鶴見祐輔伝 石塚義夫

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   第3節 その他の政治的行動

 1.鉄道人鶴見の世界交通経路建設案

(1)世界歴史を見ると、交通の衝に当った国は起り、交通の大動脈から外れた国は衰えている。
 バグダッドという都が世界の中心であったのは、インドとヨーロッパの交通中心にあったからで、今日(1927年)ロンドンが盛んなのも、世界交通の中心になっているからである。
 ある時は、陸路の交通が盛んで、ある時代には、海路の交通が盛んである。例えば欧州では、地中海東岸の小アジアを征服した国が栄えている。アレキサンダー大帝でも、シーザーでも、小アジアを征服してから、初めて世界を征服している。
それは小アジアを通らなければ、欧亜連絡の世界的大動脈を支配することが出来ないからである。
 日本が今後、この狭い国で、これだけの人口を養い、かつ将来ますます発展してゆくためには、世界の交通の大動脈を支配する決心をしなければ駄目だ、と私は思っている。
 その交通経路は、将来どうなるかというと、それは簡単である。北アメリカ大陸と、アジア大陸と、ヨーロッパ大陸をつなぐ線はどうなるのか、ということである。その海の経路は太平洋で、陸の経路は支那である。
 今後の世界の競争は、どうしても支那とシベリアに向って来る。
 支那の過去の決定的戦争は、多く黄河の周囲で起っている。将来も私は、支那の決定的勢力が黄河の流域にあろうと思う。その黄河の奥に中央アジアがあって、その奥にバクーの世界一の石油田があって、その先がトルコのコンスタンチノーブルである。私は、将来この線がアジア大陸横断の幹線になると信じている。
 誰が一番早く、この未開の宝庫に入るのであろうか。現に米国では、探検隊が巨額な経費を投じて、毎年蒙古に入っている。やがては新疆から中央アジアに抜けるであろう。英国もやがてチベットからこの地に抜けるであろう。そうすると、インドから北進する英国と、かつてアラスカからシベリアに南下する鉄道を計画した米国が、蒙古から南下するかも知れない。かかる交通経路が出来てしまえば、世界的大交通経路は、日本を通過せずして、欧亜米を連絡してしまう。そうすれば日本は、スペインやオランダやイタリーのように、世界的大動脈から外れた田舎国になり下ってしまう。
 日本を世界交通経路の中心に置くためには、日本と支那中部との連絡をつくり、殊に支那の黄河流域を縫って甘粛から新疆にぬけ、新疆から露領中央アジアを抜けて背後から欧州にゆく大交通路を、日本を主動者として造り上げなければならないと私(鶴見)は思うのである。甘粛省の首府蘭州から青島に抜ける鉄道を敷いて、これを蘭州からコンスタンチノーブルに継げるようにすれば米国の富強も、英国の海軍も、もう日本の力を如何ともすることは出来ない。
 それは帝国主義でもなんでもない。日本と支那との完全な了解の上に築かれるのである。そうして、支那の後ろのロシアと、日本の後ろの米国とが、更らにこの交通線上両端に連なるのである。(『中道』の「日本更生の根本策」339〜342頁)

 (2)昭和16年に神戸新聞に連載した小説「七つの海」に同じ構想が語られている。

「古代羅馬は『凡ての道は羅馬に通ず』と疾呼して、全欧州の道路網を羅馬中心に作り上げたから、地中海周辺の三大大陸を支配したのであり、近代英国は『我れ等は七つの海を支配す』と激語して、全世界の海路をロンドン中心に作り上げたからあの繁栄を築いたのである。
 そこで太平洋時代において、うっかりしていると、世界の交通は、支那と米国とを繋ぐ線を幹線とする危険がある。即ち、上海――サンフランシスコ――ニューヨーク――ロンドン、という線が世界交通の大動脈となる惧れがある。
 これを打破して、日本を中心とする世界の交通路を作らなければいけない。
 それには、支那大陸横断の陸上交通線を作らなければいけない。
 その線として青島を海蘭鉄道に繋いで、甘粛省の蘭州に結び、蘭州から天山南路を抜けてアフガニスタンに出て、それからイランを通ってトルコのコンスタンチノーブルに通じコンスタンチノーブルからベルリンに出て、ベルリンから漢堡に抜け、漢堡から海路ニューヨークに結びつけようというのである。
 そして青島から神戸に海路連絡し、神戸を、南は南海、インド、オーストラリア、東は南北米大陸に出る交通の中心にしようというのである。
 そのために神戸を世界一の海港とし、同時に青島を支那横断鉄道の起点にしようというのである」

 平成11年5月8日の朝日新聞に、中国シルクロード、全長1450キロ新鉄道完成という見出しで次のような記事が掲載されている。
〔北京7日=中国総局〕
「七日付の中国各紙によると、新疆ウイグル自治区の天山山脈南ろくを走る南疆鉄道が六日完成した。シルクロードの大動脈・蘭新鉄道のトルファンから枝分かれし、カシュガルまで千四百五十一キロを結ぶ。コルラまで四百七十六キロは開通していたが、一九九六年秋から六十億元(約九百億円)で残り部分を建設していた。
 タリム盆地には豊富な石油、天然ガス資源がある。経済開発や隣接するアフガニスタン、パキスタン、キルギスなどとの往来の促進が期待されている」


 2.太平洋会議について

 太平洋会議(正しくは太平洋問題調査会第 回大会)は、大正9年以前に、キリスト教青年会の世界大会においてその議が起り、同会の幹事の尽力斡旋によって、大正14年の第1回大会となった。
 第1回は大正14年にホノルルで、第2回は昭和2年にホノルルで、第3回は昭和4年に京都で、第4回は昭和6年に上海で、第5回は昭和8年にカナダのバンクーバーで、第6回は昭和11年にアメリカのヨセミテ国立公園で開催されている。鶴見は第6回まで全部出席している。鶴見以外に出席した者は、沢柳政太郎・那須皓・高柳賢三・高木八尺・新渡戸稲造・松岡洋右・前田多門・岩永裕吉・上田貞次郎・芳沢謙吉と多士済々である。
 戦後は昭和29年に京都で開催されたが、鶴見は出席したかどうか不明である。
 第1回は8ヶ国から150人の代表が集まり、第2回は10の国と地域から140人の代表が集まった。第2回には日本から18人が参加している。
 太平洋問題調査会の目的は、所謂太平洋問題の基礎的諸事実に対して、組織的に、根本的に、調査研究を為さんとするものである。
 第2に本会は、国際的の組織を有するものであって、各国における「調査会」が相寄って中央の連盟の如きものを構成する。
 第3に本会の取扱う問題は、政治、経済、外交、宗教、教育、一般文化等の諸方面にわたり、多種多様である。凡そ国際間人種間の問題の背後に存する各般の事実を、その時々の重要さに従い、取り上げて、正直大胆なる研究を討議の題目となさんとする。
 第4に調査会は諸国における民間の有志の相協力して組織するところの私設機関である。故に各国より参集する会員は、政府の代表者でもなく、また特殊の団体の利益を代表するものでもない。
 本会は常設的調査会である。太平洋上の諸国に独立の調査会があって、それが2年に1回、連合協議会を開くのである。要点はこの連合協議会にあるのではなく、各国にある間断なき研究調査にあるのである。
 本会の目的は調査と研究とにあって、事件の処理ではないから、会議中は一切結論に到達することを避け、決議を採らないことを原則としている。
 日本では大正15年に井上準之助を理事長とし、阪谷芳郎、沢柳政太郎ほか(鶴見もその1人)を理事とする太平洋問題調査会が成立し、評議員長として渋沢栄一が就任した。
 関係各国間の通信連絡は、ホノルルに中央事務局を置いてその任に当たらせることとなっている。
 当初より政府に関係ない一般篤志家の集団なので、その財政は篤志家の寄付に待つ。
 昭和2年の第2回太平洋会議で鶴見は3回演説をしている。
 7月17日の太平洋諸国の理想及冀望に関する15分演説で、日本を代表した鶴見は、日本が今新しき時代の黎明期にあることを高調し、「過去百年の間わが対外政策は三度その姿を更えた。一六三八年には外国に対して門戸を閉鎖した。爾来二百十六年間わが国は内外ともに絶対の平和を楽しんだ。然るに十八世紀に入り西洋諸国が来って日本の門戸を叩くに及び、一八五四年遂に開国したが、爾後三十年間に三度戦争をせざるを得なかった。蓋し平和を政治の基調としたる日本が戦争を政策とする当時の世界に引き込まれる自然の結果と言わねばならぬ。日本はよくこの国際競争場裡に角逐しそれに打堪えた。越えて、一九一八年招かれてパリの平和会議に列したが、量らざりき、この時既に世界の国際思想は一転機を経て居た。ブリッジのゲームと思ったものが、これからはマージャンであると告げられたときの驚き。然し日本は応じた。そして国際平和の新しきゲームの仲間入りをしたのである」
と述べ、日本が果してこの新しき潮流に棹し得るや否やに答うるには、日本国民は何を考えつつあるかを研究するを必要とすると前提し、
「六十年の欧化はその飽和点に達した。今やこれに抗せんとする気運が漲っている。外国の覊絆より脱してその数千年の歴史――古き日本の理想に帰らんとする傾向が動いている」とて、その理想なるものを解析し、
「古き日本の理想と日常生活の単純、心情お純潔、自他に対する中庸及調和に外ならない。殊に調和を愛するの心は日本の庭園や絵画や課碧くに表現せられているが、同時に政府の制度にも現れている。家庭愛に基づいたる国家の建設は日本に特有なる一事であろう。西洋文明は種々の機械及制度を発明したが、世界の革命及戦争を止める力はなかった事を吾々は感じはじめた。吾々の持つ数千年の歴史に高尚なる何物かを見出すことが出来ないものであろうかとの疑問は即ち現れてここに古き日本へ帰れとの叫びとなったのである。吾々の調和の愛によってこの西洋と東洋との文明の調和を計ることは日本国民の崇高なる事業でなければならない。これは今日日本人の思想の背景となっている」
と結論した。

 その後の大会において鶴見は、普通選挙直前の日本の経済、政治、社会、思想の一般を叙して、進んで、日本の対支、対米、対英、対露の外交を論じた。そうして米国の排日移民法論、英国のシンガポール拡張論などを露骨にやった。ことに日本人の支那観というものを、あけすけやった。50分を要して鶴見の演説が終ると長い長い拍手が続いた。

 7月28日の閉会に際する各国代表の所感も鶴見が日本代表に選ばれて演説した。
 鶴見は、会議の感想を述べるに当って、各人が国家的又は人種的の偏見を去り、先入主に囚われずして事物の真相を正視することの必要を高調し、巧妙に、京の蛙を大阪の蛙が都見物の途上相会し、後足にて立上ってそれぞれ旅立って来た生れ故郷を眺め、独り合点して帰ったとの喩え話を援用して、大喝采の裡に聴衆の各国人をして項門の一針たるこの苦言を服用せしめた。
 その演説の一節に「会議における我等の討議、発表及び「会議における我等の討議、発表及び決定等の一切に優って、なお遥かに重要なるものは、それらの背後にある事物の見界(ヴィユー・ポイント)である。もし我らが相互の見解と問題と感情と思想とを、解釈し諒解することを為し得ないならば、たとえ単に如何ほど『事実の発見』を為しても我等はこのインスチチゥトの主要の精神を没却したものと言うべきであろう。このインスチチゥトの計画せる仕事は、この如き見解の相互的諒解である」と述べて、会議の趣旨、雰囲気を讃した。
 鶴見はまた、若き支那が、その革新の奮闘のためにする貴き努力に対して同情を禁ぜずと言及し、而して今回大会において、各国人が支那に対して、新に諒解の目を開き得たるは、会の趣旨の徹底せるよき一例なりとし、日本人もまた、各般の事項に対し学ばんとする謙虚なる心の態度を持し、偏狭なる島国の心を去り、世界の国際生活の一員として発達せんことを期待すると結んだ。(昭和2年、日本評論社刊、井上準之助編『太平洋問題』・鶴見祐輔著『中道を歩む心』)


