年来より今春初頭普選第二次の総選挙直後までの間において、××、××両政党より受けたる陰険執拗なる迫害は、遂に鶴見副会長の落選となり、我ら多年の懸案も瞬時にして水泡に帰し、氏は血涙を呑んで欧米舌戦の途についたのである」

 昭和5年11月1日 大阪毎日新聞 号外
「財界、政界の暗面暴露 島氏らの背任涜職 五氏いずれも有罪と認定 予審決定書送達さる」という見出しで、東京府荏原郡大井町 鉱油商 鶴見定雄 39歳が、島徳蔵ほか3氏とともに、涜職の罪で、大阪地裁の公判に付せられることになったことを報じ、「鶴見祐輔氏に十万円を提供 島氏から鶴見定雄氏を通じて、明政会抱き込み事件の顛末」という見出しで以下の記事あり。

「第三 島氏は予てより立憲政友会に好意を有し故田中義一男を首班として組織せられたる政友会内閣の存続を切望していたものなるところ、昭和三年二月中施行せられた衆議院総選挙の結果、与党たる政友会と野党たる民政党との勢力相伯仲して、その後民政党において無産党革新党及び鶴見祐輔氏外六名の議員が組織せる明政会等との結束を計り、野党連盟を策し、同年四月二十日より招集せられた第五五臨時議会の衆議院において政府不信任案を提出し、一気にこれを通過せしめんと計り、形勢すこぶる不安の状態を呈していたので島氏は明政会が衆議院においていわゆる決定権を握り、鶴見祐輔氏外六名の議員の向背により政府不信任案の成否けっせられるものとなりと思惟し、安部義也、森下国雄両氏これが対策を諮った結果、島、安部、森下三氏は共謀の上、明政会に対する寄付金名義を以て島氏より鶴見祐輔に対し金十万円を贈賄し政府不信任案の表決に際して鶴見祐輔氏以下明政会所属議員をして反対投票をなさしめ、もって同案の通過を阻止し、政友会内閣を存続せしめんと企て森下氏は昭和三年五月一日ごろ東京市麹町区元園町鶴見祐輔氏方で同人に対し、島氏が衆議院の形勢を憂慮し貴下に金円を寄付すべく申し出ているにつき、一度同人と会見してくれたき旨告げたところ寄付金のことは弟定雄と協議して取り決めてもらいたき旨の申し出があったので、翌二日ごろ東京市京橋区宗十郎町貿易会館内リッツ喫茶店において鶴見祐輔氏の実弟定雄氏と会見し予め打ち合わせ置きたるうえ同所において鶴見定雄氏と安部義也氏を会合せしめ、同席上において森下、安部両氏より鶴見定雄に対し、島氏が鶴見祐輔氏と会見し得るよう尽力ありたき旨依頼したる結果同月四日島氏は鶴見定雄氏のとりなしにより、東京市麹町区下二番町広田理太郎方において鶴見祐輔氏と会見し、同人に対し民政党側より提出さるべき政府不信任案に対する賛否の意向を質し、更に明政会加盟議員をして同不信任案の表決に際し反対投票をなさしめ、以て政府擁護の挙に出でんことを請託し、島、安部、森下の三氏は右請託の対償として金十万円を鶴見定雄氏の手を経て鶴見祐輔氏に寄付すべく相諮り、同月五日東京市京橋区木挽町岡本旅館において鶴見定雄氏に対し鶴見祐輔氏に交付してくれたき旨依頼して金十万円を手交し、鶴見定雄氏は当時島氏らが第五五議会の衆議院において民政党より提出すべき政府不信任案の成否を憂慮し同不信任案の否決を切望しおり明政会として同不信任案に反対してもらいたく請託の下に島氏より鶴見祐輔氏に対して該金円を贈賄するものなることの情を知悉しながらこれを承諾して右金円を受け取り島氏らの行為に加担し、同月六、七日ごろ前記鶴見祐輔氏において同人に対し右金十万円を提供しこれを収受すべく勧告し、以て島、安部、森下、鶴見定雄氏らは鶴見祐輔氏に対して同人の職務に関し賄賂を提供したるものである。……鶴見定雄氏の所為は刑法第一九八条に該当する犯罪なりと思料されるので刑事訴訟法第三一二条に則り上述のごとく決定されたものである。
 後半の開廷は昭和六年二月ごろの見込みである。

