鶴見祐輔伝 石塚義夫

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    第2項 新聞雑誌に寄稿した文章

 明治36年10月号の「中学世界」の懸賞募集に1等で入選した文章
「男々しく難に当るもの英雄と言うなり。例えば同胞を危害又は死より救わむ為め、はた己が生命財産を盗賊の奪わむとするを守らむ為め、或は我が故国を外敵の襲撃に対して防がむ為めなりと、かかる善き目的の為めにしあらば、難には大胆に当ることこそよけれ。されど悪しき目的を成し遂げむが為め大胆なる事あるべし。いわれ無くただ毀害せむとて他国を攻むるも甚だ勇猛なる事あるべし。さあれ、かかる場合にて勇ましきは真の勇気にはあらざるなり。古来武将は、屡々その実(原文のまま)なりき。徒らに英雄と呼ばれたりき。彼等は戦に於いては巧なりしならむも、善き目的の為めにしあらずむば、必ずしも誠の英雄とは言うべからざるなり」(『友情の人』池田長治の言259頁)

明治38年(1905)
 一高校友会雑誌142号に、「余の校風観」を発表。

明治43年(1910)
 ポーツマス条約の記憶(「雄弁」創刊号)
 英国逐鹿界之雄弁(「雄弁」3月号)
 クローマー卿 英国の帝国主義に就いて(「雄弁」5月号)
 雄弁雑感(「雄弁」12月号)

明治44年(1911)
 邦家興亡の跡(「雄弁」7月号)

大正時代
 ウイリアムス・タウンの記事二〇章(「朝日新聞」)
 米国山荘記五二章(「時事新報」)
 山本権兵衛内閣の頃というだけで、第一次(大正2年〜3年)か第二次(大正12年〜13年)か不明であるが、匿名で、「ジャパン・アドヴァタイザー」に「東京だより」を寄稿した。

大正4年(1915)
 南洋と日本民族(「帝国鉄道協会会報」)

大正5年(1916)
 「面白倶楽部」に匿名で約2年間巻頭文を執筆した。
 米国大統領ウイルソンに代りて日本人に与う(「中央公論」4月号)
 椰子の比律賓(「雄弁」7月号)

大正6年(1917)
 ウイルソン論(「中央公論」3月号)
 一個の○(原文は木へんに“解”)の実(「雄弁」8月号)

大正10年(1921)
 世界歴史の書換え(誌名不詳10月号)

大正12年(1923)
 代表的の米国婦人を歴訪して(「婦人世界」3月号)
 アスクイス夫人のこと(「婦人公論」5月号)
 世界の安定と日露関係(「改造」8月号)
 指導的地位の自然化(「現代」8月号)

大正13年(1924)
 ウイルソン逝く(「改造」3月号)
 米国の週刊誌「ゼ・サタデー・イヴニングポースト」に5論文を寄稿。

大正14年(1925)
 エール大学刊 英文「東洋の再覚醒」

大正15年・昭和元年(1926)
 論説 現代米国が暗示する日本の新国策(「エコノミスト」1月1日号)
 我国政党の将来は対立か分立か(「黄薇ノ友」1月号)
 年号について(「経済往来」1月号)
 世界人たるの修行(「財界レヴュー」1月号)
 ルビコンを渡る心(「実業之日本」1月号)
 現代人物月旦――沢田謙君の印象(「随筆」1月号)
 理想的の集団運動へ(「優生運動」1月号)
 都市改造の諸問題(「大大阪」2月号)
 単身米国を遊説して(「雄弁」2月号)
 米国の近勢(「外交時報」3月号)
 米国に於ける農民政治運動の一断面(「帝国農会報」3月号)
 太平洋時代の到来と日米の関係(3)(「兵庫教育」3月号)
 新渡戸先生のこと(誌名不詳4月22日号)
 行詰まれる日本を凝視して(「海外発展」4月号)
 天下を動かす大雄弁(「キング」4月号)
 世界の大勢と国民の覚悟(「現代」4月号)
 国際的精神の浮沈(「国際知識」4月号)
 我国の政治状態と労働農民党の将来(「帝国農会」4月号)
 恐るべき浪費の因習 ―― 一致共力して戦わん(「文化生活」4月号)
 不思議な職業(「文藝春秋」4月号)
 自己の発見(一高同窓会会報五月九日)後に『中道を歩む心』に収録。
 英国罷業の暗示(5月12日付大阪「朝日新聞」)
 新人旧人の弁(岡山市連合壮年会雑誌5月26日 6号)
 趣味と能率との調和(「婦人の友」5月号)
 「思想・山水・人物」について 上・下 (「読売新聞」5月)
 共同創作小説「旋風」の第15回に「恋」を寄稿(「アサヒグラフ」6月16日号)
 グレープ・フルートの話(「随筆」6月号)
 「旋風」作後感(6)(「アサヒグラフ」7月14日号)
 生きたる偶像の彫刻(「実業之日本」7月15日号)
 作者付記(「キング」7月号?)
 人口問題の解決策(「経済往来」7月号)
 日本研究の二態様(「新政」7月号)
 公人の敗徳と婦人(「婦人の友」7月号)
 日本の演説会は如何に改良すべきか(「雄弁」7月号)
 北米遊説記(「朝日新聞」7月)
 鶴見も発言している座談会「混乱動揺の世界」が掲載された。(「雄弁」8月号)
 天下を動かす大文章(「雄弁」9月号)
 波荒るる太平洋に直面して(「植民」10月号)
 川遊び(「第一線」10月号)
 新自由主義への道(「雄弁」10月号)
 ウイルソンとその父(「現代」11月号)
 文壇に対する註文一二(「新潮」11月号)
 精神的お医者様(「婦人画報」11月号)
 優生運動について――ソコールの運動も(「優生運動」11月号)
 清福一門にあつまる――教授時代のウイルソン(「現代」11月号)
 世界第三に位する我が新聞界(「新聞及新聞記者」12月号)
 懸賞論文選評(「雄弁」12月号)
 二大政党か小党分立か(「文藝春秋」大正16年1月号)
 「雄弁」創刊当時の思い出(「雄弁」大正16年1月号)
〈石塚注 大正は15年までであるが、大正天皇は12月25日に崩御したため、「文藝春秋」「雄弁」は16年1月号を発行してしまったのである〉
 米国山荘記(1〜51)(「時事新報」)
 後藤子の政治倫理化運動(『社会経済体系』第2巻 日本評論社刊)
 この年の「週刊朝日」に、一高時代に剣道の試合に負けて、敗因が気合敗けであったと悟った話を掲載した。後に『中道を歩む心』370頁に収録。
 異郷に友の発見(「婦人画報」)
 楡の樹の宿(文藝春秋?)