 3.鶴見祐輔の新自由主義について

 鶴見祐輔は、明治44年、26歳の時に「自由主義を名揚(なの)って、世の中に出てゆく日が来るんだぞ」と自分自身に声明し、大正13年、39歳の時に、「新自由主義のために」と宣言して衆議院議員に立候補した。
 鶴見の提唱した新自由主義をその著『中道を歩む心』から書き抜くと次のとおりである。
「世界人文の流れのうちを貫流する一つの潮がある。国により時代によって、別名をもって呼ばれているけれども、この潮は常に、世界文化史の真中を流れている。何の奇もなく、ただ坦々として流れている。しかしながら、小息(や)みもなく、片時も曲折することなく、有史六千年の人文発達史のうちを流れている。
 これを呼んで、自由主義思想という」
「ジョン・モーレーは、自由主義とは、心の框であるとした。即ち、人類の福祉を思念する為めに、一切の人格を尊重し、一切の事物に対し寛容の態度を以って臨む心的態度であると為した。
 自由主義は要するに、心の持ち方である。人生に対する態度である。社会主義とか、キリスト教とか、自由貿易主義とかいうような、一定の信仰箇条乃至は、プログラムの謂ではない。自由主義という。主義という文字は一たい不要なのである。自由主義者というよりは、自由なる心境の人々と呼ぶべきである」
「自由主義者の一貫する態度は、常に他人の思想に対して寛容であるということである。自由主義の反対は、国家主義でも、社会主義でもない。独断である。ドクマである。自己の独断を他人に強制せんとする一切の思想に対しては、自由主義者は敢然として常に戦ってきた」
「自由主義思想家は、キリストの聖書に於けるごとき、社会主義者の資本論に於けるごとき適切にして完成せられたる典拠を有しないのである。ゆえに、全世界の自由思想家は、各自その選みたる道を辿りつつ、四分五烈してその主張を提示するに過ぎないのである」
「日本の既成政党の支配階級の有する封建思想と、日本の無産運動の指導原理たる共産主義の思想のみが、今日の日本の表面にある思想である」
「いま日本は、その本来の面目に立ち帰って、寛容と中庸と調和と単純とを基調とする健全なる社会を作らなければならない。その目的のためには、我々は極端なる趣味と極端なる思想とを排して、勇敢に中道を往かなくてはいけない。それを、私は新自由主義の道と呼ぶ。殊更に○(原文は“玄”を並べる)に新の字を冠するは、英国十九世紀の自由党の歴史と区別せんが為である」