 島徳蔵 阪神電鉄社長 五六歳
 森下国雄    無職 三五歳」
 鶴見祐輔の写真入り記事である。

 昭和6年6月21日 東京朝日
「島徳蔵氏に懲役一年の判決 鶴見定雄氏は同六か月 上取と明政会事件

 〔大阪電話〕関西財界の惑星、阪神電鉄社長島徳蔵(五七)、宇田貫一郎(四三)両氏の上海取引所三九〇万円切り捨ての背任並びに宇田の上取社金二八〇〇円業務上横領、島及び鶴見定雄(四〇)、安部義也、森下国雄(三六)四氏に係る明政会抱き込みにからむ一〇万円の賄賂提供涜職事件は、かねて大阪地方裁判所柴田裁判長の係りで審理され、被告人等は極力無罪を主張したに対し、検事は有罪と論断、五被告いずれも体刑を求め、その判決は注目されていたが、傍聴席満員裏に平田(ママ)裁判長は犯罪事実のうち明政会事件につき犯罪事実を詳細に述べ「右の犯罪の証明十分である」と断じ続いて上取事件については簡単に「犯罪の証明なくこの点は無罪とす」と述べいよいよ二十日正午開廷、午後一時一五分次の判決が言い渡された。(カッコ内は検事求刑)なお有罪となった四名は直ちに控訴した。
 懲役一年(二年) 島徳蔵未決百日通算
 無罪  (一年) 宇田貫一郎
 懲役八月(八月) 安部義也
          未決六〇日通算
 懲役六月(六月) 鶴見定雄
          未決三〇日通算
 懲役六月(六月) 森下国雄
          未決七〇日通算」

 昭和6年6月20日、大阪地裁は鶴見定雄に有罪(懲役6か月)の判決を下した。在米中の祐輔は自分は如何なる態度を取るべきか苦悩した。問題は米国における現在の仕事を中止して帰国し、第2審の控訴院公判に出席し、証人として事実の審理に応ずるべきかどうかである。
 肯定理由としては、1.みずから法廷に立って可否を争うことが、男らしい態度だと言われよう。2.事件を弟になすり付けて米国に遁れていたという観念を一般に残すことが終生の汚点となるとも言われよう。3.第1審の判決に定雄が有罪となったのは、自分の欠席が裁判官の心証を害したとも言われよう。4.事の成否に関せず弟のため帰国することが兄弟の情宜とも言われよう。
 否定理由としては、1.みずから法廷に立つときは、この事件の中心を自分に移すこととなり、眠れる赤子を起こす結果となり、天下にこの事件が自分の事件なるがごとき印象を鮮明とするであろう。2.みずから出廷するときは、検事及び他の被告に自分に各種の言い掛かりをつけさせる機会を与え、事件を悪化させるかも知れない。3.法廷で自分の最も陳述しようと希望する明政会の政治的態度を中心として論じさせないで、金銭問題の事実のみを質問し、出廷の意義を小さくさせられる恐れが多い。4.自分の帰国が本事件に多少の効果があったとしても、そのためにせっかく米国で着手した著述の事業は頓挫し、本事件をもって転禍為福の機縁となさんと欲した遠大の計画は挫折する結果となるであろう。

