鶴見祐輔伝 石塚義夫

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  第4章 著述家

   第1節 著作目録

    第1項 著書


 『南洋遊記』(大日本雄弁会)大正6年 32歳
 『欧米名士の印象』(実業之日本社)大正10年 36歳
 『米国々民性と日米関係の将来』(岩波書店)大正11年 37歳
 『偶像破壊期の支那』(鉄道時報社)大正11年 37歳
 『三都物語』(丁未出版社)大正12年 38歳
 『鶴見祐輔氏大講演集』(大日本雄弁会)大正13年 39歳
 『思想・山水・人物』(大日本雄弁会)大正13年 39歳
 英文『東洋の再覚醒』(エール大学)大正14年 40歳
 『壇上紙上街上の人』(大日本雄弁会講談社)大正15年 41歳
 英文『今日の日本』(コロンビア大学)大正15年 41歳
 英文『かれらの信条』(コロンビア大学)大正15年 41歳
 『北米遊説記・付米国山荘記』(大日本雄弁会講談社)昭和2年 42歳
 英文『現代日本論』鶴見祐輔原著 沢田謙訳(大日本雄弁会講談社)昭和2年 42歳
 『中道を歩む心』(大日本雄弁会講談社)昭和2年 42歳
 『英雄待望論』(大日本雄弁会講談社)昭和3年 43歳
 『太平洋時代と新自由主義外交の基調』(新自由主義協会)昭和4年 44歳
 『母』(大日本雄弁会講談社)昭和4年 44歳
 『最後の舞踏』(大日本雄弁会講談社)昭和4年 44歳
 『自由人の旅日記』(日本評論社)昭和5年 45歳
 『太平洋時代における日本・支那・アメリカ』(新自由主義協会)昭和5年 45歳
 『アメリカ外交政策の諸解釈』(シカゴ大学)昭和5年 45歳
 『現代米国論』(日本評論社)昭和6年 46歳
 『ナポレオン』(大日本雄弁会講談社)昭和6年 46歳
 『子』(大日本雄弁会講談社)昭和7年 47歳
 英文『母』(レ・ヘンケル社)昭和7年 47歳
 『欧米大陸遊記』(大日本雄弁会講談社)昭和8年 48歳
 訳書『プルターク英雄伝』(改造社)昭和9年 49歳
 『死よりも強し』(大日本雄弁会講談社)(後に『師』と改題)昭和9年 49歳
 『膨張の日本』(大日本雄弁会講談社)昭和10年 50歳
 『ビスマーク』(大日本雄弁会講談社)昭和10年 50歳
 『バイロン』(大日本雄弁会講談社)昭和10年 50歳
 『読書三昧』(大日本雄弁会講談社)昭和11年 51歳
 『ヂスレリー』(大日本雄弁会講談社)昭和11年 51歳
 『後藤新平』第1巻〜第4巻(後藤新平伯伝記編纂会)昭和12年〜昭和13年 52歳〜53歳
 『大望』(実業之日本社)(後に『愛』と改題)昭和15年 55歳
 『世界少女物語』昭和15年 55歳
 『北極光』(後に『弟』と改題)(春陽堂書店)昭和15年 55歳
 『新雄弁道』(大日本雄弁会講談社)(後に『雄弁十六講』と改題)昭和16年 56歳
 『大鵬の巣立つ晨』(後に『心の窓は開く』と改題)昭和16年 56歳
 『鶴見祐輔選集』一冊もの(潮文閣)昭和17年 57歳
 『成城だより』第1巻〜第8巻(太平洋出版社)昭和23年〜昭和25年 63歳〜65歳
 『二つの世界』(後に『友』と改題)(太平洋出版社)昭和24年 64歳
 『新英雄待望論』(太平洋出版社)昭和26年 66歳
 『心のともし灯』(実業之日本社)昭和30年 70歳
 『明日への出発』(実業之日本社)昭和31年 71歳
 『種田乕雄伝』(近畿日本鉄道)昭和33年 73歳
 『ウィンストン・チャーチル』(大日本雄弁会講談社)昭和33年 73歳
 『若き日のともし灯』(実業之日本社)昭和35年 75歳

 掲載した年次は出版された時の年次で、脱稿したのはそれより相当前のものもある。
 小説「最後の舞踏」が講談倶楽部の連載が終ったのは、昭和3年10月であった。
 小説「死よりも強し」がキングの連載が終ったのは昭和4年12月である。
 小説「大鵬の巣立つ晨」が雄弁の連載が終ったのは昭和9年12月頃であった。
 小説「大望」が家の光の連載が終ったのは昭和12年9月である。

 雑誌、新聞に連載されても単行本にならなかったものもある。
 「二つの世界」は昭和3年4月から4年1月まで雄弁に連載されたが、『友』と改題して単行本になったのは、昭和27年である。鶴見は言う。「…出していないというよりは、出せなかったというほうが本当なのである。それは昭和六年九月にはじまった満州事件以来、世の中がだんだん窮屈になって、この程度のものでも出すのが六ヶしくなったからである」(『友』前言1頁)
 ウェルズ原作、鶴見訳の「トノー・バンゲー」は、昭和3年9月から5年7月まで現代に連載されたが、単行本にならなかった。興業上の理由と思われる。小説「七つの海」は、昭和16年5月から12月まで神戸新聞に連載された。単行本にならなかったのは、戦時の紙不足と時代の変化であろう。
 小説「妻」は昭和25年に婦人世界に連載されたが、数回にして中断した。同年10月に鶴見が公職追放が解除になって政治活動が多忙になったためと言われている。

 単行本になった鶴見の小説は、当初雑誌に連載されたものであるが、『北極光』だけは誌名がわからない。

 昭和10年に講談社から出版された『バイロン』の末尾に、英雄天才史伝の一環として『日蓮』の広告が載っているが、遂に出版されずに終った。
 文学担当秘書の池田長治氏は筆者石塚と会った時、原稿はあると言い、「もっと書き方があると思うんですがねえ」と嗟嘆した。

 ただ一度だけであるが、著述でなく監修をしたことがある。
 昭和10年10月、一元社発行『日本伝記大成』

 昭和43年、ダイヤモンド社より『鶴見祐輔人物論選集』を出版した。
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