 なお、鶴見は、戦後は新自由主義を口にしない。
 また、小泉内閣の新自由主義は、市場原理尊重の経済思想である。


 4.対米対支外交に関する緊急質問

 昭和4年 衆議院本会議

 鶴見祐輔 「本員が只今より御尋致したいと存じまする外交の質問につきましては、こと帝国外交の根本に関しまするが故に、私は、田中外務大臣の御答弁を要求を致して、今日まで御待ち致して居ったのであります。故に只今もし御差支の為に本議場に御出席が不可能であるということでありますならば、速記録によって本員質問の趣旨を御了解の上然るべき機会において御答弁を戴きたいと思うのであります。同時に本員の御伺致したいと思いまする対米対支外交に関する質問は、厳然目睫の間にある事務的の問題のみに止まらずして、延て帝国将来の国策に関しまする故に、議事規則の許さざる所でありますから、本議場において御答弁をいただくことは出来ませぬけれども、適当なる機会において、在野各党におかれても、それぞれその態度を御表明あらんことを希望致すのであります。本月の四日に北米合衆国におきましては、第三十一代大統領の『フーバー』氏が就任を致されて、その新内閣もまた成立を致し、新国務長官の任に就く『スチムソン』氏は、只今フィリッピンを去って太平洋横断帰国の途上にありまするが故に、その着任と共に米国の外交政策が新しく制定を見んと致して居るのでありまするが、この機会において日本民族が、米国と日本との間にある重大なる懸案に関し、如何なる意見を有するか、如何なることを期待するかということを申述べて、当面の責任者たる内閣より明瞭なる御答弁を戴きたいと思うのであります。
 ただ私の質問に入りまするに当っては、私の政治的立場を一言申述べて置く必要があるのであります。それが本質問を致す所の根本の主旨を明白に致す為であります。即ち自由主義者としての私の立場であります。自由主義者は国内においては、個人的人格の完成を可能ならしむるが如き社会を作るが為に、個人の自由獲得を主張致しまする如く、国際問題につきましても、民族を基礎とする国家を単位と致しまして、斯の如き国家の自由と独立とを主張を致して、自由なる個人と自由なる国家の強力一致によって、始めて全世界の人類の福祉が達成せられるということを信じて居る者でありまする。
 斯の如き立場より致して、帝国外交の現在の重大なる問題を眺めて見ますると、殊に対米外交と対支外交の懸案たる所の諸問題の根底には、斯の如き原則的の要求が横わって居ると思うのであります。その原則的の要求というものの根本は、日本の国民と日本の政府が屡々全世界において主張を致して居る所の、国際平和の原則が一つであって、これは要するに領土不可侵の原則であります。しかしながらこの領土不可侵の原則と申しまするものについては、われわれ日本民族としては明白に全世界に向って主張を致さなければならぬ処の、根本的なる三つの原則が並立を致さなければならぬと思うのであります。
 その一つは、今日の国際平和主義なるものが要するに現在の各国の領土の現状を保存せんと致すところの要求であるが、しかしながら今日国際間にあるところの領土の分配というものが、決して合理的でないという一事であります。かくのごとき不合理なる領土の分配の下に、われわれ日本民族が領土不可侵の原則を認めまする所以のものは、少数なる人口を持って尨然たる領土を有し、無尽蔵の天然資源を有して居る国々が、一方において過大の人口を持って狭小なる地面の中に居るところの民族に対して、有無相通ずるところの、彼此相扶くるところの、寛厚なる精神を有するという場合においてのみ、この領土不可侵の原則が、全世界の国策として承認を致されるのであって、言換えれば領土不可侵の国際平和の原則というものは、同時に国際間における分配の公平を期するところの国際主義の要求と並行を致さなくしては、成立をいたさないものであると考えるのであります。その意味においては、国内において人間の間に分配の公正を要求するところの社会正義の要求がありまするように、国際間においてわれわれは国際正義の要求の下に、今日のごとき不平等なる領土の分配を公平に合理化するところの原則の樹立のために、われわれは起たなければならぬものであると信ずるのであります。かくのごとき方面において、第一には国と国との間における人間の移動の自由、即ち移民の原則ということと、第二には国と国との間における食料品及び原料の移動の自由、第三には国家間における製造工業品の移動の自由、第二、第三は即ち関税の問題であって、自由通商主義の名の下に主張せられておるところの問題が即ちそれであります。かくのごとき原則的の立場に立って、日本の外交の根本を立直すところの必要が、今われわれの前に緊切かつ重大なる事件として開展せられておると思うのでありまするが、時あたかも米国におきまして、『フーバー』の内閣が成立を致したるために、日本とアメリカの間にある現実の問題について、われわれがかくのごときの原則の立場から主張致さなければならぬ重大なる問題があると思うのであります。その一つが即ち日米間の五年間の懸案となっておりまする移民法の問題であります。大正十三年の四月、五月の交において、北米合衆国の上下両院を通過を致し、七月一日を以て実施せられたるところの米国の移民法、世間呼んで排日移民法と申しまするものが即ちそれであります。この移民法通過の当時日本全国の人々が総立ちとなって、これに抗議を申込んだのでありまするが、何故に日本民族がかくのごとく移民法の問題について痛憤したのであるかという事情は、当時の米国において明瞭に了解せられなかったのでありまするが、爾来五年の間に、日本民族が何故にかくのごとく移民法に対して熾烈なる要求を持ったかということが、次第々々に米国の間に徹底を致して参った結果、曽ては日本の移民に対して反感を持ち、悪意を持って居ったところの新聞並びに個人の間におきましても、次第に日本に対するところの好意ある意見を表現するに至って居るのでありますが、然らば何故に日本国民及び政府は五年の間本問題の解決について、一歩を進めて具体的の手段を執らなかったと申しますならば、それは一方において本問題に関する米国国民の了解を俟たなければならぬという考と同時に、たとえこの問題について了解を致しても、『クーリッヂ』内閣の存在を致す限りは、この修正改案に指を染むるの困難なる政治的事情が存在して居ったために、日本政府並びに民族は、大国民たるの態度より忍んで今日に至って居るのでありまするが、今や五年の歳月を経過を致し、かつてはこの法案の通過に鋭意努力したる下院の人々は、二回の改選によって殆どその人を改め、上院もまた前後二回の改選によりまして三分の二の改選を見ました故に政治的にこの法案の改正を致すべき困難が除去せられたるのみならず、『クーリッヂ』大統領はその任を去りまして、新に『フーバー』内閣の成立を致したということは、即ち日米両国の根本的の行違の原因をなして居るこの一つの問題の解決のために、絶好の機会が到来を致したるものであると本員は固く信じて居るのでありまする。この移民法改正の問題は単純なる一党派一政見の要求にあらずして、日本国民全体の要求でありますることは、この修正が米国において通過したる当時の、あの事情を振返って見れば明白であります。のみならずこの問題の根本は、国際間における人間の移動を自由にするがごとき原則を、各国民の間において承認をするや否やという。真剣なる要求が伏在致して居りまするために、この問題に対するところの要求というものが、正当なる解決を見ざる限りは、日米両国民の間にある感情緒齟齬、思想の縺れというものは、永久にこれを払拭することが困難である。当時の大使が申しましたように、この問題が重大なる結果を含むと申したことは、単純に日米両国の間において戦争というごときことが起るという危険にあらずして、それよりも更に深刻な即ち日本民族が米国の民族の文化及び思想に対して深き懐疑の情を生じたということが、太平洋上に一抹の陰翳を点じたる意味におきまして、重大なる結果であると本員は固く信じて居るのでありまする。しかしこの根本において、狭小なる地面の中に優秀なる民族生活をいたして居る民族が、永久なる平和を建設致すためには、広き地面に居るところの民族の寛大にして遠見あるところの政策を期待致さなければ、全世界で唱道致して居る国際平和という原則は、片手落ちの原則であって、真実は人類の共存共栄の大義を完うするものでないという疑を、日本民族の胸中に残す意味において、私は本案は日本国民上下力を協せて解決を致さなければならぬ問題であると確信を致して居るのでありまするが、その解決の好機は今日を措いてないと私は信ずるのでありまする。歴代の大統領の中で、国際知識を有することにおいて非凡であると言われる現大統領の下に、日本の要求の正当なることを屡々公開の席上において披瀝致して居ったところの、元の『スタンフォード』大学の総長『ウイルバー』博士を内務長官として有して居るところの 現内閣でありまするが故に、今日こそは日本国民が党派の異同を忘れて国民的の熾烈なるところの要求を、海を隔てアメリカの国民に向って開展致さなければならぬ時であると信ずるのであります。この点に関して私は今日の当面の責任者たる田中外務大臣が、これに対して如何なる御考を有せられるかを明瞭に議場において発表せられんことを要求致すのであります。
 しかしながら第二に私が進んで伺いたいことは、単純なる大正十三年の移民法第十二項(ビー)において帰化不可能の国民の入国を禁止致した条項の改正に止まらず、更に進んで全世界における移民の自由に関し、日本の当局者として政府は如何なる態度を御取りになるのであるかということを伺いたいのであります。昨年三月四月の候には、『ハヴァナ』において開かれたる第二回国際移民会議におきましては、英米の両国は移民の問題は国内問題であると称して、その討議を避ける傾向があったに反し、日本の代表者は移民問題は国際問題であるという場合を取って居りましたに拘らず、南米の代表達がこの国際移民会議において、原則的の問題を論ぜんとしたるに対して日本の代表者はこの移民会議において技術的なる問題のみを論ぜんことを主張致して居られたのでありますが、この日本民族の生きるために最も大切なるところの移民問題、恐らく今後二十年を出でずして、日本民族が代表して全世界の有色人種の大問題とならんとして居る移民問題について、その原則的の討議をかくのごとき国際移民会議において行わないということでありましたならば、政府は、果して如何なるところにおいて移民の原則を議論せんとされるのであるか。殊に第三回国際移民会議が三年の後スペインの『マドリッド』において開かれる時には、原則的なる議論を致そうということを、第二回の会議において決定を致して居りますが政府はその決議の精神に従って移民問題を『マドリッド』の会議におきましてその討論をされる意思であるか否かを、私は今日御伺致して置きたいのであります。殊にわれわれ日本人として最も注意致さなければならぬことは、最近世界に殊に欧米における傾向は、優生学上の立場から、即ち科学の力を藉りて有色人種を排斥せんとすることを、一箇の学説として設定を致さんとする傾向が顕著であって、しかも第二回の『ハヴァナ』の会議においては、米国の優生学界を諮問機関とする件を採択致しておりますが、南米の各国におけるこの優生学上の臆説を採用せんとする傾向がある。今日今において日本の民族が移民の根本原則について国を挙げて研究を致し、これを決定致すという処置を取らなかったならば、恐くは将来長く日本民族の海外発展のために一大障害を遺すものであると本員は信じますが故に、政府に於てこの移民の問題について、如何なる態度を御取りになるかを第二に伺いたいのであります。
 第三に私が御伺を致したいと思いますことは、もっと手近な、もっとわれわれに緊切なる、生活に関係ある問題でありまする。即ち対支政策の根本でありますが、私が対支政策について政府に御伺を致したいと思いますことは、単純なる日本と支那との問題としてでなく、日米間の問題という方向より、対支政策を伺いたいと思うのであります。申上げまでもなく、アメリカの国が今や有り余る資本的勢力を以て、全世界に進出し来るところの形勢は明白で顕著であります。殊に『フーバー』内閣におきましては、資本的に全世界に進出致さんとするところの準備が着々として成って居るということも、われわれが明瞭に看取するところでありまするが、その時に既に道途伝うるところによれば、米国の有力なる実業家並に学者を包含致しまするところの支那経済改造委員会なるものが成立を致して、その一員は既に支那に来って居る。如何にして支那に向って米国の資本を投下すべきやという、現実の問題を研究致して居るようでありまするが、かくのごとき根本の政策が今米国において決定を致さんとして居る時に、日本と支那との関係は根本的に如何ようになって居るかということを眺め渡して見まするというと、私は不幸にして、日本とアメリカとの間に移民法の縺れがあるように、日本と支那民族との間には洵に重要なるところの意見の齟齬が横って居ると思うのであります。その根本に遡って考えますれば、日本と支那との問題は簡単である。満蒙の問題と在支同胞の生命財産の保護と、対支通商条約の問題に要約することが出来ますが、かくのごとき経済的必要ある日本民族が、殊に世界の耳目を聳動致して居りますることは、満州蒙古に関する日本の立前であります。日本の満蒙に対するところの立前というものは、全世界の注目を集めて居りまする結果、今や日本の対支政策と申しますならば、殆ど満蒙たるかの感があるのみならず、全世界の人々が日本の満蒙政策について、如何ように考えて居るのかと申すならば、それは実にわれわれの思い半ばに過ぎるような簡単なることを考えて居ると思うのであります。即ち端的にこれを言えば日本が満州を獲るかどうかという簡単なる問題であります。即ち日本が満州に対して領土的野心を持って居るのか居ないのかということが、要するに全世界の人々の脳裡に横って居る日支問題の根底であります、即ち日本は満州との縺れが、満州蒙古を第二の巴爾幹(バルカン)と致して、全世界の禍機を此処に発するのかという問題でありまするが、この満蒙の問題の根本はわれわれ、日本側と致しては日清、日露の戦役に遡りまするけれども、その法律的の根拠は大正四年五月、日本と支那との間に取結ばれたるところの日支条約でありまして、世間で呼んで二十一箇条の条約と申すものである。固より二十一箇条の条約については今日現存を致すのは僅かに三箇条であるに拘らず、この二十一箇条という文字が累を致して、日本民族の全世界における位置を如何に不利益に居たしたかということは、殆ど説明を俟たざるところの事実であります。然るにこの二十一箇条が、即ち大正四年の日支間の取決めについては、不幸にして日本と支那との間において根本的の齟齬、本質的の喰違いが発生を致して居ると思うのであります。それは日本側がこの条約の有効にして正当なることを主張するに反して支那側においては『ベルサイユ』の平和会議以来、この条約の無効を全世界において主張を致して居る結果、日本の対支政策の根本について、世界の間に疑惑を生じて居るという、日本に取って洵に悲しむべき事実が存在を致して居るのであります。固より世界の責任ある当局者及び識者の間においては、かくのごとき説を是認致して居りませぬけれども、ただ漠然たる一般的感じを持って国際問題に臨んで居る世界の大衆が、この一点のために如何に日本に対して一個の疑惑を持って居るかということは思い半ばに過ぎるのであります。しかもこの二十一箇条の問題というものは、その内容については必ずしも日本と支那との間に喰違いがないにも拘らず、これが日支間の問題となり、延いては全世界に日本の立場をかくのごとく不利益になしつつある根本の原因何処にありやと遡って見ますると、要するにその実質の問題でなくして感情の問題であり、乃至は大正四年の日支間の取極め根底を為すと支那人の考えて居る、思想それ自身に対する反感であります。いま日本民族が生きんとする必要のためには、われわれが日支間における国民的の感情を釈然なるところの円満なる状態に齎さなければならぬ今日において、かくのごときことが現実に日本民族と支那民族との間に横って居るということは、永遠なる日本と支那との国交上において、また日本の全世界における立場を明瞭に有利に致しまする上において、非常なる不利益な条件を置くものであると、本員は考えるのであるが、この問題を根本的に解決を致しまするためには、私が外務当局に伺いたいことは、二十一箇条の問題の根底を成す一つの黒雲とも見るべきものは、日本民族は満蒙に対して領土的の志を懐いて居るかどうかという簡単な問題である。日本民族の中においては問題ともならないようなことが、全世界の民衆の問題となって居る。今日そのために日本の正当なる要求すらも、種々なる揣摩臆測を受けて障害を払拭するために、日本の政府としてまた国民としては、日支両国の関係を釈然たらしむる意味において、世界平和の原則、領土不可侵の原則を日本と支那とにおいて明白に樹立するごとき手続を御取りになるところの御意志はないかということと、この議場より内閣に向って御伺を致したいのであります。殊に私はこの議場より申上げて置きたいことは、一国が他国において起りましたる革命を了解することが非常に困難であって、一時現在の問題に囚われるために、十年二十年の後に禍を胎すような思想的喰違い比較的近き民族の間にも起り勝である。フランス革命の起りました時に、イギリス第一の政治家と言われたエドマンドバーグすらフランス革命の精神を見誤って、これに対するところの非難攻撃を浴せた結果、その怨が百年も続いて英仏間の国交に障碍を来したように、われわれの隣国に起るところの国民運動というものの精神に対して、同情ある態度を取ると否ということが、百年の憂を胎すものであると信じまするが、今日済南事件解決の曙光を見ましたる日においてわれわれ日本民族が全世界に向って正々堂々と呼掛けなければならない一つの問題は、われわれ日本と支那との間においては何等領土的の行違いはないものであるということと、支那の最後の友人は日本であるという意思を明瞭に全世界に表現を致すために今日苦痛なる――国民革命を痛覚して居る支那に対し、その国民的要望である不平等条約の撤廃改正に対して、日本が国際協調の精神に則って、全世界の何れの国も未だ先鞭をつけない中に、日本において先ず法権回復の問題について、支那に対し同情ある態度を即刻示すことが、日本民族と支那民族との了解を促進する所以であり、延いては十年二十年後における日本民族の世界における立場を明瞭に原則的に樹立する所以であると、本員は信ずるのでありますが故に、もしこの済南事件が幸にして解決致されるならば、進んで日本の国論を一定し、支那の革命に対する同情を、明白に致すために、満州の問題については領土不可侵の原則を採用し、また支那民族の要望である不平等条約の撤廃については、列国との協調の精神を築き上げて日本がその指導者たる位置を以て、支那の問題を根本的に解決を致す必要は、アメリカが資本的に支那に進出せんとする今日において、最も適切にして緊急なる仕事であると本員は考えて居るのであります。かくのごとき問題は一党一派の問題でないために、私は一切の政治家がその党派的の立場を離れて、挙国一致の政策を樹立致されて、内閣の変革に拘らず、日本の国是としてこれを主張して戴きたいのであって、もし一箇の内閣がこれを独力を以て断行する力がないならば、更に有力なる内閣の出現によってこの問題を解決致さなければならぬと思うのであります」

 政府委員植原悦二郎の答弁あり。省略。

「只今植原参与官より御答弁を戴きましたけれども、本員質問の趣旨と聊か異る御答弁を戴きましたについて、この点に関して少しく説明を加えて然るべき機会において現内閣より御声明を戴きたいと思うのであります。第一に私が移民の原則、自由通商主義の原則を申述べた時には、直に国家間において人間が自由に無制限に移住すべしというような暴論を述べたのではありませぬ。移民の原則というものが成立した後において、如何なる方法を以てこれが適用せらるべきかということは、これは第二の問題であって、今日の日本としては、国際間において移民の原則というものを正義の主張と致すべき時であるということを申述べた訳であります。
 次に自由通商主義の問題は、絶対的の自由貿易を即刻に行うことでないことは、私から申述べる必要もないことであります。
 第二に米国の移民法についての御答弁については、私は返す返すも只今の御答弁が折角の絶好の機会において、日本民族の熾烈なる要求を米国民族に徹底さすためにかくのごとき御答弁を得たことを洵に遺憾と致すのであります。
 第三に対支問題につきまして、私は満蒙だけが重大なる問題と申したのではない。全世界において日本に対する疑惑は、満蒙を中心として起って居るということを申述べたのであります。また不平等条約の問題について、原則としては日本がこれを承認致して居るというが如きことは、今日日本誰人と雖も承知致さない者はないのでありまして、かくのごとき絶好の機会において、原則或は抽象論でなく、進んで何等か適当の方法を御取りになることが日本民族の生きる所以である。日支間の両国民の感情を融和する所以であるということを申述べたのであります。これを以て質問を打切ります」

 政府委員(植原悦二郎)
「鶴見君が理想と実際とをこの機会において御区別なさったことは、洵に喜ばしいことであります。移民問題につきましては『クーリッヂ』と言わず、『フーバー』と言わず、日本政府と致しましては、米国に対して機会ある毎にこれを了解せしめて、この解決を図ることに対しては、努力致さなければならぬと思って居るのであります。況や新大統領が就任した機会が好い機会であるとすれば、これを捉えることは当然のことであります。支那に対する御答は先刻のことを以て全部尽きて居ると信じております」