 判断の基礎たるべき諸事実として、1.定雄がこれにつき如何ように考えているかが問題である。定雄は自分の帰国を熱望するかどうか。もし熱望するとしたらこれを無視するは兄弟の情宜上忍びざるところである。2.近親者及び友人はどうか。一蔵君(故後藤新平の長男。祐輔の義兄)はどう考えているか。親友及び先輩は自分の帰朝すべきことを主張する意向かどうか。3.秋山高三郎氏は自分の帰国を希望されるかどうか。4.米国で自分の今日の仕事の重要性を理解した上でもなおこれを犠牲にしても帰国した方がよいという意見かどうか。
 結論として、1.既述の諸点を×子(文字が判読できないが、夫人の愛子であろうか)、一蔵君、定雄に書き送って判断を求める。2.みずから米国で着手した著述事業の大様を、秋山氏及び友人一同に知らせて、帰国のために生ずる犠牲の重要性を考慮して判断を乞うこと。3.天下一般の批判は眼中に置かぬこと。これはどちらにしても受けたる害はなかなか洗浄し難い。一番の雪冕は米国での著述の成功だ。
 当面の急務は、日本で自分の帰国を主張する意見が一般に普及しないうちは、みずからの米国の仕事の内容を報告し、自分の再起の途はこの外にないとみずから信ずることを告げることである。(米国で着手した著述の事業については、『欧米大陸遊記』215〜216頁によると次のように記されている。それは英文『母』の出版記念宴の記述の直後にある文章であるが、「英文の著述をしたいということは、私の二十年来の宿望であった。何故そのように日本を空にして、アメリカにばかりゆくのかと、私は何度友人から叱られたか知れない。その目的の一つは、本らしい本を英文で書きたかったからだ。今までの英文著述は講義や論文集に過ぎない。今度という今度、やっと二十年来の望みを達して、米国の文壇に本を一冊送り出したのだ。これで二十年来の計画が、やっと緒につき出した」と。)
 そして9月26日に鶴見は一度帰国するが、翌昭和7年1月、再び米国へ出発した。(昭和6年7月3日正午記「大阪事件の第一審に対し取るべき態度の考察」)

 昭和7年2月号『新自由主義』 石井 満
「わが国の大新聞は年来筆をそろえて中間政党の排撃に骨を折って来た。中立候補の排斥に懸命になって来た。その所論は中間政党は徒に政界を混乱し、かえって政界を堕落せしむるにすぎないというのである」

 その次の総選挙は昭和7年2月に行われたが、鶴見は出馬しなかった。その理由を新自由主義誌は次のように報じている。
「協会本部にも会員諸氏より或いは選挙区の方より、先生の立候補につきご激励やらご質問やら、推薦候補として死力を尽くすから日本のため是非闘っていただきたいなどと様々お力添えを辱うしている。そういうご熱心な方々に対し実に遺憾の極みであるが、先生にはこの度立候補ご断念遊ばしたことを同志往来をかりて一言のべなければならない。
 先生今回のご渡米は実に隠れたる国民大使として、要路有力者よりの推薦ご依頼により、満州事変の真相並びにわが帝国の立場を米国有力者並びに一般国民に理解せしむるためで、現時わが国においてこの重大任務を遂行し得るは先生を除き他に人を求むる能わざるため、特に選ばれたのである」

 「要路有力者」が誰であるか不明である。「推薦ご依頼」があったかどうかもわからない。だがそういうことがあったかも知れないということは次の新聞記事からも肯づけることである。

 昭和3年8月18日 紙名不詳
「民間有力者に依頼し米国民の了解を求む 新渡戸氏に白羽の矢を立て 政府渡米を交渉

 政府はさきに対支声明書を発表して中外に対し政府の取り来った対支並びに日本と満蒙との関係を明らかにしてその誤解を一掃せんとの方針であったが、かくてはかえって各国の誤解を招きやすいというので、遂に中止するに至った。しかし政府はこの際何等かの方法と適当なる機会をとらえて日露戦争以来の日本と満蒙との関係を明らかにしておく必要ありとなし、種々攻究中であったが、まず米国民に対し深き親しみを有する民間の有力者を選定して、これを米国に送り、米国民の誤解を一掃せんとの計画を樹て、目下新渡戸稲造、鶴見祐輔両氏に対し交渉しつつあるが、もし氏にして応諾するに至れば政府の特使というわけではないが、政府の意向を体し、個人の資格をもって渡米し、講演に宣伝に機会あるごとに日本の立場と政府の対支政策の真意を説明して米国民の了解を求めんとの方策である。しかし新渡戸氏にして承諾しなければ鶴見氏一人でも渡米せしめんとしているが、鶴見氏は大体承諾するものと見て居る」