昭和2年(1927)
 殻を破って出る修行と目標(「改造」2月号)
 新自由主義の確立(「金がかたき」2月号)
 空飛ぶ雁金(「キング」2月号)
 若き人々の一群(「経済往来」2月号)
 代議士たるべき真の資格(「現代」2月号)
 米国の聴衆と日本の聴衆(「法律春秋」2月号)
 奇怪なる三党首の妥協と国民の深恨(「改造」2月号)
 朝寝坊の三徳(「経済往来」3月号)
 青年能力総動員の秋(「新曙光」3月号)
 中島正勝氏に答えて 剣道と雄弁との合一性を論ずるの書(誌名不詳3月号)
 鶴見も発言している「後藤新平子座談会」が掲載された。(「文藝春秋」4月号)
 若き日本を作るために(「雄弁」4月号)
 支那の動乱と米国(「改造」5月号)
 若槻首相辞職の時期(「中央公論」5月号)
 小説「母」の連載開始(「婦人倶楽部」5月号から4年6月号まで)
 鶴見も発言している「新渡戸稲造博士座談会」が掲載された。(「文藝春秋」5月号)
 富国第三題(「キング」6月号)
 小説「最後の舞踏」の連載開始(「講談倶楽部」6月号から3年6月号まで)
 小説「死よりも強し」の連載開始(「キング」7月号から4年12月号まで)
 現代に於ける新自由主義の地位(「現代」8月号付録)
 時事問題批判(「雄弁」10月号)
 予想以上(「中央公論」11月号)

昭和3年(1928)
 東西文明の衝突と民衆政治の本質(「雄弁」新年号付録「現代名演説集」)
 壇上から見た現代の大衆(「中央公論」4月号)
 新自由主義の政治的現実性(「文藝春秋」4月号)
 政戦を顧みて 言論の自由(「雄弁」4月号)
 小説「二つの世界(後に「友」と改題)」の連載開始(「雄弁」4月号から4年10月号まで)
 新自由主義の立場より(「改造」5月号)
 一筋の道を歩む心(「キング」5月号)
 北米横断飛行の思い出(「雄弁」5月号)
 民衆意識の一転機(「雄弁」5月号付録「巨人新人普選代議士名演説集」)
 今日の政局と明政会(「改造」6月号)
 幸福(「キング」7月号)
 文と弁(「現代」8月号)
 憂国の大熱弁青年諸君(「現代」9月号)
 世を思い国を憂うる熱烈の大雄弁(「現代」9月革新号)
 飜訳小説「トノー・バンゲー」の連載開始(「現代」9月号から5年7月号まで)
 巨人伝ディスレリー(「現代」10月号)
 新しき日本に呼びかける(「雄弁」10月号)
 英雄出でよ、天才出でよ(「雄弁」10月号)
 米国大統領選挙(「現代」11月号)
 この年「キング」に、「選挙美談」が掲載された。
 昭和初期に「キングの自重を望む」を寄稿。
 昭和3年から5年までの間で、いずれかの雑誌に、「子供は愛するとともに敬せよ」を寄稿した。
 昭和3年から昭和9年頃まで「新自由主義」誌に毎号寄稿した。
 昭和3年頃、新光社の「世界地理風俗大系 北米合衆国篇上巻」に執筆者9名とともに寄稿(昭和4年1月27日の第3回配本アフリカ篇の広告では、第2回配本北米合衆国篇は既刊となっている)