 5.満州事変勃発時の鶴見の言動

「満州問題については私は親しい方にもお話を申上げられないような色々な立場に立って居ります。随て今日一切をお話することは早いかも知れませぬが、私は何故この間満州に行って来たかと言うと、方々から呼ばれて是非満州に来て呉れと言うことである。……何を私が見に行ったかと言うと大変心配になって居ることが二つある。それを見に行って来た。一つは何であるかと言うと、この満州事変が日露戦争になるのかどうかと言うことであります。
 もう一つ私が心配して居ったのは、日本の○○の○○○○を避けるためにはどうしても日本は外に伸びて領地を拡めなければならぬ。領地を拡めると言うことは戦をして人の国を取ると言うような古いことではない。
 色々な方法がある。私が昨年アメリカに行ってから言出して居ることは、日本の国に世界中の人々が使って居ない土地を委任統治として寄越したらどうかということである。
 今一つ私が満州に行って心配して見て来たことは、それじや満州の中を日本の武力を以て張学良の軍閥を破壊してしまったらその破壊の後にどういう建設をするか、どういう後始末をするのかということであります。私があらゆる人に対して聞いた範囲においては私はまだ本当にその後始末の建設的案が出来上がって居ないということを痛切に感じたのであります。
 張学良の軍閥を叩いた後の満州をどういう風に建直すかということは一朝一夕の問題でなく、将来全世界の大問題になります。その建直し、その建設が世界の作法に合うように上手に出来るかどうかということが洵に大切な問題であります。
 幸いにして日露戦争がいま起る気配はありませぬ。しかしながら満州自身の建設ということについては非常に意見が区々である」
   (昭和6年12月号「新自由主義」)
 昭和6年9月18日 満州事変勃発。鶴見は帰国途上の太平洋上で知る。
 9月26日 帰国。
 10月6日 出国。上海の太平洋会議へ。
 10月21日から11月3日まで本会議。席上鶴見は「満州事変は日本の侵略に基くものでなくして、支那の無政府状態が誘致したる不可避の現象である」と述べた。
 11月6日 帰国。
 11月30日 旅順口の塚本関東庁長官と会見。満鉄の各課長から意見聴取。夜行列車で奉天へ。
 奉天で本庄関東軍司令官と幕僚。森島総領事代理。支那側の袁金○(原文は“金”へんに“堂”)・于沖漠と会談。
 11月末から12月中旬まで 事変下の満州を旅行し、チチハル、ハルピンも視察。この間、関東軍財務顧問駒井徳三(後に満州国総務長官)を訪問。
 12月3日 夜行で奉天からハルピンへ。
 東支鉄道理事露人クスネツオフ、黒竜江省長張景恵、その他大勢と会談。
 12月5日 午後ハルピンを発ってチチハルへ。
 12月7日 午前1時30分、チチハル出発、ハルピンへ。終日滞在。
 その後、吉林へ。吉林省長熙給、石村総領事と会談。奉天へ。
 12月10日 大連へ。内田満鉄総裁に満州視察の所見を述べた。
 12月12日 飛行機で京城へ。宇垣総督と午餐を共にして満州論をやった。
 12月14日 帰国。
 12月30日 米国遊説準備のため、元蔵相井上準之助を私邸に訪問し懇談。米国から帰国直後の9月26日にも会談している。

 平井好一(関西汽船会長)は、『友情の人鶴見祐輔先生』に寄せた「思誼と敬仰の六十年」で語る。
「米・カ両国の講演で相互の理解親善につくし、その効果で胸をふくらませ、エムプレス・オブ・カナグ号に搭乗、横浜に向ったが、九月十八日太平洋上で満州事変の開始を聞いた。次で続々と無線が伝えるところは米国与論の悪化であった。何んたることぞ。一年有余にわたる熱誠の遊説が水の泡ではないか。残念だ。早速再度の渡米を決意して九月二十六日横浜に上陸した。早くも翌年一月には米国へ戻って、東亜の情勢、日本の立場を説いて廻った。

 昭和7年1月9日 エムプレス・オブ・ジャパン号にて米国に向け横浜を出港。
 1月17日 早朝ヴィクトリア港外に着く。以後約半年、事変下の日本事情を講説。
 6月中旬 フランスへ。
 11月10日 米国へ戻る。
 12月末 帰国の途に就く。

 6年9月に米国の講演旅行を終えて帰国した鶴見は、9月に満州事変が勃発したため、再び米国へ戻って、満州事変に対する日本の立場を説明して歩くことになった。
 昭和7年5月には新渡戸稲造も渡米して、日米関係の悪化の改善に努めた。

 満州視察をおえた鶴見は言う。
「今回の満州旅行は往復僅かに十八日の短い行程であったけれど、日本民族の一大飛躍の現場を視察するのであるから、私はかなり一生懸命な気持になって歩いていた。
 そうしてこの旅行の調査をこれから整理して、私は自分の微力を傾尽して世界に向って呼びかけたいと思っている。この満州を契縁として、行き詰まった日本国運の打開が始まるのだ。必らずそうしなければならないのだ。これは日露戦争以来の大事件であるのだ。私達はこの天与の大機会を逸してはならない」

 鶴見俊輔は言う。
「……小学校へ入る前だったと思うんですが、張作霖の爆死事件があった。そのときの私の家は、『爆殺したのは日本人で、それはたいへんよくないことである』という空気だったんです。張作霖に対して同情的なんですよ。……その家の空気がだんだん満州国を是認する方向に変わっていった」(鶴見俊輔『期待と回想』上巻239頁)


 6.鶴見の満州事変に対する見解

 昭和6年11月号新自由主義に寄せた「海内海外の奔流」より抜粋すると次のとおりである。

「今後の満州の事件は、どうしても晩かれ早かれ起らなければならない運命の下にあったのだ」 「その根本の一つは、日本民族の人口増加ということで、いま一つは、支那民族の国民主義の自党で、もう一つはロシアの共産主義の確立である。
 人口の多くして、土地の乏しい日本の国内に生活苦が深刻になって、社会不安が増してくると、どうしてもこの国内の状況を改善するための海外進出ということが起ってくる」
「ただその現状打破の途を、武力闘争の形式に求めないで、国際的互譲の方法に求めたいということが私達の希望であった。
 日本人を海外に出すことを可能ならしむるための諸外国の移民禁止法の改正はその一つであり、日本の製造工業品を他国市場に売出すことを容易ならしむるための各国の関税軽減はその二であり、また日本人のために土地の利用を可能ならしむるための新しき未開墾地の委任統治を日本に与うることはその三である」
「しかるに不幸にして、諸外国の排日移民法は何等改善せらるるところなく、日本人口の海外流出は依然として困難であり、保護貿易政策はいよいよ世界の流行となって、米国の関税引上げについで、インドの関税引上げとなり、更に進んでは英国保守党大勝の結果、大英帝国もまた従来の自由貿易をすてて保護貿易国たらんとする形勢であり、而して私達の主張したように、日本に南洋の大きい未開の島々――例えば世界一の大きい島ニュー・ギニアのごとき――を日本に新しく委員統治として委してくれて、日本の産業開発の新天地を拓いてくれとの主張のごときは、遂に列国から顧みられなかったのである」
「その生活難は、世界各国も日本と同一だという人があるなら、大変な考えちがいだ。日本の今日の生活難は、米国やカナダやブラヂルのような人口の少ない国々の一時的の不景気とは違うところの慢性的不景気で、その根本は人口と土地との不釣合から起っているのである。
 しかるに日本のが意外に有する唯一無二の天地は南満州と内蒙古であった。これをすら外来の勢力が日本から奪おうと試みるならば、それは既に充分に苦しんでいる日本民族に対して、あまりに無理を強いるものである。
 ゆえに日本民族が、敢然としてこの満蒙の権益を擁護しようという気分になるのは、当然すぎるほど当然あって、これは公平なる世界の識者が誰も非難しがたきところである」
「ところがここに困ったことの起ってきたのは、六七年前から支那に国民革命が起って、新しい民族意識が支那人の間に燃え上ってきたことである。
 そこで支那人は、満蒙は支那の領土であるから日本人を追い出してしまわなければならぬという考えになってきた。
 さらに共産露国は、今や着々として外蒙古をその掌中に収め、その宣伝は支那揚子江の両岸に及び、何時支那の政治組織を脅威すべきやを知らざるの状にある。
 満蒙の地はかくのごとくにして、日支露三民族衝突の禍因を蔵する一大火薬庫たるの観を呈するに至ったのである。
 満蒙の地は日本民族にとって、食物と工業原料の供給地であり、日本製造品の市場であり、国防の第一線である。殊にこの地には、日清、日露両役に流したる三十万同胞の鮮血がにじんでいる」
「しかるに満蒙において日本と支那との事端を発生せしむる原因が、近年に至って頻発した。
 その一つは、大正四年五月の日支条約で、世界が呼んで二十一ヶ条の要求となすものである。これは旅順大連の租借地の期限と、満鉄沿線地域の期限の切れようとするのを延期するために大隈内閣が支那政府に強要したところのものであったが、支那政府は正式にこれを調印しておきながら、後に至ってその無効を主張して今日に及んでいるのである。鉄道沿線と旅順大連の租借地は支那の認むると否とに関らず日本が占拠しているのであるから差支えないが、この条約中で支那の認めた商租権即ち日本人が土地を賃借するの権利のごときは支那人が言を左右に托して認めぬため、日本人の満蒙発展の一大障害となった。
 更に近年に至って大問題となったのは、鉄道の問題で、支那が既に日本に敷設を許した吉会線建設を許さず、また一方満鉄の競争線となるべき鉄道を幾多敷設して満鉄の地位を危殆に陥れようとしてきたために、日本の満蒙権益は重大なる脅威を感ずるようになった。
 その結果が本年九月の奉天事件として顕われたのである。
 私は日本の満蒙利権の擁護は、条約の法理上から言っても、民族生存の経済上から言っても、民族自衛の政治上から言っても正しい主張であると思う。
 しかしわれわれは飽くまでも問題の核心を見誤ってはならぬ。それは何であるかと言えば、支那は日本の敵ではないということだ。
 支那として日本は支那を犠牲として日本の物質的利害のみを企画する精神なのだと考えしめるような政策は決して取ってはならない。日本と支那とは、どうしても相協力してゆかなければならぬ運命を持っているのだ。
 支那の思い上がりたる排外思想の非であるごとく、日本が今日の強力を頼んで支那を侮り、不正義の要求をすることは百年の長計ではない」


 7.満州事変と自由主義者

「満州問題一度おこって日本の自由運動者がかげを消した」と石井満が言ったが、鶴見は満州事変に対する自由主義者の態度をどう批評したか。
 昭和7年1月号新自由主義に寄せた「集団的危機と個人自由」から抜粋すると次のとおりである。