 昭和7年5月28日 大阪朝日
「島氏以下五名 悉く無罪となる
 =明政、上取両疑獄事件=
 けふ控訴判決下る

 田中内閣第五十五議会当時の政界暗黒面を暴露したいわゆる明政会事件、欠損金四百万円という上海取引所事件の被告―関西財界の惑星島徳蔵氏、その腹心で日魯漁業問題に活躍した宇田貫一郎氏、政界裏面の策士安部義也、森下国雄両氏、鶴見祐輔氏実弟定雄氏らに絡む、「島疑獄事件」の控訴判決は廿七日大阪控訴院で言渡された。
 この日阪神電鉄社長をも辞し財界の前線を退き謹慎している島氏以下各被告は、後藤一蔵伯ら多数の証人を喚問した綿密な審理を有利に解釈して安部、森下両氏欠席の外はいずれも無罪を確信して出廷。
 満廷緊張のうちに午後一時ニ十分渡辺裁判長は果然全被告に無罪の判決を言渡した刹那廷内はサッとどよめいた。
 無罪(一審判決懲役一年)島 徳蔵(58)
 無罪(同八月)     安部義也(37)
 無罪(同六月)     森下国雄(37)
 無罪(同六月)     鶴見定雄(41)
 無罪(無罪)     宇田貫一郎(44)

 強く自省せよ 免かれて罪なしと思ふな
 裁判長の名諭告
 渡辺裁判長は「被告島に対する背任涜職、宇田の背任業務上横領、鶴見、安部、森下各被告に対する涜職罪はいずれも無罪とす!」と判決主文を宣告、続いて次の如き諭告をした。
 明政会事件については各被告が田中内閣不信任案通過を阻止するため、鶴見祐輔に十万円提供の準備をしたことは明瞭である。この贈賄計画と島らが法廷で弁解する第三党樹立計画との間にどんな関係があるか、また関係者中にこの金で私腹を肥やさんとしたものがあるかどうかは明瞭でない。
 同時に贈賄計画はあっても祐輔に十万円を提供したとの事実もまた証拠なきため無罪としたのである。本事実についてはいわゆる犯罪予備を認めるが、これは殺人、強盗等の重罪では罰するが涜職罪などでは罰しないことになっている。しかしこれで適法、正当な行為をしたと考えたならば大きな誤りで政治的秩序を紊した大に非難すべき行為なのである。また上海取引所事件についても弁護人らのいうごとく仮装的なものだとするならば払込未了を偽った財界の信用を害する非合法行為で公文書偽造罪として罰せられることとなるのだ。
 今日の社会では秩序の維持が力強く叫ばれている。政治上、経済上、社会上その他重要な秩序は究極において法律の形式において具現化される。例えば金輸出禁止、産業統制、また近く実施されんとする為替管理問題などみなそうである。被告らは社会的にも経済的にも社会の上流にある人々であるが、社会の秩序維持で最も大なる恩恵を受けるのは君達ではないか。下層社会の人々が君らと同じく非合法的行為をした場合どうなるのだ。本裁判所は検事局と意見を異にし無罪としたのではあるが、免れて罪なしの故を以て直ちに一切は解決され自己の行為が是認されたと考えることなく、また徒らに検察当局を怨むことなくこの機会に強く自省し法を重んずるの精神に生くべきである。

 有難い判決  島徳蔵氏語る
 判決後島徳蔵氏は満面に笑みを浮かべ、実に有難い判決です。この嬉しさを芦屋の別荘で私のことを案じている八十に余る母に早速知らせてやらねばならぬので、すぐ母のもとに参ります。ただただ裁判長の御判定に恐れ入るのみで判決後懇々とお諭し下さった言葉は身に沁みました。正にあの言葉の通りですと述べた」