昭和4年(1929)
 最近米国より帰りて(「実業之日本」1月15日号)
 ウイルソン大統領(「現代」新年号)
 偉人物語「時代の寵児」(「平凡」新年号)
 鶴見も発言している「恋愛漫談会」が掲載された。(「文藝春秋」2月号)
 フーヴァーの演説の印象(「改造」3月号)
 興亡六千年の暗示(「現代」3月号)
 議会後の政界?(「改造」4月号)
 女性中心の文明(「現代」4月号)
 鶴見も発言している座談会「婚約・初婚・再婚・離婚」が掲載された。(「婦女界」4月号)
 今議会の討論と駈引(「雄弁」5月号)
 絵蒔物のような史伝(「現代」6月号)
 人としての後藤新平伯(「婦人公論」6月号)
 後藤新平素描(「文藝春秋」6月号)
 宇垣一成論(「改造」7月号)
 聡明と健康と純情(「婦人公論」7月号)
 鶴見と元国民党代議士大石正己との対談の記事が掲載された。(「雄弁」7月号)
 「鶴見祐輔氏演説質問会」が掲載された。(「雄弁」7月号)
 英雄の二要素(「改造」8月号)
 世界最初の女大臣(「婦人公論」8月号)
 青年諸君(「現代」9月号)
 大阪「朝日新聞」10月18日、19日、20日、22日に「太平洋会議」を連載した。
 「キング」12月号に、鶴見も発言している座談会「天下一品!名案珍案持寄り会」が掲載された。
 大人物を作る文章(「現代」12月号)
 「国民新聞」に「政治・小説・旅行」を連載。(のち『自由人の旅日記』に収録。)
 「政治学講座」の連載開始(「新自由主義」)
 東京市政調査会の「都市問題」後藤伯追悼号に、「後藤伯とビーアド博士」を寄稿。

昭和5年(1930)
 新処世術(「現代」新年号)
 新しき日本の少年諸君へ(「少年倶楽部」1月号)
 小説「子」の連載開始(「婦人倶楽部」1月号から7年3月号まで)
 雑誌「雄弁」の使命(「雄弁」1月号)
 世界に於ける人口の趨勢と日本の対策(「雄弁」新年号の別冊付録「昭和名演説集」)
 人生の決断(「キング」2月号)
 立派な人になるには何が一番大切でしょうか(「キング」3月号)
 討論の上達法(「雄弁」6月号)
 此れからは太平洋だ(「キング」7月号)
 ウイリアムス・タウンで講演した「日本文化論」の日本語訳(「新自由主義」10月号)

昭和6年(1931)
 葱も喰えよの話(「現代」1月号)
 小説を書いた動機として、史伝を書きたいと記している。(「新自由主義」3月号)
 熱血詩人バイロンを想う(「雄弁」3月号。なお、この文章は、昭和8年に大日本雄弁会編『現代名家大演説集』に収録された。)
 米国の雑誌に4つの論文を掲載した。(3月上旬)
 ナポレオンを描いて(「キング」9月号)
 若き日本への転回(「雄弁」11月号)
 「美しい空論」と評される鶴見の、美しい空文を排する文章(「新自由主義」12月号)
 「文藝春秋」12月号の「外交座談会」に出席。
 米倉清一郎君を想う(「新自由主義」)

昭和7年(1932)
 集団的危機と個人自由(「新自由主義」1月号、2月号)満州事変と新自由主義について説く。
 昭和7年の衆院選に出馬しない理由(「新自由主義」2月号)