「満州事変が日本民族に教えたる数多き教訓の一つは、集団的危機に際し個人自由の理想が、わが日本において如何に脆弱であるかということである。
 一たび国難来という声を聞くと、それっ!と総員が一列に並んで、ただ一つの指導原理の采配に服従する。一個半個の異論反対すら起らない。
 九月十八日の満州事変勃発後の日本の思想界を見渡すと、近代日本の思想的洗礼が如何に皮相的であったかが窺われる。
 ルソーの民権思想に発祥した自由党の大衆運動も、ジョン・スチュアート・ミルの流れを汲んだ自由主義思想家の国民教育も、遂に日本民族の皮下一分には達していなかったのだ。
 狼来る!という一吶声をきけば、個人的特有思想は大衆狂奔の集団心理の波に呑みつくされてしまうのだ。
 これをかの南阿戦争の最中、ジョン・モーレーや、ロイド・ジョージの敢然として保守党政府の主義論に反抗した態度や、欧州大戦勃発に際し、ラムゼー・マクドナルドの戦争反対の大獅子吼をしたなどに較べると、個人自由の教養の深浅到底同日の談ではない。
 満州事変は日本の重大事件であれば、これに対して個人平生の思想的立場より、凡百の批判があって然るべきである。たとえそれが国民大多数の憤怒反激を買わんとも、独自一己の主張を高調力説することが、思想をもって立つものの自己並に社会に対して負うところの厳粛なる義務である。
 かかる意味よりにて、このたびの満州事変に対し、わが国内において鮮明なる批判の現われなかった事を私は自由主義者の立場よりしてまことに遺憾なる現象であったと思う。
 国家の危局に際し、国民の足並を撹すごとき言論あるを許さないような不寛容な空気があまりに熾烈であったために、異論あるものが閉塞して声を出さなかったのだ、ということは事実である。しかしそういう不寛容な社会においても、真に確信あるものは敢然として立つべきであるから、この社会の空気ということだけでは、諸子百家の説の不出現を是認することはできない。
 偉大なる民族は、常に偉大なる個人を生む。否、偉大なる個人のあるあって、初めて偉大なる民族は出来上るのだ。そうして偉大なる個人の出現のためには、いつもかかる個人の独自不覇の発達を寛大に見送るところの社会的空気がなければならないのだ。
 九月二十六日に帰国して私の驚いたことは、右翼の思想だけはあったけれども、大部分牢に入っている最左翼との間に居るべき自由主義者の思想というものが殆ど見えなくなった。そこに日本の非常な危険と悩みがある。
 次に今日の日本に自由主義が無いのは、近年続く十年間の不景気のために中産階級と農民が非常に弱っている。従って自由主義が経済的の足場であるところの中産階級と農民が弱ったために彼等を中心とした自由主義の政治運動というものが下火になって来た。
 中産階級とは、小売商人とプチブル及び一般の勤人並に自由職業と称するところの筆を持つ階級、弁護士階級、お医者の階級をいう。
 今度の満州事件と言うものは、日本の中産階級と農民の苦しみが、満州において爆裂したのであります」


 8.大隈講堂の科外講義
     「人物的に見た欧州現状」

 昭和8年1月20日に早大の大隈講堂で行われた鶴見の帰朝講演には、午後3時開始の予定なのに1時半頃から学生が講堂につめかけ、3千人の収容力ある講堂も立錐の余地なく、講演を終えて帰る時には数百の学生が自動車を囲んで鶴見先生万歳を叫んだ。(昭和8年1月号新自由主義)


 9.昭和12年3月11日、衆議院本会議で佐藤尚武外相に緊急質問

 この日の質疑応答を踏まえて、昭和12年3月号の日本評論に寄稿した鶴見の「佐藤外交批判」を要約すると次のとおりである。
 佐藤外相の演説の要旨は、第1は外交の継続性ということ、第2は外交には相手があるのだから、国際関係の悪化の責任をすべて外交に帰するのは無理ではないかということ、第3はソ連政府がコミンテルンを排除しなければ、日ソ関係の明朗化は難しいということ、第4は英国が支那に於ける日本の意図を侵略であるかに危惧しているから、この誤解を取り去るように努力しなければならないということ、第5は日支交渉は行詰りになっているから、新しい出発点から出直す必要があるということである。
 そして次の事項を補足した。
 1.日支交渉の新しい出発点とは、平等の立場で交渉することで、優越感をもって臨むのはよくない。
 2.欧州に戦争の危険はないと思う。
 3.戦争の勃発の危機は、日本の考え1つで何時でも避けられる。
 日本から挑発はしないが、相手が挑発してくれば、忍従するのではない。
 日支間の忍耐を要すと言ったのは、相手方が国際正義を蹂躙しない範囲である。

 彼の演説はなかなか筋が通っていて、明朗性がある。
 だが、この明朗性は、実際に仕事に取掛ってみて、思うようにいかなかった場合に、非難攻撃される時、苦しい立場に立たなければならない危険がある。
 彼の顕著な特性は、理念主義である。感情的興奮が大衆に起こった場合、明透な理念だけでは大衆の動向を指導できなくなる。
 西安事件以後の支那は、政治的にはより一層強化されつつある。しかも英国は本腰になってこれに財政的援助を与えている。紙幣制度が維持されれば、支那の鼻息はますます荒くなって、昨年の日支交渉の日本の要求を受け入れないであろう。そうすると日本の与論がいつまで辛抱し得るか疑問である。そんな時に佐藤外相は進退両難に陥る心配はないか。
 実は日支交渉の困難は、日本の国論が統一されていないところにあるのだ。だから佐藤外相は、まず日本の国論統一に全力を傾注すべきである。これが出来上る前に新規交渉など始めたら、また昨年の失敗を繰り返す。
 この国論統一という方面から眺めると、佐藤外相は確かに大きい一投石をなした。
 彼の欧米に対する政策には多くを期待する。


 10.太平洋協会について

 太平洋協会は、昭和13年5月11日、東京会館において発会式を挙行した。当日は内相・海軍大将末次信正、元商工相桜内幸雄、元外相芳沢謙吉、陸軍大将松井石根、衆院議員芦田均をはじめ、朝野の名士131名が出席した。
 創立の趣旨を要約すると、現下の重大時局に鑑み、大陸政策に並行して、不動の太平洋政策を樹立することである。太平洋の諸問題を調査研究し、太平洋政策に関する国民の認識を深めて、国論の基礎を固め、具体的政策の確立により、これを国策の上に実現するということであった。
 この目的を達成するために次の事業を行う。@太平洋諸問題を調査研究し、その対策を講ずる。Aわが国の人口問題の解決、拓殖移民の方策、通商障害の排除、資源の公平なる分配、領土の平和的変更等の対策を講ずる。B太平洋諸国間の文化交換に必要な方法を講ずる。C各種調査員の派遣等。D雑誌、図書の発行、講演会の開催。
 事務所は、千代田区内幸町の幸ビルの6階(賃借)に置いた。
 設立時の役員は、会長は欠員、副会長は松岡洋右と永田秀次郎であるが、実質的な主宰者は、常務理事の鶴見祐輔であった。後に都立大教授(法博)、参院議員となった関嘉彦の入社の面接の際、鶴見は設立の目的を次のように語った。「いま日本は支那事変の泥沼にはまりこんでいるが、これから足を抜くためには、日本の人口問題を解決する代替地を求めねばならぬ。幸いにいま濠州は東ニュー・ギニアの経営に困り、手放したがっている。アメリカさえ諒解すれば、これを買収することは容易だ。日本が平和的に南方に進出するよう内外の世論を喚起するのがこの協会の任務だ」と。
 協会の収入の大部分は、寄付金である。昭和17年度の主な寄贈者は、大日本電力、外務省、海軍省、三井総元方、陸軍省、満鉄本社、三菱本社、住友本社、糖業連合会、正田貞一郎らである。
 協会は雑誌「太平洋」を刊行したほか、平野義太郎・清野謙次共著『太平洋の民族=政治学』、関嘉彦著『蘭領印度農業政策史』、笠間杲雄著『大東亜の回教徒』、沢田謙著『宝庫ミンダナオ』、鶴見祐輔・沢田謙共著『太平洋上の日米問題』、太平洋協会編『仏領印度支那研究―政治と経済』『フィリッピンの自然と民族』『南洋文献目録』など60〜70種の書籍を戦前に出版している。
 太平洋協会の出足は好調だった。指導階級を集めての談話会、研究資料の公刊などを行う一方、鶴見祐輔の国内各地の講演、諸外国の訪問など寧日なき毎日であった。
 当時の協会には多くの学者が出入りし、後に都留重人、鶴見和子らを輩出している。
 桜内幸雄、松浦周太郎、石田礼吉らは定期的に会合を催し、野村吉三郎も幾度か協会を訪れている。
 鶴見祐輔は何とかして日米戦争だけは避けたいと努力していた。永田秀次郎や米内光政ら陸軍に批判的な人々を協会に集めて、密議していることもあった。
 だが開戦後は太平洋協会も政府に全面的に協力することになった。
 太平洋協会の海外調査活動として、軍属となっても北ボルネオへの調査団出張がある。団長は常務理事笠間杲雄で、協会員以外の専門家とその助手を加えて20数名編成した、2人1組のチームで、各地の山奥の原住民の部落に泊まり込み、宗教や経済生活の実情を調べ、原住民の日常生活の実態を司令部に報告し、政策提言を行った。
 太平洋協会が入居している内幸町の幸ビルは戦災を免れたが、協会は図書を含めて全財産が疎開先で焼失して、終戦とともに解散した。実質的な主宰者の鶴見祐輔は公職追放になった。
 昭和25年、鶴見祐輔が追放解除になった年、太平洋文化協会が設立された。会長は加納久朗で、副会長は石坂泰三、伊藤忠兵衛、鶴見祐輔である。
 趣意書を要約すると、世界の実情を正しく認識し、全世界の人々の信任を回復するために、英国の王立国際協会や米国の外交関係審議会のような組織を作るということである。
 その事業として、講演会、茶会・午餐会・夜会等の会合、報告書の作成配布、調査、各種刊行物の編纂出版、実際的事業の仲介、国際会議の斡旋を計画している。
 収入は維持会員から月額1口1万円以上を徴収するということであった。
 昭和28年、太平洋協会と改名したが、趣意書も事業計画もまったく同一である。会長が鶴見祐輔、副会長が加納久朗となった。
 だが戦後の太平洋(文化)協会の活動と実績はほとんど無かった。昭和34年、会長鶴見祐輔が脳軟化症に倒れ、昭和38年、太平洋協会は解散した。
 満州事変以後凋んでしまった鶴見の新自由主義が、時勢に妥協するような形で再生したのが太平洋協会と言えよう。だが戦争体制への協力が、大日本政治会総務の就任とともに公職追放の原因となり、鶴見は戦後の政治的再出発に大きな遅れをとることになったのである。(2002年冬号『環』――「太平洋協会について」執筆者は石塚義夫)


 11.昭和14年の衆議院での質問演説

 私(鶴見)は今日の日本語の乱雑、不統一、不完全ということを、四十年近く考えている。それでどうしたら標準日本語が出来上り、日本人が同じ言葉を同じ意味に解釈して、お互の考を正確に伝え合うことができるものか、そうしてこの言葉を、日本という一地方語たるに終らしめず、一つの世界語にまで発展せしめ得るものかということを、長い間思いめぐらしていた。
 そのことを私は昭和十四年二月の衆議院予算総会で政治問題として取り上げてみた。
 それは文部省の予算に関する質疑の形式で私は大要次のようなことを論じたのだ。
 一、今日日本語は日本国内のみならず、アジア諸国間にも広まらんとしている。
 二、そのためには日本語を、本当の国際語になれるように醇化し整理しなければならぬ。
 三、しかるに日本語ぐらい乱雑なかつ六ヶしい言葉は少い。このままでは到底国際語にはなれない。
 四、第一発音が区々(まちまち)で、音楽のできる西洋人がきくと、日本人のアイウエオは、一人々々みな発音が違うという。況や日本の単語や文章の発音に至っては、人区々で世界の文明国で、こんな乱雑なことを平気でしている所は一つもない。
 五、単語にしても、勝手気儘に一人々々が作るから、お互に意味の解らない文字を使っている。
 六、それに日本語には、正確な文法がない。教育ある者でも、日本語を完全に書ける人は殆んどない。
 七、漢字が六ヶしい。それを暗記するためには日本の学童の頭脳の三分の二ぐらいが費やされている。
 そして私はこれを改正する具体案として、次のごときことを提案した。
 この際政府においては、一億円位(今日の百億円に当たる)の予算をもって、日本語の完全な字典を作ってはどうか。そして康熙字典やオクスフォード字典のごとく、これを一つ見れば字の意味も、発音も、文法も悉く解るようなものを作ってはどうか。
 そしてフランス語のように、アカデミーで採用した以外の文字はフランス語として認めないほどの権威をこの編纂委員会に持たし、またフランス座とオデオン座の俳優の発音を標準フランス語とするごとく、日本にも標準日本語の発音をする人々を作ってはどうか。
 それは一部専門家の間に多少の反響を生じただけで、とうとうあまり効果を生ぜず、たしか文部省のこの仕事の予算が、一万円から五万円に増額されただけに終ってしまった。(『成城』1巻51頁、2巻166〜168頁)