 昭和7年5月28日 東京朝日?
 明政会事件の無罪判決を待ってました!とばかりに、1頁の3分の2の大きさで、鶴見祐輔の小説『子』の広告が掲載された。

 昭和7年7月号の新自由主義誌は「同志往来」爛に次の記事を載せている。
「本協会に陰ながら常にお骨折りいただいて居ります鶴見定雄氏には、このたび疑いも晴れ晴天白日の身となられたことを同志一同とともにこころからお祝い申し上げます。最初より、取るに足らぬこととて、新聞記者連も「興味本位に書き立てて誠に済まなかった」と深く謝って居ったとか。今更……済まなかった……も無きことながら、皆様にも如何に誇大宣伝させられたかがご了察できることと思います。七月二十三日には同氏の慰安と従来の禍伝雪辱のため丸の内中央亭にて一夕の会が催されました。
 ここに同氏からの書状を掲げ皆してご前途を祝福したいと思います。

 拝啓 益々御清栄之段奉賀上候 陳者私所謂明政会事件にて長く御心配相懸け候処去る五月二十七日大阪控訴院にて無罪の判決を受け検事上告もなく六月一日を以て判決確定全く青天白日の身と相成り申候 欺くあることを確信今日を期し居り申候とも陰鬱なる四年間温情常に御慰安賜り居り候ことは終生忘れんとして忘る能わざる処にて候 今後は再生の意気を以て活動今日迄の御厚情に報い奉らんことを期し居り申候 将来ともよろしく御指導賜りたく幾重にも奉願上候 先ずは御礼方々御挨拶申上たくかくのごとくに御座候 敬具
 昭和七年六月
             鶴 見 定 雄」

 明政会事件では鶴見祐輔は起訴されず、弟・定雄も無罪になったものの、この事件が鶴見祐輔とその同志に与えた打撃は大きかった。鶴見は昭和5年の衆議院選に落選し、中核を失った新自由主義協会と機関誌「新自由主義」は、翌年勃発した満州事変に始まる「非常時」の怒涛のうちに呑み込まれてしまうのであった。

 昭和7年の「新自由主義」に寄せた「米倉清一郎君を想う」という文章の中で、鶴見は次のように述べている。
「……昭和四年の年は、協会の一番活躍した年で、米倉君の一番忙しい年であった。ことに私は当時第三党樹立の計画を建てて、全日本に多くの選挙区を開拓している時であったので、その連絡係は主として米倉君が当たった。従って米倉君は東京の本部の仕事をする以外に間断なく日本中を走り回っていた。
 もしあの第三党の計画が意外の故障(石塚注 明政会事件を指す)のため中絶しなかったなら、我々同志は相当多数議会に出ていて、米倉君はその世話役として忙しかったであろうし、また、遠からず同君の姿は議政壇上に現れていたであろうと思う……」

 昭和8年12月号の新自由主義誌にも鶴見の次の文章が載っている。
「……この雑誌は昭和三年七月に同志とともに創刊したものであった。当時の私は衆議院に議席を有し、議会内において明政会を組織し、議会外において数万否数十万の同志を持っていた。ゆえに私は、これら多数の同志を結束して日本に一新政治運動を起こさんとするの志やみ難きものがあった。そうして、二大政党外において新政党を作り、立憲的方法によって、日本の行き詰まりを打開しようと思った。
 その機関雑誌として、本誌は生まれたのである。
 雑誌は素晴らしい勢いで会員を増した。
 我々は火の出るような勢いで全日本を遊説した。次の総選挙までには、拾数人の同志を全国に当選せしめ、県会議員も多数各府県で選出しようと思っていた。またその実際計画は各府県に熟しつつあった。
 不幸にして私の身辺に起こった事件のために昭和五年の総選挙は、我々同志をことごとく議会外に追った」