昭和8年(1933)
 キング1月号に、「鶴見祐輔氏帰朝第一声」の記事が掲載された。
 米国の現状及びその対日思潮解剖(「改造」2月号)
 「現代」2月号に、「激動の欧州を巡りて」を寄稿。
 「実業之日本」2月号に、「世界は今何を考えているか」を寄稿。
 太平洋会議の論戦(「中央公論」2月号)
 テクノクラシーとは?(「中央公論」2月号)
 世界の日本観と日本の世界観(「キング」3月号)
 鶴見祐輔帰朝縦横談(「現代」3月号)
 太平洋を越えながら(「少年倶楽部」3月号)
 テクノクラシーと婦人(「婦人世界」3月号)
 世界の旅より帰りて祖国日本の将来を想う(「雄弁」3月号)
 バーナード・シヨウ会見記(「改造」4月号)
 「キング」4月号に、「風雲児ヒットラーは大空に叫ぶ」を寄稿。
 「現代」4月号に、「ラムゼー・マクドナルドの印象」を寄稿。
 六十余州の山河、一人の英雄なき乎(「現代」4月号別冊付録「熱烈火を吐く時局大熱論集」)
 ローズヴェルトの極東政策(「中央公論」4月号)
 日本と外国の衣食住(「婦人公論」4月号)
 鶴見も発言している座談会「連盟脱退孤立日本の将来」が掲載された。(「文藝春秋」4月号)
 米国の危機(「文藝春秋」4月号)
 「雄弁」4月号に、「世界の三大外交家(カヴール・ビスペーク・グレー)を語る」を寄稿。
 「雄弁」4月号別冊付録の「祖国を救った大雄弁」に、「フランスは立ち上る」を寄稿。
 「キング」5月号に、「非常時の英雄ビスマーク」を寄稿。
 「少女倶楽部」5月号に「若い娘さんの大著述」を寄稿。
 「政界往来」5月号に「議会政治論」を寄稿。
 米国新大統領ルーズベルト(「雄弁」5月号)
 「少女の友」6月号に「外国の少女より学ぶべき節々」を寄稿。
 鶴見と吉屋信子の対談「近代女性の解剖対談会」(「現代」7月号)
 「雄弁」7月号に、「東西名弥次名応酬」を寄稿。
 小説「大鵬の巣立つ晨(後に「心の窓は開く」と改題)」の連載開始。「雄弁」7月号より1年半掲載。
 「雄弁」8月号と9月号に、鶴見も発言している座談会「混乱動揺の世界」が掲載された。
 バンフ太平洋会議について(「外交時報」12月1日号)
 「ダイヤモンド」12月11日号に、「米国太平洋政策とN・R・A運動の将来」を寄稿。
 日本国際協会の雑誌「国際知識」12月号に、「新渡戸先生の追憶」を寄稿。
 「新自由主義」誌を季刊にする旨会員に訴える。極めて重要な内容を含む。(「新自由主義」12月号)
 野間会の「報国」に、「家康のような思慮と沈勇」を寄稿。

昭和9年(1934)
 アメリカに知られている日本人(文藝春秋社発行の「話」2月号)
 新時代の雄弁(「雄弁」3月号)
 日米親善物語(「中央公論」5月号)
 鶴見も発言している「加藤、鶴見両氏を中心とする雄弁研究大会」が掲載された。(「雄弁」5月号)
 ビスマーク(「オール読物」6月号)
 「当代日本人物素描」の連載開始(「キング」6月号から10回。9月号は休載。)連載した会見記は次の10人である。
 徳富蘇峰・尾崎行雄・横山大観・島崎藤村・与謝野晶子・東郷平八郎・高橋是清・西園寺公望・六代目菊五郎・賀川豊彦
 当代日本人物素描「徳富蘇峰」(「キング」6月号)
 カブール(「オール読物」7月号)
 当代日本人物素描「横山大観」(「キング」7月号)
 ラジオと近代精神(日本放送協会発行の「放送」7月号)
 「雄弁」7月号の「全国青年雄弁選手権大会熱弁集」に、審査員の講評等が掲載された。
 雄弁研究会(「雄弁」7月号)  当代日本人物素描「東郷元帥」(「キング」8月号)
 当代日本人物素描「島崎藤村」(「キング」10月号)
 リンカーン(「オール読物」11月号)
 当代日本人物素描「尾崎咢堂」(「キング」11月号)
 当代日本人物素描「賀川豊彦」(「キング」12月号)
 「話」12月号の「男をコキ下す女記者」「話」の会の話題の人々数十名に鶴見の名も見える。
 女性よいつまでも若くあれ(「婦人公論」12月号)

昭和10年(1935)
 当代日本人物素描「尾上菊五郎」(「キング」1月号)
 「実業之世界」1月号に、「イタリーのカブール」を寄稿。
 「雄弁」1月号第1付録「東西大雄弁家物語」に、「上帝のための戦いを……ローズベルト」を寄稿。
 当代日本人物素描「高橋是清」(「キング」2月号)
 純情詩人シェレー(「現代」2月号)
 「婦人公論」2月号に、「青春悔多し?『母の失望』」を寄稿。
 3月3日付「朝日新聞」に、石井満著『新渡戸稲造伝』(関谷書店刊)の広告が載った。鶴見祐輔ほか3人が推薦文を書いている。
 当代日本人物素描「与謝野晶子」(「キング」3月号)
 当代日本人物素描「西園寺公望」(「キング」4月号)
 後藤新平論(「中央公論」4月号)
 「モダン日本」(モダン日本社刊)4月号に、三大一問一答「広田外相と鶴見祐輔」が掲載された。
 「雄弁」4月号別冊付録 日本雄弁家名鑑「『雄弁』創刊二五周年に際して」と題して、鶴見祐輔ほか21氏が寄稿。
 「幼年倶楽部」4月号に、「桜の花」を寄稿。
 「経済往来」5月号に、「ウエルズの自叙伝」を寄稿。
 梟雄アドルフ・ヒットラー(「中央公論」5月号)
 「実業之日本」7月10日号に、「偉大なる自己発見」を寄稿。
 「現代」7月号に、「大ナポレオンと詩聖ゲーテ」を寄稿。
 新雄弁道講座「聴衆論」(「雄弁」11月号)
 「少女倶楽部」(月号不明)に「世界少女読本」を寄稿。
 史伝小説「後藤新平」の連載開始。(「日本評論」)
 この頃、人物評論家の杉山平助が鶴見祐輔論を書いて酷評した。
 英雄天才史伝「日蓮」に就いて(『バイロン』の末尾に付された予告。出版中止)