 12.大東亜戦争開戦時の鶴見の発言

 昭和17年12月に潮文閣から出版された『鶴見祐輔選集』から抜粋する。
「昭和十六年十二月八日は、日本歴史上永久に記念せらるべき日であるのみならず、また世界歴史上において、特記せらるべき日である。
 それはこの日、わが海軍が一挙に、米国太平洋艦隊の主力を撃滅し、以て、皇国日本の生存と権威とを盤石の上に置きたるのみならず、また同時に、二千四百二十一年前、サラミス海戦によって失われたる東洋の世界覇権を、再び西洋民族の手より奪還するの第一歩を踏み出したからである。サラミスの海戦によって世界の海権は、東洋の代表者たるペルシヤの手を離れて、西洋の代表者たるギリシヤの手に移り、爾後東洋はこれを回復することができなかったのである。
 即ちこの日をもって、世界史は一大転回をなしたのである。
 その翌々十日のマレー沖海戦でプリンス・オヴ・ウェールズとレパルスの撃沈せられたことは、この二大巨艦とともにサー・フランシス・ドレークがスペイン無敵艦隊を撃破して以来、未だ一度も敗れざりし三百五十年の英国海軍の伝統が千尋の海底に没し去ったということであるのだ。
 英国が三百五十年の久しきにわたってその世界支配を継続し得たるは、その圧倒的なる海軍をもって、爾余の欧州諸国の海への通路を梗塞し、これによってこれ等諸国の世界的膨脹を阻止し来ったからである」
「第一次欧州戦争の終焉と共に、英国は日本を捨てて、米国を選んだ。それは一国の海軍力をもって、世界支配を継続するの不可能なるを悟って、米英合作による世界支配にまで譲歩したのである。
 アングロ・サクソン民族は、最も人種的偏見の強い民族である。この人種的差別観が、結局において、日米問題の根本的癌であるのである。
 カリフォルニア州における日本人排斥も、オーストラリアとカナダにおける日本移民排斥も、彼等が日本人と混血することを欲せず、同化することを欲しない人種が多数渡米し永住することを望まないところからくる。
 アングロ・サクソン人が人種的偏見を矯正せざる限り、日本と米英とは究極において衝突すべき運命にあったのである。ただ米国に賢明なる政治家が居たならば、かくのごとき衝突の発生せざる以前において、西部太平洋より撤退すべきであったのである。しかるに事○(原文は“玄”を2つ並べる)に出でずして、ますます東亜と南洋とに進出し来らんとするにおいては、衝突は蓋し不可避の問題であったのである。
 アングロ・サクソン人は所有欲が旺盛である。彼等の世界領土獲得の歴史を見よ。
 彼等ははじめ冒険者として世界の隅々に進出し、無人の島々にその国旗を建て、先住民族ある地には必ず宣教師とを送ってその物と霊とを誘い、而して最後に武力をもって領有した。
 而して一旦領有するや、彼等は決してこれを抛棄しなかった。
 かくのごとく旺盛なる所有欲を有する民族が世界の大部分を領有したる今日、後進国は果して如何にして、その天賦の生存権を主張することを得べきか。
 それは結局において武力である。
 マレー沖の海戦は、『英国海軍は不敗なり』という三百五十年の信仰を破摧し去ったところに最大の意義があるのである。
 博多湾頭にジンギスカンの兵を斥け、満州の野にロシアの陸軍を破り、大国アメリカを真珠湾で、その『粘土の足』の脆弱性を世界の面前晒させたのは、日本の戦いが常に正義の戦いであったからである。即ち国家の生存と名誉とを防衛するための戦いであって、決して他国を侵略せんとする戦いでなかったからである。
 正義の戦争とは、われの挑発したる戦争に非ざるの義である。彼の犯し来るに対し敢然として立ち上る防禦の戦いは、常にその民族の勝利に帰する。蓋し民族は、その祖先千年の国土を守る時に最も勇敢であるからである。
 而して日本民族は、その戦争目的は防禦戦争であって、その戦争手段は常に攻撃的である。そこに日本の常に勝つ真因が存する」
 そして真珠湾九軍神への賛辞がつづく。
 鶴見は昭和3年に『英雄待望論』を記して、その冒頭に「新時代来らんとす」と題して次のように論じ、今日あるを予言したという。
「人間の世界は二つの時期を繰り返す。一つは集中時代で、他の一つは膨張時代である。集中時代は準備の時で、膨張時代は実現の期であるとも言える。
 徳川時代は三百年が、日本民族の持った偉大な集中時代であった。
 明治大帝四十五年の御代は、日本歴史稀有の膨張時代、飛躍時代であった。
 明治の時代には、日本国民は、日本を偉大なる国家となさんと欲する燃ゆるがごとき情熱を有していた。かかる英雄的心境を以て、日本国民が試みたる一個の英雄的活劇が、日露戦争という、今にして思う壮快なる人類史的記録であった。
 日本海々戦の後には、日本帝国のうちには、澎湃たる文運隆興の時代が到来しなければならぬはずであった。しかるに日露戦争以後の日本は、サラミスの海戦の後に雅典の栄華が起り、ウォーターロの一戦の後に十九世紀英国の繁栄が起ったような全盛期に入ることなくして、日本民族は再び集中時代に入ったのである。
 戦争の犠牲のあまりに大にして、得るところの余りに少かりしに失望した国民一般の思想的反動に発端して、政治的には従来の国家主義に反溌し、文芸的にはローマン主義を抛棄し、思想的には理想主義を懐疑し、経済的には資本主義を呪咀する精神的大転機であった。
 われわれ日本民族は今や、事実の必要上、膨脹時代に転向すべき機運に臨んでいる。それは人口問題である。明治維新以来六十年にして、二倍の人口となった日本国民は、一方には教育の普及、他方には生活向上のために、もうこのままでは、この島国のうちで安閑として生活が出来なくなっているのだ。
 日本民族にして亡びざる民族であるならば、われらはここにもう一度、英雄的努力をなして国民生活打開の新運動を起さなければならないのだ。
 そのためにはわれわれは、第一に総合的天才を待って国民思想の統一をはじめなければならぬ。その思想界における天才の出現と共に、必らずわれわれのうちから、実行界の天才が出なければならぬ。
 われわれはあまりに永き分析と懐疑との時代に倦きた。今よりぞ日本民族は、総合と信迎との新時代に入るべきである。それが荘厳なる英雄時代であるのだ。
 その英雄時代は、ただ国民の中に英雄を待ち望むの心旺するありてはじめて起る。
 今日の日本に必要なことは、かかる英雄を待ち望む心だ。その英雄待望の心を呼び起こさんために私はここに古今の英雄の伝記を綴って江湖に送る。
 今日の時代は、私の少年時代に較べると、偉人とか英雄とかいうものに対して、冷淡になっている。或る人々はむしろ蔑視し、冷笑する。それは国民の意気銷沈時代の特色だ」

 再び昭和17年の文章に戻る。
「当時の日本は、昭和の御代に入ってから後僅かに三年で、外交としては国際連盟全盛時代であり、内政としては消極的な弥縫補修時代であり、思想としては依然として分析批評時代であった。国内においては人口増加の趨勢年とともに激甚にして、失業者逐年増加し、自暴自棄の思想は青年の精神を蝕み、懐疑的敗北主義思想が、ややもすれば溌溂たるべき若人の頭脳に浸潤せんとしていた。
 ゆえに私の叫んだ英雄主義の思想のごときは、戸惑いしてニ十世紀に現われたるドンキホーテのごとき徒らに一部のインテリの嗤笑を買った。
 英雄時代の讃美より、もっと切実なことは就職と結婚であったのだ。総合と信仰よりも大切なことは、事務の鍛練と保身処世の術とであったのだ。
 しかし一部のインテリが、私の言葉を大凡そ時代に縁遠き白昼夢として嘲笑しようとも、日本の大衆の胸の中には、その当時新しき雄渾なる時代を待ち望む熾烈なる欲求が燃えていたに違いない。そうでなければ私のこの著書があのように強烈な反響を生じ、記録的な売行を示すわけはなかった筈だ。(『英雄待望論』は50万部売れた。石塚注)
 真珠湾とマレー沖の戦勝にとどまらず、陸上ではマレー半島を蓆巻、フィリッピン群島の占領、蘭領印度全島の降伏、ビルマの制圧、さらにわが海軍は印度洋上の英艦隊を葬り、遠くマダガスカル島を襲い、東方はアリュシアン群島中のニ島を占領するに至った。
 わが国が支配する陸地は、昭和三年に比すれば約十倍に及び、今後拡大さるべき陸地はこの幾倍かに及ばんとしている。
 この広大なる土地の上には、実に七億を超える大衆が生存し、その土地の上には世界の重要資源が無尽蔵に横わっているのである。この土地を開発し、この大衆を指導し、新たなる大東亜を建設することが、日本民族の現実の仕事となったのである。
 英雄時代は正しく到来したのである。何という生甲斐のある時代に生れたわれわれであろう」
「日本民族の三千年の約束は、実にかくのごとき決死的邁進の精神によりて果さるのである。それは柳条溝に火蓋を切った時に始まっている筈だ。更に蘆
 現に動乱のさ中にある全世界は、悉く英雄活躍の舞台ではないか。そして新興堀起の民族は悉く、かかる英雄の指導を甘受し、勇躍してその号令の下に生命をさえ捨てているではないか。ヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリー、スターリンのソ連邦、而してチャーチルの英国、ルーズヴェルトの米国、比々として皆それである」
「昭和三年頃、私はあらゆる機会において、『日本の前途に暴風雨(あらし)あるべし』と疾呼していた。これは世界の形勢が大きい禍乱を包蔵していたことを痛感していたのと、いま一つには、日本国内における人口増加の趨勢が、必らずわが国を新しき政策への転換を強制するであろうと確信していたからだ。
 果して満州事変を契機として、かくのごとき大転換期は到来した。それは世紀的動乱の端緒をなしたもので、国内においてはこれに次いだ。五・一五事件、二・二六事件、さては昭和十五年の第二次近衛内閣以後歴代内閣の各種の新政策として現われ、国外においては、日支事変、日米通商航海条約廃棄、欧州戦争、日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約、而して最後に大東亜戦争をして矢継早やに現れてきた」


 13.対敵宣伝機関創設案

 国会図書館憲政資料室鶴見祐輔文書
 資料番号778 対敵宣伝機関創設案
 太平洋協会の用箋 極秘の朱印あり 昭和17年1月 タイプ印刷 敵国国民への思想戦 第一次世界大戦で英国が新聞界の巨人ノースクリフを起用して独墺を内部より崩壊させた。 対敵宣伝の一機関を設けること。 首相の直接監督下の民間機関とする。経費は一半は政府の補助、一半は民間の寄付。 ラジオで行う。