 明政会事件の総括
 一、明政会事件は、昭和5年2月の総選挙を控えて、鶴見を落選させるため、怪文書で検事局を動かした政友会の陰謀であろうと当初筆者石塚は睨んでいたが、調べていくうちに、藤原米造の告発状草稿によって惹き起こされたものではなく、島徳蔵の東大阪電鉄疑獄事件から派生したものであることが判明した。だが時や良しと政友会が鶴見を政界から追わんとして、この事件を最大限に利用したことは言うまでもない。明政会から政友会へ移った藤原米造が、点数を稼ぐための手土産だったのではないかと思われる。鶴見の強力な後ろ盾であった後藤新平の死(昭和4年4月)を待っていたように発生したミステリーな事件である。その謀略性については鶴見も「どこの誰がはじめたことか未だに私に取っては解き難き謎である」と述べている。(『成城だより』第1巻210頁)
 昭和3年5月の政争に際して、鶴見を中心とする明政会が、民政党の内閣不信任案に賛同して田中内閣を打倒していたら、明政会事件は発生する基盤を失うし、岡山の選挙民を失望させて昭和5年2月の総選挙に落選することも無かったであろう。明政会所属代議士のうち大内暢三以外の6人は1年生議員であったので、尾崎行雄の「鈴木内相を討ち取るだけでよい。田中内閣なぞは自壊するであろう」という指導に従ったのであるが、これが結果から見ると誤指導であった。
 鶴見は『新英雄待望論』において、「偶然にも二大政党間にキャスティング・ヴォートを握り、臨時議会を思う存分に振り回すことができた」と誇らしげに書いているが(同書121〜122頁)、明政会の態度はぬえのようだと新聞に激しく非難されたのである。
 民政党も解散を恐れて内閣不信任案に及び腰であったことは、当時の新聞の指摘するところであり、椎尾弁匡が記者団に語ったところである。だが解散を恐れたのは与党の政友会の代議士も同じであったから、民政党と明政会が共同で内閣不信任案を提出したら、田中首相は解散をせず総辞職したかも知れない。よしんば解散になっても、当時田中首相と政友会は不人気であったから、野党の方が大勝したと思われる。事実昭和5年2月の総選挙では民政党が圧勝しているのである。
   民政党   273
   政友会   174
   無産党
     社会民主党 2
     日本大衆党 2
     労農党   1
   国民同志会   6
   革新党     3
   中立      5
   合計    466

 二、島徳蔵らの東大阪電鉄疑獄事件は、昭和4年8月27日以来大阪朝日に連載されて来たが、明政会の名が登場するのは、昭和4年12月17日である。故藤原米造の怪文書が出現する以前である。昭和5年1月24日の大阪毎日に藤原告発状が半ページ大のスペースで掲載された。だが、選挙期間中は検事局の捜査は停止した。2月20日の投票が終り捜査が再開され、昭和5年3月6日に鶴見定雄が大阪の北区刑務支所に強制収容されたという記事が載り、昭和5年3月15日鶴見祐輔が大阪地検に召喚されたという記事が掲載された。(第1回芥川賞受賞作品は石川達三の「蒼氓」であるが、その中に「鶴見祐輔が引っ張られましたね」という文章がある。)
 時系列的に見ると、鶴見は新聞からは選挙期間中はそれほど大きい打撃は受けていなかったのではないかとも思われる。

 当時の新聞で状況を窺うに、昭和5年2月3日の東京朝日は「鶴見祐輔氏は相当有力と見られ」と報じている。2月7日の岡山の地方紙は、「明政会の行動とその後に起こった島徳蔵事件によって、鶴見氏もとかくの批評を受けたようであるが」と1行だけ消極的な記述があるだけで、結論は政友会の岡田忠彦といずれが最高点になるかと予測している。これらの新聞記事を見ても、明政会事件の悪影響は選挙戦に現れていなかったようである。
 選挙後の中国民報も「有権者は、鶴見不人気といえども当選は確実であり、前回の半分をとっても当選はできると思って、清水長郷候補に同情した」と分析している。また、「鶴見の運動員、後援者は、依然演説会の人気あるを見て心中「やっぱり鶴見はエライ」と堅く信じた」と回想している。
 だが、この演説会の人気は油断のならないものである。鶴見の最後の選挙戦である昭和34年6月の参議院岩手地方区でも鶴見の演説会場は超満員で、彼が演説を終わるや聴衆は一斉に立ち上がって鶴見の万歳を叫んだが、開票の結果はこの時と同様落選であった。