昭和11年(1936)
 「実業之日本」2月15日号に、「対日感情の好転と米国の躍進」を寄稿。
 新雄弁道講座「雄弁構造論」(「雄弁」2月号)
 学校課目としての雄弁学(「雄弁」4月号)
 名前と顔の記憶(「文藝春秋」5月号)
 新雄弁道講座「修辞論」(「雄弁」5月号)
 近代の大政治家ヂスレリー(「現代」6月号)
 新雄弁道講座「態度と身振」(「雄弁」6月号)
 「現代」7月号に、「近代人の読書法」を寄稿。
 新雄弁道講座「テーブルスピーチ論」(「雄弁」7月号)
 新雄弁道講座「今期特別議会の雄弁」(「雄弁」8月号)
 「婦人倶楽部」9月号に、鶴見も発言している「戒厳令とオリンピックの話」が掲載された。
 新雄弁道講座「題名不詳」(「雄弁」9月号)
 「婦人倶楽部」11月号に、「知らねば困る増税と日支紛争の話」を寄稿。
 「日本評論」青年日本号に、「青年政治家は何を求める」と題して、鶴見祐輔ほか8氏が寄稿。

昭和12年(1937)
 小説「大望」(後に「愛」と改題)の連載開始(「家の光」2月号から9月号まで)
 宇垣一成の心境(「中央公論」3月号)
 現代人物素描試作(「実業之日本」4月1日号)
 時代と人物(「実業之日本」7月1日号)
 オーストラリア印象記(「キング」11月頃)
 豪州の話(「実業之日本」12月頃)
 膨張英国の象徴セシル・ローツ(「中央公論」臨時増刊〔北支開発号〕)
 佐藤外交批判(「日本評論」?月号不詳)

昭和13年(1938)
 太平洋時代と日豪関係(「雄弁」2月号)
 大日本の興隆に就いて国民に訴う(「キング」3月号)
 米国は支那事変に干渉するか(「太平洋」12月号)

昭和14年(1939)
 転換期の世界を観る(「雄弁」2月号)
 感激の贈り物(「キング」3月号)
 濠州の沙漠に雨を降らす話(「太平洋」5月号)
 世界を動かす男(「実業之日本」7月1日号)
 ヒットラーと成吉思汗とナポレオン(「太平洋」7月号)
 アメリカ及びアメリカ人(「実業之日本」9月)
 米国の対日感情を語る(「実業之日本」12月1日号)
 アメリカの輿論(「中央公論」12月号)

昭和15年(1940)
 わが師、学友を語る……玉杯に花うけて(「週刊朝日」1月?日号)
 鶴見も発言している「政党復活論分析座談会」が掲載された。(「日本評論」2月号)  ル氏三選と極東(「国策研究会週報」第32号。11月15日発行)

昭和16年(1941)
 野村、芳沢両使節を送る(「太平洋」1月号)
 ルーズベルト大統領の独裁的地位(太平洋協会の機関誌「太平洋」3月号)
 小説「七つの海」の連載開始(「神戸新聞」5月20日から12月2日まで)
 松岡洋右と共同執筆で「我が太平洋政策の根本義」(「太平洋」第4巻3号)
 海運報国に時事月評を執筆 昭和16年〜18年

昭和17年(1942)
 アメリカの国民と国民性(「実業之日本」1月15日号)
 世界史は転回す(「太平洋」1月号。潮文閣刊『鶴見祐輔選集』昭和17年12月に同題の文章あり)
 我観濠州(「新文化」2月号)
 大東亜の建設(「太平洋」3月号)
 濠州大陸の暗示(「太平洋」4月号)
 太平洋時代と日本(「学生と錬成」5月号)
 バアタン半島陥落の史的意義(「太平洋」5月号)
 西人の太平洋侵略史(「東亜電気通信」5月号)
 アメリカの実力と弱点(「満州良男」5月号)
 大戦下の海軍記念日を迎えて(「太平洋」6月号)
 科学的資源開発論(「太平洋」7月号)
 支那事変五周年を迎えて(「太平洋」7月号)
 支那事変の意味を知れ(「女性生活」8月号)
 印度洋帝国としての英帝国の末路(「太平洋」8月号)
 世界の新文化は新天地より(「太平洋」9月号)
 米国の根本的弱点(「太平洋」11月号)
 精神の冴えをこそ(12月10日付「東京新聞」)
 思想戦の本質を論ず(「太平洋」12月号)
 混乱の敵に打ち克つ道(掲載紙不詳12月)
 各国の指導者と戦争目的(「時局月報」昭和17年〜18年頃)
 新太平洋問題(中国語訳)(「訳叢月刊」昭和17年〜18年頃)
 世界の情勢と日米関係(掲載紙不詳昭和17年〜18年頃)
 大東亜戦争と日本交通政策の世界的使命(掲載紙不詳)