 資料番号779 メモ対敵宣伝委員会
 鶴見祐輔用箋 昭和17年3月10日 於自宅
(一)事務局
   藤村
   沢田謙 武内辰治 海老名一雄
   芝染太郎 佐藤荘一郎
(二)委員会
 イ、米国新聞関係
   松本重治 高石真五郎 郷敏
 ロ、宗教団体関係
   賀川豊彦 斎藤惣一郎
 ハ、実業家関係
   田嶋繁二
 ニ、外交家関係
   堀内○(“助”のへんの右下が“身”のように下に抜けてはねる) 深田三

 顧問
  金子堅太郎 石井菊次郎 幣原喜重郎
  松平恒雄  横山愛輔 出渊勝次
  池田成彬  深井英五

 国会図書館に、太平洋協会用箋に書かれた「対敵宣伝機関創設案」なるものが保存されている。鶴見祐輔用箋に書かれた同文の原稿があるところを見ると、鶴見が起草したものと思われる。
 東京ローズを想わせるアイデアだが、この話は昭和17年6月14日現在では、「田中参謀本部第一部長、佐藤陸軍軍務局長の賛成、後援、成立の明言を得た」そうで、「陸海軍関係者、情報局の陸軍代表者で一決、鶴見祐輔に之を托すとの決定ありと昭和十七年四月上旬、田中、佐藤氏より名言があった」のだが、その後、田中、佐藤氏より延期する旨連絡があった。情報局の反対で困難になったと鶴見は推測している。
「英国も前大戦の進行四年にして初めて其必要を痛感して実施したるものなれば……日本は未だ其の時期到来せざるものと見る外なし」
と一旦は諦めながらも、昭和18年8月には再度「対米宣伝方針私見」なるものを起草している。
 話は違うが、鶴見は昭和11年に、六代目菊五郎の海外上演に奔走したが、その筋の反対により実現しなかった。


 14.昭和18年の衆議院での質疑応答

 2月2日の衆院予算委において、鶴見は東条首相に戦争目的を質問した。その回答は次のとおりである。
「又日本ノ戦争目的ハ只今私カラ明カニシタ通リデアリマシテ、徒ラニ米国ノ領土ヲコツチガ取ルノダト云フヤウナコトハ考ヘナイ、併シナガラ戦デアリマスカラ、彼が抵抗スレバ何処マデモ叩キ付ケルト云フ点ハ是ハモウ戦争目的ヲす達スル手段デ之ニハ躊躇シマセヌガ、併シナガラ何モ米国ノ領土ナドヲ取ツテ見テモ仕方ガナイ、斯ウ云フ領土的ノ野心ノ上ニ立ツテ吾吾ハ毛頭考ヘテ居ナイノデアリマス」(昭和18年6月号「日本評論」78頁)


 15.対米英が目論む降伏とは破滅
    最後の1人となるも撃滅に邁進のみ

 昭和20年2月15日 東京新聞
 ヤルタ会談の共同公報について国際問題の権威鶴見祐輔氏に我等の覚悟を聴いてみる。

 発表された公報から先ず我々が感ずることは、最初から予想された通り今次の三頭会談が明らかにソ連の勝利に終り、米英の後退を見たことと、此れは又予想を裏切って「対日戦」に関して一言も言及されていないという点である。
 ルーズベルト、チャーチルが遥々クリミヤ半島のヤルタまで出かけなければならないほど米英はソ連勢力の前に焦慮していたのだが、会談の結果はどうしてもスターリンの圧力の前に兜を脱がねばならなかったのだ。
 その1つであるポーランド問題を取り上げて見るにこれもソ連の思い通りに解決したが、この問題がアメリカに与える衝動は大きいものだと思う。と言うのはアメリカの外交はイギリス外交の蝕くまで実利的な…………………………であることが特徴である。イギリスはポーランド問題で不利でもギリシヤの方で得したらそれでよいとするがアメリカは与論を基調とした外交である故に大西洋憲章丸潰れの結果となったポーランド問題をルーズヴェルトが如何にアメリカ民衆に納得させるかが問題となる。理念上納得しないと承知しないのがアメリカ国民だ。
 しかし今度のポーランド問題ではルーズヴェルトといえども誤魔化し切れず、為に与論は非常な動揺を見ることが明らかに予想される。
 前大戦のパリ平和会議でウイルソンが失敗したと同じで今やアメリカ民衆はポーランド問題なる地雷火を抱え込んだのである。
 これも亦ソ連案勝利の1つだがドイツの処理案でも我々の敵はナチ・ドイツであり軍国主義であるとしドイツ国民ではないと明瞭に言っている。これは今迄にないことでソ連のドイツ「自由委員会」を或る程度認めこれまで叫んだドイツ国の無条件降伏を抛棄したことになる。特にナチ・ドイツを採り上げたことは一面米英の謀略宣伝的な要素も多分にあり、ドイツ国内にさそいの水を向けていると雄思われる。これ又前大戦でのウイルソンの「我々の敵はドイツ政府である」と叫んだ謀略と等しいし、かくドイツは蝕くまでも戦うであろうし、ナチ魂は決して降伏しないであろう。公報には降伏条項は発表されてないが、その処理案を読むとき我々日本人は、「戦争には負けられぬ。敗戦の結果が如何に過酷なものか」を一応知ることが出来るだろう。
 我々はそれが彼等の大妄想であることを願うのだが、若しもベルリンに突入され、ドイツが敗れたときのドイツ国民の悲惨さが目に見えるようである。今次戦争には降伏は民族の終焉であることを固く知らねばならない。彼等がこれまでちょくちょく口にした「対日処分案」なるものがドイツ処分案どころの比でないものであることも明瞭なのだ。話が少し横道にそれたがソ連の勝利は他にフランスを引入れたことにもあるがとにかく此の結果戦後欧州はソ連の意の侭となることを米英も嫌でも承知してしまったことになる。一時はアメリカに……したソ連だったが此れが反対になるわけだ。
 それから対日戦に一言も言及しなかった点だがこれは公報に発表された範囲より知らない我々としては特に語るべきものを持たない訳だが、アメリカがどうしてもソ連を対日戦に引張って日米戦争の観ある大東亜戦を反枢軸の共同戦争としたい腹はよく解っている。対独戦から対日戦へ……この意味からして4月25日に桑港で開かれる反枢軸会議に深い注意を払わなければならない。このアメリカの意図を完全に打ち破るものは銃後一億の献身以外にないことはもちろんである。(石塚注 文中文字の欠けている箇所は、読み取れない文字である。伏字ではない。)


 16.国土防衛民主主義連盟について

 鶴見は幣原衆議院議長、佐藤参議院議長など同志36人と発起し、国土防衛民主主義連盟を結成して、昭和26年1月17日に、神田共立講堂でその第一声をあげた。
 鶴見は「新英雄待望論」の中で次のように語っている。
「私の国土防衛運動は、再軍備運動ではないのである。
 再軍備という文字は、戦前のような軍備を再びつくる、という意味を持っている。それは決して日本のために望ましいことではない。
 日本の今日の経済状態では、尨大な国防費を負担することはできない。更に軍備という以上は、正規の軍隊を意味する。しかるに一連隊の兵を指揮する連隊長を養成するには、20年の訓練を要するそうである。従って今日再軍備をすれば、勢い以前の上級将校を用いなければならない。日本が若し英米仏のごとく民主主義が確立した国ならば、どのような大軍を作っても、軍人が政治に関与する心配はない。しかし終戦後5年の民主主義訓練では日本の民主主義はまだ本当に強固なものにはなりきっていない。故に今日昔のままの上級将校に統率せらるる大軍隊を再製することは、危険であると私は思う。日本の大衆は浪花節や講談の影響を、深刻に受けて生長している。これ等の民衆娯楽の思想的根底は、民主主義ではない。ファッショである。ゆえに日本の民主主義教育が徹底し、民主主義制度が、揺ぎなき土台の上に据えられるまでは、過去のような大軍備をもつことは危険である。
 私の考えている国土防衛は、外敵が上陸して国内にゲリラを行い、乃至は村々で暴動を起すような場合に、村の人々が自ら守ることのできるような防衛態勢を作らんとするものである。そして国際戦争は国連の安全保障に依存せんとするものである。であるから私は「炉辺を守れ」ということを標語としているのである。
 永い将来の後、日本の経済が安定し、且つ民主主義の基盤が強化したる暁、欧米民主国のように、政治家の統制の下に柔順に服する軍隊が出来ることは、それは今日とは全然異る条件の下に実現するのであるから、それは全く別個の問題である。


 17.自衛隊の海外派遣禁止決議

 昭和29年6月2日の参議院本会議で、鶴見祐輔氏が自衛隊の海外派遣禁止決議案の提案理由を説明し、全会一致で可決成立した。
 これについて鶴見は、「水爆時代においては、本格的戦争は人類の終りだと言われます。ですからどうしても世界戦争は阻止しなければならない。それには今日の日本の国内にみなぎっている平和愛好精神を、日本の国策の上に顕現し、これを世界にむかって呼びかけることです。日本の憲法九条の精神を実際政治の上に生かし、これを世界の先例として示すことです。
 そういう考えから私は提案しました。それはただ一つの決議案にすぎません。しかし、これは大きい国策の決定とも考えることができます。すなわち日本は国内の平和を維持するために、正当防衛の手段としての自衛隊は創設した。しかしそれは飽くまでも、日本の国内の秩序維持のための武力であって、米国からM・S・Aの軍事援助を受けるのも、その範囲内のことであり、日本の自衛隊は如何なる場合にも海外には出さないのだ、と世界に声明したわけであります」(昭和29年8月号婦人公論)と語っている。

 当時は誰でも自衛隊は専守防衛を旨とし、海外派遣など考えていなかった。だからこの決議は、心配性の老人が念に念を入れた、誰も反対する者がないことを確認したものと感じ、従ってあまり重要性の無いものと受け取られた。

 この時、鶴見和子は、この決議に、どれほどまでの強制力があるかを心配した。(前掲誌)
 時代は変わり、鶴見和子の危惧は適中する。
 平成4年にカンボジアへ、はじめて自衛隊を派遣する時、この決議を想い起こした者が居たが、戦争を知らない若い議員たちは、当時とは時代が違うのではないかと言って、取り合おうとしなかった。


 18.新閣僚の横顔

 昭和29年12月11日 朝日新聞
「古い国際派型の自由主義者
 厚生大臣 鶴見祐輔

 鶴見といえば政治家としてよりも、大衆的文筆家としての声価の方が少なくとも一時代前は高かった。彼が非インテリ青年層に博した人気は、その若々しい理想家ハダな所にあった。
 第十九国会では「海外派遣禁止決議案」を率先して提案したが、この辺が、かえって彼を既成保守政党の主流に投ぜしめない支えなのかも知れない。戦後いち早く結成された進歩党の幹事長となるも、間もなく追放で引退、解除後は、国土防衛のための精神的な国民運動などやったが、余りパッとしなかった。どうしたわけか民主党の革新系とよく、参院民主党では一応の存在。
 世界平和会議を始め、国際会議へ出席することほぼ二十回という経歴の持主で、一口に言えば古い国際派型自由主義者といったとこ ろ。後藤新平伯の女婿」

 当時の同紙に、閣僚選考事情として、「三木武夫とともに旧改進党革新派を代表する鶴見は、はじめは、苫米地義三説も強かったが、同氏は何度か入閣しているというので鶴見が起用された」とある。
 新閣僚の抱負は…

 昭和29年12月11日 朝日新聞
「社会保障の推進に努力 鶴見厚相

 社会保障制度については素人ではあるが、この制度の推進に努力したい。先進国の社会保障制度でも必ずしも完備したものでなく、いろいろと欠点もあるよう聞いているが、日本の制度についても公平に運営されるよう検討したい」