 三、新聞綴りをめくって行くと、明政会事件が報道されたのは、昭和5年1月24日の後は2月28日、3月6日、14日、15日、16日、19日、21日、22日、25日、28日、29日、5月6日(以上検事局の取り調べ)、昭和6年6月21日(鶴見定雄が大阪地裁で有罪の判決)、昭和7年5月28日(鶴見定雄が大阪控訴院で無罪の判決)である。その間、昭和6年9月に満州事変が起こり、昭和7年1月に上海事変が勃発し、昭和7年5月に五・一五事件が発生して、明政会事件などは人々に忘れ去られた。
 だが、弟・鶴見定雄が無罪判決を獲得するまでの昭和5年1月から昭和7年5月まで、世間の疑惑の眼は鶴見に向けられて肩身の狭い思いをしたことであろう。特に昭和6年6月の第一審で弟が有罪になった後の鶴見の苦悩は一層深まったものと思われる。

 昭和6年9月から昭和7年1月まで一旦帰国した間にも、鶴見は上海の太平洋会議に出席したり、満州事変下の満州を視察したりしている。定雄の控訴審に出廷したかどうかは不明である。
 祐輔は定雄から絶大な迷惑を受けたにも拘らず、昭和13年2月にニューヨークから日本に居る定雄に電話して、ワトソン国際商業会議所議長による日支間お平和調停について各方面への連絡を依頼している。このような秘密裡の重大事を依頼したのは、定雄を頼み甲斐のある弟と見ているからであろう。
 もっともほかの弟2人は外交官なので、当時国内に居なかったのかの知れない。
 この明政会事件による喚問は、昭和19年12月の九段憲兵隊司令部の取り調べとともに、鶴見がその生涯に経験した峻烈なる官憲の取り調べであった。戦時中大審院長であった三宅正太郎から送られた名著『裁判の書』の余白に「検事の峻烈な取り調べを受けた者には、この書のごとき云々」と読後感がメモされていた。(その本は筆者石塚が古書店で入手し、著者から鶴見先生への献呈辞が記されているのを見て、『成城だより』に日比谷の市政調査会に置いておいた本を盗まれたと書いてあったことを思い出し、内幸町の鶴見祐輔事務所へ届けたのであった。鶴見先生が発病して間もなくの頃である。)

 明政会事件がクローズアップされた昭和5年1月から、鶴見定雄が昭和7年5月に大阪控訴院で無罪の判決を得るまで、鶴見はマスコミから干されたのであろうか。
 さすがに講談社(社長野間清治)は鶴見を見捨てなかった。この間に同社等から出版された鶴見の文章の載った雑誌や単行本を新聞広告から拾うと次のとおりである。
 1.雑誌
昭和5年1月号から7月号まで現代に「トノー・バンゲイ」を連載
 1月号雄弁の別冊付録に「世界に於ける人口の趨勢と日本の対策」を寄稿
 1月号現代に「新処世術」を寄稿
 キングの2月号に「人生の決断」、3月号に「偉人大人物になるために最重要な心掛けは?」、7月号に「これからは太平洋だ」を寄稿
 6月号雄弁に「討論の上達法」を寄稿
昭和6年3月号雄弁に「熱血詩人パイロンを想う」を寄稿
 11月号雄弁に「若き日本への転回」を寄稿
昭和7年1月号雄弁の第3付録古今愛誦名文集に「山河の霊の呼び声」が収録
 3月号で、5年1月号以来婦人倶楽部に連載してきた「子」が完結

 2.単行本
 昭和5年2月 日本評論社から『自由人の旅日記』を出版
 昭和6年5月 日本評論社から『現代米国論』を出版
 同年8月 講談社から『ナポレオン』を出版
 昭和7年1月 レー・ヘンケル社から英文『母』を出版
 同年5月 講談社から『子』を出版