 雄弁終刊号に一文を寄せた。
「雑誌『雄弁』が本号を以て終刊となるということを聞いて、私はまことに悲痛なる感慨を催す。
 顧れば『雄弁』の創刊されたのは、私の大学卒業の年であった。ゆえに私は『雄弁』と共に世に送り出されたのである。それは明治四十三年の二月であって、正に本年をもって三十二年を経過する。しかもこの三十二年間は、日本に取って実に重要なる歳月であった。それは明治末期の膨脹時代から、大正時代の整理期を経て、再び昭和の御代の一大躍進時期に亙るのである。そして『雄弁』は、かかる時代の荒波を凌ぎつつ日本の青年の魂を作る尊い事業に従事していたのである。
 創刊当時の『雄弁』は、当時の出版界に於いて、実に桁外れの新しい雑誌であった。生気溌溂として、時に時代に先行するの虞さえ感じられた程の内容を持っていた。
 その創刊は同時に、野間清治氏の社会人としての誕生でもあった。野間氏の最初の――従って最新鋭の――精力を傾注されたものは、恐らくは、この雑誌であったであろう。
 そして当時この雑誌に筆を取った人々と、この雑誌を愛読した人々は、今日は既に多くは知命の齢を過ぎて、社会の各方面に活躍して居られるのである。かかる人々を養成したる意味に於いても、『雄弁』は新興日本のために、忘るべからざる役割を勤めたものと謂うべきである。
 雑誌『雄弁』は、一貫してこの道を歩み、その使命のために奮闘していた。それは常に青年のよき友として終始したのである。それは『雄弁』を愛読した人々が、恐らくは共通に感じて居られたことであろうと思う。そしてその編輯者達は、常にある一つの誇りをもって、此の雑誌の編纂に従事して居たかに見える。それは三十二年間、此の雑誌の編輯者と間断なく接触して来た一人として、私の常に感得したるところであったのである。
 その雑誌『雄弁』は、本号を以て終らんとするのである。往年を顧み、まことに感慨無量である。然らば『雄弁』は、本号を以て、永久に日本の出版界より、姿を没し去り、その精神は我が社会より、消滅し去らんとするのか。
 私は断じて、その然らざることを信じる。人間の努力は不滅である。いと小さき個人の日々の努力も、常に何等かの形に変じて、宇宙の奈辺かに存在し、変形したる姿において、悠久に地上に流転してゆく。況んや社会的集団として、三十二年の久しきに亙り、多数の人々によって、継続的に為されたる努力は、決して地上より没し去らないものである。雑誌『雄弁』は、これを愛読したる人々の胸に、永久に生きるであろう。これにより培われたる人々の精神は、更に次の時代へとその感化を継続してゆくであろう。故に『雄弁』は、廃刊によって、決して死滅し去らないであろう。
 今や我等は有史以来の大難局に直面し、国民の総力を動員して、この時難を克服しなければならない時期に際会している。かかる時局の要請は、国民の凡てに対し、各般の犠牲を必至とする。『雄弁』は、かかる国民的犠牲の一つとして、欣然としてその身を捧げたのであろう。然らばその最後は、武士の最後のごとく、御奉公のための最後である。即ち知る、その生るるも時代の為め、その終るも時代の為め、『雄弁』は正に、始めあり、終あるものと謂うべきである。地下の野間氏も亦、その秘蔵息子たる本誌が、かかる国家当面の必要のために、欣然として其の地を去らんとするを見て、我が意を得たりとされるであろう。
 併しながら吾人の望まんとするところは、雑誌『雄弁』の死をして、徒爾ならしめざらんことである。即ちその最後によって、更に一層の印象を人々の胸に烙印し、過去の業績に有終の美を済さしめんことである。
      (中略)
 今日祖国未曽有の時局に際し、世人口を開けば人物無しと謂う。しかしながら、我れ等をして直言せしむれば、当代の日本に人物は決して欠如して居ないのである。只、日本今日の病弊は、人物をして其の処を得しめず、其の才幹を揮わしめざるに在る。日本は由来英雄の国である。日本六十余州の山河、此の国難を処理すべき人傑無しと謂わんや。ただ不幸にして戦わざるの秀吉、描かざるの雪舟、修史せざるの山陽として、人傑は○(土へんに“龍”)圃の間に跼蹐して居るのである。
 秀吉の英才ありと雖、信長為かりせば、用ゆるに処なかるべく、伊藤博文の智ありと雖、長州藩士たらざりせば、宰相の位に昇ることを得なかったであろう。
 国歩艱難にして世人は人材を想う。しかしながら我れ等は、人材の乏しきを憂えず、人材をして其の驥足を伸ばさしむるの途なきを悲しむ。
 しかるに世界の史実を大観するに、人材の草莽より崛起するは、多くは文章と雄弁との力に因る。一管の筆、能く天下を動かすあらば世上何物の力がよくこれを抑うるを得ん。況んや舌端三寸、能く火を吐き、血を迸らしむる底の雄弁に至っては、鬼神と雖、これを避けざるなし。世界史は、文と弁とが無名青年の登龍門たりしことを物語る活文字である。
 時代は移り、風雲は動く。将来の日本に、再び日蓮を生み、チャタム伯を生じ、ヒットラーを出すなしと、誰人が予言し得るものぞ。
 この意味において、皇国に於いて、初めて『雄弁』の名を冠したる雑誌を発刊し、三十二年間孜々としてこれを継続したる大日本雄弁会講談社の業績は、今後、必ず具眼の士によって振り返らるる日が来るであろう。何となれば、今日の如き動乱の時代は、必ず幾多の雄弁家をこの秀麗なる山河の裡に喚び起し来るべく、而してかかる新時代の雄弁家は、世界史上の巨人の先蹤を追うて、必ずや一大足跡を国史の上に留むるに違いないからである。
 果して然らば、雑誌『雄弁』三十二年間の努力は、邁進日本の発展途上に於いて、あらざるべからざる役目を果したるものであって、今その任務を終りて、其の標題を日本出版界より失うも、其の精神は永く後継者によりて相続せらるべく、又その貢献は久しく愛読者によって記憶せられるであろう。
 四時の序、功を成せるものは去る。春来って冬去り、夏至って春亦去る。これ自然界の法則である。初の絢爛は冬あって始めて成り、秋の結実は、夏の炎威ありて始めて可能である。雑誌『雄弁』の去るは、来るべき更に大いなる者の為めの準備であるかもしれない。幽玄なる神意、人間凡慮の上に絶する。私は筆を擱いて、謹んで三十二年間の友であった雑誌『雄弁』の最後を送る」