 昭和28年5月2日の毎日新聞の「新しい政界地図」では、「選挙前から一名を減じて十五名となった改進党は今後は鶴見祐輔氏がさい配を揮うことになろうが、同党はあくまでも衆院側の動向に支配されるので極めて微妙なものがあり、自由党としては緑風会の協調を図る以上に改進党を重視してきたことも注目に値しよう」と記されている。
(石塚注 昭和27年に結成された改進党は昭和29年に解党して日本民主党を結成し、日本民主党は昭和30年に解党して、自由党と合体し自由民主党を結成するに至る。)

 鶴見祐輔の得票数
 全国区選出53議員のうち18位。292428票。岩手県で111694票。38%。神奈川県で12498票。4%。東京都で30711票。10.5%。群馬県で10439票。3.6%。岡山県で4712票。1.6%。

 昭和28年4月28日 毎日新聞
「改進党(総裁重光葵)の内訳は、保守派の総帥は大麻唯男で、松村謙三はその分身といった格好。保守派の別院は芦田均系である。保守派及び官僚系議員に中間派がタイアップして相当の影響を及ぼしている。
これらの保守系は対立するものとして、北村徳太郎、三木武夫らの革新派がある。この勢力は北村系、三木系、鶴見系の連合勢力である。
 鶴見派は鶴見祐輔が宿願成って参議院にのし上って来たので漸く芽を吹きはじめたものの松浦周太郎、小山倉之助の三人世帯であってみればやはり三木系との連合以外に生きる道はないであろう」

 昭和29年12月12日 朝日新聞(夕刊) 清水崑「私の印象」より
「熱狂的であり早く濃し
 厚生大臣鶴見祐輔
 私は小学生の時分から鶴見氏の雄弁家としての名声は知っていたが、その雄弁が、どんな音声の、どんな味わいの、どんな作用をもたらす雄弁か知らなかった。
 会ってみると、顔の大きさは普通の肥った人並みだが体が思いきり短い。
 それに眼がつぶらで豊きようの童顔。声も若いし弁舌のスピードと意気と密度は常人の四、五倍は熱狂的であり早くて濃い。先ごろのアメリカ遊説では、一回の講演料が五百ドル、日本円に換算して二十万だったそうだが、頼む方では平均値段じゃ気もひけるだろう。
 衆院議長の選挙に手間どって遅参しましたと私におわびを言われる前にも、その衆院から、氏の議員室で待っている私へ二度も三度も電話連絡があった。やがてそそくさと入来あっての第一声が「保元平治の乱から関ヶ原の合戦、ウォータールーの戦いと戦争でなければ決められなかったことが、ああやって投票できめられるんですからまァいいとしなければ」とハナからはなはだ平凡ではない。
 やがて固疾だった肝臓とシッシンがハリで全快した話に飛び、人間の権力欲へ移行し、アメリカへ転じ、しまいに夢の国、世界の楽園、ブラジルへ横滑りしたが、最後の機関銃のツルベ射ち、オーバーのボタンを一つはめ違えて退出したくらいの作用を私にもたらした」

 昭和40年4月号の中央公論に掲載された「戦後歴代内閣全大臣成績一覧」では鶴見について
「保守党の『進歩的文人』といわれる。しかし厚生大臣として、政策らしいものは何ひとつ打ち出せなかった。一代の雄弁家というのも昔がたり」
 とある。
 しかし、昭和29年12月10日発足した第一次鳩山内閣に入閣し、30年3月19日の第二次鳩山内閣の成立に伴って厚生大臣を辞職したのであるから、僅々3ヵ月の在任を想えばこの評は酷に過ぎよう。
 因みに鶴見が在任した内閣は、昭和29年11月24日に改進党等が解党して、日本民主党が結成され、12月7日吉田内閣が総辞職して鳩山内閣が成立した。そして2月27日に総選挙が行われた結果第一党となった日本民主党総裁の鳩山一郎が第二次鳩山内閣を組閣したのであるから、当初から選挙管理内閣と目されていた。

 鶴見俊輔が、父が厚生大臣としてやった仕事は、大臣室を広くしたことだけだと揶揄しているが、大臣室を拡張したことは事実である。当時の新聞に次のような鶴見の談話が載っていた。
「私は社会保障の大仕事と取り組みたい。それには次官にも手伝ってもらう。外国の大臣室や次官室は立派ですからね」

 鶴見厚相の足跡は他にもある。
 昭和30年2月23日に政府派遣団の手により東部ニューギニアのウエワクボーラム岬の突端に、戦没日本人の碑が建立された。碑面には「戦没日本人之碑、遺骨収集之地、昭和三十年建之、日本国政府」という鶴見厚相の文字が彫られている。


 19.昭和33年1月30日、参院本会議で鶴見が自民党を代表して質問した

 同日付朝日新聞(夕刊)より
「鶴見祐輔氏
一、核兵器に依存する「力による平和維持」は限界にきていると思うがどうか。
一、首相は東西両陣営の話合いをネール首相とともに提案する意思はないか。
一、北太平洋において北大西洋条約機構のようなものができた場合、日本はこれに参加すべきではないと思うがどうか。
一、北洋漁業についてのソ連の領海(注、距岸の意味)四十カイリ論と、一方的漁獲高制限は認めるべきではない。
一、ハボマイ、シコタンの帰属について速やかに交渉をはじめよ。
一、国連を通じて世界人口の再分配の新原則を提唱する考えはないか。
一、社会保障費と防衛機構は常に正しいバランスをとる必要がある。
一、予算編成の混乱は遺憾である。(野党席拍手)今後予算編成の中心をどこに置くか。
一、圧力団体の弊害をどうするか。
岸首相
一、力による平和の維持が限界にきているとの見方には賛成である。東西両陣営の話合いが有効に成立するよう国連の内外を通じて積極的に努力する。
一、北太平洋機構のようなものができても参加する意思はない。
一、ソ連の領海制限は漁族保護の立場からと思うが、科学的基礎にもとづいて話合いを進める。
一、領土問題の解決のためには日本政府の主張が日本国民の要望であることをソ連が真に認識することが必要である。
一、社会保障費をさらに充実するよう考える。(野党席から「考えるだけではダメだ」のヤジ)
一、予算編成の全責任は政府にあり、編成の主体は政府である。
一、暴力的手段をとる団体は排撃しなければならない」

 鶴見の質問演説を評して三角点(現在の素粒子)はいう。
「“東西巨頭会談”の世話とは大きく出たもの。党内派閥一つ、無くせんくせに」


 20.理解されず、誤解され易い鶴見の言動

 (一)国土防衛民主主義連盟は、鶴見の真意を離れて、世間一般には「再軍備のお先椿をかついだ」(昭和34年6月21日号週刊朝日「参議院座の新加入者」執筆者は大宅壮一)と見られた。
 (二)昭和34年の参院選で、革新系の鶴見和子が、保守系の父祐輔の応援に駈けつけたことも世間の眼には矛盾と映った。昭和34年7月26日号週刊朝日にも「進歩的評論家のはずの和子さんが、憲法改正賛成の父に応援する図が展開」と書かれている。
 これに対して鶴見の反論が、昭和23年8月2日号の週刊朝日の「読者のイス」に掲載されたが、記事も小さく、また鶴見の説明が世人を納得させられたかどうか。
「私の娘和子は、選挙の腐敗を見るに忍びずとして岩手に参りましたので、主として文化講演を致しておりましたが、聴衆の要請により、両3回、政治に触れた話をした時も、私との意見の一致点と相違点を明らかにして話しております。従って、本人の進歩的評論家としての立場に、何等の矛盾はなかったと思います。
 また、私が憲法改正論者だとお書きになりましたが、これは何の根拠によられましたか。私は今まで、そのようなことを一回も申したことはありません。私は海外派兵禁止決議案の提唱者として、これを参議院の本会議で説明し、可決されて今日は国論になっております。また私は、憲法九条改正反対の立場を、今回の選挙の立会演説の際、明瞭に発表しております。(鶴見祐輔)」
 (三)鶴見の家庭が、親は保守系であるのに、子は革新系であることを「閣内不統一」と嗤う者も居る。しかし「自分と意見のちがう子どもを育てた父親」こそ家庭内における自由主義の実践者なのである。鶴見の家庭では子供の時から、アメリカ風にみんなに議論をさせた。(昭和29年10月号文芸春秋 対談「オー・マイ・パパ」)
 (四)鶴見は大正13年に「新自由主義のために」と宣言して衆議院に立候補した。彼は19世紀の英国の自由党の運動と区別するために、わざわざ「新」の字を冠したのであるが、世人は「新」の字を見落として鶴見の思想を過去のものと受け取った。
 無論鶴見の耳にも世間の評判は達している。「今日(昭和2年)のごとく社会主義の思想と運動との台頭した時代に、今更自由主義でもあるまい。英国では自由党が亡びんとしているのに、今頃日本で自由党を作ろうなどとは、昼間に提灯を持ち出す程の時代後れである」という声である。
 一例を挙げれば、昭和2年6月号「我観」で、松田雪堂は「古い型の新自由主義」と題して鶴見を論難している。
「しかしながら、今更ら社会思想として『新自由主義』を新らしい社会思想のような顔して街頭に立って宣伝するとあっては余りに滑稽だと言わなくてはならぬ。今日いってるような『新自由主義』は戦時戦後(第一次世界大戦)頻りに識者によって喧伝されたことであって、今日では世間の人々の耳には蛸になるほど響いていることがらである。今更ら新人めいた顔して『新自由主義』を高唱してる人たちに聴きたいことは新自由主義の内容にふさわしい政策施設を赤裸々に公表して貰いたいことだ。意義のない漠然とした新しい名を冠した旧い型の主義思想は近代人は最早厭々している。吾人はどこ迄も創意ある社会思想の誕生を望むのみである」
 鶴見は言う。「自由主義の主張をもって、現代に適せざる旧思想となすは、英国十九世紀の自由党の歴史と自由主義本来の観念とを混同するものである。私たちのいま起こしている新自由主義の政治運動は、英国の自由党とは、まるで縁も“ゆかり”も無いものである」
 そして鶴見は言う。「自由主義を信ずる私の心持は、十六年一日のごとく変わっていない。かつて、官僚主義全盛の日において自由主義を信じたるごとく、社会主義が思想界の流行とならんとする今日においても自由主義を奉ずる私の気持は変わっていない。否、自由主義というものが、世界文化史上に占むる重要なる使命を確信すること、ますます深きものがあるのである」
(石塚注 鶴見は戦後は新自由主義を説かなくなった。)
 (五)鶴見の英雄論、英雄主義に至っては、知識階級にまったく相手にされない。
 親友の蘆野弘は言う。「鶴見さんの英雄崇高か英雄待望思想は、その頃(昭和3年)でも已に時代からずれてると感じていた。読まないでこんなこと言うのは相済まないわけであるが書名などから察してのことである」(『友情』――「私の鶴見祐輔観」57頁)
 子息の鶴見直輔も「英雄論は駄目なんです」と私に言った。
 大宅壮一も「『英雄待望論』で自らを英雄化しようとする試みも時代錯誤の証明にしかならなかったらしい」と見当違いなことを言っている。(昭和34年6月21日号週刊朝日34ページ)
 阿部真之助に至っては「鶴見の英雄論が、男子をして人生の第一義に目覚めしめるかわりに、小学児童を戦争ごっこや冒険遊びにかりたてるに役立つ所以も、ここにある」などと書いている。(昭和27年9月20日河出書房発行 阿部真之助編集『現代日本人物論』72頁)『英雄待望論』をはじめ、鶴見の著書が読めるのは旧制中学以上の者であろうが。
 鶴見の釈明や反論の一部を別稿「大東亜戦争開戦時の鶴見の発言」に記した。
第4章 著述家 第1節 著作目録 第1項 著書へ
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