 これらの広告も、『ナポレオン』は、昭和6年8月14日に新聞の3分の1ページ大、8月21日に新聞の4分の1ページ大(『英雄待望論』と併載)。10月1日に新聞の2分の1ページ超という大きさである。

 既刊の本も新聞広告してもらっている。
 6年8月11日、10月27日『母』『最後の舞踏』
 7年1月27日『鶴見祐輔氏大講演集』

 3.映画
 昭和5年4月 『母』上映
 映画『母』は、5年2月22日、5年7月、6年12月18日に新聞に広告されている。かなりのロングランであったようだ。

 今となっては大阪控訴院の判決を信ずるほかないが、昭和7年5月28日の大阪朝日に報ぜられた判決後の諭告によれば、明政会事件については、鶴見定雄、安部義也、森下国雄が、田中内閣不信任案通過を阻止するため、鶴見祐輔に10万円提供の準備をしたことは明瞭である。だが贈賄計画はあっても鶴見祐輔に10万円を提供した証拠はない。本件は犯罪予備であるが、涜職罪では罰しないことになっているから無罪にしたというのである。
 証拠を把握している判検事でない私たちは、裁判所の判決を尊重するほか無いが、昭和3年4月27日付の次のごとき中傷ビラを見ても、明政会事件はかなり前から計画されていたようである。昭和3年4月にはこのような怪文書を撒いて明政会を動揺させて分裂を図り、昭和5年2月には、鶴見定雄の正常な経済活動にこじつけて、鶴見祐輔が収賄したかのごとき虚像を作り上げて、鶴見祐輔の落選を企てた。だがその結果は岡山第一区定員5名が、中立(鶴見)1名、政友会4名だったのが、政友会3名、民政党2名となり、政友会はかえって減少した。
 このビラを見ると「内相不信任案では一歩も譲らぬと言った自案を」民政党から10万円もらって譲歩したと書いてあるが、投票の2日前に菱川事務長はじめ選挙委員16名を故なく投獄されるような激烈な選挙干渉を受けた鶴見が(『成城だより』第1巻210頁)、鈴木内相の不信任案に反対するはずがない。
 鶴見の収賄が「政友会の為め摘発された」ということは、このビラが政友会によって作られたことを自白しているようなものである。B5版であるが、紙質もよく、活版印刷である。
 民政党から金をもらって鈴木内相の不信任案に賛成しそうだと言ったかと思うと、政友会系の金をもらって内閣不信任案を審議未了に終わらせたという。明政会事件がいかに謀略性が強く、中身の無いものであったかが分かろうというものである。

「明政新報 号外 四月二十七日
 明政会主張を売る
 手付金民政より十万円取り
 本日の議会で問題とならん

 キング母性愛で有名になった新代議士マスターベーション鶴見氏は自己満足主義、新自由主義者であり、今回の内相不信任案では一歩も譲らぬと言った自案を、二十五日夜病気と称して絶対面会を謝絶し民政の中野正剛氏と某自宅で数時間会談、自案譲歩料十万円受け取り内相不信任案通過すれば二十万円の報償契約をしたこと政友会の為め摘発された。
 本日の本会議に於て大問題化せん」
(石塚注 東京朝日の昭和3年4月27日の夕刊、28日の朝刊を調べたが、議会で問題になどなっていなかった。)

 当時の新聞の低俗さは、現代の芸能週刊誌を彷彿させる。記者は真相を把握しているような書き方をしているが、予断と先入見で形成された思い込みに過ぎず、明政会事件は新聞が作り上げた蜃気楼に過ぎなかった。だが、新聞の読者は記者が事実を調査、確認して書いたものとして読んだことであろう。
 祐輔が関知しない弟の事件なのに、各新聞はことごとに祐輔の顔写真を載せ、なかには「実兄をかばって涜職の罪に」などという見出しを付けた新聞もあった。
第3節 その他の政治的行動へ
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