昭和18年(1943)
 伊太利青年に祈る(「太平洋」1月号)
 国民性より見たる敵側の抗戦力(「良国民」1月号)
 太平洋上の決戦期(2月23日付「毎日新聞」)
 ソロモン群島決戦の意義(「太平洋」2月号)
 世界史の約束(「太平洋」3月号)
 大東亜文化建設の課題(「日本語」3月号)
 大和(「外交月評」4月号〜8月号)
 日本的なるもの永遠なるもの(「観光」4月号)
 太平洋上の決戦期(「新論」4月号)
 決戦外交論(「太平洋」4月号)
 鶴見も発言している座談会「太平洋決戦を語る」が掲載された。(5月「東京新聞」)
 勝海舟と後藤新平(6月1日付「東京新聞」)
 チャンドラ・ボーズ氏に寄す(6月27日付「東京新聞」)
 人気取りの大芝居「政略」倒れで不評――面目丸潰れのル大統領(6月28日付「中部日本新聞」)
 山本元帥を悼む(「太平洋」6月号)
 「日本評論」6月号に、「戦争目的論」を寄稿。同文中に衆院予算委において、鶴見が質問した戦争目的に対する東条首相の回答が含まれている。
 海洋映画出でよ(「新映画」7月号)
 新聞の決戦態勢に望む各方面の意見(10月7日付「日本新聞報」)
 戦争目的の具現(10月10日付「中部日本新聞」)
 非常時の昨是今是(10月24日付「東京新聞」)
 山県有朋公の細心(11月12日付「東京新聞」)
 米国の対日観の動揺(上)(12月2日付「東京新聞」)
 推進(「東京新聞」昭和18年〜19年)
 米国大統領選挙戦(「太平洋」)

昭和19年(1944)
 その手は喰わぬぞ敵米の謀略(1月13日付「読売報知」)
 議会から米英を衝くA政治篇(1月22日付「中部日本新聞」)
 欧州第二戦線(5月28日付「秋田県新報」)
 ルーズベルトの四選と米国今後の国内国際動向(「国策研究会週報」47号。11月18日発行)

昭和20年(1945)
 2月15日付「東京新聞」に、「敵米英が目論む降伏とは破滅・最後の一人となるもの撃滅に邁進のみ」を寄稿。
 鶴見も発言している座談会「ポツダム宣言の検討」が掲載された。(「サンデー毎日」9月2日号)

昭和23年(1948)
 4月頃、某雑誌社へ「ヂスレリー」の伝記を寄稿した。(『成城だより』第2巻120頁)
 12月1日。ある雑誌の新年号の原稿を書き終えた。(『成城だより』第5巻186頁)

昭和24年(1949)
 2月頃、毛沢東についての原稿を寄稿した。誌名不詳。(『成城だより』第8巻25頁)
 5月頃、ある雑誌に少年ものの小説を連載した。(『成城だより』第8巻102頁)

昭和25年(1950)
 鶴見も発言している座談会「日本の運命」が掲載された。(「世界」2月号)
 鶴見も発言している座談会「興亡の岐路」が掲載された。(「世界」3月号)
 小説「妻」の連載開始(「婦人世界」6月号から昭和26年5月号で中絶)
 鶴見も発言している座談会の記事が掲載された。(10月14日付「毎日新聞」)
 鶴見も発言している座談会「沈黙五年」が掲載された。(「日本週報」11月1日号)
 「新英雄待望論」の連載開始(日本週報。10回。)

昭和26年(1951)
 ダレス氏の横顔(1月26日付「産経新聞」)
 日本はどう進むべきか(「実業之日本」3月1日号)
 鶴見も発言している座談会「解除以後の愛国心」が掲載された。(「改造」12月号)

昭和27年(1952)
 謙虚なる反省を以て若き世代の踏石たらん(新党〔改進党〕結成準備委員会パンフレット「新党への躍進」。1月)
 世界人物巡礼(6月8日、15日、7月5日、9日付「毎日新聞」)
 アメリカの新印象(「民族と平和」8月号)

昭和28年(1953)
 鶴見も発言している座談会「日本はアジアの孤児となるか」が掲載された。(「文藝春秋」4月号)
 旧稿ホワイト・ハウスのお茶(「随筆」〔新聞月鑑社〕6月号)

昭和29年(1954)
 父と娘の往復書簡(「婦人公論」8月号)
 鶴見祐輔と鶴見和子との対談「オー・マイ・パパ」が掲載された。(「文藝春秋」10月号)サブタイトルは、「親の幸福・娘の幸福」。
 鶴見も発言している座談会「政治家と音楽を語る」が掲載された。(「音楽の友」11月号)
 随筆評論3頁を「実業之日本」半月刊に毎号昭和34年まで連載。
 選挙の改正について(「選挙」)

昭和30年(1955)
 新英雄待望論(「政経指針」1月号)
 偉大なる時代(「弁論」1月号)

昭和31年(1956)
 感謝する心(「実業之日本」1月1日号)
 新しい年を迎えて思う(「交通人」1月号)
 知識人の戦争責任(「中央公論」1月号)
 交通人に期待する(「交通人」2月号)
 学窓を巣立ってからの五年間(「実業之日本」3月15日号)
 チャーチルの近著と彼の世界史上の地位(「太平洋」第4巻1号〔3月号〕)
 批判の習慣は子供のときから(「実業之日本」4月15日号)
 文人チャーチル(「文藝春秋」5月号)
 ノルマンディ号の夢(「旅客船」5月号)
 書く習慣をつけること(「実業之日本」6月15日号)
 私のひいき(「相撲」6月号)
 「政治家と失言」を執筆。(「太平洋」第4巻2号〔6月号〕)
 想像力と情熱(「実業之日本」7月1日号)
 「日ソ交渉と米国大統領選挙戦」を執筆。(「太平洋」第4巻3号〔9月号〕)
 「石橋君に望む」を寄稿。(12月19日付「サンケイ新聞」)
 父は子供の友となれ(「日本週報」)

昭和32年(1957)
 国連加入の年を迎えて(「実業之日本」1月1日号)
 明るい年を迎えて(「交通人」1月号)
 岸首相の訪米と今後の日本(「交通人」8月号)
 ネール首相来朝の意義(「キング」12月号)
 ユーモアー(「一家一言」〔桃園書房〕)
 沖縄七十二時間(「日本週報」4号、5号)

昭和33年(1958)
 人工衛星と新しい年(「交通人」1月号)
 鶴見も発言している座談会「ビーアド博士を偲びて」が掲載された。(市政調査会の「都市問題・ビーアド博士記念号」9月)
 パラグアイより帰って(「実業之日本」11月1日号)
 日本の移住者を歓迎するパラグアイ(自民党の「政策月報」12月号)

昭和34年(1959)
 南米未開地・夢の国パラグアイ(「交通人」1月号)
 「実業之日本」4月1日号に、「鳩山さんの思い出」を寄稿。
 「実業之日本」4月15日号に、「人生行路の夢と現実」と題して、日大経済学部長高木友三郎との対談が掲載された。
 候補と有権者の立場(5月28日付「岩手日報」)
 読者の椅子に「私に関する記事」を投稿(「週刊朝日」8月2日号)
 人間の成長と時代環境(「実業之日本」11月号)
 民族の勃興と伝記文学(「実業之日本」)
 昭和29年9月以来、5年余り毎月2回「実業之日本」へ寄稿しつづけた随想評論は、鶴見の発病のため、第115回「人間の成長と時代環境」をもって終了した。

年次不明
 アメリカ横断三千マイル(「世界知識」)
 英国現代之人物(掲載誌不詳)
 技巧と論旨と(「雄弁」?年7月号付録)
 此頃の亜米利加(1)〜(6)(掲載誌不詳)
 コロンブス(「幼年倶楽部」?年6月号)
 材料よりも寧ろ料理(掲載誌不詳)
 忠実の心(掲載紙不詳)
 哲人政治家チェルゴー(「クララ」?年11月号)
 読者の質疑・名士の応答(「雄弁」?年2月号)
 日日座談会――鶴見祐輔氏を中心に卓を囲む 上・中・下(掲載誌不詳)
 米国排日法の渊源(「日本春秋」?年7月号)
 米国民の国民性と日米関係(掲載誌不詳)
 雄弁研究会(雄弁昭和9年7月号)
 私の尊敬する偉人(「浄土」)
第3項 共著等へ
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